Chapter: 第78話 可哀想な人◆◆◆◆◆アルフォンスの手から、ヴィオレットはそっとハンカチを受け取った。指先で刺繍の施された布を確かめるように撫でる。――懐かしい感触だった。ハンカチの生地は上質で、手に馴染む柔らかさがある。細やかな金糸の刺繍が施されたその端を、ヴィオレットは指でなぞった。琥珀色の瞳が細められ、彼女の表情がふっと和らぐ。「……これは、母の手によるものですね」ヴィオレットの呟きが、静まり返った広間に響いた。貴族たちの間にどよめきが広がる。アウグストは、その言葉に眉をわずかに動かした。「母上がまだアウグストと婚約していた頃、彼のために刺繍して渡したのでしょう」ヴィオレットはそう言うと、ハンカチを掌の上に広げた。細やかな刺繍――そこには、王家の紋章と共に、アウグストの名が丁寧に刻まれている。ヴィオレットはゆっくりと目を伏せ、その一針一針に込められた思いを確かめるように指先でなぞった。「これほど丁寧に縫われた刺繍……母は、確かに貴方を愛していた瞬間があったのでしょう」広間にいた貴族たちが、息を呑む音が微かに聞こえた。「ですが、母はルーベンス侯爵と出会い、そして恋に落ちた」ヴィオレットは静かに顔を上げた。彼女の視線の先にいるのは、アウグスト。彼は何も言わず、ただヴィオレットを見つめている。「それでも、貴方はこのハンカチを手放さなかったのですね」ヴィオレットの言葉は静かだったが、その響きには確かな問いが込められていた。「貴方は、このハンカチを何のために持っていたのですか?」広間の空気がさらに張り詰めた。アウグストの顔から、ついに笑みが消える。彼は静かにヴィオレットを見つめていたが、やがて低い声で呟いた。「……そんなハンカチは知らんな」アウグストの声は平静を装っていたが、わずかな揺らぎがにじんでいた。しかし、ヴィオレットは怯まなかった。彼が何を思い、何を捨てられなかったのか――その答えを、ヴィオレットはすでに知っている。「私の母を愛していたから、忘れないために持っていたのでしょう?」ヴィオレットの問いに、アウグストはゆっくりと目を閉じた。そして次の瞬間、再び瞳を開いたときには、冷たい光が宿っていた。「貴様が何を言おうと、罪は逃れられないぞ、ヴィオレット」アウグストの言葉に、広間が再びざわめく。しかし、ヴィオレットはわずかに
Last Updated: 2025-07-27
Chapter: 第77話 ハンカチの刺繍◆◆◆◆◆「家族であるヴィオレットの殺害を企てた人間を生かしておいたことには理由があります。彼は枢機卿の罪を暴く生きた証人だからです」アルフォンスの静かな声が広間に響いた。その一言で、貴族たちの間に緊張が走る。アウグストは、口元にわずかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。「ダミアンの父親はすでに亡くなっています。しかし、彼は生前に命の危険を感じていたのか、息子に宛てた遺書めいた手紙を遺していました」アルフォンスは封筒から一通の手紙を取り出し、それを高く掲げる。「この手紙には、ダミアンの父が過去に犯した罪が記されていました。そして、その罪を依頼した人物の痕跡も残されているのです」広間に息を呑む音が響く。アルフォンスは視線をアウグストに向けると、ゆっくりと口を開いた。「手紙にはこう記されています」静かな声で、彼は読み上げる。「“私はどうやら教会関係者に命を狙われているようだ。思い当たる出来事は一つしかない。それを手紙に記す。これを読んでどうするかはお前に任せるーー私はかつて、ある者の依頼を受け、ルーベンス侯爵夫妻が乗る馬車に細工を施した。そして、彼らは盗賊によって殺された”」広間がざわめく。「馬車の細工……」「ルーベンス侯爵夫妻が盗賊に襲われたのは、偶然ではなかったって事か……?」「そんな……」貴族たちが互いに顔を見合わせる中、アルフォンスは続けた。「手紙にはさらにこう書かれていました」彼は次の一文を読み上げる。「“馬車の細工を依頼した人間は、シクラメンの香水を身につけていた”」広間の空気が凍りつく。「シクラメンの香水……?」「教会関係者にしか使えないものでは?」異端審問官たちが互いに顔を見合わせた。「そうです」アルフォンスは静かに頷く。「教会の高位聖職者しか手にすることができない香水……それを身につけた者が、ヴィオレットの両親の死に関与していたのです」「だが、それが枢機卿である証拠はどこにある?」誰かがそう問いかけた。アルフォンスは一度、手紙を封筒に戻すと、新たに懐から別の封筒を取り出した。「ダミアンの父親は、その依頼者からある物を盗み取っていました」封筒をゆっくりと開け、中から取り出したものを掲げる。それは、一枚のハンカチだった。「このハンカチは、その依頼者の持ち物でした」
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 第76話 証人尋問◆◆◆◆◆「どうやら、ヴィオレット嬢は本当に気が狂ってしまったようだ」アウグスト・デ・ラクロワは冷ややかな笑みを浮かべながら言い放った。その声音には余裕があり、まるでヴィオレットの発言を取るに足らないものとして扱うかのようだった。「私がミア・グリーンを殺した? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。証拠があるのか?」貴族たちは息を呑み、広間を満たす緊張がさらに高まる。ヴィオレットは微動だにせず、琥珀色の瞳を強く輝かせながら言った。「あります」その静かな声が響くと、貴族たちはざわめき、異端審問官たちも互いに視線を交わした。「ほう?」アウグストはわずかに目を細める。「では、その証拠とやらを見せてもらおうか」彼の挑発的な言葉に対し、ヴィオレットは何も答えず、隣に立つアルフォンスを見た。アルフォンス・ルーベンスは無言で頷くと、軽く手を上げた。それだけで、彼の部下が扉へと向かう。音を立てて扉が開く。その向こうから、レオンハルト・グレイブルックが一人の男を連れて現れた。男の手首は縄で縛られ、粗末な服を着ている。レオンハルトはその腕を乱暴に引き、無理やり広間の中央へと進ませると、アルフォンスの横まで連れてきて、床に押し倒した。「ダミアン・クレインを連れてきたぞ、アルフォンス」「ご苦労。レオンハルトもこの場に残ってくれ」大して役には立てないぞと呟きながら、レオンハルトはアルフォンスの横に立つ。「くそっ、痛えなぁ!」ダミアンは苦々しげに顔を歪め、縛られた手をわずかに動かした。広間に緊張が満ちる。誰もが男の出現を見つめ、何が起こるのかを待っていた。アルフォンスが、低く静かな声で問いかける。「お前はミアの愛人だな?」ダミアンは黙ったまま、ぎろりとアルフォンスを睨んだ。そして、短く舌打ちをする。「……チッ」それから、不敵に口元を歪めた。「貴族様が勢ぞろいで俺の話に耳を傾けるとは奇妙な光景だな」そう言いながら、ダミアンは縛られた手をわずかに動かし、周囲を見渡す。「普段は虫けらは喋るなとばかりに庶民を扱う癖によ」広間にいる貴族たちの何人かが眉を顰め、異端審問官の一人が軽く咳払いした。アルフォンスは感情を表に出さず、ただ静かに言う。「余計なことは話さなくていい」ダミアンは肩を竦めると、面白がるように口の端を吊り上げた。「そうだ。俺はミ
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: 第75話 玉座の間◆◆◆◆◆豪奢なシャンデリアの光が煌めく玉座の間に、一人の女性が歩を進めた。琥珀色の瞳に宿る鋭い光は、臆することなく前方を射抜いている。堂々たるその立ち姿は、ただの貴族の妻などではないことを如実に示していた。彼女の名はヴィオレット・アシュフォード。ルーベンス侯爵家の令嬢にして、アシュフォード伯爵家の正妻。そして今、彼女はある重大な疑惑をかけられ、王の前へと引き出されていた。広間には、国の中枢を担う者たちが集結している。王の側には王太子アドリアン・ド・ソレイユと、第二王子シャルル・ド・ソレイユ。そして、彼女の兄であるアルフォンス・ルーベンスの姿もあった。異端審問官と教会の高位聖職者が厳かに並び、その中心に枢機卿アウグスト・デ・ラクロワが立っている。琥珀色の瞳を細めるヴィオレットを見据えながら、彼は冷たい笑みを浮かべていた。石造りの壁に反響する靴音が、やけに大きく聞こえる。ヴィオレットは玉座の前で立ち止まると、優雅にスカートの裾を摘み、静かに頭を下げた。「王よ、私は無実です」澄んだ声が広間に響き渡る。その場にいる貴族たちはざわめいたが、王は何も言わず、静かに続きを促した。「私はミア・グリーンを殺していません。けれど、確かに彼女を殺した者はこの場にいます」鋭く言い放つヴィオレットの言葉に、広間はさらに騒然とする。互いに顔を見合わせる貴族たちの間に、不安と疑念が広がっていく。「馬鹿な……」「何を言ってるんだ?」ヴィオレットの言葉が信じられないという様子で、多くの人間が彼女に注目する。そんな中、ヴィオレットは顔をあげて、まっすぐにアウグストを見据えた。「貴方です、アウグスト」静かながらも確信に満ちた声が、重く広間に響いた。瞬間、空気が張り詰める。異端審問官たちの間に微かな動揺が走り、教会の高位聖職者たちは視線を交わす。貴族たちは驚愕の表情を浮かべながら、アウグストの反応を見守っていた。その張り詰めた沈黙の中で、アウグストはほんのわずかに表情を曇らせた。しかし、それも一瞬のこと。すぐに彼は薄く笑い、肩をすくめた。「……どうやら、ヴィオレット嬢は気が狂ってしまったようだ」まるで哀れむかのような口調だった。「まさか、私を陥れようというのか? これはいくらなんでも滑稽すぎる」彼の言葉に、場の空気が微妙に揺らぐ。貴族たちは互いに視線
Last Updated: 2025-07-24
Chapter: 第74話 王太子殿下との会話◆◆◆◆◆王宮の奥、王太子アドリアン・ド・ソレイユの執務室。アルフォンスが扉を開けると、室内には静かな空気が漂っていた。壁際の燭台に揺れる灯りが、重厚な執務机をぼんやりと照らしている。机の上には整然と書類が並べられ、王太子アドリアン・ド・ソレイユがその一つに目を通していた。「ご無礼いたします、殿下」「来たか、アルフォンス」アドリアンは顔を上げると、片眉を軽く上げる。目の下にはわずかに疲れの色が見えたが、その視線は冷静だった。「無事に戻ったようだな。ヴィオレットとリリアーナは?」「邸に戻りました。長旅で相当疲れているようでしたので、今は休ませています」「そうか」アドリアンは書類を机に置き、指を組んでアルフォンスを見据えた。「今回、騎士団を貸した理由は理解しているな?」アルフォンスは静かに頷いた。「ええ、殿下の目的がヴィオレットの救出だけでないことも」「ならば話は早い」アドリアンは椅子に深く身を預け、目を細めた。「ヴィオレットは、ただの貴族の娘ではない。彼女の母イザベラ・ヴァリエールは、我が叔母――先代王の娘であり、正統な王女だった。お前も知っているはずだ」「……もちろんです」「ならば、なぜアウグストがヴィオレットを異端者として陥れようとしたのかも、分かるだろう」アルフォンスは無言のままアドリアンを見つめた。「アウグストにとって、ヴィオレットは邪魔な存在なのだ」アドリアンの声は淡々としていたが、その奥には冷たい怒りが滲んでいた。「私の腹違いの弟、シャルルの母親はアウグストの妹だ。そしてアウグストは今、教会で圧倒的な影響力を持ち、次期教皇の座を狙っている。もし彼が教皇になれば、シャルルを国王にすることも夢ではない」アルフォンスは黙っていた。「そして、そのためには邪魔者を排除する必要がある」アドリアンは机を軽く指で叩いた。「ヴィオレットは王家の血を引いている。たとえ王位継承権がないとはいえ、彼女が存在することで、王族の影響力がルーベンス家にも及ぶ。これは、アウグストにとって好ましくないことだ」「つまり、王族に近い血筋の者を、異端者として処刑することで、アウグストは教会の支配力を強めようとしているのですね」アルフォンスが静かに言うと、アドリアンは満足げに頷いた。「そうだ。もしヴィオレットが異端の罪で裁かれれば、それは王
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 第73話 王都への帰還◆◆◆◆◆早朝にルーベンス家の領地を発ち、日が沈む前には王都に着くはずだった。しかし、休むことなく馬車を走らせたせいで、王都の城壁が見えた頃には、すでに夜になっていた。長時間の移動で体は重く、馬車の揺れがじわじわと疲れを増していく。行きは余裕をもって宿屋に一泊しながら進んだが、帰りはひたすら馬を走らせ、途中で休むこともなかった。その違いが、今の身体にまとわりつくような疲労感となっている。足は感覚が鈍く、まぶたも知らず知らずのうちに重くなる。隣に座るレオンハルトの腕の中で、リリアーナはぐったりと眠っていた。小さな身体は完全に力が抜け、時折、規則正しい寝息が聞こえる。道中、何度か目を覚ましそうになったが、結局そのまま意識を手放してしまった。無理もない。こんな強行軍では、大人でも疲れ果てるのだから。ヴィオレットはそっと娘の頬を撫でた。「少し無理をさせすぎたかしら……」「……お前の方が無理をしているように見えるがな」向かいに座るアルフォンスが静かに言う。その声は落ち着いていたが、気遣いが滲んでいた。「ずっと気を張っていたんだろう。王都に着いたら、すぐに休め」ヴィオレットは微笑んだが、疲れのせいで口元が少ししか動かなかった。彼の言葉はありがたかったが、簡単に気を緩められるものではない。「……ありがとうございます、兄上」けれど、そう答えた瞬間、自分がどれほど疲れているのかを改めて感じた。身体がずっしりと重く、頭の芯がぼんやりしている。まぶたが自然と落ちかけるが、今はまだ眠るわけにはいかない。王都に戻ったとはいえ、問題がすべて解決したわけではないのだから。「そんな顔をするな」アルフォンスがわずかに眉をひそめると、手を伸ばし、ヴィオレットの手の甲に軽く触れた。「お前が耐えるのはもう十分だ。リリアーナのためにも、少しは自分を労われ」アルフォンスの温かい言葉に、ヴィオレットは表情をほころばせた。「……ふふ、そんな風に優しくされると、逆に緊張してしまうわ」「たまには素直に頼れ」アルフォンスは短く言うと、そっと手を引いた。その一瞬のぬくもりが残る手を、ヴィオレットはぎゅっと握りしめる。ちょうどその時、馬車が大きく揺れ、王都の門をくぐった。外を覗くと、夜の王都は静かで、邸へと続く石畳の道には街灯の明かりがぼんやりと光を落としていた。しばらく走る
Last Updated: 2025-07-22
Chapter: 第16話 ムカデ男(秋山 視点)"ムカデ男"が今日の最初の客とはついていない。こいつに犯されれば、一日動けないほどの傷を負う。そのせいで、他の客を逃すことになる。――そう考えた瞬間、自分の思考がすでに“性奴隷”そのものになっていることに気づき、吐き気を覚えた。「よう、ひさしぶりだな……秋山?」「三日前にも来ただろ?」「ちっ、性奴隷のくせに媚も売れねぇのか。まあいい、今日お前に会いに来たのは、別れのあいさつをするためだ」意外な言葉に思わず安堵の息を漏らしそうになる。それを隠して男に尋ねた。「ようやく俺に飽きたか?」「まあ、それも多少あるな。ーー『かさぶらんか』のオーナーが正式に決まった事をお前は知ってるか?」「いや」「そうか。ま、性奴隷のお前に知らされないのも当然か。……新しいオーナーは青山組組長の愛人らしい。で、『かさぶらんか』で問題起こしそうな客は全員追っ払いにかかってる。俺もその内の一人だ。ーー丁寧な事に、金と俺好みの新しい奴隷を送ってくれてな、それで手を打つことにした」「……それは良かったな」ーーつまり、こいつはもう俺の前には現れないという事か?心底安堵している自分に苦笑いを浮かべそうになる。父子家庭で育ったが、俺は父親を尊敬できなかった。風俗店の雇われ店長だった親父は、オーナーの“ムカデ男”に殴られ、土下座させられる姿を、何度も俺に見せてきた。怯えてばかりの、小心者の親父。そんな男が――女に貢ぐために、売上金をくすねていたなんて。まさか、そんなことをするとは思いもしなかった。しかも、その尻ぬぐいを俺がする羽目になるなんて……。ヤバい立場に追い込まれた親父は、自殺した。それでも俺は、法が自分を守ってくれると信じていた。……だが、訪ねた弁護士事務所が悪かった。弁護士は、風俗店のオーナーの逆恨みを恐れ、俺を――売った。弁護士事務所に現れた男たちに連れ去らて俺は、ムカデ男が所有するビルの地下に閉じ込められる。ーーそれからの日々は地獄だった。腕にムカデの刺青を刻んだこの男は、ビルの地下で俺を毎日何度も犯した。男は俺を裸にすると両手首をベッドに拘束して、ペニスをねじ込みつづける。初めて男を受け入れた俺の尻は、真っ赤に染まり男のペニスも赤黒く染まっていた。ーーそれでも、男は抜き差しをやめなかった。男は毎日地下にやってきて、体位を変えながら責
Last Updated: 2025-07-27
Chapter: 第15話 秋山(速水 視点)三原が苦い顔で2号室を見つめていた。トラブルを避けるためにも、三原と2号室の彼との関係を把握しておきたいところだが、簡単には聞き出せそうにない。僕は三原の表情をうかがいながら、慎重に口を開いた「2号室の人と三原はどういう関係?」「どういう関係かと問われると……ただの知り合いとしか言いようがないな」三原は少し言い淀んでから続けた。「名前は、秋山剛(あきやま つよし)。――秋山の父親は、西成の風俗店で雇われ店長をやってたんだが、俺の母親と出会ってから……売上金の一部をくすねて、母親に貢いでたんだよ。たぶん、母親と親密な関係になってたんだと思う」三原の母親が関わっているなら、『かさぶらんか』の経営者として話を聞くべきだ。でも、三原の顔を見て口ごもってしまう。僕の様子を見て三原は自嘲気味に笑い話を継いだ。「もしかしたら……俺の母親が、売上金の使い込みを唆したのかもしれない。でもな、男の使い込みが店のオーナーにバレて、自殺しちまったんだ。一人息子の秋山剛を残して、な」「自殺」「ああ。せめて生命保険にでも入ってくれていたら、秋山も救われたと思う。でも、何もなかった。秋山のおやじは借金だけ残して……死んじまった」「秋山は財産放棄とかできなかったの?相手がまずいやつだった?」「風俗店のオーナーがまずいやつで、しかも……秋山を囲おうとしてた」「え……そうなの?」監視カメラから見ただけだが、秋山は体格がいい。だから、囲いの対象にはならないと思ってた。でも、実際には性奴隷として働いているので、そういう需要もあるって事だ。「人の好みはそれぞれだからな。体格のいい秋山を拘束して、無理やりセックスしたいって変態もいるんだよ。ーーしかも、その風俗店のオーナーに囲われた性奴隷は、すぐ壊れることで有名だった。やばい薬を打ちまくられて、尻掘られて殴られて。……廃人どころか、死んだやつもいるって噂だ」「めちゃヤバいやつだ。……よく秋山はそいつに囲われずに済んだな」三原は少し俯いて口を開いた。「同じ頃に……俺のおやじが死んだ。おやじの形見分けで、俺は初めて青山組の屋敷に呼ばれた」「形見分けがあったのか。ま、囲われ者の僕は知らなくて当然か。で、屋敷に君を呼んだのって……青山清二さん?」「よく分かったな、速水」「清二さんは三原の事を気に掛けているって言
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 第14話 モニタールーム(三原 視点)モニタールームの内部は薄暗かった。電気代を節約するため、最小限の照明しか点いていない。速水は足を止めて、部屋の入口で躊躇いながら俺に声をかけてきた。「もう少し、照明を明るくしてくれないかな、三原?」「電気代がもったいないんだよ」「……いや、まあ、それも分かるんだけど。その……僕、視野が一部欠けてるんだ。この薄暗さだと、ちょっと見えにくい部分があって。……うーん、まあ、これぐらいなら大丈夫かな」「あっ、そういう事情があるなら早く言えよ。ちょっと待って、照明明るくするから」「ああ、大丈夫だって――うわっ、おおお!?」速水はまったく大丈夫じゃなかった。俺が床に直に敷いていた布団につまずき、そのまま頭から突っ込んで倒れ込んだ。慌てて駆け寄ると、速水はぼうぜんとしたまま敷布団に寝転がっている。「……ねえ。なんでモニタールームに布団が敷いてあるの?」「しゃあねーだろ。今、ここに住んでんだよ。自宅は借金返済のために手放したから、住めるのここしかないの。シャワー室もあるし、まあなんとかなる。それより、布団が見えないって……どんだけ視野が欠けてんだ?大丈夫かよ?」そう尋ねると、速水は布団に寝転がったまま、少し恥ずかしそうに顔を赤くした。その姿が妙に色っぽく見えて、俺は不意にどきりとする。「いや、布団につまずいたのは……ただの不注意。心配かけてごめんね、三原」「……いや、別にいいけど。しばらくそこに寝てろ。今、照明つけ直すから。なあ、その視野の欠損って、進行するようなもんなのか?」「ん? ああ、大丈夫。進行はしないよ。昔、柱に頭ぶつけてさ、眼底出血して一部だけ視野が欠けたんだ」「お前、意外と抜けてるな」俺が照明を明るくすると、速水は布団から身を起こし、周囲を見渡しながら口を開いた。「まあ、抜けてるけど。でも、怪我を負ったときは必死だったんだよ。性奴隷だった時の僕の主治医が、いきなり変態野郎になって襲いかかってきて。……いや、もともと変態だったんだけど。とにかく、そいつが僕のアナルに器具じゃなくーー自分のペニスを入れようとしてきたんだよ!あの時は参った。で、そいつから逃げようとして、柱に頭ぶつけてこうなったわけで……」「……」まずい……速水の話が壮絶過ぎて言葉が出てこない。俺が黙っていると速水が困り顔で口を開いた。「……三原、黙り
Last Updated: 2025-07-20
Chapter: 第13話 三原と花屋(速水 視点)「あ、三原さん。店先で騒いでごめんね」「いえ……大丈夫です」僕と竜二のつまらない会話の間も、三原は黙って待っていてくれた。三原進は母親の三原沙月より辛抱強いタイプのようだ。それでも、僕が声を掛けると、三原はすっと視線を逸らされてしまう。ーーまあ、僕の自殺未遂が原因で『かさぶらんか』の経営が傾いたわけだから、三原に嫌われていても仕方ないか。それにしても……何もない店だな。「ねえ、三原さん。『かさぶらんか』って花屋だよね。花が全く見当たらないのだけど……なんで?」「はぁ?そんなの……金がないからに決まってるだろ。次の買主が花屋を経営するとも思えないからって、借金取りが花を全部回収していったよ」「え、そうなの?……僕は花屋を経営するつもりなんだけど」「え?」「僕は花屋『かさぶらんか』を経営するんだよ」店の傾きかけた看板を指さすと、三原もつられるように視線を向けた。色褪せた赤い板には、かすれた文字で『かさぶらんか』と記されている。ーー金具ごと抜け落ちそうなほど傾いていて、見上げているだけで不安になるような代物だった。「文字はかすれているけど、レトロでいい看板だね。綺麗にしてあげたら、いい感じなると思わない?」「『かさぶらんか』の名前で、花屋を経営するつもりなのか、速水。……あ~、速水さん」「速水でいいよ。年齢あんまり変わんないでしょ?僕も三原って呼んでいいかな?」三原とは長く付き合うつもりだから、呼び捨てのほうがしっくりくる。彼は黙って従うことにしたようで、静かに頷いた。その様子を見ながら、僕はさらに問いかける。「ねえ、地下の風俗店の入り口はどこにあるの? 花屋の奥?」「ああ、花屋の奥に店と繋がる扉はあるけど、こっち側からしか開かない仕組みになってる。風俗店の入り口は、このビルの反対側にあるよ。……って、速水も一瞬だけ勤めてたじゃないか、その……」三原が言葉を濁したので、僕が代わりに続きを引き取った。「……性奴隷としてね。でも、あの時はパニックになっていたから、風俗店の入り口とか全く覚えてないんだ。それに君のお父さんに囲われてからは、屋敷から出ることもなかったから」「……深窓の令嬢」三原の言葉に僕は思わず顔を顰める。性奴隷を深窓の令嬢とは……皮肉にもほどがある。僕は思わず三原を睨みつけていた。「深窓の令嬢が、
Last Updated: 2025-07-16
Chapter: 第12話 三原(三原進 視点)花屋『かさぶらんか』が売れた。地下の風俗店も、まとめて。そして――付属品だった俺も、売られた。『かさぶらんか』は、かなりの安値で出ていた。それでも、まさか俺と同じ年齢の男が買い手になるとは思わなかった。速水の今の姿は知らない。けれど、過去の速水のことは、よく覚えている。◇◇◇◇俺は、随分昔に一度だけ、あいつに会ったことがある。母が「初物を手に入れた」と嬉しそうに話していたのを、今でも覚えている。その当時の俺はもう母親の商売を理解していた。だが、"初物"の速水は自分がこれから何をさせられるのか、理解していない様子だった。母親から教わる『アナル』という言葉さえ知らぬようで、困惑の表情を浮かべていた。今から男たちに犯され、性奴隷に堕ちるとも知らずに、速水は熱心に母親の言葉に耳を傾ける。ーー今までも、そんな子供はたくさん見てきた。それが俺の日常で……それでも、速水の事を覚えていたのは、やつが俺好みの容姿をしていたからだ。今も昔も男に興味はないが、それでも、速水は……とにかく可愛らしかった。まあ、それだけならきっと俺の記憶には残らなかったと思う。俺の記憶に残った原因はーー速水が勤務一日目で店を辞めたからだ。あいつは俺のおやじに店で犯され、その日の内におやじに手を引かれて店を出ていった。速水が親父の囲い者になった――そのことを、悔しそうに母から聞かされたのは、それから数日後だった。母は、死ぬまで速水のことを口汚く罵り続けた。「あいつが自殺未遂なんてするから、お前の父親に見限られたんだ」そうやって、何度も俺に恨み言をぶつけてきた。俺にとって、そんな母の存在は鬱陶しくて仕方なかった。親父に見放されてから、俺たち親子の生活は一変した。『かさぶらんか』の経営は傾くばかりだったのに、母は意地でも店を閉めようとはしなかった。たぶん、それは親父への意地だったのだと思う。元愛人としての、見返してやりたいという意地。「あなたの助けなんかなくても、私は立派にやっていける」――母は、そう言いたかったのかもしれない。けれど、現実はその逆だった。母は借金まみれの『かさぶらんか』を残して、死んだ。……結局、俺はそのつけを払わされることになった。『かさぶらんか』は、付属品の俺ごと売りに出された。もしも店がいい値で売れなければ、俺は内臓を切
Last Updated: 2025-07-14
Chapter: 第11話 花屋『かさぶらんか』(青山竜一 視点)叔父は、すっかり速水の保護者気取りだ。その態度に、ひどく苛立つ。――速水を、一度抱いただけで何がわかる。殴って、無理やり抱いたくせに。……そんなの、おやじと何も変わらないじゃないか。それなのに――速水はもう、すっかり懐いている。そのことが、また俺を苛立たせた。不機嫌なまま叔父を睨みつけると、今度は叔父がわずかに目を細めて睨み返してくる。――次期組長に逆らうな。その視線が、無言の圧力となってのしかかる。わかっている。そんなことは、百も承知だ。叔父が速水の味方になってくれたことは、本来なら何よりの収穫のはずなのに――それでも、まるで恋人を奪われたかのように、胸の奥がきしんだ。「う~ん、じゃあ、僕がお店を開きたいと言ったら、清二さんが資金を提供してくれるの?」「その前に、まずはどんな計画なのか聞かせろ。その上で、資金提供を考える。採算の取れないものに金を出すのは無駄だからな」速水は叔父の返事に対して、少し考え込んだ後に口を開いた。「竜二さんから聞いたんだけど、花屋の『かさぶらんか』と、その地下にある風俗店が売りに出されてるって。……それに加えて、『かさぶらんか』と風俗店の経営者だった三原進(みはら すすむ)も、売りの対象になってるって話も聞いた」「……竜二のやつ、そんな話をおまえにしたのか」俺は思わず舌打ちをしていた。「僕は花屋の『かさぶらんか』と地下の風俗店の両方が欲しい。竜二さんの話だと、かなりの安値で売り出されていると聞いたけど……駄目かな、清二さん?」叔父は、難しい顔をしていた。確かに、あの物件は安値で売られている。だが、それにはそれなりの理由がある。――速水は、頑固だ。一度心に決めたら、そう簡単に引かない。だからこそ、俺が叔父の代わりに説明するしかなかった。速水に、『かさぶらんか』をあきらめさせるために。「速水、あの店はやめておけ。花屋『かさぶらんか』は、地下の違法風俗店の利益で維持されてたんだ。だけど今は、その売り上げじゃもう店を支えきれない」「どうして? 地下の風俗店、今でも営業してるんでしょ?」「ああ、確かに営業はしてる。けど……昔みたいに“ガキ”は扱ってないんだ」「……? 今は、何を扱ってるの?」言葉に窮した俺の言葉を継いだのは補ったのは叔父の清二だった。それもひどい言葉で。
Last Updated: 2025-07-12
Chapter: 最終話 それぞれの未来へ◆◆◆◆◆季節はめぐり、新緑が風に揺れる朝だった。遥は、王城の正門の前に立っていた。朝の光に照らされた白亜の城壁はどこか静かで、けれど凛としていた。大理石の塔と赤い屋根瓦が連なる王城は、長い歴史とともにこの国を見守ってきた。門の内側には美しく手入れされた庭園が広がり、咲き誇る花々の向こうに玉座のある塔が見える。王城を出る最後の朝。遥は、背に大きな荷を担ぎ、静かに門を見上げていた。ここから――新たな旅が始まる。聖女という役割は、もう過去のものだ。これからは、自分の意志で選んだ道を歩いていく。「……本当に行くんだな」背後から、少し寂しげな声が響いた。振り向けば、そこに立っていたのは――ルイスだった。かつては王子、そして今はこの国の王。だがこの瞬間だけは、誰よりも一人の男の顔だった。「うん。遺跡の調査依頼をこなしながら、世界中を巡るつもりだよ。ノエルの伝手で隣国の遺跡にも行けることになったし、楽しみで仕方ないんだ。どんなお宝アイテムが眠ってるか、今からワクワクしてる」「……すっかり、トレジャーハンターだな」冗談めいた口調とは裏腹に、ルイスの瞳には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。「まさか異世界で、こんな肩書きを手に入れることになるなんてね」遥は照れくさそうに笑いながら、背中の荷を軽く叩いた。「ゲームじゃレアアイテム狙いでひたすらダンジョンに潜ってたけど……まさか現実になるとは思わなかった」ルイスは小さく笑いながらも、わずかに表情を曇らせた。「元の世界から聖女を召喚した我が国には、君たちを保護する責任がある。貴族の称号を得て、この国に残った者もいる。……遥にも、穏やかな人生を歩んでほしかったが」遥は一拍置いて、真っすぐに言葉を返す。「心配かけてごめん。でも、俺の選んだ道なんだ。後悔はしてないよ」ルイスはその言葉に静かに笑みを返す。「いや、君らしい生き方だ。……まあ、一人でトレジャーハンターをすると言ったなら、私の部屋に閉じ込めてでも行かせなかったと思うがね」「俺を閉じ込めるつもり?」遥がいたずらっぽく笑い、ルイスもつられて微笑む。そこへ、地図と筆記用具を詰めた鞄を背負ったノエルが、駆けてきた。「遥さん、準備できたよ! 最初に行く遺跡はここにしようよ。絶対に古代の秘密が眠ってるはずだから!」彼は興奮した様子で、
Last Updated: 2025-07-15
Chapter: 第七十一話 異能のない世界で◆◆◆◆◆魔力の名残すら残らない封印の間に、しんとした静寂が戻っていた。だがそれは、かつての重苦しい沈黙ではない。どこか安堵を含んだ、世界の再生を告げる静けさだった。光がすべてを洗い流したあと、ルイスは静かに自らの掌を見つめていた。そこに感じるべき力は、もうどこにもなかった。異能も、魔法も――すでに失われていた。「……本当に、消えたんだな。異能が……魔法が」低く呟いた声は、実感の滲むような戸惑いと、かすかな寂しさを含んでいた。呟いた声はかすかに掠れ、喉の奥で迷っていた。それでも彼は顔を上げ、まっすぐに遥たちを見た。「俺は……王として国を導けるのだろうか。異能も、加護もないただの人間として――」その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。コナリーですら、厳しい現実を見据えるように静かに視線を落とす。遥はそっとコナリーに下ろしてもらうと、ためらいのない足取りでルイスのもとへ歩み寄った。そして、静かに彼の掌に触れる。「……たとえ力がなくなっても、ルイスは変わらないよ。優しさも、強さも」その言葉に、ルイスは目を伏せ、小さく息を吐いた。そう言った遥の声は、どこかすべてを包み込むような大きな優しさに満ちていた。ルイスは目を細め、微かに息を吐いた。その表情には、不安が滲んでいたが、それでも前を向こうとする確かな決意が宿っていた。そんな彼の背に、そっと手を添えたのはノエルだった。親しげな仕草で、まるで「大丈夫」と伝えるように。一方で、遥とコナリーの間にも変化があった。聖女としての力を失い、契約の魔法も、痛みの共有も、本当の意味ですべてが断たれていた。それは、ふたりを結んでいた“役割”の終わりを意味している。それでも――遥は振り返り、まっすぐにコナリーを見た。そして、ためらいなく彼の胸に飛び込む。「もう、契約で繋がってなくても、俺はコナリーのそばにいたい」その一言が、すべてだった。コナリーは、ほんの一瞬だけ目を見開き、そして静かにその身体を抱きとめた。かつてよりもずっと、自然に、あたたかく。「ありがとう、遥。……それだけで、十分です」ふたりは互いの体温を確かめるように、しばらくそのまま動かなかった。やがて――かつて“魔界”と呼ばれた土地から、異能の濁流はすべて消え去った。黒き瘴気は浄化され、むしろ豊かな大地と
Last Updated: 2025-07-14
Chapter: 第七十話 清浄の光と別れ◆◆◆◆◆静寂が、封印の間を包んでいた。遥はそっと手を広げ、横に立つコナリーを見上げる。コナリーは静かに頷き、迷いなくその身体を抱き上げた。少年の身体は軽く、けれど確かな決意がその胸に宿っているのが、腕を通して伝わってくる。遥はコナリーの腕の中で、皆の視線を受けながら、そっと胸元のペンダントに触れた。光に消えた直人の余韻を胸に、遥は“妖精の涙”に手を添える。透明な宝玉の奥に、かすかな光の粒が揺れていた。「……いくよ」誰にともなく呟いた声は、決して震えてはいなかった。遥は目を閉じ、唇を寄せ、静かにキスを落とす。――その瞬間。眩い光が、“妖精の涙”から溢れ出した。純白の輝きが波紋のように広がり、封印の間全体を満たしていく。暖かく、柔らかく――それでいて、世界の理を揺るがすほどの強大な力が、空間の隅々にまで染み渡る。地脈が震え、空気が揺れ、大地の奥底に澱んでいた怨嗟が、苦しげな声を上げながら、静かに光に溶けていった。魔王の力――その源たる異能と怒り。かつて封じられた王族たちの呪いと嘆き。魔界に満ちていた腐りきった魔力の残滓。すべてが、浄化されていく。石化していた王族たちの像が、音もなく崩れ始めた。その顔立ちは、どこか穏やかで、まるで解き放たれることを喜ぶような表情を浮かべている。砕けた破片は、さらさらと砂となって宙を舞い、静かに大地へと還っていった。――その中心に立つふたり。カイルとレオニスもまた、ゆっくりと光に包まれていく。レオニスが、遥に向かって穏やかに微笑んだ。「私と直人を目覚めさせてくれてありがとう、遥。最期に直人に触れられ、言葉を交わせたことが、何よりの幸せだ。君に、幸多からんことを」「ありがとう、レオニス……」遥が小さく返した言葉に、レオニスは満足げに頷く。続いて、カイルが静かに口を開いた。「遥。アーシェの声に耳を傾けてくれて……ありがとう。弟と共に、感謝している。長い封印から解放してくれて、本当にありがとう」その言葉とともに、ふたりの身体が光となり、風に溶けていく。その消失は、あたたかく、やさしく、そして静かだった。遥は涙ぐみながらも、その涙をそっと指先で拭った。けれど、胸の奥には確かな痛みが残っている。その肩を、強く――けれど壊れ物のように優しく――コナリーが抱きしめた。遥の
Last Updated: 2025-07-13
Chapter: 第六十九話 それぞれの帰還と願い◆◆◆◆◆封印の間に、地の底から湧き上がるような重低音が響き渡る。大地の脈動が、異能の呼応に応えるかのように、威圧的な震動を空気に伝えていた。カイルとレオニスが向かい合い、無言のまま両手を掲げる。二人の掌の間に、光の粒が集まり始めた。レオニスの身体から放たれる膨大な異能――それはまるで星の爆ぜるような煌めきで、空間すらも焼き尽くしそうなほどに強く、激しい。その暴走を、カイルの異能が静かに、しかし力強く制御する。彼の魔力が、レオニスの力に優しく輪郭を与え、流れを整え、均衡をもたらしていく。二人の足元に光が満ち、やがてそれはゆっくりと広がり、神秘的な魔法陣を描き始める。繊細な幾何学の紋様が次々と浮かび上がり、宙に舞う光環がいくつも重なっていく。中心から放たれた輝きが層を増しながら天井へと伸び、まるで天へ至る光の塔のように立ち現れた。一陣の風が吹き抜ける。誰も息を呑み、その場から動けなかった。ただ、光と力の織りなす壮麗な光景に目を奪われていた。地脈の鼓動が最高潮に達した瞬間、魔法陣の中心が音もなく裂ける。そこに現れたのは、眩い光の門だった。それは、はるか遠く――遥と直人が召喚された“元の世界”と通じる、異世界への扉。直人は、その安定したゲートを見つめながら小さく呟いた。「……魔法陣がすごく安定してる。これなら、君も戻れるかもしれない、遥」そう言って、遥へと手を伸ばす。「一緒に帰らないか? もう十分頑張ったろ」遥は瞳を伏せ、わずかに揺らす。少しの間ののち、静かに首を横に振った。「……ごめん。俺は……ここに残る」直人が目を見開く。遥の視線は、まっすぐにコナリーへと向けられていた。黙って佇む騎士と視線が合い、遥は小さく頷く。「大切な人がいるんだ。俺の“帰る場所”は、もう――あっちじゃない」直人は、ふっと肩をすくめて笑った。「そっか。……じゃあ、"妖精の涙"の起動は君に任せるよ」「え?」「俺があちらの世界に消えたら、"妖精の涙"にキスして。聖女のキスで起動するなんて、ゲーム世界っぽくて、いいだろ?」遥は苦笑しながら頷き、そっとコナリーの隣へ歩み寄る。コナリーの胸には“妖精の涙”が揺れていた。その時、レオニスが高らかに声を上げた。「――直人、繋がった! あの時間、あの場所に!」直人は、何かを確かめるように魔法陣
Last Updated: 2025-07-12
Chapter: 第六十八話 封印の聖女と異能王◆◆◆◆◆石の扉が、音もなく開いた。そこは、空気すら静止したような、深く沈んだ空間だった。地下深く、地脈の魔力が脈打つ神殿の最下層。広間の中央に佇むのは、ふたつの石像。堂々たる威厳と気高さを宿す若き王と、中性的な気配を漂わせる青年。――始まりの異能王、レオニス・ド・ルミエール――始まりの聖女、相馬直人「……ここが、封印の地……」遥は、ぽつりと呟いた。そして、そっとカイルの腕から降りると、静かに石像を見つめた。その目に、ノエルの屋敷の地下で見た幻が重なるように浮かび上がった。かつて見た“始まりの異能王と聖女”の記憶が、静かに重なってゆく。◆地下最深部、結界の中心。王と聖女は並んで立っていた。足元に浮かぶ無数の魔法陣が光を放ち、教会の詠唱が低く響く。空間全体が、古代語の呪に染められていく。聖女・直人は王の隣で微笑んだ。「また、いつか……この国が、俺たちを必要としてくれたら」「……きっと、誰かがこの扉を開いてくれる。俺はそれを信じてる」レオニスは、その声に静かに頷いた。封印の光がふたりを包み込み、魂ごと静かに凍らせていく。かすかに触れ合った指先。言葉にしなかった願い。――こうして、異能王とその聖女は、石の中に眠りについた。◆「……見える……」遥は、石像に近づき、床に刻まれた封印の魔法陣を見つめた。そこには、聖女にしか読めない光の文字が浮かんでいた。『……聖なる光よ、黄昏に囚われし魂を……いま、目覚めの地へと導き給え……』レオニスが、未来の聖女に託して刻んだ封印解除の呪文――遥は指先でそっと文字をなぞり、その言葉を静かに口にした。コナリーたちは警戒をにじませながらも、遥の意志を信じ、黙って従った。「……聖なる光よ、黄昏に囚われし魂を……いま、目覚めの地へと導き給え……」ふわりと光が広がり、石像を包む。封印の紋が淡く脈動し、絡みついていた封の光が一筋ずつ解けていく。やがて――石が剥がれ落ちるように崩れ、ふたりの姿が現れた。まず、白衣の聖女・直人が瞼を開き、続けて、冠を戴く若き王・レオニスが静かに息を吸い込んだ。長い眠りから目覚めたその眼差しは、理知的にして深く、どこか遠くを見つめているようだった。直人の視線が、遥に向けられ、わずかに揺れる。「……日本人……?」それは、半信半疑の呟きだった。
Last Updated: 2025-07-11
Chapter: 第六十七話 導くものの声◆◆◆◆◆戦いの終わった神殿の一室には、静寂が戻っていた。アドリアンの死。剣を下ろした兵たち。言葉にできない余韻だけが、冷たい石床に残されている。その中で、遥はただ一人、砕けた指輪の破片を見つめていた。手の中にあるのは、淡く鈍い光を宿す小さな欠片。何度も命を救ってくれたもの。そして――アーシェの魂が封じられていたもの。「……ありがとう」そっと呟いた遥の声に、誰も言葉を返さなかった。ただ、すぐそばに立つカイルだけが、視線を遥に落とす。銀の髪が静かに揺れる。感情を見せないその瞳に、微かに影が差した。「アーシェは、俺の弟だ」静かな声だった。「……分かってる。あなたが、カイルなんだね」遥はそっと頷き、指輪の欠片を見せる。「この中に、彼の声が残ってた。――ずっと、あなたに会いたがってた。兄さんを、目覚めさせてって……それだけを願ってた」指輪から伝わった数々の記憶。痛みも、孤独も、そして最後の望みも――全部、知っている。カイルはしばらく何も言わなかった。けれど、ほんの一瞬だけ、目を伏せる。「……アーシェを、連れてきてくれてありがとう」その言葉は、まるで祈りのように響いた。静かで、重く、そして確かに――優しかった。遥は思わず目を伏せる。そのとき、微かに空気が震えた。――恩返しを。誰かの声が、遥の胸に響いた。アーシェのものだ。もうこの世にはいないはずの魂が、欠片のどこかにまだ宿っているように。カイルの目が、遥に向く。「……願いを言え。君の望みを」淡々とした声だったが、それは命令ではなく、真摯な問いだった。遥は、少しだけ迷ったあとで、はっきりと答える。「――始まりの異能王と、聖女に会いたい」カイルはゆっくりと頷いた。「分かった」そして、ためらいもなく、カイルは遥の身体を両腕で抱き上げた。「わっ……ちょ、ちょっと……!」驚いた遥が声を上げたが、カイルはまるで気にした様子もなく、静かに歩を進める。(あれ……?)抱き上げられた腕の中で、遥はふと違和感を覚える。アーシェとカイルは、記憶の中では少年の姿だったはずだ。それなのに――抱かれている腕はしっかりしていて、青年としか思えない体躯。強引に持ち上げられたというより、自然に包み込まれるような感覚だった。「異能って……万能かよ……」思わず小さく呟
Last Updated: 2025-07-10
Chapter: 最終話 貴方だけの香蘭堂その扉の奥で喫茶店「香蘭堂」の扉には、クローズの札がかかっていた。けれど、その中には二人の姿がある。ひかりと玲一郎。ひかりは、彼のためだけに、店を開いていた。店内には、父と母が集めた食器や道具が今も大切に飾られている。古びたミルと真新しいエスプレッソマシンが並ぶ様子は、どこか夫婦のように並んで見えた。カウンターの奥、オーブンから立ちのぼる香り。焼き上がったのは、シナモンとドライフルーツをたっぷり使ったスパイシーなケーキだった。ふんわりとした生地に添えるのは、甘さ控えめの生クリーム。それを白い皿にのせて、丁寧にコーヒーを淹れる。ひかりは、小さな銀のトレイに乗せたケーキとカップをそっと運び、カウンター席にいる玲一郎の前に置いた。「どうぞ、召し上がれ」微笑み合うふたり。玲一郎はフォークを手に取り、ひとくちケーキを口にした。それから、ゆっくりとコーヒーを啜る。「……おいしい」そう言ったあと、玲一郎はなぜか落ち着かない様子で目を泳がせた。カップを持ち上げては置き、スプーンを手にしては戻し、果てはカウンターの端に視線をやったり、天井を仰いだり。「……?」ひかりが首をかしげると、玲一郎は観念したように小さく咳払いをして、目を逸らしたままぽつりと告げた。「……実は、コーヒーって、ちょっと苦手なんだ」「え?」「でも……せっかく君が淹れてくれたから、言い出せなくて。でも、味はすごく美味しいよ? 本当に。ただ、ほんのちょっと苦くて……」ひかりは噴き出して笑った。「もう、言ってよ。今すぐ紅茶を淹れるね」「……すまない」玲一郎が小さく頭を下げる。ひかりはくすくすと笑いながら、そっと言った。「私たちはもう、本当の夫婦なんだから。玲一郎さんのこと、ぜんぶ知りたいの。それとも……契約結婚に、戻したい?」いたずらっぽくそう囁くと、玲一郎は勢いよく立ち上がり、カウンター越しにひかりの手をとって、そっと唇を落とした。「契約結婚なんて、まっぴらだよ」「……ふふ」「だって――君を初めて見たときから、一目ぼれしてたんだから」「ほんとうに?」「本当だよ」頬を染めながら微笑む玲一郎に、ひかりもまた、そっと微笑み返した。──「香蘭堂」は、いまもひかりの手で守られている。けれど営業は、専門家を選びぬいて任せることにした。若い夫婦が新たな
Last Updated: 2025-07-04
Chapter: 第二十一話 本当の夫婦病院での診察の結果、ひかりの怪我は幸いにも軽傷だった。すぐに真木家へ戻ったひかりは、祖父の真木伯爵と玲一郎にすべてを話した。稜真の屋敷で見た絵、あのとき耳にした言葉、そして――あの車のエンブレム。それが両親の事故と繋がっている可能性に、祖父と玲一郎は、息を呑んで黙り込んだ。「……まさか……」顔を険しくする祖父の横で、玲一郎もまた拳を握っていた。けれど、結局のところ――話し合いの末に出された結論は一つだった。「……遺族の身としては納得できぬことだろうが……今、名前が出れば、君の立場まで揺らいでしまう」祖父は深く頭を垂れた。「すまん、ひかり」玲一郎も、申し訳なさそうに目を伏せた。だが――ひかりは理解していた。両親が亡くなったあと、どれだけ悪意ある噂に苦しめられたか。どんなに誠実に店を続けても、誰かが囁いた「何かあったらしいわよ」という言葉一つで、客足は遠のいた。名誉が傷つけば、現実もまた静かに蝕まれる。だからこそ――稜真の死は、「事故」として処理されることになった。---その夜。ひかりは、静かに玲一郎の部屋の扉を叩いた。「……ありがとう、助けてくれて」玲一郎は振り返り、小さく微笑む。ひかりは少し躊躇ってから、口を開いた。「ひとつだけ……聞いていい?」「……何だい?」「……どうして、あの時……あの屋敷に、来てくれたの?」少しの沈黙。玲一郎は視線を逸らし、肩を落とした。「……嫉妬したからだ」「え……?」「君と如月が、あんなふうに親しげにしているのを見て……抑えられなかった」玲一郎はゆっくりと言葉を紡ぐ。「執事から、君が稜真と洋菓子店へ向かったと聞かされて――居ても立ってもいられなくなったんだ。追いかけたら……ふたりきりで、あの屋敷にいると知って……まさか、あんな事態になっているとは、思いもしなかった」ひかりはその言葉に目を見開き――そして、ふっと笑った。「……実は、私も……嫉妬してたの」玲一郎が顔を上げる。「洋菓子店で、あなたが女性と話しているのを見て、心がもやもやして……でも、私たちは契約結婚だから、干渉しちゃいけないと思って。……あの人のこと、何も聞けなかった」言葉を終えた瞬間、玲一郎は少し強い声で言った。「――違うんだ!」ひかりが驚いて目を見張る。「君は、誤解してる。あの女性は……私の腹違
Last Updated: 2025-07-04
Chapter: 第二十話 危機「ひかり! いるのか!」屋敷の外から、玲一郎の声が響いた。ひかりは目を見開いた。助けが来た――! けれど、叫ぼうとしたその瞬間、稜真の手が彼女の口を塞いだ。「ん……っ!」もがくひかりの瞳に、涙が滲む。けれど、声は出せない。助けて、玲一郎さん。ここにいるの。早く……。心で何度も助けを求めながら、ひかりは必死に考えた。動かせるのは、足だけ。ベッドの端にかかっていたつま先をぎゅっと踏ん張り、身体をひねるようにして暴れる。ぐらり――。ベッドのすぐ脇にあった小さな丸テーブルが、その振動でわずかに揺れた。上に置かれていた花瓶がカタリと傾き、次の瞬間、床に落ちて砕け散った。――パリンッ!静まり返っていた部屋に、甲高い破裂音が響きわたる。稜真の目がわずかに揺れた。その瞬間、ひかりは動いた。口を塞ぐ手が緩んだ隙を、逃さなかった。「玲一郎さんっ! 私はここよ! 助けて――!」扉の向こうで、何かが蹴破られるような音がした。「……チッ」舌打ちをして、稜真はすぐに身を翻す。画材棚に置かれていたペティナイフを無造作に掴むと、そのままひかりの喉元に突きつけた。「っ……!」鋭い冷たさが首筋に触れ、ひかりの表情が青ざめる。首に走った痛みに、滲むように血がにじんだ。「嗅ぎつけるのが早すぎる。まったく、彼は君を見張ってでもいたのか……?」稜真は苦笑して、しばらく何かを考えるように目を伏せた。「さあ。こっちに来るんだ」そう言って、ひかりの腕を乱暴に引いた。開いた扉の外、稜真に引きずられるようにして廊下を歩かされる。廊下の奥――蹴破られた扉の向こうから、軍服姿の玲一郎が駆け込んでくる。「ひかりさん!」その声に、ひかりはかすかに顔を上げた。「……玲一郎……さん……」声はか細く、けれど確かに届いた。ふたりの視線が一瞬、重なる。それを見て、稜真の表情が歪んだ。「そこをどけッ!!」怒声が響くと同時に、稜真はペティナイフの刃をぐっとひかりの喉元に押しつけた。鋭い痛みに、ひかりの身体が強張る。細く滲んだ血が、首筋を伝う。扉の前に立っていた玲一郎が、一歩、思わず足を引いた。けれど、その目は逸らさない。ひかりの小さく震える体に、視線を釘付けにしたまま、息を詰めるようにして立ち尽くしている。「……いい子にしてなよ。変に動けば、今度こそ深く刺
Last Updated: 2025-07-04
Chapter: 第十九話 拘束まぶたの奥に、淡い光が差し込んでいた。夢の途中かと思った。でも、まぶたを開いた瞬間、その幻想は吹き飛んだ。見知らぬ天井。高く、白く、繊細な装飾がほどこされた漆喰の天井が、静かに視界に広がっている。(……ここは……?)起き上がろうとしたそのとき、異様な感触がひかりの意識を引き戻した。(――動かない……?)両手首が、何かで縛られていた。目を伏せると、前で揃えられた手が、絹のような紐で固く結ばれている。細いのに強く、指を動かそうとするだけできつく締まり、逃げ場がなかった。「……っ……なに、これ……!」思わず小さく叫ぶと、胸の奥から冷たいものが込み上げてきた。足は自由だった。でも、それがどうしたというのだろう。手が使えなければ、身を守ることも、ドアノブを掴むことさえできない。ひかりは改めて自分の状況を確認した。自分は、ベッドの上に寝かされている。柔らかく清潔なシーツ。光を通す薄いレースのカーテン。すべてが整いすぎていて、逆に現実味がなかった。(どうして……こんなところで、私……?)喉が渇いていた。胸の奥がざわざわと波打っている。不安を押し殺しながら、首だけを動かして周囲を見渡した。そして、目を奪われる。ベッドの向こう、部屋の壁沿いに、いくつものキャンバスが立てかけられていた。大小さまざまな絵。色彩、構図、筆のタッチ。どれも素人の手によるものではない。むしろ、執着に近い情熱を感じさせる、異様な絵だった。描かれていたのは――すべて、女性だった。(これ……)一枚目に描かれた横顔に、見覚えがあった。いや、見覚えがあるというより――自分に、似ていた。けれど、少し違う。髪型も服装も古風で、肌の色もわずかに白い。懐かしさに似た感情が胸の奥をかすめたとき、ひかりは静かに呟いた。「……お母さん……?」若い日の澄江。そこに描かれていたのは、ひかりの母だった。何枚も、何十枚も。微笑む顔。髪をほどく姿。紅茶を注ぐ手。誰かを見つめる目――。どの絵も、まるで恋人を描くかのように、丁寧に、そして熱をこめて描かれていた。ぞっとした。肌の内側に、冷たいものが這い上がる。そのときだった。部屋の奥、窓の近くで小さな音がした。「目覚めたんだね」その声に、ひかりはびくりと体を強張らせた。アトリエスペースの奥。光を背にして、稜真が静かに筆を動かして
Last Updated: 2025-07-04
Chapter: 第十八話 丘の上の洋館如月稜真が黒塗りの車で迎えに来たのは、まだ日が高い午後のことだった。艶やかな黒塗りに磨き上げられた外装と、真鍮の金具が陽光を鈍く返すその自動車は、まるで異国の風を運んでくるようだった。町に一台とない、舶来の乗り物――その優雅な姿は、見る者に時代の最先端を感じさせた。「では、参りましょうか」黒革の手袋を外しながら、稜真が運転席を降りる。無駄のない動きで助手席の扉を開ける姿には、育ちのよさと洗練された余裕が滲んでいた。その所作に、ひかりは思わず息を呑む。――まるで物語の中の人みたい。けれど、ぼんやりしてはいられない。ここで戸惑っていては、真木伯爵夫人としては務まらない。(……慣れなくちゃ。これからは、こういう世界で生きていくのだから)そう自分に言い聞かせて、小さく礼をしながら車に乗り込んだ。向かった先は、町外れの丘の上に建つ洋菓子店だった。「見学してみたいと仰っていたでしょう? 急ではありますが、話を通しておきました」その言葉通り、店に着くと、白い扉の前にはパティシエと数人のスタッフが整列して出迎えていた。営業中ではないようで、周囲に客の姿はない。貸し切りのような静けさに、ひかりは思わず背筋を正し、深く頭を下げた。案内された厨房には、見たことのない器具が整然と並び、隅々まで磨き抜かれていた。フランスから招かれたというパティシエが、片言の日本語と通訳を交えて、ひとつひとつ丁寧に解説をしてくれる。「このオーブンは、熱の巡りが非常に均一で……」「紅茶は毎月、ロンドンから空輸しております。鮮度が命ですから」ひかりは、喫茶店「香蘭堂」での経験を思い返しながら、熱心にメモを取った。器具や素材の話が、他人事ではなく、どこか懐かしく胸に響く。見学を終えたあと、稜真はひかりを店のすぐ隣の洋館へと案内した。「よければ、こちらでひと息つきませんか?」重厚な扉を抜けた先には、外界とは切り離されたような静謐な空間が広がっていた。古風な装飾と西洋の調度に彩られた室内。窓の外には花咲く庭園、その向こうに遠く海が光っていた。「素敵ですね……」うっとりと呟くひかりの目に映るのは、陽光にきらめく庭と、瀟洒な洋館の佇まい。「元は、明治の終わり頃に外国から移り住んできた菓子職人が建てた館だそうです。祖国の味をそのまま日本に伝えようと、材料も器具も一から取り寄せて
Last Updated: 2025-07-04
Chapter: 第十七話 私の場所数日が過ぎても、ひかりと玲一郎の間の距離は埋まらなかった。言葉を交わさぬまま、時間だけが過ぎていく。伯爵邸で働く使用人たちも、その空気を感じ取っているのか、ひかりに向ける視線はどこか遠慮がちだった。(このままじゃ、駄目……)今日こそは、ゆっくり話をしよう。そう思い立った矢先――「しばらく、基地に詰めることになった。戻るのは数日後だ」玲一郎の言葉は淡々としていたが、どこか言い淀むような気配があった。玄関まで見送ったひかりは、何か言葉を待っていた。けれど、玲一郎は何も言わず、軍帽をかぶり、振り返ることなく屋敷を出て行った。その背中を、ひかりはただぼんやりと見送るしかなかった。---重たい足取りで部屋に戻り、ひかりは椅子に腰を下ろした。読みかけの本を手に取ってみたものの、ページをめくる指先に力が入らない。物語の世界に入っていけず、内容もまるで頭に入ってこなかった。(……暇だな)大きなため息がひとつこぼれる。(伯爵夫人って、何をするべきなんだろう)格式ある家に嫁いできたけれど、誰からもはっきりと「こうしてほしい」と言われることはない。ただ礼儀正しくしていればいいのか、家の中を取り仕切ればいいのか、それともただ静かにしていればいいのか――答えは見つからなかった。思い出されるのは、両親と過ごした喫茶店の記憶。母と一緒に焼いたスコーン。父が丁寧に淹れていたコーヒー。夏にはみつ豆、冬にはシナモンティー。庶民的だけど、どこか特別な時間を提供する場所だった。けれど、両親を失ってから、香蘭堂はゆるやかに傾いていった。(あの噂がなくても、きっと私の力だけでは……)常連客も離れ、店内には静寂が漂っていた。(私は、ただ両親の背中を追いかけていただけだったのかもしれない)そして、心の奥に湧き上がる別の不安。(契約結婚だって、いつまで続くか分からない)祖父が亡くなったあと、玲一郎が別れを切り出したら?あの丘の上で見かけた、あの女性が――真木伯爵夫人としてこの家に迎えられたら?(そんなの、嫌……)けれど、「離婚しないで」としがみつく自分を想像すると、それもまた情けなくて、恥ずかしくて、嫌だった。---気分を変えたくて、ひかりはそっと部屋を出て裏庭へ向かった。広い庭園の一角にあるバラ園は、初夏の陽射しを受けて、色とりどりの花がゆるや
Last Updated: 2025-07-04