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第3話

Auteur: バナナ
長い旅を経て、私はようやく懐かしい草原に辿り着いた。

牧民の家を借りて、しばらくここで暮らすことにした。

故郷を離れていた時間が長すぎたせいか、この地域の方言はすっかり忘れてしまっていて、聞き取るのも一苦労だった。

幸い、隣に住んでいるのも他の地域から来た人で、ある日道に迷った時、彼が助けてくれた。

翌日、私はお礼にお菓子を作って持っていった。

「千尋さん、これめちゃくちゃ美味しいね。本格的だよ」

江崎蓮(えざき れん)が口いっぱいに頬張りながら、忙しそうに動くリスみたいで、私は思わず笑ってしまった。

話しているうちに、蓮がドキュメンタリー撮影のために来ているカメラマンだと分かった。

その瞬間、胸が少し弾んだ。写真は、私も大好きだから。

蓮は学生のように見えて、全身から青春感が溢れている。

本当なら、私だってまだ二十五歳なのに、この数年間は一真と颯太中心の生活ばかりで、自分がずっと年を重ねたように感じていた。

気持ちを整えるために、時間があれば草原を馬で走ったり、花を摘んで庭に飾ったりする。

質素だけど、ここは私だけの小さな世界で、とても満たされた気持ちになれた。

午後、蓮と山の上でタイムラプスを撮る約束をした。山道は歩いて登らなければならない。

機材を分担して持とうとした私に、蓮は慌てて背中に隠すようにしながら笑った。「千尋さんに重いものを持たせるわけないでしょ。女性に荷物なんて持たせられないよ」

その一言に、私は過去のことを思い出した。

一真と一緒にいた頃、彼はいつも大股で先を歩いて、私は後ろからついていくだけだった。鞄を持って、水を渡して、黙って従うだけ。

颯太も大きくなるにつれて、一真と同じようになった。

時々、一真は私を馬鹿にした。「そんなものもまともに持てないのか?悦子ならこんなことにならない。千尋、お前は本当に使えないな」

颯太まで真似して言った。「ママって、ほんと役に立たないよね」

思い出した途端、視界がじんわり滲んだ。

その変化に気づいたのか、機材をセットし終えた蓮がふと振り向いた。

「千尋さん、この星空、見てごらん。嬉しい時も苦しい時も関係なく、いつだってこうして光って、俺たちを慰めてくれるんだ。

いつかさ、きっとこの星空の下で、生まれ変われるよ」

私は顔を上げ、広い空に流れる天の川を見つめた。蓮の言った「生まれ変われる」という言葉が、胸の奥で何度も響く。

時野家を出て、一真と颯太から離れたこと。それは十五年間で、一番正しい選択だった。

そんなことを考えていた時、不意にスマホが鳴った。

出ると、颯太の詰問するような声が耳に飛び込んでくる。「いつ帰ってくるの?いないと宿題教えてくれる人がいないんだけど。

ママのご飯が食べたくなった。無責任だよ、早く帰ってきて僕の面倒見てよ!」

その当然だと言わんばかりの口調は、火花みたいに私の中の怒りに火をつけた。

私は声を冷たくして、短く言い切った。

「颯太。あなたはもう、蛍さんをママに選んだでしょう。

私はもう戻らないわ」

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