LOGINその夜、芹奈はほとんど眠れなかった。
彰人と付き合い始めた頃のことまで思い出した。
千紘に隠れて会っていた頃は、彰人が自分を選んでくれると思っていた。
千紘さえいなくなれば、もう隠れる必要もない。
そうなれば、彰人と堂々と一緒にいられる。
実際、千紘はいなくなった。
けれど、自分が想像していたようにはならなかった。
今では彰人が何を考えているのか分からない。
彰人も、自分が何を話すのか気にしている。
これでは恋人ではない。
ただ、同じ秘密を抱えているだけだ。
◇
翌朝、彰人からメッセージが届いた。
『昨日は悪かった』
芹奈はしばらく見つめてから、
『うん』
とだけ返した。
すぐに次が届く。
『今日、少し話せない?』
断ろうと思った。
けれど、このまま曖昧にしても
芹奈が店を出てから、彰人はしばらく席を立てなかった。 失敗した。 弁護士なんて言葉を出す必要はなかった。 芹奈が最近おかしいから、頭に浮かんだだけだ。旧端末を手元に残し、自分を疑い、何度も警察の話を気にしていた。 このまま自分から離れれば、誰かに相談するのではないか。 そう考えていたせいで、口から出た。「……くそ」 彰人はスマートフォンを取り出した。『さっきは悪かった』 打って、消す。『変な意味じゃない』 それも消した。 何を書いても、また疑われる気がした。 ◇ 翌日、芹奈はいつも通り出勤してきた。「おはよう」 彰人が声をかけても、「おはよう」 と返すだけだった。 仕事の確認には答える。 ほかの社員とは普通に話している。 彰人だけを避けていた。 昼休みになると、芹奈は鞄を持って一人で外へ出た。 その姿を見て、彰人は思わず呼び止めそうになった。 どこへ行く? 誰と会う? そんなことを聞けば、また同じことになる。 彰人は何も言えなかった。 ◇ 芹奈が戻ってきたのは、昼休みが終わる少し前だった。 彰人は仕事をするふりをしながら、その姿を目で追った。 鞄を置く。 スマートフォンを確認する。 それだけだ。 何もおかしなことはしていない。 なのに気になる。 もし弁護士へ相談したら。 もし警察へ行ったら。 芹奈は何を話すだろう。 自分に呼ばれてあの場所へ行ったこと。 千紘が海へ落ちたとき、そこにいたこと。 そして――。 彰人は考えるのをやめた。 芹奈だっ
翌朝になっても、芹奈は彰人のメッセージに返事をしなかった。『一度だけでいいから、ちゃんと会って話したい』 何度読んでも、彰人が何を話したいのかは分からない。 別れたくないと言うのか。 それとも、あの日のことを誰にも話すなと念を押すのか。 以前なら、前者だと思えただろう。 今は後者を疑ってしまう。 会社でも、彰人は芹奈を追ってきた。 人がいるところでは仕事の話しかしない。 けれど昼休み、廊下で二人きりになると声をかけてきた。「メッセージ見た?」「見た」「じゃあ返事くらいしてくれよ」「何て返せばいいの?」「会って話したい」「この前話したでしょ」「あれじゃ何も話せてない」 芹奈は彰人を見る。「何を話したいの?」「いろいろ」「ここで言えば?」「ここじゃ無理だろ」 その答えだけで、芹奈の警戒が強くなった。「何で?」「会社だからだよ」「恋人同士の話なら、別に少しくらいできるじゃん」「芹奈」 彰人が声を落とした。 その顔を見て、芹奈は確信した。 やはり彰人が話したいのは、別れ話だけではない。「……一度だけだからね」「え?」「今日、仕事終わってから。一度だけ話す。それで終わり」 彰人の表情がわずかに緩んだ。「分かった」 ◇ 二人は以前にも入ったことのある店を選んだ。 人目がある場所なら大丈夫。 芹奈はそう考えていた。 席につくなり、彰人が口を開く。「俺は別れたくない」「どうして?」「どうしてって……好きだからに決まってるだろ」 今度はき
芹奈から返事はなかった。 翌朝になっても、昼になっても既読がつくだけだった。『昨日は言い方が悪かった』『別れたくない』『ちゃんと話したい』 彰人は何度もメッセージを送った。 電話もかけた。 出ない。 会社で話しかけようとしても、芹奈は仕事に必要なことしか答えなかった。「芹奈、今日――」「仕事の話?」「いや」「じゃあ、あとにして」 それだけ言って離れていく。 彰人は追いかけられなかった。 ◇ 数日後。 千紘は仕事で、大規模なビジネス商談会を訪れていた。 広い展示場には企業ブースが並び、あちこちで担当者が名刺を交換している。 佐伯と別れて一人で移動している途中、見覚えのある姿を見つけた。「榊原さん?」 声をかけると、彰人が振り返った。「……雨宮さん」「お久しぶりです」「この前の打ち上げ以来ですね」「そうですね」 仕事で来ているらしく、彰人の首からも来場者用のパスが下がっていた。 少し話しただけで、千紘は気づいた。 彰人は明らかに疲れていた。「榊原さん、顔色悪くないですか?」「え?」「疲れてます?」「ああ……ちょっと寝不足で」「忙しいんですね」「仕事だけじゃないんですけどね」 彰人が苦笑する。 千紘は少しだけ首を傾げた。「何かあったんですか?」「いや、大したことじゃ」 そこで彰人は言葉を切った。 少し迷ってから、逆に聞いてくる。「雨宮さんって、女の人の気持ち分かります?」「私も女ですけど」「あ、そういう意味じゃなくて」
その夜、芹奈はほとんど眠れなかった。 彰人と付き合い始めた頃のことまで思い出した。 千紘に隠れて会っていた頃は、彰人が自分を選んでくれると思っていた。 千紘さえいなくなれば、もう隠れる必要もない。 そうなれば、彰人と堂々と一緒にいられる。 実際、千紘はいなくなった。 けれど、自分が想像していたようにはならなかった。 今では彰人が何を考えているのか分からない。 彰人も、自分が何を話すのか気にしている。 これでは恋人ではない。 ただ、同じ秘密を抱えているだけだ。 ◇ 翌朝、彰人からメッセージが届いた。『昨日は悪かった』 芹奈はしばらく見つめてから、『うん』 とだけ返した。 すぐに次が届く。『今日、少し話せない?』 断ろうと思った。 けれど、このまま曖昧にしても同じことを繰り返すだけだ。『仕事のあとなら』 そう返した。 ◇ 二人が入ったのは、会社から少し離れたカフェだった。 彰人はコーヒーを一口飲んでから、口を開いた。「昨日は本当に悪かった。雨宮さんのこと聞いたのも、別に芹奈を疑ってるわけじゃない」「じゃあ、どうして?」「最近、あの人が千紘のこと気にしてただろ。だから気になってるだけだよ」「私じゃなくて?」「そうだって」 彰人は困ったように笑った。「俺たちまで揉めてどうするんだよ」 その言葉に、芹奈は目を伏せた。 俺たち。 以前なら嬉しかったはずの言葉だった。「彰人」「ん?」「私たち、もう終わりにしない?」 彰人の表情が止まった。「……何?」「別れたい」「何で急
打ち上げの翌日。 芹奈は昨夜のことを何度も思い返していた。『榊原さん、さっきからずっとこっち見てますね』 雨宮凛は笑っていた。 深い意味などなかったのだろう。 実際、あのあとすぐ別の話題になった。 けれど彰人は帰り道で聞いてきた。『雨宮さんと何話してた?』 ただの偶然だと思うには、あまりにもタイミングがよかった。 ◇「昨日、楽しかった?」 昼休み、彰人が何気なく聞いてきた。「何が?」「打ち上げ。結構話してただろ」「誰と?」「みんなと」 芹奈は彰人を見る。「雨宮さんと、じゃなくて?」「……何でそうなるんだよ」「昨日も聞いたから」「別に深い意味ないって」「だったら、もう聞かなくていいじゃん」 彰人の表情がわずかに硬くなった。「何なんだよ、朝から」「何でもない」 芹奈は席を立った。 その背中を彰人が見ているのが分かった。 以前なら、それを気にかけられていると思ったかもしれない。 今は違う。 見張られているようにしか感じなかった。 ◇ 午後になっても、芹奈の苛立ちは消えなかった。 彰人は自分のメッセージを消した。 自分には旧端末の記録を消せと言った。 雨宮凛と何を話したのか何度も確認した。 鞄を持ち歩かなくなったことにも気づいていた。 そして昨日も、自分たちが話しているところをずっと見ていた。 一つ一つなら、たいしたことではない。 けれど並べてみると、違って見えた。 彰人は、自分を信用していない。 それどころか、自分が何をするのか警戒している。 だったら、どうして一緒にいるのだろ
共同プロジェクトが終わってしばらく経った頃、佐伯から声をかけられた。「今度、向こうのチームと軽く飲みに行くことになったんだけど、来る?」「打ち上げですか?」「そんな大げさなものじゃないけどな。最後にちゃんと集まってなかったし」 参加者を聞けば、以前一緒に仕事をしていたメンバーが何人か来るらしい。 その中には、彰人と芹奈の名前もあった。「行きます」 千紘はすぐに答えた。 ◇ 当日は十人ほどが集まった。 仕事の話をする者もいれば、すっかり雑談に移っている者もいる。 千紘は佐伯たちと話していたが、途中で席を移動した芹奈が隣に座った。「雨宮さん、お久しぶりです」「お久しぶりです」 最後に会ってから、それほど時間が経ったわけではない。 けれど芹奈は以前より少し疲れて見えた。 千紘は何も聞かなかった。 代わりに仕事の話をして、最近忙しいのか、そんな当たり障りのない会話を続ける。 しばらくして、千紘はふと視線を感じた。 少し離れた席にいる彰人だった。 こちらを見ている。 千紘と目が合うと、彰人はすぐ隣の男へ顔を向けた。 千紘は何も言わず、芹奈との会話を続けた。 数分後。 また見ている。 今度は千紘ではなく、芹奈の方を。 そこで千紘は、少しだけ笑った。「榊原さん、さっきからずっとこっち見てますね」「え?」 芹奈が振り返る。 彰人と目が合った。 彰人は一瞬動きを止め、それから手元のグラスへ視線を落とした。「……本当だ」「相沢さんのこと、気になるのかな」 千紘は冗談めかして言った。「仲いいんですね」「……どうだろ」 芹奈の返事が少し遅れた。 千紘はそれ以上何も言わなかった。「そういえば、佐伯さんが次の案件で――」 すぐ別の話題へ移る。 芹奈も相槌を打った。 けれど、その後何度か、芹奈は彰人の方を見ていた。 店を出る頃には、芹奈の口数は少なくなっていた。「じゃあ、お疲れさまでした」「お疲れさまです」 千紘は佐伯たちと駅へ向かう。 彰人と芹奈は同じ方向らしく、少し離れたところを歩いていた。 その途中で、彰人が芹奈に何か話しかけているのが見えた。 千紘は足を止めなかった。「雨宮さんと何話してた?」 駅へ向かう途中、彰人が聞いた。 芹奈は横目で彼を見る。「仕事の話とか」「ほか