修の記憶を辿っても、若子が「愛していない」と明言したことは一度もなかった。もっと言えば、「愛している」とも一度も口にしていない。それが、修にとっての謎だった。彼女は本当に愛していないのか、それとも彼の想像に過ぎないのか。彼女との結婚生活が不幸だと勝手に思い込んでしまったのではないか。若子は胸の奥に酸味がこみ上げるような感覚を抱き、修を見上げた。唇の端を上げ、皮肉げな笑みを浮かべる。 「何がしたいの?今さら私にこんなこと聞いて、何を求めてるの?」「お前の本当の気持ちを知りたい。それだけだ」 修は彼女の耳の両脇に手を置き、彼女を自分の腕の中に閉じ込めるように囲んだ。そして彼女に顔を近づけながら低く言う。彼は若子よりずっと背が高く、話しかけるときに自然と顔を少し下げて、彼女との距離を詰める。「だから、今教えてくれ。お前の俺に対する本当の気持ちは何だ?正直な答えが聞きたい」若子は答えない。ただ、沈黙が二人の間に降り注ぐ。修は、若子が考えていることが分からなかった。若子もまた、修の考えが全くわからなかった。彼らはお互いの心の内を理解していない。いや、理解できないと言ったほうが正しいかもしれない。 しかし同時に、二人の間には何かを今すぐにでも打ち破らなければならないという緊張感が漂っていた。それでも、その「何か」を打ち破ることを恐れている。そんな曖昧な状態が続き、次第に誤解が重なっていくばかりだった。「真実を聞きたいの?」若子が静かに問いかける。「もし本当のことを言えば、何かが変わるの?」「言わなければ何も変わらないだろう」修は眉間にシワを寄せたまま、言葉を続ける。「若子、お前は俺に隠し事が多すぎる。もう全部話せ。本当の気持ちでも、俺に隠してきたことでも、全部だ」修自身、若子に関する大事なことを知るタイミングが、いつも自分だけ最後だという現実が悔しかった。それどころか、外野のはずの西也ですら、自分よりも多くのことを知っているのだ。若子は目を伏せ、軽くため息をついた。この男は、自分の本心を知りたがるくせに、決して自分からリスクを冒そうとしない。離婚した後になってから、自分の気持ちを問いただすなんて、滑稽だとしか思えなかった。「いいわ。全部話してあげる。でも、ひとつ条件がある」「条件?」修は、若子を見つめたまま問い
修の両手が彼女の肩を掴む力が徐々に緩み、やがてそっと離れた。「本気で俺に彼女との縁を切らせたいのか?」「それは私が望んでいるかどうかじゃない。ただの条件よ。できるかどうかはあなた次第」彼女の冷静な口調の裏には、自分でも気付かぬほどの揺れが潜んでいる。修がこの条件を飲むとは思えなかった。むしろ、彼の口を封じるために提案したに過ぎない。彼に真実を話して何になる?どうせまた雅子のもとに戻るのだろう。その未来を想像するだけで、若子の胸は鋭く痛んだ。せめて、自分だけが抱えている秘密を最後の砦にしておきたかった。修は伏せたままの目をゆっくりと上げ、目の前の若子をじっと見つめる。その深い眼差しが、彼女の心をかき乱す。 「もし......俺が本当に彼女と縁を切ったら」 修の唇が若子の頬に近づき、熱を帯びた彼の息遣いが彼女の肌をかすめる。 「お前は、俺とやり直すか?」若子の手が無意識に服の裾をぎゅっと握りしめる。彼の吐息の近さに、全身が強張った。彼女はなんとか冷静を装いながら、顔を横に向けて修の視線を避ける。「修、もうやめて」 彼女の声は微かに震えていた。「そんな意味のない質問を繰り返さないで」「どうして意味がないと言える?」修はまっすぐに言い返す。「お前の条件は、俺が雅子と縁を切ることだろ?だったら聞かせてくれ。もし俺がそれを飲んだら、お前は俺と復縁するのか?」修の真剣な声が響くたびに、若子の胸が締め付けられる。彼の真剣さに圧倒され、若子は思わず修を見つめ返した。一体、どういうつもりなの―?彼女が最初に予想していたのは、この条件が修に即座に拒絶されることだった。雅子を手放すなんて、修が考えるわけがない。それどころか、一瞬も迷わずに却下するだろうと。だが、目の前の修の様子は違った。彼は本当にこの条件について考えているようだった。―この人、何を考えているの?若子の心は混乱した。修は本当に自分との復縁を望んでいるのか、それともこれはただの皮肉なのか。若子は唇を噛み締めて、感情を抑えながら口を開く。 「私が聞いた質問、まだ答えてないよね。それなのに今度は私に問い返してくる。こんなふうにぐるぐる回ってばかりで、何一つ答えが出ない。だったら、もう何も言わなくていいから、ここから出して」彼女は修を力いっぱい押した。しかし、修
若子は静かに修を見つめた。この男は、まだ彼女に何を言わせようとしているのだろう?怒りを爆発させて、彼を罵倒し、感情をぶつける姿を期待しているのか?愛していない女性に発狂させることで、男としての優越感を得ようとしているのだろうか?修は壁に置いていた両手を静かに下ろし、一歩後ろに下がった。二人の間には微妙な距離ができ、彼の目には何とも言えない暗い影が宿る。低い声で、彼は口を開いた。「言いたくないことがあるなら、そのまま墓場まで持っていけばいい。お前の言う通り、聞いたところで、結果は変わらないんだろうから」若子の拳が自然と固くなった。心の奥から怒りが沸き上がり、彼女は歯を食いしばった。この男は、まるで彼女を弄ぶように振る舞う。彼の思うままに感情をかき回され、放り出され、そしてまた突き落とされる。彼の無邪気を装った仕草や無関心な態度が、彼女の心をこれでもかと傷つける。それが藤沢修だ。それが彼女が何年も愛し続けてきた男だ。若子の手が勢いよく振り上がり、そして大きな音と共に修の頬を打った。 パシン!音が響いた瞬間、修の顔に痺れるような感覚が広がる。手で軽く頬を押さえ、彼は無表情で若子を見返した。まるで、何事もなかったかのように静かだ。若子の手のひらは痺れ、痛みが走った。まるで心の中の怒りがそのまま掌に宿ったかのように、痛みが収まらない。彼女はその場で叫び出し、修に飛びかかってしまいたい衝動に駆られた。だが、彼女はその感情をぐっと飲み込み、勢いよく洗面所のドアを開けて外へ出た。これ以上ここにいたら、本当に何もかも失いそうだった。彼女のプライドも、最後の一片の理性も。若子はレストランへ戻った。顔には平然とした表情を保ち、何事もなかったかのように振る舞う。だが、心の中ではここに留まることすら苦痛に感じていた。若子は意を決して、光莉の元へ向かい、静かに声をかけた。「お母さん」光莉は若子の顔色が少し青ざめているのに気づいた。先ほど入って行った時と明らかに様子が違う。「どうしたの?」「先に帰りたいです」若子は小声で答えた。「今帰るって?」光莉は驚いたように言った。「まだ食事も終わってないのに」「お母さんはここで食事を続けてください。私は一人で帰ります」若子の声にはいつも以上に強い意志が感じられた。彼女は一刻
修が黙って若子を見つめ続けているのに気づいた光莉は、すっかり苛立っていた。その目には容赦のない光が宿り、厳しい声で怒鳴った。 「何でもいいから早く言いなさい!」本当に、もうイライラする!一方、曜はビクリと体を震わせた。驚いたように光莉を見つめた後、その目にはなぜか感激の色が浮かぶ。まるで憧れのスターを目の前にしたかのようだ。―かっこいい......なんて堂々としてるんだ......内心では彼女に完全に支配され、遊ばれてみたいという邪な欲望が膨らむ。スーツ姿で一見厳格そうな曜だったが、その胸の奥には、こんな低俗でひねくれた思いが潜んでいるとは、誰も思いもしなかった。人間も動物である以上、社会的な道徳や規律があっても、ときには原始的な本能が顔を出す。たとえば、ムチで誰かを打ちたいとか、逆に、誰かに打たれてみたいとか。若子はそんな曜の内心など知るよしもなく、修と光莉を見比べていた。 どうやらこの二人、もう特に関係を深めるための努力を必要としていないらしい。光莉が修を叱りつける様子は、どこからどう見ても普通の母親そのものだった。そこに疎遠さや後ろめたさは感じられない。修もまた、母親に責められてもまったく怒る気配はない。彼はわずかに視線を落とし、長い睫毛が陰を作る。沈んだ表情で口を開いた。 「三日以内に、俺は雅子と結婚する。今、ドレスをオーダーして結婚式の準備を進めている。式には皆に来てもらいたい。もちろん、若子は来なくてもいい。ただ、もし来るならちょうどいい。雅子には付き添いの人が必要だからな」場の空気が一瞬にして凍りついた。重苦しい沈黙が押し寄せ、息苦しささえ感じるほどだった。若子はふいに頭がクラクラしてきた。修が何を言おうと、もう彼女には関係ないはずだった。意識しないようにしなければならないのに、彼の口から出る一言一言が、彼女の心を深く抉る。それは、いつもそうだった。修の言葉を聞き、若子は信じられない気持ちでいっぱいだった。付添人が必要だから、前妻にその役を頼む―これほどの言葉をよくも口にできたものだ。どこまで自分勝手で、どれだけ人の気持ちを踏みにじれるのか。若子は表情すら作れず、呆然としていた。その場で何かを言うこともできず、ただ無力感に苛まれるばかりだった。「お前、正気か?」曜が突然テーブル
光莉はテーブルに両手をつき、十指を組み合わせたまま、柔らかい口調で話し始めた。しかし、その静かな声色とは裏腹に、目の奥には鋭い光が宿っている。「本当に揉め事を避けたいなら、密かに結婚するべきよ。堂々と私たちを式に招待しておいて、前妻に付添人を頼むなんて、あまりにも筋が通らないわ」彼女は元々それほど穏やかな性格ではない。けれど、今の彼女は妙におだやかで、修に対してとても忍耐強く話している。だが、時に海面が静かに見えても、その深海には暗流が渦巻いているものだ。「付添人を引き受けるかどうかは、本人の選択だ。強制はしていない」修の冷淡な返答に、若子は拳をぎゅっと握りしめた。この場にいること自体が耐え難くなり、深く息をついて立ち上がった。「お母さん、すみませんが、私は先に帰ります」光莉は振り返り、彼女に静かに命じた。 「待ちなさい。後で一緒に帰るから」「でも......」「座って」 彼女の指が隣の椅子を示した。若子は眉をひそめた。「座って」彼女はさらに強調して言った。光莉の毅然とした態度を前に、若子は深くため息をついて座り直した。気持ちを落ち着けるため、若子はポケットからスマホを取り出し、西也からの返信を確認した。「若子、時間を作って会いたい」彼女はすぐに返事を打ち込んだ。 「今から私の家に行って。すぐに帰るから、直接暗証番号を入力して入って」返信を送ったものの、西也からはすぐに応答がなく、おそらく忙しいのだろうと思い直した。その時、光莉の冷たい声が耳に飛び込んできた。「修、一つ提案があるわ。私もあなたのお父さんも、藤沢家の誰も桜井のことを認めない。それどころか、外では彼女を公然と『浮気相手』と呼び続けるわ。もちろん、式にも出席して、そこで彼女をぶったたいて、『泥棒猫』だと罵倒してやるのもいいわね。そうすれば彼女もその場でぶっ倒れるんじゃないかしら?」修は眉をひそめ、声を落としながら尋ねた。 「お母さん、本当にそこまで極端なことをしないといけないのか?」光莉はその問いに微笑み、まるで軽くあしらうように返した。「極端?ただ、あなたに『選択肢』を与えているだけよ」その言い方に、修の顔はさらに険しくなった。先ほど彼が言った「選択」という言葉を、光莉はまるで鏡のようにそのまま突き返していた。彼女はこれまで
「昔から母親としての責任を果たしてこなかったことを、ずっと悔いてきたわ。だから、あんたを叱る資格なんてないと思ってる。 でも、今のこの一発は、母親としてではなく若子の母親として―私の娘を守るために打ったものよ」その言葉に若子は目を見開き、鼻がつんとした。胸が温かくなるような、しかし切ない感情が込み上げてきた。 血の繋がりなど一切ないはずの光莉。 その彼女が自分のためにここまで動き、守ろうとしてくれている―それが若子には信じられないほど嬉しかった。自分の愛や結婚がこんなにも惨めに失敗してしまった中で、それでも光莉のような人がそばにいる。 不幸の中にも、小さな幸せがあることを若子は感じていた。一方で、修は唇をわずかに引き上げて、冷笑を浮かべた。 「へえ、なるほどね。さすが母娘、息ピッタリだ。一人ずつ交代で俺に平手打ちか。気分はどう?スッキリした?」その皮肉じみた言葉に光莉の目は細くなり、声が一段と鋭くなった。 「あんた、なんでこんなにまで酷い人間になれたの?」修は肩をすくめながら、ゆっくりと光莉の方へ顔を寄せた。「違うよ、母さん。俺は元々こんな人間さ。ただ、あんたたちがそれに気づかなかっただけだ」その言葉とともに、修は唇をわずかに歪めた。勝者のような笑みだった。「とにかく、雅子との結婚は決まってる。誰もそれを止めることはできない。出席するかしないかはあんたたち次第だ。俺の婚礼は予定通り行われる。それだけの話だ」その冷たい口調は、部屋全体の空気を凍らせた。沈黙が押し寄せ、重苦しい緊張が場を支配する。つまり、彼の目的は、両親を全員呼びつけて、しかも若子が来ることを分かっていながら、こんな場でこんなことを言うのだ。両親を怒らせただけじゃなく、前妻まで侮辱するのだ。光莉は呆然と後退りし、彼に絶望の眼差しを向けた。「やっと機会を作ったってのに、こんな仕打ちをするのね」光莉の声は低く震えていた。「もういい。次のチャンスはないわ。もうあんたのために何かしてあげようなんて思わない」修は一瞬たりとも動揺する素振りを見せず、冷たく言い放つ。「俺にはチャンスも助けも必要ない」「そう?じゃあ、お酒を飲んで酔っぱらったときに言ったこと、全部忘れたの?」その言葉には、明らかに失望と苛立ちが込められていた。あの時、彼は酒に酔って、まるで哀れな子
時間は8時間前にさかのぼる。午前10時。修はまだ光莉の家でソファに横になり、重たい眠りの中にいた。ゆっくりと目を開けると、頭が割れるような痛みに襲われる。毛布が体にぐるぐる巻きにされており、解けないように紐で固定されているのに気づいた。「何だこれ......」修は困惑しながら自分の体を見下ろし、周囲の様子を確認する。見知らぬリビングだったが、ここが光莉の家だとすぐに分かった。前夜の記憶が波のように押し寄せてくる。彼は酔った勢いで夜中に母親を訪ね、まるで幼い子供のように泣きついていた―自分は傷つけられたと愚痴をこぼし、母親に慰めを求めていたのだ。修は自分の額を叩き、顔を覆うようにして呻く。「最悪だ……」毛布と紐を解き捨てると、そのまま浴室へふらふらと向かった。顔を洗い、口をゆすぎ、少しだけ頭がすっきりしたところで、携帯を探し始めた。ソファの端に落ちていた携帯を拾い上げ、画面を点けると、いくつもの着信履歴が病院から残されているのに気づいた。多分、あまりにも深く眠っていたせいで、着信音を聞こえなかった。彼は不吉な予感に襲われながらも、すぐに掛け直した。「もしもし?どうしました?」電話の向こうから話が伝えられると、修の表情はみるみるうちに変わる。「…なんだって?分かった。すぐ行く」修はその場を飛び出し、急いで病院に向かった。雅子の容態が急変していた。夜中に感染症を起こし、白血球の異常増加が確認された。医師たちが何とか白血球の数値を抑えたものの、彼女の内臓機能は急速に悪化しているという。感染の原因は今のところ特定できていなかった。これまで適切な看護が続けば、雅子は心臓移植を待つ時間があると言われていた。だが、今や彼女の体調は急速に悪化し、1週間以内に手術を行わなければ命が危ないと医師たちは告げた。雅子の名前は移植リストの最優先に登録されているが、適合する心臓は依然見つかっていなかった。修はこれまで、まだ時間があると思っていた。しかし、今彼の目の前にあるのは、避けられない現実だ。雅子は病室のベッドに横たわり、見るからに衰弱していた。修がベッドのそばに立つと、彼女は力なく顔を横に向け、目を逸らした。修はベッドの脇に腰を下ろし、静かに声をかけた。 「雅子、ごめん。この数日忙しくて、来られなか
修は光莉との通話を切る前に反論しようとしたが、ふと何かを思い出したように雅子を一瞥し、目に一瞬の迷いを見せた後、「分かった、今夜会う」と冷静に答えた。光莉は少し間を置き、「それでいいわ。忘れないで。昨夜酔っ払って言ったこと、ちゃんと考えて。私はあんたのために言ってるのよ。これ以上取り返しのつかない間違いをしないでね」と念を押し、電話を切る準備をしていた。彼女は内心で呟いた。「もし彼が私の息子じゃなかったら、何も言わずに放っておく。でも親だから、教えなきゃいけないのよ。馬鹿なままではいけないって」その直前に修が口を開いた。 「そうだ、母さん。昨夜、俺の携帯から雅子にあんなメッセージを送るべきじゃなかった」人のスマホを勝手に使うべきじゃないと分かっていたが、光莉は一瞬も躊躇せずに答えた。 「送ったわ。それがどうしたの?」修は深く息を吐き出し、疲れたように言った。「あのメッセージには意味がないよ、母さん」「意味がないって分かってるなら、わざわざ聞かないことね」「ただ、雅子に知らせたかったんだ。あれは俺が送ったものじゃないって。俺はそんな内容を送るはずがない」「じゃあ、何を送るつもりだったの?愛の告白でも?」修は短く「母さん、もういい。説明したから。今は雅子に付き添わなきゃいけない」と言い、通話を切った。彼はこれ以上話を続けると雅子が不機嫌になることを恐れていた。彼女の身体はこれ以上のストレスに耐えられる状態ではなかったからだ。電話を切ると、彼はすぐに携帯の設定を開き、雅子の番号がブロックされているのを確認して解除した。修は雅子の方を向き、落ち着いた声で言った。「雅子、聞いてたと思うけど、あのメッセージは俺が送ったものじゃない。母さんが勝手に送ったんだ。もう彼女にはっきり伝えたから」雅子は少し安心したように見えたが、昨夜修が酔った勢いで若子に電話をかけようとしたことを思い出すと、顔に影が落ちた。「でも、今夜彼女に会うって言ったわよね?元妻とまた会うつもりなんでしょ。どうせ私なんてどうでもいいんでしょ。それならもういっそ、この管を全部抜いて、私を楽にしてよ!」「俺はお前と結婚するよ」雅子が戸惑い、動揺している間に、修は決意に満ちた声で続けた。 「今日から結婚式の準備を始める」修は電話を取り出し、短く指示を出した。
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声