LOGIN「醜い傷だらけの体を見られる心配もなくて良かったわね。どうせ一瞬で噛み殺されるのだから。せいぜい上手に死んでちょうだい」 利用価値のないものを処分するための、合理的な手段だろうか。呪われた能力を持って生まれたセラは、姉の身代わりに、婚約者として魔獣の住む宮へと送り出される。 過酷な生活がはじまる。 ――かと思われたが、地下室育ちの無垢な令嬢に翻弄される魔獣。 呪いを受けて魔獣の姿となり王都から離れた宮にとじこもる第一王子の、どうやっても婚約者に勝てない生活が始まってしまう。 「可愛すぎて……困る」 「セラ、その可愛いのは、わたし以外には禁止だ」 傷だらけのふたりが互いを救い、溺愛し合うシンデレラストーリー。
View More世界のほとんどすべては、薄暗い地下室だった。
むき出しの石組の床に、絨毯は敷かれておらず、容赦なく足元を冷やす。自分の背よりもはるかに高い場所に、鉄格子がはめられただけの小さな窓があり、そこから入るわずかな光が、唯一頼りにできる灯りだった。地下室の扉は、外からかたく封じられ、自由にその扉をひらくことは許されていない。
石造りの壁から、湿った冷気が染み出し、セラの肌を容赦なく刺した。
セラは、両の手をこすりあわせ、小さな古いテーブルの上にのせられた、今日の食事を見つめた。与えられるのは、わずかばかりの痛んだ食事を日に一度だけだ。
「まだ、食べちゃだめよ。夜まで待ちましょう。そうしないと、空腹と寒さで眠れなくなるから」
セラは、粗末なぼろ布のような衣服を、身体に引き寄せるようにして、震えながら、ひとりで話した。ここには、話し相手はいない。ずいぶん昔から、そうだから、ひとりで話すことが、セラにとって少しのなぐさめだった。
セラは、ローゼンタール伯爵家の次女として生まれた。
もう、何年、ここにいるのだろう。
長くは生かされないかもしれないと思っていた。だが、セラの手足は、しなやかに伸び、身体はひどく痩せてはいても、しっかりと女らしい形に育った。
地下室に入るきっかけとなった五歳のころの記憶を、はっきりと覚えている。
何度も、何度も、思い出したから。
あたたかな日常が失われたあの日が、またセラの心によみがえる。
「化け物!」
あの日、姉のオディールは、恐怖に顔をひきつらせ、まっすぐセラを見つめて、はっきりとそう叫んだ。
オディールの指先から放たれる薔薇色の魔力は、幼いセラの目が眩むほどに美しかった。五歳のセラは、ほんの少し、その輝きに触れてみたかった。
ほんの少し、姉の指先にふれた。
瞬間。
部屋を満たしていた薔薇色に輝く光の粒子が、霧が消えるようにセラの掌へと吸い込まれていった。
オディールの顔から、一瞬で血の気が引いたのを見た瞬間、セラは、これはいけないことなんだと自覚した。
姉の体から魔力の気配が完全に消失したと、なぜか分かった
悲鳴すら上がらない静寂の中で、駆けつけた母親がセラを激しく突き飛ばした。
それが、地獄の始まりだった。
王族や貴族の権力は魔力の強さに直結している。強大な魔力を持つ者には、恵まれた官職や肥沃な領地が優先して割り当てられるほど。
セラの生家である伯爵家は、その歴史において強力な魔力を保有し続けてきた名門だ。現在の権力と地位を守るためにも、一族の血統は常に純粋で、かつ強大でなければならない。
その高貴な系譜の中で生まれたセラの特異性は、伯爵家にとって致命的なものだった。
他者の力を無に帰す、化け物。
セラの肉体は、触れた対象が発現している魔力をすべて吸い尽くし、無に帰してしまう。ただ、それは、人が持つ魔力を、根こそぎ奪うというものではなかった。幸いにも、姉のオディールがセラに奪われたのは、当時、練習していた魔法を発現させるための、一時的な力のみ。能力に影響は見られず、オディールはその後も、見事に高い魔力を成長させていった。
そうであっても、セラがもつ特異な能力は「他者の力を奪う不吉な呪い」として扱われることになった。
魔法という、王国を守るための特別な力を、奪い去り無に帰す、忌むべき呪い。
呪われた子。
それが、セラに与えられた、伯爵家のお荷物としての立場だった。呪われた子の居場所は光の届かない屋敷の地下室になった。
地下室での監禁は、長い時間をかけて、セラから家族への愛情や希望をすべて取り去ってしまった。
母親は「王国を脅かす呪いを調教する」という大義名分を掲げ、セラに鞭を振るう。教育という言葉で飾られた暴力は、幼いセラの肌を無慈悲に裂いた。
姉のオディールもまた、存在してはいけない呪いの子に、立場を教えるためにと地下室を訪れる。言葉の刃で尊厳を切り裂き、時に魔力を用いた体罰をセラに与えた。
母親と姉の行いは、年月を重ねるごとに、ただの罰から、彼女たちの楽しみへと変化したようにも、セラには見えた。
いまや、セラの体には無数の傷痕が深く刻まれている。
セラは絶望の中で沈黙を貫いた。反論すれば、さらなる暴力が降りかかると、身をもって知ったからだ。感情を殺し、言葉を捨て、ただ運命を受け入れる人形となること。それが、この小さな地下室で己の心を保つための唯一の術だった。
何度目か分からない。
自分を慰めるためか、あきらめか、それとも悲しみをまぎらわせるためか、セラの飢えた口先から、しずかにため息が吐き出される。
「あら、だめね。吐き出す息も、暖かいのだから。ただ、吐くだけじゃもったいないわ」
セラは、気を紛らわせるためにひとり話し、ふるえた息を指先に吹きかけた。
迷宮のような庭園から、カイルの案内に従って歩みを進めると、やがて木々の隙間から花やかなお茶会の賑わいが再び姿を現した。 会場の近くまで戻ってきたところで、カイルは足を止めることなく、そのままセラを残して立ち去ろうとした。セラが「案内してくださり、ありがとうございました」と礼を言うと、背後から甲高い声がひびく。「——まあ! これは一体どういうことです!」 振り向くと、すぐそこに姉のオディールの姿があった。 豪華なドレスの裾をもちあげ、こちらに近づいてくる。彼女は扇を握りしめ、責めるような瞳でセラとカイルを交互に見つめていた。忌々しそうな声が、セラに向けられる。「セラ、あなたは、慎みというものがないのね! ジェイド殿下というお方がいながら、わたくしの婚約者であるカイル様にまで色目を使うだなんて。浅ましく、はしたない行いを恥じるべきよ!」 まくし立てるオディールの顔は、激しい怒りと侮蔑に歪んでいた。 言いがかりにセラが口を開く間もなく、オディールはカイルの元へとすり寄り、その腕に甘えるように自身の身体を押し当てた。「カイル様、一体妹があなたになにを言ったのか、おそろしくて聞けもいたしません。あなたを想うわたくしの気持ちを、お分かりくださいませ。まさか、なにか不愉快な思いでもさせられてはいないかと心配でございます」 オディールは上目遣いでカイルを見上げ、甘い声でそう言った。 しかし、カイルの反応は冷淡そのものだった。「……鬱陶しい」 カイルは底冷えする声で吐き捨てると、自分の腕にあるオディールの手を容赦なく振り払った。 想像したまんまの反応で、セラはちょ
山積みの公務を一通り片付けた後、ジェイドは、王都の視察という名目で王宮を後にした。 名目は視察だが、本当の目的は別にある。 王宮を出て間もなく、あらかじめ用意していた影武者を豪華な馬車に乗せ、表向きの目的地である貴族街へと向かわせた。その間にジェイドは、最小限の供のみを従えて、賑やかな大通りを避けるようにして暗い裏路地へと滑り込んだ。 向かう先は、王都の外縁に位置する寂れた街のはずれだ。「……つけてきている者はいるか?」 外套のフードを深く被り直しながら、ジェイドはすこし後ろを歩く部下に低く問いかけた。「いいえ、殿下。わたしの探知にかかる者はおりません」「わたしの探知にも反応はありません。尾行はないようです」 即座に返ってきた二人の声に、ジェイドは短く「そうか」と頷いた。 彼らはジェイドが率いる騎士団の中でも、隠密行動と魔力感知に卓越した技能を持つ精鋭たちだ。彼らが広範囲に展開する魔力の網の内側に、一定以上同じ魔力痕跡を持つ者が留まり続ければ、追跡者が潜んでいる証となる。 今回は、あやしい追手はいないようだ。 入り組んだ裏路地を抜け、辿り着いたのは、古びた工場の跡地だった。打ち捨てられた建造物。雑草があちこちに生え、屋根の上にまで緑を茂らせている。 ジェイドは建物の周囲に数人の部下を見張りとして配置してから、古い工場の軋む重い扉を押し開き、奥の暗がりへと足を踏み入れた。 静まり返った工場内で待機していた別動隊が、ジェイドの姿を認めるなり一礼する。「見つかったか?」「はい、殿下。こちら
腕を掴むキャンディの強い力と、胸元から漂う甘く官能的な香水の香りに、セラの心は少しずつ、おそろしい気持ちで冷えていった。 けれど、怯えてばかりではいられない。 セラは意を決して、彼の不思議な紫がかった碧い瞳を見つめ返した。「……キャンディ。先ほどの方が王妃様のお気に入りとおっしゃいましたが、あの方のお名前をご存じですか?」 この状況から逃れ出たいのは山々だったが、ジェイドの力になるための情報を、ここで引き出せるかもしれない。 問いかけを受けたキャンディは、一瞬意外そうに瞬きをした。 だが、すぐに面白がるような笑みを口元に浮かべる。「そんなに、あいつが気になるの? あいつの名前かぁ。うーん、どうしようかな〜。教えちゃおうかな、それとも秘密にしようかな〜」 キャンディはセラの困惑を煽るように歌うような口調で言い、指先でセラの袖口を軽くなぞった。「教えてほしかったら、ぼくともっと遊んでくれないとね」 ……だめだわ。 簡単には教えてくれそうにない気がする。 意地悪くはぐらかすキャンディの態度に、セラは思い直した。キャンディから聞き出すのは時間がかかりそうなうえに、このままではお茶会をはなれたまま時間がたちすぎてしまう。 あの男の名前なら、お茶会の会場に戻って他の誰かに尋ねるか、あるいはリタたちに調べてもらうこともできるはずだ。 これ以上、人目のない場所に留まるほうが良くない気がする。 セラは、掴まれた腕を反対の手で強く押し払おうとした。「手を離して——」「おや、乱
腕を掴まれた衝撃に、セラは息を呑んで勢いよく振り返った。 恐怖に胸を押し潰されそうになりながら見上げた先にいたのは、しかし、セラが追っていたあの荒々しい口髭の男ではなかった。 光を反射する金茶の髪に、甘い笑みをたたえた碧の瞳は、光の加減で紫がかっても見える。そこに立っていたのは、爽やかで華のある顔立ちをした、一人の若い男だった。「キャンディ……?」「やあ、かわいいセラ姫、ひさしぶり。こんなところで会えるなんて、ぼくたち運命的だね」 親しげに語りかけてきたのは、かつて黒曜宮のあるジェイドの所領を巡った際、立ち寄った宿屋で見知った吟遊詩人のキャンディだった。「まあ……お久しぶりです」「ひさしぶり~。また会えてすごく嬉しいよ」 そう言って、キャンディは掴んだ腕を放すどころか、ますます身を乗り出すようにして距離を詰めてくる。その押しの強さに、セラは思わず体を縮こまらせてたじろいだ。こんな距離感で話しかけられた経験はない。一体、どのような態度でいればいいのか分からなくなってしまう。「ねえ、さっきのあの男が気に入ったの?」 キャンディはセラが追っていた方向を顎でしゃくると、唐突にそう尋ねてきた。セラは慌てて言葉を濁す。「え、ええ、まあ、その……」「ふうん。ああいうのが好み?」「……」 本当の理由を言えるはずもなくセラが黙り込んでいると、キャンディはくすりと笑い、どこか忠告するような口調で言った。「あの男には手を出