こうして、光莉と曜は出会った。 もしあのとき、彼が助けてくれなかったら― 彼女はあの不良たちに、取り返しのつかないことをされていたかもしれない。 当時の曜は二十代半ば。 端正な顔立ちに、堂々とした振る舞い。 自信に満ち溢れ、どこか余裕のある態度が、彼の魅力を際立たせていた。 彼はユーモアがあり、話すたびに彼女を笑わせた。 そしていつの間にか―光莉は彼に惹かれていった。 彼は、彼女の心の傷を癒し、新たな世界へと導いてくれた。 二人は良き友となり、彼女が困ったときには、必ず彼が助けてくれた。 曜の母、石田華もまた、光莉を気に入り、よく話をするようになった。 やがて、光莉の過去も知ることとなる。 ―かつて子どもを産んだことがあるが、その子は亡くなった、と。 だが、それでも華は、彼女を息子の妻にと望んだ。 曜はまだ未熟なところが多く、結婚によって落ち着くだろうと考えたのだ。 そして、光莉もまた、彼に心を寄せていた。 彼女は、華にこう伝えた。 「もし曜が望むなら、私は異論ありません」 藤沢家は、彼女の過去を受け入れてくれる。 結婚後も、きっと温かく迎えてくれるはず― そう思っていた。 だが、それは彼女の浅はかな考えだった。 当時の光莉は、まだ若かった。 恋愛に夢を見ていた。 そして― 高峯に深く傷つけられた後、曜が救いとなった。 彼が彼女を新たな世界へ導いてくれたことに、心から感謝していた。 だからこそ、彼を愛し、結婚したいと願った。 たとえ、交際期間が短くても― たとえ、突然の結婚でも― 彼が受け入れてくれるなら、それでよかった。 そして、曜も彼女との結婚に同意した。 光莉は、大学を卒業する前に、彼の妻となった。 だが― 結婚後、彼女は思い知らされることになる。 曜は、最初から彼女を妻にしたいと思ってはいなかったのだ。 彼には、すでに愛する女性がいた。 だが、華がその女性を認めず、二人の交際を猛反対した。 結果として、曜は仕方なく別れることとなった。 彼は、そのことに強い不満を抱いていた。 だからこそ、光莉との結婚は― 彼にとって、ただの「母親に押しつけられたもの」に過ぎなかった。 そして、その日から。
これらの問いが、一つひとつ光莉の心を深く刺した。 修にどう説明すればいいのか分からず、彼女はただ避けることしかできなかった。 そうしているうちに、修は母親から受けるべき愛情を失った。 ましてや、父親からの愛情など最初からなかった。 修は、とても可哀想な子だった。 ―いや、それだけじゃない。 光莉の二人の息子は、どちらも同じように不幸だった。 彼女は十年間、曜の浮気を目の当たりにしながら耐え続けた。 その間、何度も離婚を考えたが、さまざまな理由で実現できなかった。 やがて、曜がすべてを失い、財産を持たずに家を出ることになり、愛人も姿を消した。 そのときになってようやく、高峯は自分が騙されていたことに気づき、突然改心したかのように家族のもとへ戻ろうとした。 しかし― 光莉の心は、すでに死んでいた。 彼女は離婚を強く望んだが、曜は断固としてそれを拒んだ。 彼は執拗に彼女に付きまとい、安寧を奪った。 挙句の果てには、こうまで言い放った。 「たとえ離婚しても、俺はお前を諦めない」 それを聞いた光莉は、もう疲れ果ててしまった。 ―離婚できないなら、それでいい。 けれど、彼とはもう別々の人生を歩む。 ―同じ家には住まない。 それから十年の歳月が経ち、ようやく曜は自分の過ちを悟った。 自分がどれほど妻を傷つけ、息子を苦しめてきたのかを― 彼は償いたいと言った。 だが―どうやって? 十年もの間、彼女を痛めつけたのに。 十年の苦しみは、十年の償いで帳消しにできるようなものではない。 これは、単なる計算ではない。 誤って足を踏んだ相手に「ごめん」と言えば済む話ではないのだ。 それは、骨の髄まで刻まれた、意図的な「傷」だった。 修は父親からの愛を受けられず、 光莉も夫からの愛を受けられなかった。 家庭は崩壊し、バラバラになってしまった。 そんな状況で、曜がいくら謝罪し、どれだけ反省したところで― それで全てが許されるわけがなかった。 光莉は、高峯を許さない。 そして― 曜のことも、決して許すつもりはなかった。 だが、彼女は分かっていた。 ―自分もまた、二人の息子を傷つけてしまったのだと。 確かに、子どもたちの父親はどちらも問題のある
「どうしました?何か問題でも?」外の男が声をかけた。光莉は、「すみません、エンジンがかからなくて......」と答えた。相手はどうやら、あの防弾車の運転手のようだった。彼は少し苛立った様子で後ろを振り返り、上司の車を確認すると、再び光莉へと向き直った。「ちょっと見てみます。鍵を貸してください」防弾車を運転する以上、普通の人物ではないことは明らかだった。光莉は特に疑うこともなく、バッグを手に持ち、車を降りて鍵を差し出した。ちょうどそのとき―防弾車の窓が静かに下がった。「茅野、どうした?」低く落ち着いた男の声が響いた。茅野はすぐさま前に進み、恭しく答えた。「村崎様、あの車が急に動かなくなりまして......すぐに確認して、どかします」村崎成之は、一瞥するように車を見た後、その視線を光莉へと移した。彼女もまた、彼を認識し、驚いたように目を見開いた。「伊藤社長、これは奇遇ですね」成之は、穏やかに微笑んだ。光莉は一歩前へ進み、軽く会釈する。「まさかここで村崎さんにお会いするとは......」光莉は銀行の支店長として、これまで多くの上流社会の場に出席し、さまざまな有力者たちと関わってきた。成之とも、一度言葉を交わしたことがある。しかし、それはほんの数回の会話程度。それ以上の関係にはならなかった。―成之のような立場の人間と関係を築くには、相手の意思が何よりも重要だった。その後、二人は一度も会う機会がなく、気づけば一年以上が経っていた。それにもかかわらず、彼はまだ自分のことを覚えていたのだ。成之は少し顔を上げると、彼女の瞳を見た。―目の縁が赤い。―うっすらと涙の跡が残っている。「何かあったのですか?」彼はそう尋ねた。―いや、本当はこう聞きたかった。「なぜ泣いていたのか?」だが、光莉は彼の意図を察することなく、車の方を示しながら答えた。「車が動かなくなってしまいまして......」「そうですか?」車が動かないからといって、涙を流すほど落ち込むものだろうか?―いや、それはありえない。彼女は意図的に質問をすり替えたのか、それとも単純に誤解したのか―いずれにせよ、彼はそれ以上深くは追及しなかった。そのとき、茅野が口を開いた。「すぐに車の状態を確認してきます」「頼む」成之が軽く頷くと、茅野はすぐに光莉の車
ただ、彼女には、どうしても消えない哀しみがまとわりついていた。最初に彼女を見たときから、そう感じていた。だが、普段からさまざまな場に出席し、多くの人と関わる中で、彼女の存在も記憶の片隅に埋もれていった。それが今日、こうして再び目の前に現れたことで、ふとあのときの印象がよみがえったのだ。「あなたは藤沢修の母親であり、つまり若子の元姑ですよね?今日は、彼女のお見舞いに?」光莉は一瞬動揺し、疑問の色を浮かべた。「......どうして、それを?」「以前、若子と話したときに聞きました。それに、私は西也の叔父です」光莉は驚いたように目を見開いた。―今日初めて知った。西也の叔父が、成之だったなんて。ということは、高峯と結婚した女性は、彼の姉か妹ということになる。なるほど、そういうことか。高峯があの時、あれほど執着してその女性を妻に迎えた理由が分かった。こんな強大なバックグラウンドがあれば、誰だって抗えない。「では、今日は若子に会いに?」もし、彼が病院で西也の顔を見ていたら―その怪我の原因を知っていたら―彼女に対して何か報復を考えているのではないか?成之ほどの地位がある人間が本気で動けば、自分の銀行支店長の座など、一瞬で吹き飛ぶかもしれない。だが、それ以上に―彼女が本当に怖れているのは、西也の憎しみだった。彼に恨まれること、それが何よりも恐ろしかった。それでも―彼に「母親」だとは言えない。もし今、打ち明けたとして―彼はどれほど彼女を憎むことだろう?自分を捨てた母親が、ようやく会えたと思ったら―見下し、罵り、挙句の果てには手をあげるような人間だったと知れば?―想像するだけで、胸が締め付けられた。気づけば、また一筋の涙が頬を伝っていた。それを見た成之は、静かに「......うん」と短く声を漏らした。「ええ、しばらく会えていなかったので。最近ずっと忙しかったんですが、今日はようやく時間が取れたので」「......あなたは若子を大切にされているのですね」彼女は、意外だった。彼ほどの立場の人が、わざわざ甥の妻のために病院へ足を運ぶとは―それだけ、彼は西也を大切に思っているのだろう。成之は微笑しながら言った。「若子は、とても良い女性です。彼女が西也の妻である以上、私にとっても大切な家族ですよ。実の姪のように思
光莉は振り向き、「何か?」と尋ねた。「電話番号を教えてほしい」光莉は、一瞬驚いたように目を瞬かせた。「あなたは銀行の支店長ですよね。今後、何かと連絡を取る機会もあるでしょう。だから、番号を教えてください」成之の口調は、強要するわけでもなく、かといって単なる提案という雰囲気でもなかった。そこには、自然と拒絶できないような威厳があった。光莉は、これまで数多くの権力者や実力者と関わってきた。中には、女を狙うような下品な者もいれば、権力を振りかざす横暴な者もいた。だが、彼のように落ち着いていて、礼儀正しく、それでいて威厳を持ち合わせている人物には、そうそう出会ったことがない。さらに驚くべきことに―彼は、ただの一般人のように駐車スペースを待っていた。普通の権力者なら、事前に連絡を入れて、すぐに駐車スペースを確保するだろう。だが、彼はそれをせず、他の人と同じように順番を待っていた。光莉はバッグから名刺を取り出し、両手で差し出した。成之は、それを受け取りながら言った。「またいつか連絡します」光莉は礼儀正しく微笑み、そのまま車を降りた。―その直後。ポケットの中のスマホが鳴り響いた。彼女は画面を確認し、発信者の名前を見るなり、眉をひそめた。―高峯からだった。その番号を見るだけで、嫌悪感が込み上げる。彼女はすぐに通話を切った。その様子は、すべて成之の視界に入っていた。彼は、ふと疑問に思う。―一体、誰からの電話だったのか?―彼女が、ここまで露骨に不快そうな表情を浮かべる相手とは?光莉は、自分の車に乗り込むと、すぐにドアを閉めた。だが、再びスマホの着信音が鳴り響く。今度は、画面を見ることなく、そのまま通話を押した。「いい加減にして!しつこいのよ!」彼女の声は怒りに満ちていた。「警察に突き出していないだけでも感謝しなさい。これ以上、私を追い詰める気?」光莉は、警察に通報しなかった。―それは、決して彼を許したからではない。騒ぎを大きくすれば、自分にとっても、そして子どもたちにとっても不利益が生じるからだ。もし警察沙汰にでもなれば、藤沢家が高峯に報復しに行くだろう。そして、双方の対立はさらに激化し、最悪の事態になりかねない。だからこそ、彼女はこの出来事を誰にも言わず、自分の中に閉じ込めることを選んだ。だが―「誰
西也の目に浮かぶ優しさを見て、成之は改めて思った。 ―こいつ、本当に若子を心の底から愛しているんだな。 もし、この二人を引き離すことになったら...... 「叔父さん、若子を見に来たんですか?」 成之は頷く。 「そうだ。お前たちの様子を見に」 そう言いながら、病室の中へ入る。 若子は両手にお粥の器を抱えていたが、成之の姿を見てすぐにテーブルの上に置いた。 「叔父さん、来てくれたんですね」 「体調はどうだ?」 「もうすっかり大丈夫です」若子は微笑みながら答える。「赤ちゃんも元気ですよ。全部、西也のおかげです」 「そうみたいだな」成之は笑いながら言った。「彼の顔を見ればわかるよ」 その言葉に、若子は少し気まずそうに視線を落とした。 「......実は、それ、私のせいでもあるんです」 そう言って、若子は成之に事情を説明した。 成之は話を聞きながら、ふと先ほどのことを思い出す。 光莉と話したとき、彼女の様子がどこか不安定だったのは、西也の顔の傷を見たせいなのか? だが、それだけではない気がする。 光莉と西也には何の関係もないはずだ。もしただ顔を引っ叩いただけなら、彼女があんなに車の中で泣くはずがない。 きっと、別の理由がある...... 「気にしなくていい」成之は軽く頷く。「彼が怒るのも、それだけお前を大切に思っている証拠だよ。体の痛みより、お前のことの方がずっと心配だったんだろう」 その優しい言葉に、若子は改めて感謝の気持ちを抱く。 「ありがとう、叔父さん」 「礼なんていらない。家族なんだから当然だろう」 そう言って、成之は若子の手の甲を軽く叩いた。 とにかく、しっかり体を休めろ」 「はい、わかっています」 成之は若子と少し二人で話したかったが、ここで西也に「ちょっと出ていてもらう」と言うのも不自然だった。 そんな時、スマホの着信音が鳴る。 「もしもし」 「......何?わかった、すぐ向かう」 通話を切ると、成之は立ち上がった。 「ちょっと用事ができた。若子、しっかり休むんだぞ。また来る」 「はい、叔父さん。お仕事頑張ってください」 成之は軽く頷くと、病室を出ようとする。 しかし、その前に、一言だけ付け加えた。 「西也、少し話が
西也は振り向いた瞬間、成之の冷たい声が背後から響いた。 「西也、俺は真剣に言っているんだ。これは相談じゃない。お前は若子と離婚しなければならないんだ」 西也は足を止め、顔に抑えきれない怒りが湧き上がった。 「なんで?」 彼は振り返り、顔を険しくしながら続けた。 「理解できません。父さんですら何も言わないのに、どうして急に俺と若子を引き裂こうとするんですか?」 成之はしばらく黙った後、冷静に答える。 「お前たちは一緒にいるべきじゃないんだ」 「なぜ?」 西也はその理由を聞きたかった。成之が何も言わないのを見て、思わず言葉を続けた。 「叔父さん、もしかして、若子が前夫の子を妊娠していることが気に入らないんですか?」 「違う」 「じゃあ、どうして?」 成之はため息をつき、ゆっくりと切り出す。 「西也、お前、記憶を取り戻したのか?」 その言葉に、西也は拳をぎゅっと握りしめた。手のひらが汗ばんでいる。 「完全には戻っていません、大部分はまだ覚えていません」 成之は半信半疑で聞いていた。 彼が半信半疑でいるのも、西也が自分の甥だからこそ。もし他の人間なら、疑う余地もない。 「西也、離婚はお前たち二人にとっても良いことだ。そうしないと、後で後悔することになる」 「もう十分です!俺と若子はちゃんと話したんです。俺たちが結婚した理由が何であれ、俺が離婚を言い出さない限り、若子は俺と離婚しないって決めたんです。彼女はずっと俺の妻でいたいと言っています」 「なんだと?」成之は前に進み、西也に迫った。 「彼女はずっとお前の妻だって?それを彼女が言ったのか?」 「はい、もし信じられないなら、彼女に確認してみてください。若子は俺がこの世界で最も彼女にとって良い男だって言ってくれました」 西也は心の中で、ようやく辛い時期を乗り越え、希望を感じていた。 でも、その矢先、叔父が突然、彼らを離婚させようとしているなんて、まったく不条理だ。 彼は、適当に相槌を打つことすらしなかった。聞き流すどころか、完全に拒絶するように表情を引き締めた。 彼は理屈を通すことに決めた。 「西也、お前は変わったのか、それとも最初からお前の本当の姿を見誤っていたのか、どっちだ?」 成之は心の中で、もし西也が記憶
曜は、もう我慢できなかった。光莉が突然、離婚したいと言ってきた。そして、彼が何度も電話をかけ、メッセージを送っても、光莉は一切返信しなかった。 仕方なく、彼は自分の母親に頼ることにした。 「母さん、光莉が離婚したいって言うんだ。どうしてこんなことになったのか、わからない。電話もメッセージも無視されてるんだ。助けてくれ」 曜が部屋に入ると、すぐに母親の手を握った。華はその騒がしさに頭を抱えた。 「はいはい、曜、あんたももう三十過ぎでしょ。もう少し落ち着いてくれない?」 「母さん、俺は......」 突然、曜は言葉を失った。 母親が「三十過ぎ」と言った瞬間、彼は自分の耳を疑った。 「母さん、俺の年齢、今なんて言った?」 「自分の年齢もわからないの?まさかまだ三歳だと思ってるの?」華はあきれたように頭を振った。「あんたに何度も言ったでしょ、光莉にはもっと優しくしなさいって。外の女と関わるのをやめなさいって。言うことを聞かないからこんなことになるんじゃない」 「母さん、それはもうずっと前の話だよ」 「ずっと前って、どれくらい前よ?修はまだ十歳でしょ。あんた、この数年、全然父親らしいことしてないじゃない。今更、妻に許してもらおうなんて、そんな簡単にはいかないわよ」 母親のあからさまな嫌悪感を見て、曜は数年前のことを思い出した。 母親はいつも、こうやって自分に厳しかった。 でも、それはもうずっと前のことだ。 それに、母親が言った「修は十歳」って、どういうことだろう? 「母さん、修、今年で十歳って言った?」 華は手を上げ、曜の頭を軽く叩いた。 たとえ息子がどれだけ大きくなっても、母親にとっては子供のままだった。 「自分の息子の年齢もわからなくなったの?曜、言わせてもらうけど、あんた本当にいい加減よ。どうしてそんなに無頓着でいられるの?妻や子どもに対して、もっとちゃんとしなさい。私、本当にあんたにはがっかりしてるわ」 曜は口を開きかけたが、その時、少し離れたところにいた執事が彼に向かって目配せしているのに気づいた。 「母さん、ちょっとトイレに行ってくる」 「はいはい、行ってきなさい。まったく、いくつになっても母親を心配させるんだから」 曜は立ち上がり、執事に連れられて人目のない場所へ移動した
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声