Masuk美香と修一が知り合ったのは、美香が大学の学費のために新聞奨学生をしていた頃にさかのぼる。
東京で珍しく雪が積もった日、美香は初めて修一と言葉を交わした。
その日の早朝、美香はいつもより少し早めに新聞販売店を出て担当する高級住宅街へ向かった。街灯に照らされた新雪をギュッギュッと踏みしめ、荷台に新聞を満載した自転車を押す。
雪は数センチしか積もっていなかったが、自転車に乗るつもりはなかった。配達時には、もうちらほらとしか降っていなかったものの、念のため新聞はビニール袋に入れてある。
『新田』と表札がかかっている大きな家の前まで来て、美香は自転車を停めようとした。だが片足を後輪のスタンドにかけた瞬間、バランスを崩して転倒し、自転車をひっくり返してしまった。
「あっ?!」
自転車の下になった新聞の袋が破れて雪の上に散らばった。すぐに拾い集めたが、ほとんどが濡れてしまっている。
「どうしよう……」
美香は血の気が引いた。
新聞販売店に戻っても、余剰の新聞があるとは限らない。あったとしても、配達時間が遅れてクレームが入るかもしれない。そのうえ、この時間に店番をしているのは、美香に辛辣な店主の奥さんだ。
「ハァ……公衆電話はどこだったかな」
美香がジーンズについた雪をはらって辺りを見回したとき、突然、男性の声が響いた。
「大丈夫ですか?」
声のほうを見れば、新田家のガレージの前に青年が立っている。
「ありがとうございます。大丈夫です」
美香はペコリとお辞儀をしてそのまま自転車を押して行こうとした。
「膝に怪我をしていますよ」
「えっ、あの、たいしたことでは……」
冬の早朝にもかかわらず、美香の顔は熱くなり、言葉が尻すぼみになった。着古したジーンズは転倒の衝撃に耐えられずに破れ、膝を擦りむいてしまっている。
青年は、自転車の荷台に近づいきて一番濡れている新聞紙を抜き取った。
「これ、うちの分としていただくね」
「そんなわけには!」
「大丈夫、父は会社で読めるし、母は新聞なんて読まないから。それより他の新聞はどうするの?」
「店に電話して用意してもらいます。袋が破れていない新聞を配達した後で取りに行けば、なんとか間に合います」
「だいぶ配達が遅れるんじゃない? 僕が取りに行ってあげるよ」
「いえいえ、そんな!」
美香は、顔の前で手をブンブンと振って遠慮した。
「大丈夫だよ。お店って武藤さんちでしょ? あそこの息子が僕の同級生なんだ。おじさん、おばさんのこともよく知っているから、心配しないで」
「あの……それじゃ、携帯を貸していただけませんか? 私、携帯を持ってないんです」
胸をなでおろした美香は、おずおずと青年に頼んだが、彼はなんでもないかのごとく快諾してくれた。
電話口に出た店主の妻は美香に怒り心頭だったが、青年が電話を代わると途端に態度が変わった。
その日の配達は、青年のおかげで大幅遅れを防げた。
*
青年とはこれっきり会わないだろうと美香は思っていたが、新田家に新聞を配達するときに時々遭遇するようになった。彼の素性も、会社を経営している新田家の嫡男・修一と分かった。
おはようの挨拶の後にほんの一言二言しか言葉を交わせなかったが、厳しい生活を送る美香にとって修一との交流はいつしか支えとなった。
ただ、交流すればするほど、修一は美香とは違う世界に住んでいる人なのだと痛感した。
*
あの雪の朝の遭遇から数ヶ月後、美香はいつも通り、修一と一言話した後に別れを告げて配達へ戻ろうとした。
「待って!」
振り返ると、普段冷静沈着な修一が真っ赤な顔をして焦っている。
「きょ、今日、配達が終わってから時間ある?」
火照る顔を自覚しながら、美香は黙って首を縦に振った。
配達の後、美香が指定されたカフェに行くと、『closed』の札がドアにかかっていた。戸惑いながらもドアに手を伸ばすと、いきなりドアが開いた。ドアの向こうから顔を出したのは、修一だった。
「入って。マスターに特別に開けてもらったんだ」
修一と美香が入ってくると、マスターは『ごゆっくりどうぞ』と修一に向かってウィンクをして奥へ引っ込んだ。修一は、途端にあわわと挙動不審になって顔も真っ赤だ。
深呼吸してようやく落ち着いた修一は、美香に座るように勧めた。そして勝手知ったる様子でカウンターの中へ入って冷蔵庫を開けた。
「コーヒーがよければお湯沸かすけど……オレンジジュースでもいい?」
美香にはもちろん異存はなかった。
オレンジジュースをテーブルに置いて座っても、修一はなかなか本題を切り出さなかった。新聞販売店の同級生の話になったり、修一の大学時代の話になったり、違う話をすればするほど、彼の額に汗がにじんだ。
「そ、そう言えば、武藤の奴が……」
何度目かに話題が切り替わった後、美香はテーブルの下でそっと袖をめくって古びた腕時計を見た。
「あの、もうそろそろ帰ります。ジュース、ごちそうさまでした」
「えっ、待って! ちょ、ちょっとだけお願い!」
「あ、はい?!」
修一の慌てふためた様子に美香は戸惑った。
真っ赤な顔をした修一は、何度もスーハーと深呼吸してから大きな声を出した。
「ぼ、僕と付き合ってください!」
「あ、ありがとうございます。でも……考えさせてください」
美香は、赤くなった顔を見られたくなくて下を向いたので、一瞬、顔色をなくした修一の様子は目に入らなかった。
美香と修一が知り合ったのは、美香が大学の学費のために新聞奨学生をしていた頃にさかのぼる。 東京で珍しく雪が積もった日、美香は初めて修一と言葉を交わした。 その日の早朝、美香はいつもより少し早めに新聞販売店を出て担当する高級住宅街へ向かった。街灯に照らされた新雪をギュッギュッと踏みしめ、荷台に新聞を満載した自転車を押す。 雪は数センチしか積もっていなかったが、自転車に乗るつもりはなかった。配達時には、もうちらほらとしか降っていなかったものの、念のため新聞はビニール袋に入れてある。『新田』と表札がかかっている大きな家の前まで来て、美香は自転車を停めようとした。だが片足を後輪のスタンドにかけた瞬間、バランスを崩して転倒し、自転車をひっくり返してしまった。「あっ?!」 自転車の下になった新聞の袋が破れて雪の上に散らばった。すぐに拾い集めたが、ほとんどが濡れてしまっている。「どうしよう……」 美香は血の気が引いた。 新聞販売店に戻っても、余剰の新聞があるとは限らない。あったとしても、配達時間が遅れてクレームが入るかもしれない。そのうえ、この時間に店番をしているのは、美香に辛辣な店主の奥さんだ。「ハァ……公衆電話はどこだったかな」 美香がジーンズについた雪をはらって辺りを見回したとき、突然、男性の声が響いた。「大丈夫ですか?」 声のほうを見れば、新田家のガレージの前に青年が立っている。「ありがとうございます。大丈夫です」 美香はペコリとお辞儀をしてそのまま自転車を押して行こうとした。「膝に怪我をしていますよ」「えっ、あの、たいしたことでは……」 冬の早朝にもかかわらず、美香の顔は熱くなり、言葉が尻すぼみになった。着古したジーンズは転倒の衝撃に耐えられずに破れ、膝を擦りむいてしまっている。 青年は、自転車の荷台に近づいきて一番濡れている新聞紙を抜き取った。「これ、うちの分としていただくね」「そんなわけには!」「大丈夫、父は会社で読めるし、母は新聞なんて読まないから。それより他の新聞はどうするの?」「店に電話して用意してもらいます。袋が破れていない新聞を配達した後で取りに行けば、なんとか間に合います」「だいぶ配達が遅れるんじゃない? 僕が取りに行ってあげるよ」「いえいえ、そんな!」 美香は、顔の前で手をブンブンと振って遠慮した
「ただいま」 玄関の鍵を開けると、新田美香はいつものように暗闇に向かってひとり呟いた。「美香?」「ひっ?!」 突然、廊下の暗がりの中から自分を呼ぶ声が聞こえ、美香は飛び上がった。「なんだ、修一か。帰っていたなら、玄関ぐらい電気つけておいてよ」 声の主が夫と分かり、美香は胸をなでおろした。 暗い廊下の先に目をこらして見ると、ほんの少し開いたドアから漏れる光の前に修一が項垂れて立ち尽くしている。薄暗闇に目が慣れれば、その端正な顔にくっきりと焦燥の色が見えた。「どうしたの?」 美香がそう問いかければ、修一はガバッといきなり土下座して床に額を擦りつけ、美香は面食らった。「ごめん、美香! 許してくれ!」「え?! 何を?!」 まさにそのとき、修一の背後のドアがソロソロと開き、小さい子供が顔をのぞかせておずおずと修一を呼んだ。「パパ、まだぁ?」「パ、パパ?!」「あっ、そ、そのっ、これは……」 美香は、真っ直ぐ立っていられなくなり、ふらついて廊下の壁に手をついた。嘘だと思いたいが、落ち着きのない修一の様子を見れば、最悪の予想はできる。「こ、この子を引き取らなくちゃいけなくなったんだ」「……親戚の子?」 空々しくても一縷の望みを言わずにはいられない。「い、いや……お、俺の……」「え?! 何?! 今、何て言ったの?!」「お、俺の子なんだ……」「誰との子なの?!」「それは……」 修一の言葉は尻すぼみになっていく。彼は廊下の硬い床の上で正座したまま、項垂れた。 廊下の電気はつけたはずなのに、美香の目の前は暗くなっていき、修一の姿が涙でぼやけていった。「どうして?! どうして?! 私だって修一の子供がほしかっ……」 問いかける言葉は、最後には形にならなかった。 結婚したばかりの頃、二人は確かに幸せだった。分かり合えていた。なのに、いつから道を間違えてしまったのだろうか。「うっ、うっうっ……」 美香が嗚咽を漏らしながら玄関のほうへ向かおうとしたそのとき、美香のスカートの裾がクイクイッと引っ張られた。「おばちゃん、かなしいの?」 下を見れば、さっきの子供が美香を見上げながらスカートを掴んでいた。 髪の毛はベタベタでボサボサ、顔も服もなんだか薄汚れているが、よく見れば女の子だ。ガラス玉のように綺麗で無垢な瞳がじっと美香を見つめて