LOGIN新田美香は、毒母のたかりや義両親の猛反対を乗り越えてファミリー企業の跡継ぎの修一と幸せな結婚をした。だが双方の親の仕打ちや不妊治療のストレスから、夫婦関係は次第に危うくなっていく。そんな折に修一に近づく女性・中村葵が現れ、修一の様子に美香は不信を覚える。その結果が修一の連れて来た隠し子だった。美香は子供の不憫な様子に離婚を思いとどまり、修一も悔い改めて美香に愛を乞う。しかし、夫婦の再構築と家族の絆作りを修一の両親や葵が邪魔をし、何度も危機が訪れる。果たして彼らに幸せな未来は来るのか?
View More「ただいま」
玄関の鍵を開けると、新田美香はいつものように暗闇に向かってひとり呟いた。
「美香?」
「ひっ?!」
突然、廊下の暗がりの中から自分を呼ぶ声が聞こえ、美香は飛び上がった。
「なんだ、修一か。帰っていたなら、玄関ぐらい電気つけておいてよ」
声の主が夫と分かり、美香は胸をなでおろした。
暗い廊下の先に目をこらして見ると、ほんの少し開いたドアから漏れる光の前に修一が項垂れて立ち尽くしている。薄暗闇に目が慣れれば、その端正な顔にくっきりと焦燥の色が見えた。
「どうしたの?」
美香がそう問いかければ、修一はガバッといきなり土下座して床に額を擦りつけ、美香は面食らった。
「ごめん、美香! 許してくれ!」
「え?! 何を?!」
まさにそのとき、修一の背後のドアがソロソロと開き、小さい子供が顔をのぞかせておずおずと修一を呼んだ。
「パパ、まだぁ?」
「パ、パパ?!」
「あっ、そ、そのっ、これは……」
美香は、真っ直ぐ立っていられなくなり、ふらついて廊下の壁に手をついた。嘘だと思いたいが、落ち着きのない修一の様子を見れば、最悪の予想はできる。
「こ、この子を引き取らなくちゃいけなくなったんだ」
「……親戚の子?」
空々しくても一縷の望みを言わずにはいられない。
「い、いや……お、俺の……」
「え?! 何?! 今、何て言ったの?!」
「お、俺の子なんだ……」
「誰との子なの?!」
「それは……」
修一の言葉は尻すぼみになっていく。彼は廊下の硬い床の上で正座したまま、項垂れた。
廊下の電気はつけたはずなのに、美香の目の前は暗くなっていき、修一の姿が涙でぼやけていった。
「どうして?! どうして?! 私だって修一の子供がほしかっ……」
問いかける言葉は、最後には形にならなかった。
結婚したばかりの頃、二人は確かに幸せだった。分かり合えていた。なのに、いつから道を間違えてしまったのだろうか。
「うっ、うっうっ……」
美香が嗚咽を漏らしながら玄関のほうへ向かおうとしたそのとき、美香のスカートの裾がクイクイッと引っ張られた。
「おばちゃん、かなしいの?」
下を見れば、さっきの子供が美香を見上げながらスカートを掴んでいた。
髪の毛はベタベタでボサボサ、顔も服もなんだか薄汚れているが、よく見れば女の子だ。ガラス玉のように綺麗で無垢な瞳がじっと美香を見つめている。
「かなしいの、とんでけ、とんでけ~」
修一の口癖が幼い子の口から聞こえ、美香の両方の眼からぶわっと涙があふれた。
それを見た女の子は、『とんでけ』とますます声を張り上げて連呼したが、その合間にぐう~と腹の鳴る音が何度も聞こえた。美香は両目を袖でぐいっとぬぐって女の子に笑顔を向けた。
「お腹すいた?」
「ううん」
女の子はブンブン頭を横に振って否定した。美香は根気よく優しく声をかけ続けた。
「おなか、すいてないかな?」
「す、すいてない! しらない人に食べものもらっちゃダメってパパが言ってたもん!」
その直後にぐぅ~っという音が再び響き渡った。
「ほらぁ、おなかすいてるんだ。おばちゃんと一緒にご飯食べようか」
「美香……いいのか?」
目を見開いた修一は、おずおずと美香に尋ねた。
美香は修一と視線を合わせないまま、無言でダイニングキッチンへ行った。冷蔵庫の中から常備菜を出し、冷凍庫からもご飯も出した。
チンと音がして電子レンジからご飯を出すと、ホカホカと茶碗から湯気が立ち、辺りにご飯の匂いが漂う。
その匂いに誘われて女の子もダイニングキッチンにふらふらと入って来た。指をくわえて美香の食べているものをじーっと凝視している。
「一緒に食べようか。ほら、どうぞ」
美香がもう一個のご飯茶碗と箸を差し出すと、女の子は一瞬とまどう様子を見せたが、結局ご飯茶碗をひったくった。掴み切れなかった箸はカランカランと音をたてて床に落ちる。それには全く見向きもせず、女の子は茶碗の中に手を突っ込み、ご飯をグチャッと手づかみにして頬張った。
この日から美香は思いがけずに母親の役割を担うことになった。
スナック唯一の従業員・アリスが早上がりした後、厚子はブランデーをグラスにドバドバ注ぎながら、隣に座る修一に横柄に訊いた。「で、何の用? 美香の十倍仕送りしてくれるとでも言うの?」「……ゴホゴホゴホッ!」 グラスに口をつけていた修一は、盛大にむせた。「ち、違います! 美香さんとかかわるのを今後一切やめてほしいと頼みに来たんです!」「へぇ~、母と娘を引き離そうって大層なお願いかぁ。タダでとは言わないわよね?」「これでお願いします」 罵りたい気持ちを必死に抑え、修一はジャケットの内ポケットから厚みのある封筒を出した。 その封筒をひったくって中身を見た厚子は、すぅーっと深くタバコを吸ってから、はぁーっと修一の顔に煙を吹きかけた。「ブハッ! な、何をするんですか!」「新田ホールディングスの副社長って意外とシケてるんだね。それとも私をコケにしてる?」 封筒をピラピラさせながら、厚子はあざけわらった。「失礼ですね。急ぎだったから、とりあえずですよ」 眉間に皺を寄せた修一はそう答えたものの、次から次へと要求額を渡せば、きりがなくなるのは分かりきっている。「へぇ、とりあえずねぇ。たった三百万で母娘の絆を断ち切ろうってわけ? 安すぎるね!」「実の娘が大切なら、どうして美香からお金をむしり取るのですか?!」 怒りのあまり、修一は厚子に食って掛かった。「『むしり取る』なんて人聞きが悪いね! 私だってねぇ、本当は娘に援助してもらいたくはないんですよ。でもこの店を見てどう思いますか?」 取ってつけたように厚子は神妙な顔をして同情を誘う。 カウンターも椅子もテーブルも照明も、何もかもくたびれていて、ひと昔前の古びた内装が薄暗い照明の中でも目につく。それに修一が来店した時に客は誰もいなかった。でも、修一だってそんな本音をズバリ言えるはずはない。「まぁ、ちょっと……でも雇われママさんなら、多少はお客さんが少なくても大丈夫ですよね?」「ハァ……オーナーは、もうずっと店を閉めたいって言ってるんだけど、私の給料はいらないからって頼んでなんとか続けさせてもらっているの」 不遜な態度はすっかり鳴りを潜め、打ちひしがれたように厚子はため息をつく。「じゃあ、転職とか……」「あのねぇ、中卒でずっと水商売してきた私に他に何ができると思う?」 あっさりと厚子
「修一、いや副社長、本当に総務部のあの女性と交際しているのか?」 美香の母・厚子が新田ホールディングス本社に襲来した翌日、修一は同社社長の父・義一郎のオフィスで美香との関係を問いただされた。義一郎はイライラした様子で修一を問い詰め、修一は父のデスクの前で俯いたままだ。 社長室の大きな窓から燦々と入る光も、重苦しい二人の雰囲気を和らげられない。「あんなとんでもない女が母親なんだ。さっさと別れなさい」「……嫌です!」 萎れていた修一は、パッと顔を上げて叫んだ。「なんだと?!」「彼女と結婚できないなら、僕は一生結婚しません!」「それじゃあ、跡継ぎはどうするんだ」「叔母さんのところにはもう孫が二人もいるじゃないですか」「あれは駄目だ。それに新田じゃない。外戚が出て来ると碌なことにならん」 仲の悪い妹の話が出てすかさず義一郎は口をへの字に曲げた。「それなら、美香との結婚を許してください」 ううんと義一郎は腕を組んで唸った。そこに修一はチャンスとばかりに畳みかける。「でなければ、僕は退社しても構いません!」「ハッ! 大学を卒業してからずっと我が社で創業者一族として働いてきたお前が泥臭く金を稼げるわけがない!」 義一郎は、息子の大口を鼻で笑った。それなのに修一は不遜なぐらい堂々としている。「僕だって新田ホールディングスの株を持っているんですよ」「おい、まさか……?!」 義一郎は目を見開いて息子を問いただした。「ええ、泥臭くなんでもしますよ。美香と別れないで済むならね」「お前……!」「叔母さんは諸手を挙げて僕の持ち分を買うでしょうね」 挑戦的な視線が義一郎を射抜き、彼は恐る恐る口を開いた。「まさか本気か?」「こんなことで嘘をつくと思いますか?」 ハアァと大きなため息が社長室に響き渡った。「わかった……私の負けだ。条件つきで結婚を認めてやろう」 その途端、修一の顔がパァッと輝いた。「喜ぶのはまだ早い。条件を聞け。あの娘自身は、まあいいだろう。お前と同じ大学の経済学部も出ているし、働き者で気立てもいいと聞いている」「だったら全く問題ないですよね?」「ああ、彼女自身には及第点をやるよ。だがお前も、強欲で下品なあの母親のことを知っているだろう? 交際と結婚は、彼女が母親と絶縁するのが条件だ。あの母親を一切新田家と関わらせるんじ
猛プッシュする修一に絆され、美香は彼と交際を始めた。だが夜遅くまで仕事をする修一と早朝に配達へ出かける美香は、生活時間が合わず、デートする時間をなかなかとれない。 とうとう修一は、学費も生活費も援助するから新聞配達の仕事を辞めてくれと懇願したが、美香は断った。「どうして?!」 修一は、目を見開いて大きな声で訊き返した。「新聞奨学生を仲介してくれた高校の先生やお店に迷惑がかかります」「そこは僕がなんとかするよ」「でも私は、修一さんになんでも頼りっきりにはなりたくないんです」「違うよ。僕達がデートできる時間を僕が買うと思ってくれないかな?」 修一は、ああだこうだと言ってなんとか美香を説得しようとしたが、美香はどうしても途中で辞められないと主張した。二人の意見は平行線をたどり、結局、修一が折れた。 美香は大学を卒業するまで新聞奨学生を続け、修一との関係を隠して新卒で新田家の経営する会社『新田ホールディングス』に入社した。 その頃には二人が交際を始めて二年ほど経っていたが、色々事情があって双方の両親にも内緒にしていた。 * 美香が入社してしばらく経ったある日、本社の受付に香水の匂いをプンプンさせたケバケバしい中年女性がやってきて大騒ぎになった。「ちょっと新田修一さんと小川美香を呼んでくれない?」「お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」 時々出現するトンデモ客に慣れた受付嬢は、驚きと戸惑いを上手く隠して冷静に対応した。「おたくの副社長の恋人、小川美香の母、小川厚子よ!」 厚子は、タバコで焼き切れたダミ声で誇らしげに宣言した。「アポイントメントはございますでしょうか?」「ハァ?! 次期社長夫人の母が将来の義理の息子に会うのにアポなんて必要?!」 ――バンッ 厚子がカウンターに拳を振り下ろした音がロビーに響き、辺りが一瞬にして静まり返った。「お、お取次ぎできません!」「何様のつもり?!」 さすがの受付嬢もビクッとしたが、きっぱりと断り、厚子はギャアギャア騒いで抗議し続けた。そこへ知らせを受けた警備員が駆け付け、厚子を注意した。「これ以上、騒がれるようでしたら、警察を呼びますよ」「次期社長夫人の母をサツにしょっぴかせるって言うの?! 恥をかくのはあんたらよ! おい、こら、触んな!」 二人の警備員に両腕をがっちり抑え込まれ
美香と修一が知り合ったのは、美香が大学の学費のために新聞奨学生をしていた頃にさかのぼる。 東京で珍しく雪が積もった日、美香は初めて修一と言葉を交わした。 その日の早朝、美香はいつもより少し早めに新聞販売店を出て担当する高級住宅街へ向かった。街灯に照らされた新雪をギュッギュッと踏みしめ、荷台に新聞を満載した自転車を押す。 雪は数センチしか積もっていなかったが、自転車に乗るつもりはなかった。配達時には、もうちらほらとしか降っていなかったものの、念のため新聞はビニール袋に入れてある。『新田』と表札がかかっている大きな家の前まで来て、美香は自転車を停めようとした。だが片足を後輪のスタンドにかけた瞬間、バランスを崩して転倒し、自転車をひっくり返してしまった。「あっ?!」 自転車の下になった新聞の袋が破れて雪の上に散らばった。すぐに拾い集めたが、ほとんどが濡れてしまっている。「どうしよう……」 美香は血の気が引いた。 新聞販売店に戻っても、余剰の新聞があるとは限らない。あったとしても、配達時間が遅れてクレームが入るかもしれない。そのうえ、この時間に店番をしているのは、美香に辛辣な店主の奥さんだ。「ハァ……公衆電話はどこだったかな」 美香がジーンズについた雪をはらって辺りを見回したとき、突然、男性の声が響いた。「大丈夫ですか?」 声のほうを見れば、新田家のガレージの前に青年が立っている。「ありがとうございます。大丈夫です」 美香はペコリとお辞儀をしてそのまま自転車を押して行こうとした。「膝に怪我をしていますよ」「えっ、あの、たいしたことでは……」 冬の早朝にもかかわらず、美香の顔は熱くなり、言葉が尻すぼみになった。着古したジーンズは転倒の衝撃に耐えられずに破れ、膝を擦りむいてしまっている。 青年は、自転車の荷台に近づいきて一番濡れている新聞紙を抜き取った。「これ、うちの分としていただくね」「そんなわけには!」「大丈夫、父は会社で読めるし、母は新聞なんて読まないから。それより他の新聞はどうするの?」「店に電話して用意してもらいます。袋が破れていない新聞を配達した後で取りに行けば、なんとか間に合います」「だいぶ配達が遅れるんじゃない? 僕が取りに行ってあげるよ」「いえいえ、そんな!」 美香は、顔の前で手をブンブンと振って遠慮した