LOGIN仁志は、一瞬だけ迷ったが、最後には何も言わず、その場をあとにした。彼の背中が角を曲がって見えなくなったところで、靖が口を開いた。「星。D国での一件は、もう全部、耳に入ってる。あの仁志が、ノール一族のノールソンを殺した。今、ノール側は正式に説明を求めてきている」そこでいったん言葉を切り、視線を星へと戻した。「星、この男は、もう家に置いておくべきじゃない」星は、わずかに目を細めて問い返した。「ノール一族のことを知っているなら、ノールソンが私に何をしたかも、知ってるでしょ?」「おおよその経緯は、もう調べさせてもらったさ。たしかにノールソンは、お前の部屋に押し入った。だが、実際には何もしていない。それに、服も乱れていなかったし、ケガもしていなかった」星は、ふっと口元で笑った。「じゃあ私は、実際に傷を負ってからじゃないと、反撃しちゃいけないってこと?」靖は、露骨に眉をひそめた。「そういう意味じゃない。俺が言いたいのは、ノールソンが悪いことをしたのは事実だが、死刑に値するほどではない、ということだ。星、お前の性格は分かっている。理由もなく人を殺すようなやつじゃない」そう言いながら、先ほど仁志が消えていった方角へ、ちらりと視線を向けた。「だけどな星、お前はおかしいと思わないのか。あのボディーガード、やたらとお前の私事にまで口を出してくる。完全に立場を越えている」横で黙って聞いていた忠が、ここぞとばかりに口を挟んだ。「星、お前のボディーガードの言動は、そのままお前のイメージに直結するんだぞ。今、そのボディーガードが、大勢の前で人を殺した。そんな殺人犯をかばうってことは、お前自身も殺人犯側の人間ってことになる。会社の株主にせよ、世間の連中にせよ、この事実を知ったら、絶対に受け入れない」実のところ――星が屋敷に戻るより前に、忠はすでに怜央から、一部始終を聞き出していた。そして怜央とあれこれ相談したうえで、こう結論づけている。「もし星が、仁志を守り通すと言い張るなら、それがいちばん都合がいい」と。そのときが来たら、「仁志は殺人犯だ」という情報を世間に流せばいい。雇い主である星の評判も、一緒に奈落へ突き落とせる。どれほど社内で信頼を集めようと――世間は「殺人犯をかばう人間」に、雲井グループのトップの座を任せ
ただ――仁志は、ふと横目で星を見た。表情は一つも変えずに。星は、自分とは違う。血なまぐさいやり方を好まない。このまま怜央を殺してしまうのは、たしかに少々もったいない気もする。生かしておいて、ゆっくり痛めつけるのも悪くない――そんなことを考えながら、荷物をまとめつつ、今後の段取りを頭の中で組み立てていく。ある袋を整理していると、中に見慣れない物がいくつか入っているのに気づいた。不思議そうにそれを取り出した。「これは……何でしょうか」声に振り返った星は、仁志の手の中に、やたら凝ったデザインのロウソクが二本あるのを見て、固まった。次の瞬間、顔がぱっと真っ赤になる。あの日の工具店。あの店主の、やけに含みのある笑い顔がよみがえる。会計を済ませたあと、彼はこう言ったのだ。「もし気に入ったら、またおいで。次はまけてあげるから」そのときの星は、深く意味を考えなかった。だが今なら分かる。――あれは、最初からおまけを袋に紛れ込ませていたのだ。しかもこの二本、どう見ても普通のロウソクではない。一目で分かる、そういう用途の品だ。星は慌てて仁志の手からロウソクを取り返し、そのまま袋の中に押し戻した。だが、あまりにも動きが雑すぎて――袋の中身をまとめてひっくり返してしまう。床に転がる、ロープ。床に跳ねる、金属の手錠。そこにさっきの怪しいロウソクが加われば、連想する光景は一つしかない。星は、仁志の視線が、はっきりと変わったのを感じた。何か説明しようと口を開きかける。だが、どこから話せばいいのか分からない。なにせ、これらは本気で彼のために用意した物なのだ。結局、何も言えないまま、床に散らばった物を黙々と拾い集め、平然を装って言った。「……片づいたし、そろそろ行こっか」言うが早いか、仁志が何か言い出す前に、足早に部屋を出ていく。かなり歩いたあとでさえ、背中にひりひりするような視線を感じていた。振り向かなくても分かる。あの透きとおったまなざしが、ずっと自分に注がれている。ほどなくして、仁志も後を追ってきた。彼は何も聞かなかった。さっきの一件にも、一切触れない。おかげで、星はようやく胸をなで下ろした。二人が宿を離れ、前にも通った工具店の前を通りかかる。ちょうど店主が近所の人と立ち話をし
女将はとりとめもなく話し続けながら、「自分と一緒に、いい時も悪い時も乗り越えてくれる女の人はね、ちゃんと大事にしなきゃダメよ」と、何度も何度も言い聞かせるように繰り返した。ふだんなら、仁志は「よくしゃべる人だ」と内心うんざりしていたはずだ。だが今日に限って、その声が不思議なくらい心地よく耳に入ってくる。とくに、女将が当たり前のように口にする「あなたの彼女さん」という言葉が、妙に胸に響いた。胸の奥にこびりついていた暗い影まで、風に吹かれて少し薄くなったような気がする。……ほどなくして、星が戻ってきた。女将は、自分でもよく分からないテンションのまま、星ににっこり笑いかけ、ぽん、と肩を軽く叩いた。「あなたの彼氏さんね、なかなかいい男じゃない」女将は二人の関係を、完全に誤解している。だが星は、わざわざ訂正しなかった。余計な話題は、どこから火がつくか分からない。その夜も、星はいつも通り、仁志に寝る前のお話を聞かせた。仁志もまた、彼女の声に導かれるように、静かに眠りの底へ沈んでいく。こうして三日という時間は、驚くほどあっさり過ぎていった。あるとき、星の携帯が震えた。「星野さん、ヘリコプターの準備が整いました」彼女は時計に視線を落とした。奏がこのD国を発つのは、三時間後だ。そのとき、彼はノール一族の注意を一身に引きつけてくれる。その隙に、星は仁志を連れてヘリに乗り、まず封鎖されたこの街を飛び立つ。それから隣の市に移動し、用意しておいたプライベートジェットに乗り換える手はずだ。一度別の国を経由し、最終的にM国へ戻る――それが今回のルートだった。奏が突然D国に現れれば、ノールが警戒しないはずがない。彼と星の関係は、公然の秘密のようなものだ。ノールは必ず、「奏は星を助けに来たのではないか」と疑い、その行動を重点的に監視するだろう。今日、奏がD国を出ようとしたとき――ノールは彼を足止めし、「彼女をどこへ匿った」と問い詰めに来るに違いない。奏は川澄家の後継ぎだ。ノールといえど、軽々しく手を出せる相手ではない。たとえ星を見つけたとしても、「渡せ」と迫るのが精一杯だろう。もし見つけられなければ、今度はノールの方が「言いがかりをつけている」立場になってしまう。最悪の場合、奏に頭を下げる羽目になるかもしれない。奏な
星がちょうど何か言おうと口を開きかけたとき、その言葉をさえぎるように、仁志が先に口を開いた。「事情はどうあれ、一人を椅子で寝かせるわけにはいきません。夜は前半と後半でベッドを交替しましょう。公平です」同じベッドで寝たわけではないので、星もそれほど気まずさは感じなかった。それどころか、むしろ申し訳なさの方が勝っていた。本来なら、自分が仁志の治療をするつもりだったのに――結局ベッドでぐっすり眠っていたのは、自分の方だったのだ。「昼間は外に出ないので、部屋で寝直せます。ぼんやりしているよりはましです」わざと軽く言って、自分に負い目を感じさせないようにしている――星には、その意図がはっきり分かった。「分かった。じゃあ、先に顔洗ってくるね。このあと朝ごはん買いに行ってくる」星が部屋を出てから、十分ほどたったころ。ドアがこんこんとノックされ、そっと扉が開いた。仁志は、てっきり星が戻ってきたのだと思った。だが、入ってきたのが中年の女性だと気づいて、わずかに目を瞬く。この宿の女将だった。女将は、事情を説明するように言った。「星野さんならね、あなたのご飯を買いに出てったよ。そのあいだ、私にあなたを見ててほしいって頼まれてさ。何か必要なものがあったら、遠慮しないで言ってちょうだい」仁志は、どこか距離を取った丁寧な声で答えた。「ご親切にありがとうございます」女将は慌てて手を振った。「とんでもない、とんでもない。本当なら、最初から私がちゃんとやっとくべきことでさ。この前は、その……」女将は軽く咳払いをし、気まずそうに視線をそらした。「こっちこそだよ。あなたたちへの態度、ちょっとひどすぎたね」仁志の瞳が、静かに深くなった。「女将さんが急に態度を変えられた理由は何ですか」女将は、地方の中年女性らしく、子どもたちは遠方で働きに出ていて、ふだんはあまり話し相手もいない。だからこそ、一度しゃべり出すと止まらない。「だってね、あなたと星野さん、顔立ちも雰囲気もさ、一目でいいとこの坊ちゃんとお嬢さんって感じなんだよ。こんな古くさい安宿に泊まるタイプには見えなかったの」女将は、少し肩をすくめて続けた。「でもね、ああいうお坊ちゃんお嬢さんカップルって、今までも何組か来ててさ。たいてい親に反対されて一緒になれないとかで
星は、ぽかんと目を瞬いた。「え、私?」仁志は穏やかに問い直した。「あなたは今夜、どこで寝るんですか」床でそのまま寝る、という選択肢は最初からない。D国の夜は冷える。こんな状況で体調を崩すわけにはいかない――それは星もよく分かっていた。「椅子で一晩くらいなら大丈夫だよ。仁志、今はあなたの病気の方が優先」仁志は、ふと自分の下の広いベッドに視線を落とす。少しためらった末、それでも意を決したように口を開いた。「ベッドは広いです。一緒に寝ませんか」別の男がこんなことを言ったなら、星は間違いなく「下心あり」と即判定していた。けれど、それを仁志が言うと、不思議なくらいそういう空気がまったくない。本当にただ、同じベッドを使う案をまじめに提案しているだけに見えてしまう。「遠慮しとく。私は椅子で平気」星はあっさり断り、視線を落として、さっきメモしておいたおやすみ前の物語の内容をめくり始めた。仁志は、星の性格をよく分かっている。これ以上勧めれば、かえって気まずくさせるだけだと理解していたので、それ以上は何も言わなかった。準備が整うと、星は照明を少し落とし、眠りを誘うアロマを焚いた。そして、静かな声でおやすみ前の物語を語り始める。五つ話し終えても、仁志に眠気が訪れた様子はない。以前なら、三つ目の物語に入る前に、翔太はもうすやすや眠っていた。もちろん、重い不眠症を抱えた仁志と、子どもの頃の翔太を同じ扱いにはできない。星は焦らず、根気よく物語を重ねていく。今夜のために、ざっと三十本分のお話を用意してある。もしそれでも眠れないのなら、そのときはまた明日の夜、別の方法を試せばいい。ただ――昨夜は仁志を見守っていて、ほとんど眠れていなかった。そんな状態で、眠気を誘うような穏やかな物語を延々と語り続ければ……先にまぶたが落ちてくるのは、話している側の方だった。仁志は、星の疲れ切った眉間と、目の下の濃いクマに気づく。薄い唇をきゅっと結んだ。七つ目の物語に入ったところで、仁志はそっと目を閉じた。星は、もう開けているのもしんどくなってきた目をこすりながら、それでも続けようとして――そのとき、彼が静かに眠っていることに気づき、思わず目を丸くした。小さな声で彼の名前を呼んでみる。反応がないのを確かめて、ようやくほっと息をつい
「残りのことは、もう全部手配してあるから」そう言ったのは、仁志だった。「申し訳ありません。役に立てず、騒ぎを起こし、看病までさせています」星が何か言い返そうとしたとき、ポケットの中で携帯が震えた。画面をちらりと見る。表示された名前は――奏。星は通話ボタンを押した。「先輩」奏の、聞き慣れた声が飛び込んできた。「星、俺はもうD国に着いた」「先輩、しばらくは目立つように動いて。できるだけノール一族の注意を、そっちに引きつけておいてほしいの」奏は、くすっと笑った。「それくらいなら、いくらでもやってやるよ」少し間を置いてから、真面目な声に戻った。「星、本当に、俺の手を借りなくて大丈夫か?」「もう十分助けてもらってるよ」「星、俺たち、一緒にここから出ることだってできるんだぞ。ノールに見つかったとしても、さすがに俺には手を出してこない」「うん。私も先輩と一緒に行くことはできる。でも、仁志は無理。あいつらが、仁志を手放すはずがない」彼女は振り返り、仁志を一瞥した。彼はちょうど、自分の携帯の画面をゆっくりスクロールしているところだった。星は、声を落として続けた。「仁志は、今まで何度も私を助けてくれた。だから今回は、私が絶対に、仁志の安全を守らないと」奏もまた、義理堅い男だ。自分だけ助かるために、誰かを切り捨てるような真似はできない。だからこそ、星の言葉を、すぐに理解した。小さくため息をついた。「じゃあ、気をつけろよ。何か少しでもおかしい動きがあったら、すぐ電話しろ。すぐ飛んでく」「先輩、大丈夫。こっちはもう迎えの段取りもつけてあるから。ちゃんと動けるはず」小林グループを買収し、忠の会社を底値で買い叩いたあと――夜の側についていた株主たちは、星の腕を目の当たりにした。そして、かつて夜が残していった部下や勢力を、安心して彼女に引き渡したのだ。そうして星は、ようやく自分名義と言える勢力を、少しばかり手に入れた。奏は、星がいつも慎重なのをよく知っている。だから、それ以上は強くは言わなかった。通話を切ると、星はくるりと振り返る。「仁志、ちょっと休んでて。ご飯買ってくる」「分かりました」仁志は、短く答えた。今は多少落ち着いてはいるが、まだ危険な時期を抜けたとは言