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第242話

Author: かおる
星はふっと笑みを浮かべた。

「神谷さんは雑用のような基本的な仕事すら小林さんにさせたくないのね。

それなら話は別だわ」

「もし小林さんが葛西先生に難しく当たられるのが心配なら、あなたが毎日付き添えばいい。

葛西先生はむしろ気にしないと思うし、かえって神谷さんの誠意を感じ取って、あなたのお母様の薬まで譲ってくださるかもしれないわよ」

誠は思わず星を何度も見やった。

――誠意。

本来なら妻に向けられるべき言葉。

だが他の女に費やされると、どこか皮肉めいて胸に刺さる。

自分の母親に必要な薬を、妻の誠意で得るべきなのに。

彼は、別の女のために全力を尽くしている。

雅臣に、星の皮肉が伝わらないはずがなかった。

彼は冷ややかに言う。

「そんなに嫌味を言うな。

たとえ清子の病が治ったとしても、俺は彼女とは一緒にならない」

星はあたかも納得したように表情を変える。

「名分どおりじゃつまらない、そういうこと?

なるほどね。

あなたは禁じられた刺激にしか惹かれないのね」

「星!」

彼女は眼差しに宿る軽蔑を隠し、静かに問い返した。

「神谷さん、まだ何かご用?

用がないならもう帰って。

部屋を片づけないといけないの」

言い終えると、雅臣の返事を待つことなく、星は再び部屋の片づけに取りかかった。

雅臣はその背をしばし見つめていたが、やがて足を踏み出し、ゆっくりとその場を後にした。

翌朝、雅臣が何を言ったのかは分からないが、清子は結局やって来た。

彼女はわざとらしい口調で問いかける。

「葛西先生、星野さん、それに怜くん......ご無事だった?」

その目がちらりと星をかすめる。

「本当は、勇は普段こんなことをする人じゃないの。

ただ、星野さんとの間で誤解が重なって、あんな騒ぎになってしまっただけで......」

「星野さんもどうかと思うわ。

勇の性格を分かっていながら、なぜわざわざ刺激したの?

葛西先生はご高齢、怜くんはまだ幼いのに。

ご自身のことを考えなくても、少しは周りを気遣うべきでしょう?」

清子の芝居がかった語り口は、相変わらず見事だった。

わずか数言で、勇の過失を星の過失にすり替えてしまう。

だが葛西先生はまったく取り合わなかった。

「肝心なことは何ひとつできんくせに、口だけは一人前か。

そんなに口を動か
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