LOGIN――まさか、星を表立って排除すると目立ちすぎるから、裏で手を回して毒殺でもするつもりなの?そんな考えが一瞬、清子の脳裏をよぎった。だがすぐに自分で否定した。ありえない。星は最近、葛西先生と頻繁に会っている。もし彼女に毒でも盛られたら、すぐに葛西先生に気づかれるはず。――仁志はそんな愚か者ではない。ならば、彼が星に近づく本当の目的は何なのか?清子がそんなことを考えているうちに、会場の照明が少し落とされ、オークションが正式に始まった。この日の出品物は、主に書と絵画。芸術品に興味のない勇は、数分で飽きてあくびを連発している。一方、星は真剣に目を向けていた。彼女にとって絵画はただの鑑賞ではなく、心の延長そのものだった。彩香がひそひそとつぶやく。「数枚の筆文字が何千万なんて......ぼったくりもいいところね」確かに、現代の書画家でも一作品で数千万円はくだらない。古典の大家ともなれば、数十億単位で落札されるのも珍しくない。影斗が静かに言葉を挟んだ。「前回ほどではないが、今回は質が高い。千年以上前のものまで出ているとは驚きだ」星が彼を見た。「あなた、こういうのにも詳しいの?」彼は口元に柔らかな笑みを浮かべる。「多少はね」彩香が興味津々で身を乗り出す。「榊さんって、本当に多才なのね。なんでも知ってるのね」影斗は肩をすくめた。「少しずつかじってるだけさ。どれも中途半端だけど」「そんなことないわ。広く知ってるって、それだけですごいことよ。うちの星だって、音楽だけじゃなく絵もできるし、きっと話が合うわね」影斗はちらりと星を見た。その瞳に、淡い興味が宿る。「......音楽と絵画以外にも、何か得意なことがある?」星が口を開く前に、司会者の高らかな声が響いた。「続いてご紹介するのは――我々の時代を代表する画家、オーロラの最新作です!」照明が一点に集中し、司会者が黒い布を勢いよく払う。一瞬にして、会場の空気が変わった。キャンバスの上に広がるのは、花の海。澄みきった青空に、ふんわりと白い雲。遠くにはゆっくりと回る風車。無数の花々が風に揺れ、絵から香りが漂ってくるかのようだった。「わあ......なんてきれい!」「色の
話の流れの中で、清子がふと何かを思い出したように目を細めた。「ねえ、雅臣。星野さんが急に離婚を言い出したのって......もしかして、葛西先生が何か約束でもしたんじゃない?」雅臣が答える前に、勇が目を見開いた。「ん?あそこにいるのって、こないだ病院で見かけたイケメンじゃないか?どうして星と一緒にいるんだ?なあ雅臣、まさか星が隠してる男ってやつじゃないのか?」清子は最初、勇の言葉に首をかしげただけだった。だが、つられて視線を向けた瞬間――心臓がどくりと跳ねた。仁志。――どうして、彼がここに?その名を脳裏で呼んだ瞬間、彼女の胸がざわつく。まるで気配を察したように、仁志がこちらを振り向いた。鋭い青灰の瞳がまっすぐ清子をとらえる。しかしそこに、狼狽や焦りの色は一切ない。むしろ――彼は朗らかに片手を上げてみせた。人目をはばからず、微笑みさえ浮かべながら。まるで、「見ていることは知っている」とでも言いたげに。清子の鼓動が一気に跳ね上がる。――仁志、あなた何を考えているの......しかも彼は、星たちのグループの中に座っていた。彩香や星との距離感も、明らかに親しい。その様子を見た瞬間、清子の脳裏をある言葉がよぎる。――あの日、病院で彼が言ったこと。「今度、お前にサプライズしてあげるよ」まさか、これがそのサプライズ?冗談じゃない。これは驚きじゃなくて恐怖だ。勇は、仁志の視線と笑みを挑発と受け取り、顔を真っ赤にして立ち上がった。「チッ......!あのイケメン、わざと俺たちに喧嘩売ってんのか!」口汚い罵声が続き、彼はとうとう中指を突き立てて見せる。清子は肝を冷やした。――やめて。あの人は、そんなふうに相手していい相手じゃない!「やめて、勇」彼女は焦ってその手を引き下ろした。「もういいでしょ、オークションが始まるわ。座りましょう」勇は不満げに舌打ちしたが、しぶしぶ腰を下ろした。席に着いても、まだぶつぶつ文句を言っていた。「航平、なんでよりによってこんな字と絵のオークションなんか来たんだ?前の宝飾オークションの方がよっぽど面白かったのに」航平は苦笑しながら答えた。「今日は、どうしても欲しい絵があるんだ」「絵
彩香が小声で漏らした。「明日香に親友なんていたの?」影斗が片眉を上げる。「親友がいておかしいか?彼女の友人はみんな名家の令嬢で、容姿も才能も、彼女に決して劣らない」「容姿も才能も劣らない?」彩香は驚いて目を丸くした。「てっきり、明日香みたいに完璧なお嬢さまを演じるタイプは、自分より優秀な人なんて絶対そばに置かないと思ってた」凛が首をかしげる。「どうして?」彩香は肩をすくめて言う。「だって人って、比べられるものじゃない?きれいな花のまわりには、必ず葉っぱが必要。特に彼女みたいに完璧なナンバーワンの令嬢としてもてはやされてる人は、自分より目立つ友達なんて作らないのが普通よ。じゃないと、その座が危うくなるから」影斗は笑みを浮かべた。「たしかに、ほとんどの令嬢はそうだな。でも明日香は違う。――理由、わかるか?」その問いに、星が口を開いた。「自信があるから、でしょう」影斗はうなずく。「そのとおり。彼女はどんなに優れた人を隣に置いても、自分が霞むとは思っていない。むしろどんな友人を持つかも、ひとつのステータスなんだ。彼女ほどの名家の娘が、家柄も品もない友人ばかり連れていたら、見る目がないと陰口を叩かれる。でも実力や家柄のある友人を持てば、それだけで彼女自身の価値が上がる。......彼女には、同じように優秀な友人が三人いる」奏がふと口を挟む。「その中に、恵美はいるのか?」影斗は一瞥して答えた。「彼女は親友というほどではないな。ただの知人に近い関係だ」奏の顔にようやく安堵の色が浮かぶ。彼らがそんな会話をしていると、新たに数人がオークション会場へ入ってくるのが見えた。彩香は周囲を見回し、顔をしかめてぼやく。「まったく今日はついてない日ね。どうしてこう、会いたくない人ばっかりいるの?」星がそちらを振り向くと、雅臣、清子、勇、そして――航平の姿があった。星は少し驚いた。航平は雅臣や勇の友人ではあるが、清子がいる場にはほとんど顔を出さない。それだけに、今日ここにいるのは意外だった。ちょうどそのとき、航平がふとこちらを見た。視線が重なり、一瞬だけ目を見開いた後、彼は柔らかく微笑み、軽くうなずいた。その様子を見ていた勇
星は思わず苦笑をもらした。凛が首を傾げる。「ねえ星ちゃん、絵を売ったときのサインって、本名だったの?」星は首を横に振る。「ううん、違うの。正直言うと......どんな名前を使ったのかも、もう覚えてないわ」影斗が小さく笑った。「星ちゃんのサインはサマーだったはずだ」その言葉に、一同が「なるほど」と頷く中――これまで黙っていた仁志が、何かを考え込むように目を細めた。そのとき、彩香が星の袖を軽く引く。「星、見て。あそこ......あれって、明日香じゃない?」星が視線を向けると、明日香が前方の席へ歩いていくところだった。彩香がぼそりと呟く。「うわ、あの葛西家の誠一も来てるじゃない。勇と張り合ってたくせに、どっちが上かまだ決着ついてないんじゃない?.......ん?隣の男、誠一にちょっと似てる。兄弟かな?」その言葉に、奏の瞳が鋭く光る。遠くの席にいる誠一を見つけると、唇をきゅっと引き結んだ。――川澄家に戻ったら、必ず報いを受けさせる。星の心を弄び、彼女を陥れたあの男を。影斗が視線を移して口を開く。「あれは葛西朝陽。誠一の叔父で、いずれ家を継ぐ人間だ」「葛西朝陽?」と彩香が首をひねる。「どこかで聞いたような名前だと思ったら......」星の顔に一瞬、思い当たったような色が浮かぶ。「――そういえば、葛西先生が紹介してくれようとしてたお見合い相手が、その人だったわ」本来ならすでに会っていたはずだが、彼の都合がつかず、S市まで来られなかったのだ。葛西先生は焦らず待ちなさいと言っていたが、星としては急ぐ理由もない。ただ、紹介してくれた相手を無下に断るのも悪いと思っていた。彩香が手を打つ。「ああ、だから名前に聞き覚えがあったのね!」そのやり取りを聞いていた奏と影斗、そして仁志が、同時に星を見つめる。「......お見合い?」奏の眉がぴくりと動く。葛西家という名前を聞いただけで、あからさまに不快そうな表情になった。「星――葛西家の男はやめておけ。君が次の恋を考えるなら、私が川澄家に戻ったあとで、もっとまともな人間を紹介する」その声には、まるで親であるかのような厳しさがあった。影斗は軽い笑みを消し、真剣な眼差しを星に向ける
星は、影斗の助けを借りて数枚のオークション入場券を手に入れた。今回のオークションは比較的規模が小さく、チケットも容易に入手できた。主に書や絵画などの芸術作品が出品されるもので、前回のように珍品や宝飾類を扱う高額イベントではない。星、彩香、影斗のほかに、奏、凛、仁志も連れ立って来ていた。初めてのオークションに参加する凛は、物珍しそうに会場を見回している。星の左隣に座った奏が、小声で尋ねた。「星、ほんとに君の絵が出品されるの?」「ええ、間違いないと思うわ」彩香が申し訳なさそうに顔を伏せる。「ごめんね、星。あの時、私のためにお金を作ろうとして、絵を売ってくれたのに」星は微笑んで首を振った。「いいのよ。あのとき売らなかったら、自分の絵がそんなに価値あるものだなんて気づかなかったと思うし」星は音楽を専攻しながら、副専攻で絵画を学んでいた。母の夜に本物の令嬢として育てられた彼女は、琴・書・画――どれも一流の腕前を持っている。大学時代も、講義の合間に絵を描くのが癒やしの時間だった。影斗は事情を把握しており、星をまっすぐ見つめて言った。「少し調べたんだが......お前の絵は今、最低でも一枚二億円以上で取引されている」三人の視線が同時に彼に向く。彩香は息をのんでから声を震わせた。「い、いくらって言った?二億?」影斗は静かにうなずく。「そうだ。作品の希少性が非常に高いからだ」星は思わず苦笑する。「そんな......当時は数百万円でも売れたら御の字だったのに」奏が目を丸くした。「十倍どころじゃないじゃないか。でも、どうしてそんなに値が上がったんだ?」影斗は唇に笑みを浮かべながら答える。「市場には作品がたった五点しか出回っていない。希少な芸術家というだけで、コレクターの間では神話のような存在になる」彩香は頭を抱えた。「信じられない......そんな値打ちがあるなら、売らずにとっておけばよかったわね。どれだけ損したか考えたくもないわ!」星は苦笑しながら肩をすくめる。「まさか絵がこんなことになるなんて思わなかったもの。わかってたら画家になってたかもね」影斗は静かに視線を星に戻した。その目には、どこか探るような光が宿っている。
「......お見合い?」誠一が目を丸くした。「叔父さん、この前は雲井家に正式に縁談を申し込みに行くって言ってたじゃないか」朝陽は淡々と答えた。「じいちゃんが言うには、雲井家はまだ正式に承諾していない。婚約が成立していない以上、それは約束ではないそうだ」誠一は呆れたようにため息をつく。「ほんと、どうしちゃったんだろうね。最近、すっかり人を見る目が曇ってる。この前も変な噂を聞いたよ――外で診療していたときに、ある女に取り入られて、すっかり夢中になってるって」口調を落としながら続けた。「最初は俺もその女が少しでもじいちゃんを元気にしてくれるなら、多少計算高くても構わないと思ってた。でも......」誠一は声を潜めた。「まさか、あの女が雲井家の流れ者の令嬢だったなんて」「......なんだと?」朝陽の瞳がわずかに細められる。「つまり――明日香の立場を脅かす可能性がある、あのもうひとりの娘か」誠一はうなずいた。「うん。元の名前は星野星。雲井家にいた頃は雲井影子と名を変えられてたそうだ。昔、俺が少し仕掛けて彼女を追い出したんだけど......まさか今になって、また姿を現すとは思わなかった」誠一は苦笑を浮かべながらも、声に不安をにじませる。「最近はじいちゃんを完全に手のひらの上で転がしてる。下手したら、俺の立場より彼女のほうが上。このままだと、彼女が明日香に報復してくるかもしれない」朝陽の声は氷のように冷たかった。「そんな真似はさせない。――させる気もない」誠一はさらに踏み込む。「叔父さんに話しておいたほうがいいと思って。彼女を甘くみると、痛い目に遭うよ。俺も一度やられたから」朝陽の表情が険しくなる。「......詳しく話せ」「雲井家の雲井正道が、昔の縁を理由に彼女を家に戻そうとしてるらしいんだ。それでじいちゃんが彼女を後押しする形になって。あの隠居気質のじいちゃんが、わざわざ公の場で宴会を開くなんて前代未聞だ。それから......」誠一が口ごもると、朝陽は冷ややかに言った。「それから?」「......彼女の幼なじみ、川澄奏って覚えてる?実は川澄家の人間だったんだ。もうすぐ本家に戻るみたい。昔