INICIAR SESIÓN書斎で、仁志は椅子の背もたれに寄りかかり、目を閉じていた。また頭痛が始まり、覚えのある鈍い痛みが神経を伝って広がっていく。ちょうどその時、傍らに置かれていたスマホが軽く震えた。雅人から送られてきた、スケジュールの確認のメッセージだった。結婚の手続きを済ませたら、明日の朝早く、美咲を伴って溝口家の数人の長老たちに挨拶へ行く手はずだったのだ。仁志はそのメッセージを二秒ほど見つめ、「キャンセルだ」とだけ返信した。……時を同じくして、洋介の書斎。秘書が入ってきて報告した。「洋介様、仁志さんが明日、高橋さんを連れて長老たちへ挨拶に赴く予定をキャンセルされました」洋介は茶を淹れていたが、それを聞いても手を止めず、ただ微笑んだ。「キャンセルしたのか?」「はい。部下からの報告によりますと、高橋さんはすでに溝口家を後にされたようで……どうやら当分の間、結婚の話は見送られたようです」「結婚しない、か……」洋介は茶碗に茶を注ぎ、その動作は悠然としていた。「どうやらこの一歩は正解だったようだな。なるほど、あの仁志もたった一人の女のために、見境を失うことがあるらしい」秘書が尋ねた。「洋介様、では明日の長老会議での我々の手はずは……」「予定通りだ」洋介は茶碗を手に取り、軽く息を吹きかけた。「いや、さらに追い打ちをかけろ」秘書が尋ねた。「星野さんの方はいかがいたしますか?我々から接触してみますか?」洋介は茶碗を置き、瞳の奥に興味深げな光を閃かせた。「焦るな。星野さんは、想像していたよりもずっと賢い。あの鈴木よりもな。今日の様子を見る限り、彼女は仁志と対立する道を選ばず、相変わらず仁志を庇い立てしようとしていた。正直言って、少し予想外だったし、少しばかり一筋縄ではいかないな。まずはお前が人をやって、星野さんを見張らせろ。何かあればすぐに報告するんだ」「かしこまりました」秘書が退室した後、洋介は一人灯りの下に座り、すっかり冷め切った茶をゆっくりと飲み干した。そしてスマホを手に取り、ある番号に電話をかけた。電話がつながると、彼の声には微かな笑みが混じっていた。「仁志と星野さんが別れた以上、次は鈴木さんの出番ですよ」……美咲が寧輝の姿を見つけた時、彼はタバコをくわえながらスマホのゲームに没頭していた。
星が怜央と優芽利の兄妹と知り合ってからずいぶん経つため、今ではすっかりお互いを名前で呼び合う仲になっていた。星は言った。「大丈夫よ。今日は迷惑かけちゃったわね」優芽利は言った。「私と兄さんは、星にたくさん助けてもらったんだから。これくらいのこと、どうってことないわよ」優芽利も彩香も明るく気さくな性格で、場を和ませてくれたおかげで、星の気持ちもずいぶん晴れてきた。……溝口家、仁志の部屋。美咲は、手続きが途中で止まっていた婚姻届を手に、仁志のところへやって来た。仁志はうつむいたままソファーに深く腰掛けており、その表情は暗くてよく見えなかった。「仁志」美咲は歩み寄った。「洋介がわざわざ今日星野さんをここへ呼んだのは、私たちの結婚を邪魔するためだけじゃなく、あなたにとって星野さんがどれほど重要な存在なのかを探るためよ。あなたが今日、あれほど多くの人間が見ている前で星野さんを追いかけていったことで、すでに多くの注目を集めてしまっているわ。もし私たちがすぐに結婚の手続きを終わらせなければ、洋介は必ずこの事を利用してここぞとばかりに騒ぎ立てるはずだわ」仁志は黙り込んだまま、何も答えなかった。美咲は深く息を吸って続けた。「仁志、婚姻届を出した後なら、私が直接星野さんのところへ話しに行ってもいいわ。私たちの関係はただの契約結婚で、あなたと星野さんの邪魔は絶対にしないと説明する。もし彼女が私の存在を気にするなら、私は絶対にあなたと星野さんの前には現れないと約束するわ。普段用事がある時は、寧輝を介して伝えればいい。一年後、あなたの当主の座が安定したら、私たちはすぐに離婚しましょう」仁志の声がゆっくりと響いた。「無駄だ」美咲は眉をひそめた。「彼女がまだ安心できないっていうなら、私が彼女の目の前で契約書にサインしてもいいわ。それか、前もって離婚協議書を作成しておいてもいい。私たちが結婚するのはただのその場しのぎなんだから、そこまで目くじらを立てる必要はないんじゃない?」仁志はようやく顔を上げた。彼の眼差しは酷く冷淡で、まるで波紋ひとつない水面のように静まり返っていたが、その底知れぬ静けさが、かえって美咲を不安にさせた。仁志は淡々とした口調で言った。「今日はもう帰ってくれ」美咲は大きく目を見開いて動揺した。「仁志、
「星にとって、あんなやり方はあまりにも残酷すぎるもの。でも、後になってよく考えてみたの。もし私が先に真実を知っていたとしたら、星の親友として、やっぱり彼女に打ち明けていたかしらって。……たぶん私も、真実を伝えたと思うわ。こういうことって、一時的には隠せても一生隠し通せるものじゃないし、星はいずれ知ることになるんだもの。それに、洋介の目的が星に仁志の結婚を邪魔させることなら、私が教えなくても、彼は遅かれ早かれ星の前に現れて直接教えたはずよ。正直言って、星を少しでも傷つけずに済むような良い方法なんて、私にも思いつかないわ」そこまで言うと、彩香は顔を上げて怜央を見た。「怜央さん、もしこの件を知ったのが怜央さんだったら、どうしてた?」怜央は言った。「俺なら、まずは仁志のところへ行ったかもしれないな」彩香はハッとした。「まずは仁志のところへ?」怜央は言った。「ああ、俺はまず仁志のところへ行き、あいつ自身の口から星に話させる。俺たちがすでに事実を知っているという前提があれば、仁志も星に嘘はつけない。それに……あいつはもう隠し通せないと分かれば、もしかしたら考えを変えるかもしれない。この一件が他人の口から暴露されるのと、仁志自身から打ち明けられるのとでは、星にとって意味がまったく違う。どちらにせよ傷つくことに変わりはないが、心のダメージはずっと浅く済むはずだ。星はいつまでも未練を引きずるような女じゃない。ただのありふれた失恋の一つとして処理できれば、彼女にとってもそこまで致命傷にはならないはずだ」彩香は怜央の言葉をじっくりと噛み締めた。怜央のやり方の方が、鈴木さんのやり方よりもずっと星への思いやりに溢れていることを認めざるを得なかった。星はいずれこの件を知ることになるのだから、第三者から不意打ちで知らされるより、仁志自身の口から語られる方がいい。それに、もし怜央の忠告があれば、仁志が美咲との結婚を考え直す可能性だってあったのだ。彼はもう少し考える時間を持てたはずだ。今日のように、星が突然現場に現れるよりはずっとマシだった。あんな風に踏み込まれてしまえば、仁志には別の選択肢を考える猶予すら全く与えられないのだから。追い詰められて慌てて下した決断ほど、後になって後悔するものはない。彩香は怜央の顔をまじまじと見つめ
怜央は言った。「溝口家がこんな有様で、星の家族が彼女を仁志に嫁がせると思うか?」彩香は黙り込んだ。星のような名家でなくとも、普通の家庭でさえ、娘をあんな一族に嫁がせようとはしないはずだ。彩香はため息をついた。「どうやら、私の考えが甘すぎたみたいね。だから仁志は、星に一度もそのことを話さなかったのね。あいつ、最初から星とは結ばれないって分かってたんだわ」怜央は言った。「あいつは頭が切れるし、物事の本質をよく見通している。自分が当主の座に就くまでは、星はあいつにとって相応しい相手とは言えない。星の家族からの反対だけじゃない。あいつ自身の足元にも数多くの障害が転がっている。今のあいつには、後顧の憂いなく任せられる妻が必要なんだ。だが今の状況を見る限り、溝口家の連中は明らかに星に目をつけ、彼女を利用して仁志を牽制しようとしている。こうなった以上、事態を収拾するための最も簡単で手っ取り早い方法は、すぐにでも高橋美咲と結婚することだ」彩香は顔色を変えた。「じゃあ、仁志はどうしても結婚しなきゃいけないってこと?」怜央は首を振った。「結婚するかどうかは、あいつ自身の選択だ。だが、あいつはすでにここまで来てしまった。少しでも隙を見せれば、木っ端微塵に打ち砕かれるだろう。今日のような事態を招いたのも、突き詰めればあいつが二兎を追おうとしたからだ。今のあいつには、感情に流されている場合じゃないんだよ」彩香は怜央を見つめ、ふいに言った。「怜央さん、ずいぶん変わったわね。まさか、そんなことまでしっかり見通せるようになってるなんて」怜央は言った。「俺がはっきりと見通せるのは、俺自身も奴と同じ道を歩んでいるからだ。ただ、あいつの敵の方が俺の敵より手強く、その血みどろの争いが俺よりも熾烈だというだけの違いさ。唯一同じなのは、一度でも足を踏み外せば、俺たちはどちらも死ぬってことだけだ」「同じ道を歩んでるって?」彩香は呆然として彼を見つめた。「怜央さんも当主の座を争ってるの?」怜央はゆっくりと腕を上げ、動かなくなった自分の手を見つめた。「食い合わなければ死ぬ……お前はどう思う?俺は戦うべきか?」彩香は答えられなかった。彼女も星も、これほど残酷な競争の世界に触れたことがない。だから、彼女には理解できないのだ。怜央の方
星は道中ずっと黙り込んでいた。ハンドルを握る航平も何度か口を開きかけたが、結局は言葉を飲み込み、押し黙ったままだった。彩香も口を開かなかった。結局、車内では誰一人として一言も言葉を交わすことはなかった。航平が車をホテルの入り口に停め、三人は車を降りた。星の顔色は青白く、その眉間には深い疲労と憔悴が滲んでいた。まるで全身の気力という気力を根こそぎ奪い取られてしまったかのように、ひどくぐったりとしていた。航平は言った。「星、今日はまず部屋に戻って休んでくれ。明日また、どこか案内するよ」星は心ここにあらずといった様子で、その言葉が耳に届いているのかどうかも定かではなかった。彩香は星に付き添ってホテルに入った。航平は洋介に会う用事があったため、星たちと一緒に上の部屋へは上がらず、そのまま車を出して立ち去った。彩香は星と一緒にエレベーターに乗った。彩香は、星と仁志の間でいったいどんな話し合いをしたのか、聞いてみたくてたまらなかった。しかし今の星の様子を見て、彩香は声に出さずにため息をついた。まあいいわ、まずは星の気持ちを少し落ち着かせてあげよう。自分の恋人が他の女と結婚しそうになる場面を目の当たりにして、平気でいられる女なんていないはずだから。エレベーターを降り、彩香が星を部屋まで送ろうとしたその時だった。ふいに星の体から力が抜け、糸が切れたようにそのまま崩れ落ちてしまったのだ。……鼻を突く消毒液の匂いで意識を取り戻した星は、誰かが低い声でボソボソと話しているのを耳にした。「……仁志だって、わざわざ他の誰かを探して結婚しなくたって、星を選べばよかったじゃない。どうせ結婚しなきゃいけないなら、恋人である星と結婚する方が、よっぽど理にかなってるでしょ?」話しているのは女性で、彩香の声のようだった。少しの沈黙の後、男の低く掠れた声が聞こえてきた。どこか耳慣れないような、それでいて聞き覚えがあるような気もする声だった。「結婚というものを簡単に考えすぎている。結婚は買い物のように、好き勝手に選べるものじゃない。そう簡単にはいかないんだ。たとえ星自身が承諾したとしても、彼女の家族がウンと言うとは限らない。恋愛は当人同士の問題だが、結婚となれば家と家との問題になる。二人が付き合い始めてまだ間もな
星は視線を落とし、固く繋がれた二人の手を見つめた。頭の中はこれまでにないほど冴え渡り、恐ろしいほど冷静だった。まるで魂が肉体から遊離してしまったかのようだった。星は静かに口を開いた。「仁志、あなたにはどうしても避けられない事情があるんでしょう。でもね、さっきも言った通り……人の痛みや感情なんて、そう簡単に共有できるものじゃないわ。私はあなたたちの残酷な弱肉強食の掟を理解できないし、あなたもきっと、私がどうして許そうとしないのか、本当の意味では理解できないはず」彼女の声は静かだった。「あなたの生きる世界では、生きるか死ぬかという切実な問題の前では、恋愛のいざこざなんて取るに足らない些細なことだって、私にも分かってる。実際のところ、本当にその通りよ。生き残ることや大きな野望の前では、愛情なんて本当にちっぽけなものなのよ。正直なところ、もし私自身が理想と愛情の間で選択を迫られたら……私もきっと、真っ先にどうにか両方とも手に入れられないか考えると思う。でも、もし最後にどうしても一つしか選べないのだとしたら……」星は顔を上げ、仁志の目を真っ直ぐに見つめた。「仁志、人の一生には本当にたくさんの出会いがあるわ。もし私が、大好きなバイオリンとあなた、どちらか一つを選べと迫られたら……私も結局はバイオリンを選ぶかもしれない。だから、あなたは自分を責める必要なんてないのよ……」星が言い終わるより早く、仁志が強く彼女を抱き寄せた。「星」いつもは余裕と冷静さを崩さない仁志の声が、微かに震えていた。「頼むから、もう言わないでくれ」星が泣き喚いて自分を罵ってくれた方が、いっそどれほど楽だったか。しかし、こんな最悪な状況に立たされても、彼女は彼を責める言葉を一つも口にせず、それどころか彼を慰めようとしているのだ。自分が騙し、裏切った残酷な事実をその目で見たというのに、彼女は声を荒らげることさえしなかった。それは彼女が怒っていないからではない。ましてや、名家のお嬢様としての教養や品性が、彼女に体面を保たせているわけでもない。彼女は、彼がここへ辿り着くまでにどれほどの血の滲むような苦労をしてきたかを知っているからだ。自分の感情的な振る舞いのせいで、彼のこれまでの努力をすべて水の泡にはしたくなかったのだ。それが、彼女が彼に







