世界中のチャートで1位になるより、君が欲しかった

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35歳で殺された天才作曲家カン・ドジュンは、2011年へ回帰する。匿名プロデューサーとして音楽界を席巻し、財閥一族への復讐を始めた彼。そんな冷徹な彼の心を変えたのは、捨てられかけた練習生ユン・シアの歌声だった。世界の頂点より欲しくなった、たった一人との物語。

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Capítulo 1

1話. 回帰

雨の夜、多摩川沿いの幹線道路はひどく滑りやすかった。

廃車寸前の軽自動車。そのひしゃげた車内で、久世律(くぜ・りつ)は肩で息をしていた。口元から流れた血が、擦り切れたハンドルと助手席のデモテープ、楽譜の上に滴り落ちる。

サイドミラーの向こうで、巨大なダンプカーのヘッドライトがまぶしく瞬いた。

ブレーキの故障なんかじゃない。初めからこの車を押し潰し、川へ突き落とすつもりで追ってきたのだ。

スマートフォンが震えた。

ダッシュボードの上、ひびの入った画面に名前が浮かぶ。

【久世エンターテインメント 統括専務・久世貴臣】

血に濡れた指で通話ボタンを押す。スピーカーから聞こえてきたのは、冷え切った、傲慢な笑い声だった。

「ご苦労だったな、律。この10年、お前が地下で書いてくれた30曲のおかげで、俺は今年の国内音楽プロデューサー賞で最優秀プロデューサーに選ばれたよ」

「貴臣……この、クソ野郎……」

律は血を吐き、奥歯を噛み締めた。

「怒るなよ。妾の腹から生まれたお前を拾って、飯を食わせてやったのは誰だ? お前みたいな影は、一生俺の名前で曲を書いて、黙って消えればいい。それが久世家の秩序なんだよ」

久世貴臣(くぜ・たかおみ)の声は、どこまでも楽しそうだった。

「明日の朝刊は一面だぞ。『久世エンターテインメントの天才プロデューサー、久世貴臣の専属ゴーストライター、常習的な薬物使用の末、飲酒運転で死亡』。死んだ後くらい、俺の名前を売る役に立て」

「俺が……このまま終わると思うか? 地獄の果てまで追いかけてでも、お前の首をへし折ってやる!」

「じゃあ、地獄で頑張れよ。虫けら」

通話が切れた。

25トンのダンプカー。その分厚い鉄のバンパーが、軽自動車の後部を容赦なく押し潰す。

轟音。

骨の砕ける鈍い音とともに、視界が真っ赤に染まった。車体は3回転し、川沿いのガードレールを突き破って宙へ投げ出された。

割れた窓から、冷たい雨が流れ込む。

この15年、グローバル・メイン・シングルズTOP 100や国内の年間チャートを制した数え切れないメロディー。和音。ビート。その断片が、嵐のように律の耳を駆け巡った。

(このまま死ねるか……俺の音楽を盗んだあいつらを、この手で引きずり下ろすまでは、絶対に……!)

「おい、久世律! ふざけてんのか! 練習室で寝てんじゃねえ!」

怒鳴り声と同時に、分厚い楽譜のファイルが後頭部に叩きつけられた。

ゴンッ。

律は目を見開いた。

肺に刺さるような、湿ったカビの臭い。防音材の剥がれた狭い地下室のベニヤ壁。古びたデジタルシンセサイザー。

川沿いの道路も、顔を濡らしていた冷たい雨も消えていた。

「……?」

震える両手を見下ろす。

血まみれだった指には傷ひとつない。関節炎でこわばっていた手首が、信じられないほど軽く動いた。

シンセサイザーの横に置かれた、旧型のスマートフォンが光る。

【2011年5月16日 月曜日 15:15】

2011年。21歳。

久世グループの地下練習室に連れてこられ、貴臣が統括する新人プロジェクトの表題曲を奪われ始めた、まさにその日だった。

「ぼーっとしてないで立て! 貴臣専務が、今夜の役員会に出す仮歌入りのデモをよこせって騒いでるんだ!」

目の前にいるのは、久世エンターテインメントの瀬川課長。後に貴臣の忠犬となり、裏金の洗浄まで引き受ける男だ。

律は、その顔をじっと見た。

前の人生では、この声を聞くだけで体がすくんだ。

戻ってきたのだとわかっても、すぐに喜ぶことはできなかった。

助かったという安堵より先に、治療費の封筒を握って笑っていた母の手が浮かんだからだ。前の人生の最後まで、あの手を守れなかった罪悪感が消えなかった。

曲を奪われたことより、何も知らずに自分を信じてくれた人を、最後まで守れなかったことのほうが深く残っていた。

律は、ゆっくりと手を開いた。

21歳の手には、たこも古傷もない。

まだ、何も失う前の手だった。

(今度は奪わせない)

曲も、名前も、人も。

復讐はその後だ。少なくとも今度は、自分が選んだ人にまで代償を払わせるつもりはない。

(生きて、戻ってきた)

巻き戻ったのは時間だけではなかった。

2011年から2026年までに聴き、分析してきたヒット曲のコード進行。アレンジのデータ。チャートの流れ。

そのすべてが、楽譜のように鮮明に頭の中に残っていた。

「瀬川課長」

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1話. 回帰
雨の夜、多摩川沿いの幹線道路はひどく滑りやすかった。廃車寸前の軽自動車。そのひしゃげた車内で、久世律(くぜ・りつ)は肩で息をしていた。口元から流れた血が、擦り切れたハンドルと助手席のデモテープ、楽譜の上に滴り落ちる。サイドミラーの向こうで、巨大なダンプカーのヘッドライトがまぶしく瞬いた。ブレーキの故障なんかじゃない。初めからこの車を押し潰し、川へ突き落とすつもりで追ってきたのだ。スマートフォンが震えた。ダッシュボードの上、ひびの入った画面に名前が浮かぶ。【久世エンターテインメント 統括専務・久世貴臣】血に濡れた指で通話ボタンを押す。スピーカーから聞こえてきたのは、冷え切った、傲慢な笑い声だった。「ご苦労だったな、律。この10年、お前が地下で書いてくれた30曲のおかげで、俺は今年の国内音楽プロデューサー賞で最優秀プロデューサーに選ばれたよ」「貴臣……この、クソ野郎……」律は血を吐き、奥歯を噛み締めた。「怒るなよ。妾の腹から生まれたお前を拾って、飯を食わせてやったのは誰だ? お前みたいな影は、一生俺の名前で曲を書いて、黙って消えればいい。それが久世家の秩序なんだよ」久世貴臣(くぜ・たかおみ)の声は、どこまでも楽しそうだった。「明日の朝刊は一面だぞ。『久世エンターテインメントの天才プロデューサー、久世貴臣の専属ゴーストライター、常習的な薬物使用の末、飲酒運転で死亡』。死んだ後くらい、俺の名前を売る役に立て」「俺が……このまま終わると思うか? 地獄の果てまで追いかけてでも、お前の首をへし折ってやる!」「じゃあ、地獄で頑張れよ。虫けら」通話が切れた。25トンのダンプカー。その分厚い鉄のバンパーが、軽自動車の後部を容赦なく押し潰す。轟音。骨の砕ける鈍い音とともに、視界が真っ赤に染まった。車体は3回転し、川沿いのガードレールを突き破って宙へ投げ出された。割れた窓から、冷たい雨が流れ込む。この15年、グローバル・メイン・シングルズTOP 100や国内の年間チャートを制した数え切れないメロディー。和音。ビート。その断片が、嵐のように律の耳を駆け巡った。(このまま死ねるか……俺の音楽を盗んだあいつらを、この手で引きずり下ろすまでは、絶対に……!)「おい、久世律! ふざけてんのか! 練習室で寝てんじゃねえ!」怒鳴り声と同時に、分厚い楽譜の
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2話. ガイドトラック
律は、ゆっくりと立ち上がった。痩せ細った体に染みついていた、昔の気弱さはもうない。先に目をそらした瀬川が、1歩後ずさった。「……なんだよ、その目は」律は譜面台に置かれた楽譜を取った。貴臣が自分の名前をつけ、新人グループに歌わせる予定だったメロディーだ。ビリッ。ためらわず真っ二つに裂き、床へ放った。「こんな曲、貴臣専務には渡さないでください」足先で、ちぎれた楽譜を押しやる。前の人生では、この1枚を守れずに15年を奪われた。今度は違う。「専務がお望みの曲は、別に用意します」瀬川が紙切れと律を交互に見た。「お前……後悔しても知らないぞ」律は床の切れ端を1枚拾い、折れた角を伸ばした。かつては、こんな紙1枚に自分の人生がかかっていると信じていた。「後悔なら、もう十分しました」今度は、誰かの許しを待たない。そのとき、ドアの向こうからかすかな咳が聞こえた。誰かが廊下の奥で息を殺している。今は顔も見えないのに、その細い呼吸が妙に耳に残った。散らばった楽譜を見下ろしていた瀬川の顔が、赤く染まる。「お前、本気か? 専務に出すメインのデモ譜を破ったんだぞ!」指を突きつけ、握り締めた拳を震わせる。以前の律なら、震えながら膝をつき、必死に謝っただろう。妾の子という烙印。本家からいつでも追い出してやるという脅し。その前では、息をすることすら許されない影だった。だが今の律には、前の人生の15年がまるごと残っている。もう、頭を下げる理由はない。1歩近づいた。184センチの体が迫ると、瀬川は思わず顎を引いた。律は男のシャツの襟をつかんだ。「瀬川課長」声が低く落ちる。「貴臣に作曲の才能なんかないことは、あんたも知ってるだろ。コード3つ満足に弾けない男が、俺の曲を盗んで天才ぶってる。いちばん近くで見てきたのは、あんただ」「は、離せ! お前みたいな妾腹が、会長の息子にでもなったつもりか!」瀬川は両手で律の手首を押したが、襟は緩まなかった。律は、わずかに力を込めた。「会長の息子? あんな腐った家、こっちから願い下げだ」手を離すと同時に押し返す。瀬川はベニヤの壁にぶつかり、無様に尻餅をついた。律は古いシンセサイザーの電源を入れ、パソコンの前に座った。DAWの画面が立ち上がる。長い指が、鍵盤の上を一気に走り始めた。タタタッ、タン。
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3話. ミューズヴォルト
律の口元に、冷えた笑みが浮かんだ。「貴臣専務が統括プロデューサーとして名前を出す、新人グループの表題曲です。英語の仮歌もそのまま使えと。1文字も変えずに」瀬川は何かに取りつかれたようにUSBを抱え、逃げるように練習室を出ていった。1人になると、律は古いリュックから私物のノートパソコンを取り出した。画面に開いたのは、世界中のインディーズ作曲家が匿名で音源を投稿するプラットフォーム『ミューズヴォルト』。今仕上げた罠用のムーンバートン版と、その中に仕込んだサビ8小節の原曲ファイルを、まとめてアップロードした。各ファイルにSHA-256のハッシュ値とサーバー登録時刻が残るよう、原本認証をかける。後に朝倉澪へ渡す曲と、同じ核となる旋律だった。貴臣があの8小節を自作だと言い張った瞬間、先に記録された時刻そのものが罠になる。作曲者名の入力欄。律の指は、迷わずひとつの名前を打ち込んだ。【MAESTRO】入力した途端、ほんの一瞬だけ指が止まった。前の人生では、自分の名前で呼ばれた時間などほとんどなかった。誰かのゴーストライター。会長の婚外子。貴臣の影。名前より先に、いつも誰かとの関係がついて回った。だから今度は、誰のものでもない名前をつくる。MAESTRO。誰かをねじ伏せるためではない。自分の音楽に、自分の名前で最後まで責任を持つためだ。しばらく、その文字を見つめた。今度こそ、誰にも奪わせない名前だった。エンターキーを押す。音源の送信が完了した。そのとき、ドアの向こうの暗い廊下で、小さなすすり泣きが聞こえた。久世エンターテインメントのメインボーカル候補、朝倉澪(あさくら・みお)。19歳。やがて貴臣の無理な要求で声帯結節を患い、切り捨てられることになる、不遇の天才ボーカリストだった。律はドアノブに手をかけたまま止まった。前の人生でも、名前は知っていた。レコーディング室の隅で何度かすれ違い、ある日突然、育成生名簿から消えた子。喉を壊して故郷に帰ったと聞いたのは、それから何年も後のことだ。あの頃は、自分1人生き残るだけで精いっぱいだった。今度は違う。廊下の奥から、もう1度小さな咳が聞こえた。律はノートパソコンを閉じた。曲を守るより先に、やるべきことができた気がした。薄暗い地下廊下の非常階段。澪は冷たいコンクリートの床で膝
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4話. 歌声
差し出されたペットボトルを見つめたまま、澪の唇が震えた。丸まった楽譜を背中に隠し、強い口調で言う。「同情するなら帰ってください。あなたも会長の顔色をうかがって、地下で曲を書いてるんでしょう。私をかわいそうな人扱いしなくていいです」この会社に、律の立場を知らない者はいなかった。律は水を引っ込めずに答えた。「貴臣が渡した曲、きみの声域にまるで合ってない」「……え?」「きみは高い音を喉で無理やり押し上げるための歌手じゃない。中低音のチェストボイスの質感と、ファルセットからミックスに移るときのざらついた息。それが武器だ。貴臣には、それを聴く耳がない」澪は言い返そうとして、口を閉じた。喉を痛めるたび、自分でも薄々感じていたことだった。トレーナーはいつも、もっと高く、もっと強く歌えと言う。低い声の質感を武器だと言った人は、初めてだった。律は立ち上がり、顎で作業室を示した。「来て。喉を壊さなくてもどこまで歌えるか、自分で聴いてみて」吸い寄せられるようについていった澪は、地下の作業室をぼんやり見回した。律がシンセサイザーの前に座り、鍵盤を押す。ぽろん、と柔らかな音が落ちた。先ほど貴臣に投げてやった刺激的なダンスビートとは、まるで違う。胸を締めつけるような、ヴィンテージR&Bのピアノが狭い室内を満たした。2010年代後半のチャートを席巻したネオソウル・バラードを思わせるコード進行と、重みのあるベースライン。「最初のフレーズは力を抜いて。歌おうとしなくていい。話すみたいに」律はコンデンサーマイクを渡し、テンポを取った。澪は乾いた喉を鳴らし、おそるおそる最初の言葉を歌った。「……雨の降った、あの夜も……君を忘れられなくて……」歌い終わっても、喉が痛まなかった。低い声は砂粒のようにざらつき、語尾には薄く息が混じる。古いマイクが、その質感をそのまま拾った。澪は、自分の声を初めて聴くような顔でヘッドフォンを押さえた。同じフレーズを、もう1度。今度は言われたとおりに肩を落とし、最後の音を押し出さない。いつもなら刃物で引っかかれるように痛む喉が、何ともなかった。片耳を外し、律を見る。知らない男への警戒は消えていない。それでも、たった今聴いた自分の声は否定できなかった。「こ、これ……私の声ですか……?」信じられず、自分の喉に指を当て
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5話. 脱出
ドン、ドン、ドン!薄いベニヤのドアが、壊れそうな勢いで揺れた。貴臣直属のマネージャーたちの怒鳴り声が、廊下に響き渡る。澪の顔から血の気が引いた。久世エンターテインメントのラウンジには、大口スポンサーや政財界の関係者が出入りする。デビューを餌に、立場の弱い育成生を接待の酒席へ駆り出す場所として、社内でも悪名が高かった。「り、律さん……どうしよう……捕まったら、もう……」指先が、はっきりわかるほど震えていた。律は落ち着いた手つきでその手首を取り、作業室の奥へ導いた。地下の配管室につながる、錆びた鉄の非常扉だ。「静かに。俺の後ろにいて」先に扉を押し開ける。澪は、つかまれた手首を見下ろした。痛くない程度に、しっかりした力。ただ引っ張るのではなく、段差の前では速度を落とし、暗い階段には先に足を置く。「ここ、もう1段ある」振り返らずにそう言う声が、妙に心に残った。この数年、「ついてこい」と何度言われただろう。向かう先は大抵、審査室や接待の席、誰かの顔色をうかがう場所だった。その言葉が初めて、安全なほうを指していた。律は非常口を開け、澪とともに建物裏のごみ置き場へ抜けた。貴臣の部下たちが地下をひっくり返している頃には、2人は大通りでタクシーに乗り込んでいた。律が運転手に告げる。「下北沢のライブハウス街まで。ゼニトーン・レコードの前でお願いします」* * *東京都世田谷区、下北沢。地下スタジオの古びた看板は錆び、照明も切れていた。『ゼニトーン・レコード』。かつてインディーズ黎明期の伝説と呼ばれた相良誠司(さがら・せいじ)が、焼酎の瓶を握ったまま、室内にだらしなく横たわっている。大手事務所のチャート操作と放送枠の独占に押され、レーベルは倒産寸前だった。「……誰だ。うちはもう潰れたよ。差し押さえの札でも貼って帰ってくれ」落ちくぼんだ目で、相良がつぶやく。律はためらわず、革の鞄をテーブルに置いた。ファスナーの内側から現れたのは、500万円の札束と、マスタリング済み音源の入ったUSBだった。母が律名義で残してくれた保険金と預金。そのうち、本家すら存在を知らなかった最後の金だ。前の人生では、ただ守ることしかできなかった。今度は、誰かの声を救うために使う。「相良代表」低く落ち着いた声が、静かなスタジオに通った。「朝倉
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6話. 午前3時のメロディー
8日後。2011年5月24日、正午。弁護士は暴言と強要を記録した音声を添え、久世エンターテインメントに育成契約の解除を通知した。会社が対応を協議している間に、インディーズレーベル『ゼニトーン』から新人歌手・朝倉澪のデジタルシングル『午前3時のメロディー』が、各音楽配信サイトへ一斉にリリースされた。大手事務所の数千万円規模の宣伝も、地上波の音楽番組への出演もない。初日、国内最大手の音楽配信サイトでは、デイリーチャート850位圏外だった。このまま埋もれる、無名の新人の1曲にしか見えなかった。だが律は、後にショート動画と呼ばれる、短いフレーズを繰り返し聴かせる力を知っていた。個人ブログのBGM紹介欄、まだ新しいSNSの音楽ページ、大手の音楽コミュニティー。40秒のハイライト動画と試聴リンクを、時間をずらしてそれぞれに投稿していく。【やばい声の新人見つけた。1分20秒から鳥肌】【作曲MAESTROって誰? ビートが海外のポップス並みなんだけど】リンクは音楽掲示板の外へ広がった。誰かが印象的な部分をブログのBGMにし、別の誰かが歌詞の1行とともに曲のアドレスを貼った。リリースから24時間。再生数が目に見えて伸び始める。そして3日目、5月26日午後7時。【リアルタイム音楽チャートTOP 100――72位に初登場!】ゼニトーンの地下スタジオでは、誰も声を出せなかった。澪が画面を3回更新してから、ようやく口を開いた。「……これ、本当に私の名前ですよね?」「朝倉澪」律が画面を指した。「きみの名前だよ」澪は笑って、そのまま泣いた。慌てて背を向けたが、もう遅かった。律はティッシュを手渡さず、コンソールにそっと置いた。彼女が自分で取るまで待つ。その小さな気遣いのほうが、その日の72位より長く心に残った。* * *同じ頃、久世エンターテインメント15階、専務室。自分の名前を統括プロデューサーとして掲げる新人プロジェクトの発表会を準備していた貴臣のもとへ、秘書が駆け込んできた。「専務、大変です! 契約を切った朝倉澪の曲が、リアルタイムチャートに入りました!」「何だと? あの女の歌が72位?」貴臣は決裁書類を投げ出して立ち上がり、秘書の襟をつかんだ。手にしていた高級なクリスタルのウイスキーグラスが大理石の床へ落ち、派手な音を立てて
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7話. チャート1位
翌日になっても、順位は落ちなかった。『午前3時のメロディー』は更新のたび、1つ、2つと階段を上がっていく。日付が変わった頃には、夜通し勉強する受験生や、残業に疲れた会社員のブログ、SNSのタイムラインを通して、火のつくように広まっていた。【夜中に1人で聴いて号泣した】【この声、もう人間国宝でしょ】【MAESTROって誰? 次の曲いつ?】コメントは何万件にも膨れ上がった。午前1時。72位だった曲が、35位、12位を一気に抜き去る。ついにはリアルタイム占有率のグラフが上限を突き抜けた。【国内主要4配信サイト、リアルタイム1位を独占!】数千万円規模の宣伝費を投じたトップアイドルの新曲が、無名の新人の歌に次々と追い越されていった。* * *それから2週間余り。2011年6月10日、金曜日。お台場、TBN新館の公開ホール。生放送番組『ミュージックステージ』の1位候補控室には、張り詰めた空気が漂っていた。3週連続1位を守ってきた大手事務所のボーイズグループと、デビューから2週間で候補になった澪。2組の名前が並んでいた。ステージへ出た澪は、震える手でマイクを握った。ピアノのイントロが流れ、客席の隅にいた律と目が合う。それだけで、手の震えが止まった。リハーサルで、彼が言ったのはひと言だけだった。「高い音を当てようとしなくていい。最初のフレーズだけ、自分のものにすればいい」不思議なおまじないだった。みんなが1位候補のステージだと高音やアドリブを心配する中、律だけが歌い出しの話をした。今なら、理由が少しわかる。地下の作業室で、自分の声を初めて聴いたあの瞬間。あの感覚さえ取り戻せばよかったのだ。客席の律は、表情を変えない。ただ澪が息を吸うタイミングに合わせ、指先で小さく拍を取った。1、2。澪は笑わなかった。けれど心臓は、不思議なほど落ち着いていた。1度唇を閉じ、練習のとき言われたとおりに肩を落とす。伴奏の切れた空間へ、最初の声がまっすぐ通った。高音域でも失われない力。低い音に戻ったときのざらついた質感。数百人の観客が、息をのんだ。歌い終わった瞬間の歓声は、ホールごと揺らす勢いだった。「今週のミュージックステージ、第1位は……澪さんです! おめでとうございます!」紙吹雪の降るステージで、澪はトロフィーを胸に抱え、
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8話. 盗作疑惑
配信チャート1位の余韻も冷めないうちに、盗作の記事が出た。【独占】逆転ヒットの新人・澪『午前3時のメロディー』に盗作疑惑――久世専務の未発表曲と酷似【徹底追及】巨大資本に立ち向かう無名新人。その実態は楽譜盗用による茶番か月曜の朝、ポータルサイトの芸能トップは、久世エンターテインメントがばらまいた記事で埋まった。貴臣がグループの資金力を使い、芸能担当のデスク級記者数十人に金と接待を与え、一斉に仕掛けた世論工作だった。記事には、『午前3時のメロディー』のサビ8小節と、貴臣の未発表ムーンバートン・デモを比較した楽譜が添えられていた。アレンジもジャンルも違う。それでも、中心となる歌の旋律は同じだった。久世側の法務部は待ち構えていたように、ゼニトーン・レコードと朝倉澪に対する5億円の損害賠償請求、音源販売差し止めの仮処分申立てを東京地方裁判所へ提出した。番組出演を止め、音源を消すための、大手事務所らしい強引なやり方だった。世論は、あっという間に濁った。【信じてたのに、結局パクリかよ】【無名の事務所が1位って時点で怪しかった】配信サイトには、中傷が一斉に流れ込む。音楽番組のプロデューサーまで、仮処分の話を聞くと澪の出演を取り消し始めた。「律さん、記事に楽譜まで載ってます。私が盗んだって言われて……本当に、大丈夫なんですか?」下北沢の地下スタジオ。澪はスマートフォンを伏せたが、指先は白くなっていた。相良も裁判所の書類と内容証明を交互にめくり、額を押さえている。「久世は大手の法律事務所を3つもつけた。仮処分が認められたら配信は即停止だ。違約金まで来たら、うちは潰れるぞ、律君」だが窓辺でコーヒーを飲む律に、焦りはなかった。ノートパソコンを開き、短く笑う。「同じ8小節を証拠に出した時点で、向こうの負けです。こちらには先に登録した原本がある」画面には、数日前に貴臣がメディアへ配った会見予告が表示されていた。【久世エンターテインメント統括専務・久世貴臣 盗作被害に関する記者会見/原作者としての証拠を公開】貴臣は、地下で律が渡したデモのプロジェクトファイルを持ち出し、サビの8小節も自分で作ったと言い張るつもりだ。その原曲も罠用のアレンジも、先に同じサーバーへ登録されているとは知らずに。「澪」律が近づき、そっと肩に手を置いた。彼女が見上
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9話. 認証情報
午後2時。六本木、久世ホテルのグランドボールルーム。数百人の記者と地上波テレビ局のカメラが、会見場を埋め尽くしていた。イタリア製の高級スーツを着た貴臣が、沈痛な顔で壇上へ上がる。「音楽を愛する皆様。私は、魂を込めて作った旋律を、卑劣にも盗まれました。新人歌手の澪と、正体不明の作曲家MAESTROは、私の未発表デモを違法に複製し、音楽業界を混乱させたのです」合図をすると、大型スクリーンに、彼が作業したというシーケンサーのプロジェクトと作成日時が映った。一斉にフラッシュが走る。貴臣は内心ほくそ笑んだ。被害者を演じながら、自分の手がけた次の新曲まで宣伝できる。「したがって、著作権侵害に対して、法による厳正な――」その声を遮るように、記者席のスマートフォンが次々に震えた。報道陣の共通メールに、リンクが届いていた。【MAESTRO原本検証・生配信】「あのリンク、スクリーンに出してください!」記者から要求が飛ぶ。進行スタッフがリンクを開くと、画面が黒く切り替わり、加工された声が会場のスピーカーから流れた。『貴臣専務。他人の曲を持ってきて、原作者のふりですか』画面に、白い文字が浮かぶ。【OFFICIAL STATEMENT FROM MAESTRO】記者たちは即座に、スクリーンと貴臣へカメラを向けた。「な、何だこれは! 電源を落とせ! 配信を切れ、この役立たずども!」貴臣がマイクを放り投げ、スタッフを指さす。画面を閉じようとしたときには、もう遅かった。国内の動画サイト2つと、海外の配信パートナーチャンネルでも同じ検証配信が始まり、記者は手元の端末で録画していた。ざらついたノイズの後、加工された声が再び響く。『久世エンターテインメントの久世貴臣専務。あなたは、自作だとするムーンバートンのプロジェクト作成日時を、2011年5月16日午後5時12分だと主張しましたね』先ほど貴臣が誇らしげに見せた、DAWプロジェクトのメタデータが拡大された。ざわめきが広がる。『では、こちらをご覧ください』画面の左側に、新しいウインドウが開いた。世界的なインディーズ音源プラットフォーム、ミューズヴォルト。そのスイスのサーバーに残された、原本ファイルのハッシュ値と登録時刻だった。【TRACK A: Moombahton Trap Demo】【T
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10話. 逆転
貴臣が証拠として持ち出したプロジェクトが、逆にMAESTROの原本を証明していた。原本を持つ者しか埋め込めない認証情報だ。記者席のあちこちで、一斉に声が上がった。「盗作されたんじゃない。久世専務のほうが、曲を丸ごと盗んだんじゃないか!」「盗んだうえに被害者のふりをして、5億円も請求したのか?」貴臣の顔から、血の気が引く。絶え間なくフラッシュが走り、マイクとカメラが顎の下へ押し寄せた。「久世専務、説明してください! MAESTROの曲を盗んで、新人をデビューさせようとしたんですか?」「澪さんへの訴訟は、自作自演だったんですか!」「どけ! どけって言ってるだろ、クソが!」鞄で顔を隠し、警備員の間をすり抜ける。その姿はすでに、複数のテレビ局の生中継に映っていた。* * *下北沢、ゼニトーンの地下スタジオ。配信を見ていた相良が歓声を上げ、律を抱き締めた。「律君! あいつ、自分の口で原本を証拠だと言ったぞ。これなら仮処分でも戦える!」澪も涙をこぼしながら、律の服の裾をつかんだ。「私、もうあの歌、歌い続けていいんですよね?」「仮処分の審尋は残ってる。でも、この映像と原本があれば、簡単には覆せない」浮ついた慰めではなく、次の手続きを伝える。澪はその現実的な答えを聞いて初めて裾を離し、大きく息を吐いた。「律さん」「何?」「さっきの会見、見ていて怖くなかったですか?」律は答えなかった。澪は、彼の右手を見た。膝の上に置かれた指が、かすかにこわばっている。平然とした顔とは違い、手の甲には筋が浮いていた。「……怖かったんですね」律の視線が戻る。「何が」「間違えるのが」短い沈黙が落ちた。「俺が間違えたら、きみが傷つくから」澪は口を閉じた。復讐を仕掛ける人の言葉にしては、妙に優しい。いや、優しいと気づかれたくない人の言葉に近かった。裾をつかんでいた手を、なんとなく後ろへ隠す。さっきよりも、心臓が速かった。律は画面から目を離さなかった。貴臣は、公の場で嘘をついた。その嘘は今、記事と映像、サーバーの記録になって残っている。最初の1手は、確かに決まった。* * *その夜、澪は寮に帰らず、ゼニトーンの小さな休憩室のソファで眠ってしまった。記事や中傷を確認して疲れ果て、スマートフォンを握ったままだった。作業を終え
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