INICIAR SESIÓN35歳で殺された天才作曲家カン・ドジュンは、2011年へ回帰する。匿名プロデューサーとして音楽界を席巻し、財閥一族への復讐を始めた彼。そんな冷徹な彼の心を変えたのは、捨てられかけた練習生ユン・シアの歌声だった。世界の頂点より欲しくなった、たった一人との物語。
Ver más雨の夜、多摩川沿いの幹線道路はひどく滑りやすかった。
廃車寸前の軽自動車。そのひしゃげた車内で、久世律(くぜ・りつ)は肩で息をしていた。口元から流れた血が、擦り切れたハンドルと助手席のデモテープ、楽譜の上に滴り落ちる。
サイドミラーの向こうで、巨大なダンプカーのヘッドライトがまぶしく瞬いた。
ブレーキの故障なんかじゃない。初めからこの車を押し潰し、川へ突き落とすつもりで追ってきたのだ。
スマートフォンが震えた。
ダッシュボードの上、ひびの入った画面に名前が浮かぶ。
【久世エンターテインメント 統括専務・久世貴臣】
血に濡れた指で通話ボタンを押す。スピーカーから聞こえてきたのは、冷え切った、傲慢な笑い声だった。
「ご苦労だったな、律。この10年、お前が地下で書いてくれた30曲のおかげで、俺は今年の国内音楽プロデューサー賞で最優秀プロデューサーに選ばれたよ」
「貴臣……この、クソ野郎……」
律は血を吐き、奥歯を噛み締めた。
「怒るなよ。妾の腹から生まれたお前を拾って、飯を食わせてやったのは誰だ? お前みたいな影は、一生俺の名前で曲を書いて、黙って消えればいい。それが久世家の秩序なんだよ」
久世貴臣(くぜ・たかおみ)の声は、どこまでも楽しそうだった。
「明日の朝刊は一面だぞ。『久世エンターテインメントの天才プロデューサー、久世貴臣の専属ゴーストライター、常習的な薬物使用の末、飲酒運転で死亡』。死んだ後くらい、俺の名前を売る役に立て」
「俺が……このまま終わると思うか? 地獄の果てまで追いかけてでも、お前の首をへし折ってやる!」
「じゃあ、地獄で頑張れよ。虫けら」
通話が切れた。
25トンのダンプカー。その分厚い鉄のバンパーが、軽自動車の後部を容赦なく押し潰す。
轟音。
骨の砕ける鈍い音とともに、視界が真っ赤に染まった。車体は3回転し、川沿いのガードレールを突き破って宙へ投げ出された。
割れた窓から、冷たい雨が流れ込む。
この15年、グローバル・メイン・シングルズTOP 100や国内の年間チャートを制した数え切れないメロディー。和音。ビート。その断片が、嵐のように律の耳を駆け巡った。
(このまま死ねるか……俺の音楽を盗んだあいつらを、この手で引きずり下ろすまでは、絶対に……!)
「おい、久世律! ふざけてんのか! 練習室で寝てんじゃねえ!」
怒鳴り声と同時に、分厚い楽譜のファイルが後頭部に叩きつけられた。
ゴンッ。
律は目を見開いた。
肺に刺さるような、湿ったカビの臭い。防音材の剥がれた狭い地下室のベニヤ壁。古びたデジタルシンセサイザー。
川沿いの道路も、顔を濡らしていた冷たい雨も消えていた。
「……?」
震える両手を見下ろす。
血まみれだった指には傷ひとつない。関節炎でこわばっていた手首が、信じられないほど軽く動いた。
シンセサイザーの横に置かれた、旧型のスマートフォンが光る。
【2011年5月16日 月曜日 15:15】
2011年。21歳。
久世グループの地下練習室に連れてこられ、貴臣が統括する新人プロジェクトの表題曲を奪われ始めた、まさにその日だった。
「ぼーっとしてないで立て! 貴臣専務が、今夜の役員会に出す仮歌入りのデモをよこせって騒いでるんだ!」
目の前にいるのは、久世エンターテインメントの瀬川課長。後に貴臣の忠犬となり、裏金の洗浄まで引き受ける男だ。
律は、その顔をじっと見た。
前の人生では、この声を聞くだけで体がすくんだ。
戻ってきたのだとわかっても、すぐに喜ぶことはできなかった。
助かったという安堵より先に、治療費の封筒を握って笑っていた母の手が浮かんだからだ。前の人生の最後まで、あの手を守れなかった罪悪感が消えなかった。
曲を奪われたことより、何も知らずに自分を信じてくれた人を、最後まで守れなかったことのほうが深く残っていた。
律は、ゆっくりと手を開いた。
21歳の手には、たこも古傷もない。
まだ、何も失う前の手だった。
(今度は奪わせない)
曲も、名前も、人も。
復讐はその後だ。少なくとも今度は、自分が選んだ人にまで代償を払わせるつもりはない。
(生きて、戻ってきた)
巻き戻ったのは時間だけではなかった。
2011年から2026年までに聴き、分析してきたヒット曲のコード進行。アレンジのデータ。チャートの流れ。
そのすべてが、楽譜のように鮮明に頭の中に残っていた。
「瀬川課長」
翌朝、下北沢のゼニトーン・ミュージック代表室。テーブルには国内トップ歌手や大手事務所の社長から届いた名刺と契約の提案書が、うずたかく積まれていた。デビュー15年の国民的バラード歌手。年間チャート1位を取ったボーカリスト。ヒップホップレーベルの代表。誰もがMAESTROの新曲を1曲手に入れようと、数千万円単位の契約金を提示していた。廊下には、マネージャーたちが送った高級な贈答品まで並んでいる。「律君、白地小切手だけで7枚だぞ。好きな額を書けという人もいれば、株を渡すという会社もある」相良が書類を振った。律は数枚に目を通し、脇へ寄せる。「すでに有名な歌手に渡したら、曲がよかったのか、ファンの力なのかが曖昧になります。今度は、不当に追いやられたバンドを表へ出します。久世が金で作ったデビュー組と、同じ日にぶつけましょう」「また戦争か」「検証です」「君にとっては同じだろ」相良がため息交じりに笑った。そのとき、ソファでプロフィールを整理していた澪が、古い紙を1枚取り上げた。「このバンド、知ってます」4人組の男性バンド、ブルースカイ。かつて大手事務所から音源の不正購入の濡れ衣を着せられ、活動停止に追い込まれた。今は解散寸前だった。ボーカルの高瀬航(たかせ・わたる)は、生活のため配達の仕事をしながら、音楽を離れて就職する準備をしていた。「大学祭の映像を見たことがあります。この人、ライブがすごくよくて。高い声より、真ん中の音域で声がざらつく感じが好きでした」律が澪を見た。「どんな曲が合うと思う?」突然聞かれ、澪はプロフィールから顔を上げた。「私に聞くんですか?」「先に知ってると言っただろ」少し考える。「あまり洗練されたロックじゃなくて……最初はギター1本がいいです。この人の声、飾れば飾るほど損する気がします」律は外付けハードディスクから、ロックバラード『君の痕跡』を開いた。古いアコースティックギターのアルペジオ。サビでは、歪んだギターと荒いシャウトが重なる。澪の目が大きくなった。「これですね」「どうして」「最初の10秒は寂しいのに、サビで怒るでしょう。この人の声と同じです」律の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。「相良さん、連絡を」プロフィールにある番号へ電話をかける。呼び出し音が3回鳴った後、風とバイクのエンジン
深夜。多摩川沿いの二子玉川に、新しく用意したゼニトーンの作業室。律は窓際で炭酸水を飲み、東京の夜景を見下ろしていた。机には、久世グループ秘書室から届いた、統括副社長への就任打診が置かれている。年俸とストックオプションは華やかだった。だが著作権の帰属条項は、最後のページの小さな文字に隠されていた。律はその一文に線を引く。前の人生で何十回も見たやり方だった。金を渡すふりをして、まず人を所有しようとする契約。スマートフォンが震えた。本家の女主人、麗子の番号だった。『律。今どこ? すぐ本家へ来なさい。会長がお呼びです』「わかりました。今から向かいます」電話を切り、ジャケットを取る。そのときドアが開き、ストールを巻いた澪が顔だけ出した。「どこへ行くんですか?」「本家」表情がすぐに曇った。「今から?」「うん」「1人で?」律は笑わず、彼女を見た。「自分の家だろ」「あの人たちがいるところが、律さんの家なんですか?」言ってから、澪は口を閉じた。律の目が、ほんの一瞬揺れたからだ。澪はストールの端をいじった。「ごめんなさい。余計なことを言いました」「いや」律は提案書を内ポケットへ入れた。「そのとおりだ」玄関へ向かう背中に、澪が言った。「練習室、明かりをつけておきます」律が止まる。「どうして」「帰ってきたとき、誰もいないよりいいでしょ」「遅くなるよ」「夜のレコーディングの確認があるんです。どうせ残るので」嘘だった。今日のレコーディングは、もう終わっている。律も知っていた。けれど指摘はしなかった。「鍵、かけてて」「はい」「誰か来たら、先に相良さんを呼んで」「はい」「それと――」言葉が止まる。澪が待っていた。「いや。行ってくる」ドアが閉まっても、澪はしばらく、その場所を見つめていた。* * *元麻布、久世家の大邸宅。大理石の応接室には、息苦しい静けさが漂っていた。上座の宗一郎は葉巻の煙を長く吐き、向かいに立つ律を値踏みするように見た。隣には麗子が、きちんと着物を着て座っている。2人の視線には、婚外子への長年の蔑みがそのまま残っていた。「地下で書いている曲が、そこそこ使えるらしいな」宗一郎の声が低く響いた。「貴臣は少々しくじったが、エンターテインメントはうちの将来を担う事業だ。お前
午前1時。国内最大手の配信サイトで、リアルタイム総合チャートが更新された。代表室で、相良が更新ボタンを2度押す。数字は変わらない。ブースにいたルミナのメンバーと夜勤のスタッフが、ドアの隙間から画面をのぞいた。順位を撮ろうとして、スマートフォンを落としかけた者もいた。【リアルタイム音楽総合チャートTOP 5】1位:LUMINA――『Electric Queen』(Prod. by MAESTRO)2位:朝倉澪――『午前3時のメロディー』(Prod. by MAESTRO)3位:NOVA――『深夜飛行』(Prod. by MAESTRO)4位:橘悠真――『秋の残像』(Prod. by MAESTRO)5位:J-KILL & BIN――『Street Ghost』(Prod. by MAESTRO)この6週間、ゼニトーンはNOVAのモダンロック、橘悠真のバラード、J-KILL & BINのヒップホップを順にリリースしていた。3曲を同時に無理やり押し上げたわけではない。『深夜飛行』は大学周辺のラジオリクエストから。『秋の残像』は個人ブログのBGMから。『Street Ghost』はクラブとヒップホップのコミュニティーから。それぞれに反応が始まっていた。違うリスナー層が、同じ夜、チャートの上で出会ったのだ。アイドルのダンス曲、ネオソウル、ロック、バラード、ヒップホップ。1位から5位まで、クレジットには同じ名前があった。【Produced by MAESTRO】「こんなのある? 1人で全ジャンルを書いて、上位独占って」「MAESTROって誰だよ。曲ごとに全然違うのに、全部同じ人なのか?」配信サイトにはアクセスの遅延が発生した。地上波の夜のニュースも、『音楽業界を揺るがす匿名プロデューサー』として、この現象を取り上げた。国内有数の芸能事務所のトップたちが、曲を得ようと契約書を送ってくる。代表室の電話とファクスは、夜明けまで休まなかった。相良が椅子の背にもたれ、笑った。「律君。名前を明かせば、今夜だけで取材が100件は来るぞ」「まだです」「だろうな」律は5曲の継続再生率と、ダウンロードへの転換率を見比べた。1位という数字より、明日も聴かれる曲かどうかが重要だった。入口でしばらく見ていた澪が、そばに来た。「うれしく
「正しければ、邪魔じゃない」「間違ってたら?」「どこが違うか言うよ」澪は小さく笑った。「本当につまらない答え」「何か、言ってほしかった?」今度は澪が言葉をなくした。律は、何でもない顔でモニターを見ている。なのに、こういうことを突然聞く。人の気持ちがまるでわからないような顔をして、ときどき真ん中だけを突いていく。「いいえ。別に」澪は意味もなく、楽譜の角をそろえた。律は追及せず、コンソールの下にあった紙コップをひとつ押しやった。「ぬるい水」「私のだって、どうしてわかったんですか?」「レコーディングに入ると、コーヒーは飲まないだろ」澪の手が止まった。練習予定。喉の状態。水の温度。律にとっては、ただの作業データかもしれない。けれど澪には、そういうものが妙に長く残った。「他の歌手のことも、全部そうやって覚えてるんですか?」今度は、すぐには答えが来なかった。「必要なことは」短い答え。澪は、それ以上聞かなかった。それでも、口元は少しだけ上がった。* * *2011年7月1日、正午。ルミナのデビューデジタルシングル『Electric Queen』が、全配信サイトで公開された。奇しくもその日は、久世エンターテインメントが制作費10億円を投じた、看板6人組ガールズグループ『スカーレット』の新曲発売日だった。久世は地上波3局の広告枠とポータルサイトのトップを、多額の宣伝費で押さえた。貴臣は六本木の有名クラブを借り切って豪華なショーケースを開き、記者の前で得意げに語った。「スカーレットの新曲は、世界のポップ市場を狙って作った完璧な作品です。1位は当然でしょう。どこの馬の骨ともわからないインディーズの遊びは、もう終わりです」だが、ショーケースが終わる前から、予想と違う数字が出始めた。ルミナは発売1時間で、国内最大手のリアルタイムチャート45位。3時間後に17位。午後5時には4位だった。大手ファンコミュニティーやSNSを中心に、3段高音に挑戦する動画とダンスカバーが広がっていく。ゼニトーン代表室の壁のモニターが、更新のたび数字を書き換えた。最初は歓声を上げていたメンバーも、トップ5に入ると、かえって黙り込んだ。結衣は両手で口を覆い、画面だけを見ていた。「澪さん」彼女の腕をつかむ。「本当に、1位まで行けるんで