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第282話

作者: かおる
星は眉をひそめ、じっと彼を見た。

「神谷さん、まさかここに来て反故にするつもりじゃないでしょうね?」

雅臣は冷え冷えとした声で応じる。

「お前があそこまで言い切った以上、いまさらそんなことすると思うか?」

誇りある男なら、撤回など口にしないはずだ。

だが――この男の腹の内に、どれほどの策略が潜んでいるか分からない。

星は心のどこかで身構える。

策略にかけては、自分は到底彼には及ばないのだから。

雅臣の唇がわずかに弧を描く。

しかし、その眼差しは鋭く冷たい。

「だがお前の持ってきた薬、まだ真偽を確かめていない。

もし毒だったら......金も離婚も失い、何も残らん」

人も財も失う――その言葉を星は静かに反芻した。

彼にとって結婚とは、愛ではなく取引、秤にかける商品でしかないのだ。

情が皆無というわけではないだろう。

そうでなければ、この冷たい婚姻生活を彼女が五年も耐えられるはずがない。

だが――彼の心で清子の存在が、自分よりも遥かに重いことは明らかだった。

星の瞳に淡い嘲笑が浮かぶ。

「毒か偽物か......そんなに不安なら簡単よ」

彼女は立ち上がり、入り口で様子を窺っていた清子に向かって歩み寄った。

清子の心臓がどきりと跳ねる。

離婚をやめるつもりなのか――?

そんな不安が一瞬、顔に走った。

星はその動揺を見逃さず、静かな笑みを浮かべる。

「神谷さんは、私が偽薬を渡して金だけ受け取るのを恐れているの。

だから、こうしましょう」

バッグから薬瓶を数本取り出し、差し出す。

「小林さん、好きな瓶から好きな錠剤を選んで鑑定すればいいわ。

問題なければ、すぐに手続きを続けましょう。

――もし不審な点があれば......離婚はまた仕切り直しね」

清子の瞳がかすかに揺れた。

「......分かったわ」

彼女は瓶から数粒を選び取り、外へ出ようとした。

「待ちなさい」

星の声に、清子の足が止まる。

硬い笑みを張り付けたまま、ぎこちなく振り返った。

「な、なにかしら?」

星はにこやかに告げる。

「私と神谷さんはここで結果を待つわ。

どうか手早くお願いね。

もし遅れたら、この手続きは無駄になる。

次はまた一ヶ月、待たされることになるから」

清子の目がわずかに揺れ、ちらりと雅臣を窺う。

「......雅臣
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コメント (1)
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三代祥子
雅臣の上から目線はほんとに腹立たしい。 子供をネタに星を縛り付けてるクセに、それをやってるのが星と言うし、クズの極み。 自意識過剰にもほとほと呆れるし、施してやってる感出しすぎで殴ってやりたい!
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