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第485話

Author: かおる
綾子の言葉が終わる前に、雅臣の冷たい声が鋭く割り込んだ。

「母さん、何馬鹿なことを言ってるんだ!」

綾子は不快げに顔を曇らせる。

「私が間違っている?

二人が離婚してから、あの女が一度でも翔太を見に来たかしら?」

雅臣の端正な顔にも、同じように冷たい色が宿る。

「どうあれ、星が翔太の母親であることは、永遠に変わらない」

なおも言葉を重ねようとする綾子を、雨音がうまく遮った。

「お母さん、もうやめよう。

葛西先生のお祝いの席が大事よ」

この一言で、綾子は鼻を鳴らし、それ以上は口をつぐんだ。

一方その頃。

一台の控えめな高級車が、街道を滑るように進んでいた。

車内にいたのは、雲井家の三人。

靖が口を開く。

「会社に急ぎの用件が入った。

翔と忠は来られず、屋敷で影子を迎える準備をしている」

正道は頷き、明日香に視線を向けた。

その眼差しには、心配が滲んでいる。

「明日香、体調はどうだ?」

明日香の繊細な目元には、確かに疲れの影が差していた。

彼女はかすかに首を振る。

「大丈夫よ」

正道は言った。

「コンクールがあるなら、そちらを優先しなさい。

葛西先生の祝いには、私と兄が出れば十分だ」

明日香は微笑んだ。

「今回S市に来たのは、影子を迎えるためよ。

昔の誤解を解いておかないと、彼女の心にわだかまりが残ってしまうでしょう。

それに......ワーナー先生も出席されると聞いた。

ヴァイオリンの大家だから、一度お会いしたいの」

正道はうなずき、その表情に安堵が広がる。

今回の旅では、葛西先生の長寿祝いを終えたあとで、星に会う予定もあった。

彼女の立場はいまだ微妙で、今は公にするわけにはいかない。

そう考えながら、正道はふと問いかける。

「明日香......お前は誠一という男を、どう思っている?」

明日香は、父の考えを既に靖から聞かされていた。

彼女はにこやかに答える。

「私は彼を兄のようにしか見ていないわ。

それ以上の感情はないわ」

正道は満足げにうなずいた。

「よく分かっているな。

影子はこの十年、外で多くの苦労を背負ってきた。

お前のように生まれながらに何不自由なく育ったわけじゃない。

お前は影子より一つ年上だ。

姉として、これからは影子に譲ってやることも忘れるな」

言葉を切り、正道
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