映像の中で、翔太の苛立ちを含んだ声が響き続けていた。「彼女なんて、ただの取り柄のない専業主婦だよ。料理くらいしかできないのに、どこがそんなに偉いんだ?そんなことなら、うちの田口さんだってできるさそんなにいいって思うなら、このお母さんをお前にくれてやるよ。僕はいらない。清子おばさんの方が百倍も優れてるんだから、あんな恥ずかしい母親なんかごめんだ!」先ほどまで翔太を礼儀正しい子と見ていた先生たちも、さすがに眉をひそめた。視線には微妙な色が混じり、翔太を見る目が変わっていく。翔太は口を開きかけたが、これ以上は言い訳できない。事実を突きつけられ、言葉が喉で止まり、顔を真っ赤にして星を見つめるしかなかった。星の長い睫毛は伏せられ、感情は読み取れない。やがて映像は揺れ、そこで途切れた。会議室に重苦しい沈黙が落ちる。ただ一人、清子の瞳だけが微かに輝いた。――そうよ。この親子がいがみ合えばいがみ合うほど、関係が冷え切れば冷え切るほど、彼女にとっては好都合。星は投影を切り、冷ややかに言った。「怜くんの携帯からは何も出てこなかったわね。では、私たちはこれで失礼します」そう告げると、怜の手を取り、出口へと向かう。怜は一言も漏らさず、大人しく彼女の傍らを歩いた。その健気な姿に、胸が痛むほどだった。教師たちはただ二人の背中を見送り、目には深い同情を浮かべる。――ひとりは母を持たず、もうひとりは夫と子に拒まれている。なんと哀れなことか。星と怜が扉に手をかけたその時。「待て」低く冷ややかな男の声が背後から響いた。星は足を止め、振り返る。「まだ何か?」その音は淡々としていた。怒りも嘆きもなく、まるで局外者のように冷ややか。雅臣の声は深くて低い。「二つの映像、あまりにも出来すぎていると思わないか」「出来すぎてるって?」鋭い眼差しが、星の隣に立つ怜へと向けられる。「彼の携帯に入っていたのは、翔太に不利な映像ばかり。特に最後の一本は、意図的に翔太を陥れているにしか思えない」星の瞳がすっと細まった。「つまり......怜くんが仕組んだとでも?」「違うのか?」その言葉に、場の空気が凍りつく。星はあきれたように雅臣を見据えた。「あなた、
それは親子イベントのときの映像だった。競技で一位を取った翔太は、友だちに囲まれ、得意げな笑みを浮かべていた。「翔太、さっきゲームに出てたのは、君のパパとママだよね?」翔太は一瞬ためらったが、こくりとうなずいた。たちまち子どもたちの間から羨望の声が上がる。「翔太のパパ、すごくかっこよくて迫力あるし、ゲームも強いね!」「翔太のママもきれいで優しそう!」褒め言葉の嵐に、翔太の胸は大きく膨らむ。小さな顎を誇らしげに上げ、称賛を受け止めていた。すると誰かが尋ねた。「でも翔太、今まで一度もママのこと話さなかったじゃん。もしかして、ママがいないのかと思ってた。そうだ、君のママって何のお仕事してるの?」翔太は胸を張り、誇らしげに答えた。「僕のママはヴァイオリニストなんだ。すごく上手で、もうすぐ全国を回るコンサートを開くんだよ!」「わぁ!」「ほんとに!」歓声と驚きが次々に飛ぶ。「翔太のママって、すごいんだね!」「そりゃ翔太が隠したくなるはずだよ。もし僕のママがそんなにきれいで立派だったら、取られないように隠すもん」「いいなぁ。僕のママは専業主婦で家にいるだけ。おばあちゃんにヒモだなんて言われてるんだ。恥ずかしいから話したくないよ。やっぱり翔太のママが一番だ」口々に褒め立てられ、翔太の心は有頂天だった。そこへもう一人の子が首をかしげる。「でもこの前見たよ。翔太を送ってくるきれいなおばさん。あの人、ママじゃないの?」翔太の顔がこわばる。「違う!あの人は僕のママじゃない。ただの家政婦だ」映像はそこで終わった。会議室には重苦しい沈黙が落ちる。星の手は無意識にきゅっと握り締められていた。――彼女はすでに、清子や怜の口から「翔太がそう言っている」と聞いていた。それでも、息子の口から直接、冷たく突き放す言葉を耳にした瞬間、胸に突き刺さる痛みは耐えがたかった。スクリーンの映像を見て、翔太の目には一瞬、動揺の色が走った。清子がそっと彼の手を握り、落ち着かせる。翔太はようやく平静を装った。その後に映されたのは園の日常で、特に変わったものはなかった。だが最後の一本が、再び皆の目を引きつけた。画面に映っていたのは――怜が翔太に
「星野おばさん、ごめんなさい......僕のせいで翔太お兄ちゃんが誤解したんだ」怜は目を赤くしながら携帯を手に取り、ぽつりと言った。「僕、全部消すよ」その姿はあまりにも哀れで、星だけでなく、周囲の先生たちの胸にも痛みを走らせた。家にいる家政婦を母親の代わりにしてしまう――それほど母の愛に飢えていたのだ。怜に、何の罪があるというのだろう。星の胸も締めつけられた。「怜くん、それは消さなくていいのよ。そのまま残しておきなさい」怜はうつむいたまま、小さな声を漏らす。「でも......翔太お兄ちゃんが嫌がるよ」「構わないわ」「でも......」星は柔らかな声で遮った。「誰も傷つけていないなら、他人の顔色をうかがって自分を抑える必要はないの」怜はこくりとうなずき、真っすぐに彼女を見た。「わかった。星野おばさんの言うとおりにする」その時、低く冷ややかな男の声が響いた。「その携帯を見せろ」星の眉がぴくりと動く。「雅臣。子どもの携帯を漁るなんて、さすがにやりすぎじゃない?」雅臣は淡々とした口調で返す。「翔太の性格は熟知している。あいつが嘘をつくとは思えない」星がさらに言い募ろうとしたとき、怜がそっと彼女の袖を引いた。「いいんだよ。神谷おじさんが見たいなら、見せてあげる」その聞き分けの良さに、先生たちは胸を打たれた。――なんて気の利く子なのだろう。星はしばし逡巡した末、うなずいた。だが携帯を雅臣に渡すことはせず、こう提案した。「見るなら、みんなで一緒に見よう。一人の言葉だけを信じるわけにはいかないもの」彼女は幼稚園の先生たちに向かって言った。「ここに投影できる設備がありますよね?」「え、ええ、あります。隣の会議室に」先生は慌てて頷く。一行は会議室へ移動し、怜の携帯画面をスクリーンに映し出した。画面に並んだのは、日常の写真や子どもらしい一言コメントばかり。大したことのない投稿でも、受け取る側の心境ひとつで意味合いが変わってしまう――そんな光景だった。続いて星は、怜のメッセージや通話履歴を確認させた。怪しい点は何もない。「これで、怜くんが翔太を挑発していたわけじゃないと、はっきりしたわね?」星が言うと、清子が
この幼稚園に通えるのは、名家か権力者の子息ばかりだ。皆は小さいころから親に溺愛され、贅沢に甘やかされている。その多くはわがままで手に負えず、誰もが「御曹司気質」か「お嬢様気質」で、年端もいかぬうちから人を見下す態度を隠そうともしない。そんな子どもたちの中で、もっとも礼儀正しく育ちの良さを感じさせるのが、翔太と怜だった。翔太は時に高慢さを見せることがあったが、怜には一切の驕りがない。そのため、ほとんどの教師が怜を好ましく思っていた。母親がいないと聞いてからは、なおさら彼を気の毒に感じていた。彼は素直で賢く、決して嘘をつく子ではない――そういう印象が強かった。だからこそ、怜があれほどまでに守ろうとする相手が、悪い子であるはずがないと多くの教師は思った。一方で、翔太の父は妻に冷たく当たり、口を開けば責め立てるばかり。その翔太も母を恥じて、実の母親を「家の家政婦だ」と言いふらしている。ここまで見れば、周囲の大人たちの目は自然と雅臣と清子に注がれる。――もしかして、子どもの前に平然と愛人を連れてきて、母親を追い出したのではないか?翔太が小さなうちから清子に接し、彼女に吹き込まれたとしても不思議ではない。そのせいで母に冷たく当たるようになったとしても、十分に筋が通る話だった。異様な視線を肌で感じ取った清子は、いたたまれなさに顔を赤らめ、星への恨みをさらに募らせる。一方、怜の言葉を聞いた星の目頭が熱くなる。彼女が怜を世話してから、まだほんの数日。それでも怜はこうして必死に彼女を庇ってくれる。それに比べて、どれほど長く心を砕いてきても、翔太から返ってくるのは敵意だけだった。雅臣の視線は、凍った湖のように冷たく澄み渡っていた。「星。翔太ははっきり言ったはずだ。この子はずっと陰で翔太をいじめ、挑発する写真まで送りつけてきたと」「翔太の性格はわかっている。根拠もなく誰かを憎んだりはしない」雅臣の鋭い眼差しが怜を射抜く。「この子は、お前が思うほど単純じゃない」星の眉がかすかに動く。翔太を育ててきたのは彼女自身。彼の性格も気質も、よく理解している。だからこそ、今の言葉をそのまま信じるわけにはいかなかった。星は怜を見下ろし、静かに問いかけた。「怜くん、本当のところ
清子の目が一瞬で赤く染まり、涙が今にも零れ落ちそうに揺れていた。そのとき、怜のあどけなくも不思議そうな声が響いた。「このおばさん、どうしてそんなに泣いてばかりなの?僕が会う度に泣いてるよ。僕と翔太お兄ちゃんがけんかして怪我したって泣かなかったのに、大人なのに泣くなんて、ほんとに恥ずかしいよ」清子の顔は引きつり、泣くこともやめることもできず、固まってしまう。その場の幼稚園の先生も、さすがに見て見ぬふりができず、慌てて話題を収めた。「あ、あの......とにかく、まずは子どもたちのことを話し合いましょう」星が先生に向き直る。「今回、怜くんが手を出してしまったことについては、翔太に謝ります。怜くんの父親が戻ってきたら、ご両親に対しても改めて謝罪いたします」「今後同じことを繰り返さないと約束しますし、治療費や賠償に関しても、すべてこちらで負担します」「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」この園に通うのは裕福な家庭の子どもばかりだ。治療費や賠償金など、誰にとっても大した問題ではない。大事なのは、親と子どもの姿勢だった。怜はすでに謝罪を済ませ、星の態度も誠意に満ちていた。普通なら、これ以上事を荒立てる理由はないはずだった。だが、問題はややこしいところにあった。星は翔太の母である同時に、怜の保護者でもある――その立場が、この場を複雑にしていた。先生は額の汗を拭いながら、雅臣に視線を送った。「神谷様......怜くんも謝りましたし、保護者の方からも誠意あるお言葉をいただきました。この件について......他にご要望はございますか?」翔太は悔しそうに父に訴える。「嫌だ!謝られても許さない!怜は今日だけじゃない、いつも僕をこっそりいじめているんだ!」雅臣も、翔太の口から何度も「怜にいじめられている」と聞かされていた。冷ややかで鋭い視線が、怜に突き刺さる。あまりの威圧感に、怜はびくりと肩を震わせ、思わず星の胸元へ身を寄せた。星は彼を庇うように抱き寄せ、その視線を遮る。その仕草に、雅臣の目はさらに冷たさを増した。「星......自分の息子が目の前にいるのに、他人の子をかばうのか?」星はちらりと雅臣と清子を見やり、静かに言い放った。「翔太には、あなた
翔太は信じられないという顔で星を見つめた。「でも......お母さん、まだ何があったかも聞いてないじゃないか!」星は静かに言葉を返す。「あなたたちだって同じよ。事情も確かめず、いつだって私のせいにしてきたでしょう?それに......」そう言って、彼女は怜に目を落とし、優しいまなざしを向けた。「私は怜くんを信じてる。理由もなく人を殴る子じゃないもの」ここ最近、星はずっと怜の世話をしてきた。彼は頭の回転が早く、年齢以上にしっかりした子で、その健気さは胸を締めつけるほどだった。夕食のあと、翔太は食べ終えるとそそくさと部屋へ戻ってしまう。だが怜は、後片付けを手伝い、食卓をきれいにしてくれる。食事中もさりげなく彼女に取り分け、どんな料理にも「おいしい」と笑顔を見せてくれた。その満ち足りた表情は、見ているだけで温かな気持ちになる。一方翔太は――ただ自分を責めるばかりだった。そのとき、怜の声が星の思考を断ち切った。「星野おばさん......僕が悪かった。翔太お兄ちゃんが何を言っても、手を出しちゃいけなかった。僕、翔太お兄ちゃんに謝りたい」星は怜を見下ろし、問いかける。「本当に謝る気があるのね?」怜は真っ直ぐにうなずいた。「うん。謝りたい」星の眼差しが柔らぎ、微笑が浮かぶ。「いい子ね。それなら、まず謝ってごらんなさい」怜は翔太の前へ進み出て、頭を下げた。「翔太お兄ちゃん、ごめんなさい。僕が悪かった。殴ってはいけなかった」翔太は名家の子として厳しく育てられてきた。だが結局、まだ幼い子供でしかない。しかもこのところ怜にずっと挑発され続け、感情は揺さぶられていた。彼はぷいと顔をそらし、鼻を鳴らす。「ふん!」許す気など、さらさらなかった。怜は困った顔で星に視線を送る。星は手を差し伸べ、励ますように微笑んだ。「相手が許すかどうかは別のことよ。大事なのは、自分の非を認めて、謝る勇気があるかどうか」「怜くん、ちゃんと責任を取ろうとする姿勢は立派な男の子の証拠よ」その言葉に、怜の瞳はきらきらと輝いた。一部始終を見ていた幼稚園の先生たちは、ようやくはっと気づき、声を上げる。「奥さま......もしかして、榊怜くんの保護者で