LOGINさまざまな百合カップルの愛の形を書いたガールズ・ラブ短編集です。 一話完結形式なのでどのお話から読んでもOKです。
View More世界は、ある一定の条件が揃って初めて、その形を保つことができる。
たとえば、純粋な水は静かに冷やしていくと、氷点下になっても凍らないことがある。「過冷却」と呼ばれるその現象は、きわめて不安定な均衡の上に成り立っている。一見、穏やかな液体に見えるそれは、ほんのわずかな衝撃を与えるだけで、一瞬にして凍りつくのだ。
私、篠宮桜にとって、早坂漣歌との関係はまさにこの過冷却の水に似ていた。
放課後の図書室には、西日が長く伸びていた。
十一月半ば。窓の外の銀杏並木は黄金色に輝き、時折吹く風に舞った葉が硝子に当たってかさりと音を立てる。古い紙の匂いと、微細な埃が舞う光の粒子。その中で、カリ、と硬質な音が響く。
隣に座る漣歌が、小瓶から取り出した琥珀糖を齧った音だ。
「桜ちゃん、ここの微分のところなんだけど」
漣歌がシャープペンシルの先で数学の問題集を指し示す。彼女の指先は白く、爪は桜貝のように薄いピンク色をしている。その指に、うっすらと白い粉がついているのが目に入った。琥珀糖の砂糖衣だ。
私は小さく溜息をついてから、彼女のノートを覗き込んだ。いつものことだ。漣歌の数学は、基礎は理解していても応用が効かない。それは彼女が感覚的に物事を捉えるタイプだからで、論理的思考を要求される数学とは根本的に相性が悪いのだ。
「……漣歌、そこは合成関数の微分だから、まずは外側の関数を微分して、そのあとに中身の微分を掛けるの。チェーンルールって言ったでしょう?」
「うーん、なるほど? 桜ちゃんの説明はいつも分かりやすいねえ」
漣歌はふにゃりと笑うと、また一つ、宝石のような青い琥珀糖を口に放り込んだ。口の中で転がすようにして味わう仕草が、どこか子供っぽい。
寒天と砂糖を煮詰めて結晶化させたその菓子は、外側は磨りガラスのように硬く、内側はゼリーのように柔らかい。その矛盾した食感は、どこか彼女自身に似ていた。
天真爛漫で、少し抜けていて、私がいないと危なっかしくて見ていられない。
たとえば、三年前。
私たちが出会ったのは、高校の入学式の日だった。偶然隣の席になった彼女は、配布された書類をすべて机の下に落とし、慌てて拾い集めていた。私が手伝ってやると、彼女は満面の笑みで「ありがとう! あなた、神様?」と言った。
神様などではない。ただ、効率の悪い人間を見ると、システムを最適化したくなる性分なだけだ。
それから私たちは親友になった。いや、正確には、私が彼女を管理するシステムの一部になった。
朝は七時にモーニングコール。寝坊しがちな彼女を起こす。
昼は私が栄養バランスを考えて弁当を二人分作る。彼女は「桜ちゃんのご飯、世界一美味しい!」と無邪気に喜ぶ。
放課後はこうして勉強を教え、提出物の期限を管理し、持ち物チェックをする。
彼女の成績、提出物の期限、体調管理、それら全てを私が制御(コントロール)することで、漣歌という存在は最適化されている。それが私にとっての日常であり、幸福な「平衡状態」だった。
窓の外で、誰かがバスケットボールを弾ませる音が聞こえる。規則的なリズム。世界は予測可能で、秩序立っている。
「ねえ、桜ちゃん」
問題を解き終えたのか、漣歌が頬杖をついて私を見つめていた。夕陽が彼女の鳶色の瞳を透かし、琥珀色に輝かせている。長い睫毛が影を落とし、その表情には普段の天真爛漫さとは異なる、何か思慮深いものが浮かんでいた。
「ん、何?」
私は参考書のページをめくりながら答える。次の単元の予習に入るつもりだった。今日中に三章分を終わらせる計画だ。
「私ね、進路希望調査票、出したよ」
「そう。漣歌なら地元の私大の文学部がA判定だし、妥当な線だね」
私は手元の参考書から目を離さずに答えた。その返答は既にシミュレーション済みだった。私の進路は地元の国立大学理学部ですでに決定している。漣歌の学力なら、通学圏内の大学に進むのが最もリスクの少ない、論理的な選択だ。これからも私は、彼女の生活圏内で彼女を守り続けることができる。
完璧な計画だった。
私たちは大学に進学しても同じ街に住み、私が適度に彼女の生活を管理し続ける。彼女は私に依存し、私は彼女を必要とする。その相互依存のシステムは、熱力学的に見ても極めて安定した状態だ。
「ううん、違うの」
ページをめくる私の手が止まる。
漣歌の声には、いつもの甘えるような響きが含まれていなかった。その声のトーンの変化に、私の心臓が一拍跳ねる。
「私、東京の美大に行こうと思ってる。油絵科」
カタン、と私の手からシャープペンシルが滑り落ちた。
その乾いた音は、過冷却の水に落とされた氷の欠片のように、私の思考を一瞬で凍結させた。
思考回路が停止する。いや、停止したのではない。あまりにも多くの変数が同時に発火し、演算能力がオーバーフローしたのだ。
東京。美大。油絵科。
それらの単語は、私の構築した完璧なシステムとは全く異なるパラメータを示していた。
「……は?」
声が裏返る。普段の私なら決してしない、感情の露呈。
漣歌は少し申し訳なさそうに、しかし確固たる意志を込めて続けた。
「ずっと考えてたんだ。絵を描くのが好きだし、もっと本格的に勉強したいなって。夏休みにオープンキャンパス行ってきたの。それで、やっぱりここで学びたいって思った」
「待って。論理的に考えて」
私は無意識のうちに早口になっていた。心拍数が上がり、冷静さを装うための仮面(ペルソナ)にひびが入る。体温が上昇し、掌に汗が滲む。生理的反応を制御できない自分に、更なる焦りを覚える。
「東京での一人暮らしのコスト、美大の倍率、卒業後の就職率、リスクが高すぎる。それに、漣歌は一人で朝も起きられないし、栄養管理だってできないじゃない。誰がそれをサポートするの? 三食カップ麺で生活して、体を壊すのが目に見えてる」
私の声は次第に大きくなっていた。図書室の静寂を破る、感情的な声。数人の生徒がこちらを見る。
司書の老教師が「静かに」と注意する声も耳に入らない。
「それは……頑張るよ、一人で」
漣歌の声は小さかったが、その奥には揺るがない何かがあった。
「頑張るでどうにかなる問題じゃない。これは確率とリソースの話よ。君の生活習慣を三年間観察してきた私が言うんだから、データに基づいた客観的な分析なの」
漣歌は、私の言葉に反論しなかった。ただ、困ったように眉を下げ、しかしその瞳の奥にある光だけは、決して揺らいでいなかった。
彼女の瞳には、私が今まで見たことのない、静かな決意が宿っていた。
その時、私は悟ってしまった。
彼女は相談しているのではない。決定事項を報告しているのだと。
私の管理下にあったはずの変数が、私の計算の外へ飛び出そうとしている。システムに想定外のエラーが発生している。そして私には、それをデバッグする手段がない。
喉の奥が、乾いた砂糖を飲み込んだ時のように焼きついた。
「桜ちゃん、怒ってる?」
漣歌が不安そうに私の顔を覗き込む。その仕草さえも、いつもなら微笑ましく思えたのに、今は胸を締め付ける。
「……怒ってない。ただ、驚いただけ」
嘘だ。怒っている。いや、怒りではない。これは恐怖だ。
彼女が私の手の届かない場所へ行ってしまう恐怖。
私の存在理由が失われる恐怖。
「ごめんね、突然で。でも、桜ちゃんには一番に伝えたくて」
漣歌が私の手を握る。その温もりが、今はやけに熱く感じられた。
西日が更に傾き、図書室は茜色に染まっていく。
その美しい光の中で、私の世界は音もなく崩れ始めていた。
エントロピー増大の法則によれば、自然界のあらゆる事象は、秩序ある状態から無秩序な状態へと向かう。
私の世界はあの日以来、確実に崩壊へと向かっていた。
教室の窓を叩く秋の雨音が、ノイズのように思考を阻害する。
十一月の終わり。外気温は急激に下がり、暖房の効いた教室内との温度差で窓硝子に結露が生じている。その水滴が不規則に流れ落ちる様子を、私はぼんやりと眺めていた。
進路指導室から出てきた漣歌の背中を見かけるたび、私の胸には黒い澱のような感情が堆積していった。
それは「親友の夢を応援すべき」という理性と、「私の目の届かない場所へ行かせたくない」という独占欲の葛藤だった。いや、もっと醜いものだ。
私は、漣歌が無力でいることを望んでいたのだ。
私がいなければ何もできない彼女でいてくれることが、私の存在意義(アイデンティティ)を保証していた。彼女が自立しようとすることは、私にとっての「死」と同義だった。
その真実に気づいてから、私は自己嫌悪に苛まれていた。
生徒会の仕事中も、授業中も、一人で家にいる時も。常に漣歌のことが頭から離れない。彼女の笑顔を思い出しては、それが遠ざかっていくような錯覚に襲われる。
「篠宮、ちょっといいか」
昼休み、クラスメートの一人、田中が声をかけてきた。彼は漣歌の友人でもある。
「何?」
「早坂のこと、なんだけどさ」
その名前を聞いただけで、私の心臓が跳ねる。
「彼女、最近美術室にこもりっきりだろ? ポートフォリオ作ってるらしいんだけど、桜は何か聞いてる?」
「……特には」
「そっか。なんか最近、早坂と篠宮、ちょっと距離あるなって思って。喧嘩でもした?」
「してない」
私は短く答えて、話を打ち切った。田中は不思議そうな顔をしたが、それ以上追及してこなかった。
距離がある、か。
正確には、私が一方的に距離を取っているのだ。
漣歌から逃げている。彼女の決意に満ちた瞳を見るのが怖くて、美術室に近づくことさえできない。
放課後、生徒会室で書類仕事をしていると、副会長の橋本が心配そうに声をかけてきた。
「会長、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
嘘だ。昨夜も眠れなかった。
ベッドに横になっても、天井を見つめながら漣歌のことばかり考えている。東京で一人暮らしをする彼女を想像する。朝起きられず遅刻する彼女。栄養の偏った食事をする彼女。病気になっても誰も看病してくれない彼女。
そして、新しい友人ができて、私のことなど忘れてしまう彼女。
その想像は、胸を掻きむしられるように痛かった。
「桜、顔色が悪いぞ。文化祭の準備、無理しすぎじゃないか?」
六時間目が終わった後、担任の松田先生に声をかけられた。
私は曖昧に笑って誤魔化した。
「大丈夫です。ただの睡眠不足ですから」
「そうか。でも、無理はするなよ。お前は優秀だが、完璧主義が過ぎるところがある」
完璧主義。
その言葉が胸に刺さる。
そうだ、私は全てを制御下に置きたがる。変数を最小化し、リスクをゼロにしたがる。でも、人間関係において完璧なコントロールなど不可能だ。それは論理的に考えれば自明なのに、私は漣歌に対してだけは、その真理を認められなかった。
私は優秀な生徒会長であり、頼れる委員長だ。個人的な感情でパフォーマンスを落とすことなど、論理的に許されない。
だから私は仮面を被る。完璧な優等生の仮面を。
しかし、その仮面は日に日に重くなっていった。
放課後、美術室の前を通りかかると、油絵の具の独特な匂いが漂ってきた。
テレピン油と亜麻仁油の混じった、濃密で有機的な香り。
足が勝手に止まる。
少し開いたドアの隙間から、キャンバスに向かう漣歌の姿が見えた。
髪を無造作に束ね、汚れてもいいようにつなぎを着て、真剣な眼差しで筆を走らせている。その横顔には、創造者特有の集中力が宿っていた。
筆を握る手つき。キャンバスに向かう姿勢。全てが、私の知らない「早坂漣歌」を物語っていた。
彼女はもう、私が守るべき庇護対象ではないのかもしれない。その事実は、私を激しく打ちのめした。
キャンバスには、まだ描きかけの風景が広がっている。荒々しいタッチで描かれた空。それは嵐の前の静けさを表現しているようにも、何かを渇望する魂の叫びのようにも見えた。
漣歌は、こんなにも才能があったのか。
私が知っていたのは、数学ができなくて、朝起きられなくて、部屋が散らかっている彼女だけだった。でも、彼女にはこんな一面もあったのだ。
私の知らない才能。私の管理が及ばない領域。
それは嬉しいはずなのに、どうしようもなく寂しかった。
私は逃げるようにその場を離れようとして、足元の筆洗い用のバケツに躓きかけた。
ガタン、と大きな音が廊下に響く。
しまった。
「……桜ちゃん?」
漣歌が顔を出した。筆を持った手には、さまざまな色が混じり合い、混沌とした美しさを生み出していた。カドミウムレッドとウルトラマリンブルーが混ざり合って、深い紫を作り出している。
彼女の目が、私を捉える。
その瞳には驚きと、そして少しの悲しみが浮かんでいた。
「ごめん、邪魔したわね」
私は冷たく言い放って、その場を去ろうとした。
「待って」
漣歌が廊下に出てきて、私の腕を掴む。絵の具のついた指が、私の制服の袖に色を移す。
「ねえ、ちょっと話せない? お願い」
その懇願するような声に、私は拒否できなかった。
漣歌に手招きされ、私は強張る足を動かして美術室に入った。
室内は油絵の具の匂いで充満している。窓際には何枚ものキャンバスが並べられ、イーゼルには描きかけの作品が立てかけられている。
描きかけのキャンバスには、抽象的な色彩の嵐が描かれている。激しくて、でもどこか寂しい色合い。赤と青と黄色が複雑に絡み合い、何かを訴えかけているようだった。
「これ、何を描いてるの?」
私は思わず尋ねていた。
「感情」
漣歌が短く答える。
「言葉にできない感情を、色で表現してるの。この絵はね、『すれ違い』っていうタイトルをつけようと思ってる」
すれ違い。
その言葉が胸に突き刺さる。
「桜ちゃん、最近避けてるでしょ」
「そんなことない。受験勉強と生徒会の仕事が重なって、リソース配分が上手くいってないだけ」
嘘を重ねる。まるでフィボナッチ数列のように、嘘が嘘を呼んで増殖していく。
「嘘だ」
漣歌が、私の真正面に立った。
絵の具のついた指先が、私の制服の袖を掴む。その力は意外なほど強かった。普段の頼りない彼女からは想像できない、確固たる意志を感じさせる力。
「私が東京に行くのが、そんなに嫌?」
その問いかけに、私は言葉を詰まらせた。
喉の奥に何かが詰まったような感覚。言葉が出てこない。
「……嫌とか、そういう感情的な話じゃないの。私はただ、客観的に見て君には無理だと言っているだけで」
「客観的に?」
漣歌が苦笑する。その笑顔は、いつもの無邪気なものではなく、どこか大人びていた。
「桜ちゃんにとって、私はそんなにダメな人間? 一人じゃ何もできない、無能な人間?」
その問いかけに、私は言葉を詰まらせた。
違う。そうじゃない。
漣歌は素晴らしい。その感性も、優しさも、誰よりも尊い。彼女の描く絵には、私には決して表現できない何かがある。数式や論理では捉えきれない、人間の本質的な何かを掴んでいる。
ダメなのは私の方だ。君を鳥籠に閉じ込め、翼をもぎ取ろうとしている私の方こそが、欠陥だらけの人間なのだ。
けれど、その真実を口にすれば、今度こそ本当の終わりが来る気がした。
沈黙が流れる。
美術室の時計が、秒針を刻む音だけが響く。カチ、カチ、カチ。
「……証明してよ」
私の口から零れたのは、冷たく突き放すような言葉だった。自分でも驚くほど残酷な言葉。
「一人でも生きていけるって、私に証明して見せてよ。そうしたら認めるわ」
漣歌は傷ついたように目を伏せた。
その表情を見て、私の心臓が痛んだ。まるで自分で自分を刺したような痛み。
でも、私は謝ることができなかった。
漣歌はゆっくりと顔を上げ、その瞳には涙が滲んでいた。しかし、彼女は泣かなかった。代わりに、静かに頷いた。
「分かった。見ててね、桜ちゃん」
その決意に満ちた瞳を見た瞬間、私の中の何かが音を立てて千切れた。
秩序は失われた。私の心の中は、制御不能な嵐の中にあった。エントロピーは最大値に向かって、加速度的に増大していく。
漣歌は再びキャンバスに向かい、私はその背中を見ることしかできなかった。
窓の外では、雨が強くなっていた。
文化祭前夜。
私たちは教室に残っていた。クラスの出し物である「琥珀糖カフェ」の内装仕上げが終わらず、最終下校時刻ギリギリまで作業を続けていたのだ。
十一月最後の金曜日。外は既に真っ暗で、校舎のあちこちで文化祭の準備をする声が聞こえていた。吹奏楽部の音、演劇部のセリフの練習、バタバタと走り回る足音。
不運なことに、空調設備が故障し、教室は冷蔵庫のような冷気に包まれていた。業者が来るのは月曜日だという。よりによって、このタイミングで。
窓の外は漆黒の闇。遠くの校舎から、吹奏楽部がチューニングする不協和音が微かに聞こえてくる。その不安定な音の重なりが、私の神経を逆撫でする。
教室の壁には、クラスメートたちが作った装飾が貼られている。琥珀糖をモチーフにした、色とりどりの飾り付け。キラキラとしたホイル紙で作られた宝石たち。
皮肉なことに、この企画を提案したのは漣歌だった。
「琥珀糖って、見た目が綺麗で食べても美味しいでしょ? それに、作るのも楽しいよ」
彼女がそう言った時、クラス全員が賛成した。漣歌のそういう才能は、私にはない。人を惹きつける何かが、彼女にはある。
そして今、私たちは二人きりで最後の仕上げをしていた。他のクラスメートは先に帰り、残ったのは私たちだけだった。
「寒いね……」
漣歌が白い息を吐きながら、両腕をさすった。
教室の温度計は摂氏五度を示している。外気温より低い。暖房がないと、建物内の方が冷え込むのだ。
私たちは教室の隅、カーテンにくるまるようにして座り込んでいた。作業はあらかた終わっていたが、身体が冷え切って動けずにいた。
「風邪ひくわよ。カイロ、持ってないの?」
私は自分のポケットから使い捨てカイロを取り出し、漣歌に差し出そうとした。
「使い切っちゃった。でも、桜ちゃんは温かいね」
漣歌が遠慮なく私の肩に頭を預けてくる。彼女の体温が、ブレザー越しに伝わってくる。髪からは甘いシャンプーの香りがした。
その温もりが心地よいと同時に、どうしようもなく苦しかった。
この温もりも、あと数ヶ月で私のものじゃなくなる。
東京とここ。物理的な距離は、心の距離を容赦なく引き離すだろう。数式で証明するまでもない自明の理だ。
人間の感情は距離の二乗に反比例する、というわけではないが、物理的な距離が心理的距離に影響を与えるのは、経験則から明らかだ。
週に一度会えればいい方だろう。そのうち月に一度になり、半年に一度になり、やがて年賀状だけの関係になる。
そんな未来が、容易に想像できてしまう。
「ねえ、これ」
漣歌がポケットから小瓶を取り出した。カフェで出す予定の、試作品の琥珀糖だ。青、緑、ピンク、黄色。様々な色の宝石たちが、瓶の中でキラキラと輝いている。
一つ摘み上げ、私の口元に差し出す。
「あーん」
「……自分で食べられる」
私は顔を背けようとした。
「手が冷たいんでしょ。いいから」
拒絶する気力もなく、私は口を開いた。
砂糖の結晶が舌の上で転がり、噛み砕くとジャリッという音と共に強烈な甘さが広がった。外側の硬い砂糖衣が崩れ、内側の柔らかい寒天の層が現れる。その複雑な食感が、口の中で溶けていく。
続けて漣歌も自分の口に放り込む。
「甘いね」
彼女が幸せそうに目を細める。
「……甘すぎるわ。配合、間違えたんじゃない?」
「そうかな。でも、疲れてる時はこれくらいが丁度いいよ。脳が糖分を欲してるもん」
漣歌は笑って、砂糖がついた指先を、無防備に舐め取った。
濡れた舌が指を這う光景。その生々しい質感に、私の視線が釘付けになる。
薄暗い教室の中で、彼女の唇だけが妙に艶やかに見えた。
理性という名の回路が、ショートを起こして火花を散らした。
心拍数が上がる。体温が上昇する。瞳孔が開く。
これは何だ。この感情は、一体何なのだ。
「漣歌」
「ん?」
私は彼女の手首を掴んだ。
思ったよりも強く握ってしまったようで、漣歌が少し驚いたように目を見開く。彼女の手首は細く、私の指で簡単に包み込めてしまう。その華奢さが、逆に私の支配欲を刺激した。
「行かないで」
論理も、プライドも、全てかなぐり捨てた言葉だった。
自分でも驚くほど、切羽詰まった声。
「東京になんて、行かないでよ。ずっと私のそばにいて。私が全部やってあげるから。漣歌は何もできなくていい、ただ私の隣にいてくれれば、それでいいの」
それは愛の告白などではない。呪いだ。
相手の翼を奪い、自分の重力圏に縛り付けようとする、醜いエゴイズムの塊。
軽蔑されると思った。突き飛ばされると思った。
しかし、漣歌は逃げなかった。
逆に、私の頬に手を添え、至近距離から私の目を覗き込んだ。その瞳は、すべてを見透かすように深く、静かだった。
彼女の指は冷たく、でもその瞳には温かい光が宿っていた。
「やっと言った」
「え……?」
思考が追いつかない。
「桜ちゃん、いつも理屈ばっかりなんだもん。本当はずっと、そう言って欲しかった。桜ちゃんの本音が聞きたかったの」
漣歌の指が、私の唇をなぞる。そこにはまだ、琥珀糖の甘い余韻が残っていた。その触感に、私の思考が完全に停止する。
「私ね、東京に行きたいのは本当だよ。でもそれは、桜ちゃんから離れたいからじゃない」
「どういう……こと?」
声が震える。
漣歌は少し悲しそうに微笑んだ。
「今のままじゃ、私は一生桜ちゃんに守られるだけの子供でしょ? それが嫌だったの。桜ちゃんは私のこと、いつまでも無力で、何もできない子供だと思ってる。でも、私だって成長したいの」
彼女の言葉が、心に染み込んでいく。
「強くなって、自立して、桜ちゃんの隣に立っても恥ずかしくない人間になりたかった。対等になりたかったの。一方的に守られるだけの関係じゃなくて、お互いに支え合える関係になりたかったの」
世界が反転する。
彼女は私から離れようとしていたのではない。私に近づこうとしていたのだ。
私たちが共有していた「すれ違い」という名の非対称性は、実は同じ中心を目指す円運動だった。
私は彼女を支配したかった。彼女は私と対等になりたかった。
ベクトルは違えど、目指していたのは同じ「近さ」だったのだ。
「でも、桜ちゃんがそこまで私に執着してくれてたなんて、嬉しい誤算かな」
漣歌は悪戯っぽく笑うと、私の首に腕を回した。
逃げ場のない距離。互いの吐息が混ざり合い、飽和水蒸気量を超えて結露しそうだ。
「キスして、桜ちゃん。共犯者の証に」
その言葉は、私の理性を粉々に砕くハンマーだった。
私は彼女の唇を塞いだ。
琥珀糖のように甘く、そして涙のように少ししょっぱい味がした。
最初は触れるだけの、おずおずとしたキス。でもすぐに、それでは足りなくなった。
何度も角度を変え、互いの存在を確かめ合うように深く、貪欲に。
漣歌の指が私の髪に絡まり、私は彼女の腰を抱き寄せた。体温が伝わり、心臓の鼓動が響き合う。
息が苦しくなって、ようやく唇が離れる。
唇が離れる時、銀色の糸が引いた。
その粘り気のある光景は、私たちの関係がもはや綺麗な友情などではなく、ドロドロに溶け合った不可分な何かへと変質した(相転移した)ことを示していた。
冷え切った教室の中で、私たちの体温だけが異常なほど熱かった。
漣歌の頬は紅潮し、その瞳は潤んでいた。
「もう一回」
彼女が囁く。
「……贅沢ね」
でも私は、彼女の求めに応じた。
二度目のキスは、一度目よりも激しかった。
まるで、これまで抑え込んでいた感情が一気に溢れ出したように。
外の不協和音はいつの間にか止み、ただ二人の荒い呼吸音だけが響いていた。
窓の外では、細かい雪が降り始めていた。初雪だ。
でも私たちは、その美しい景色に気づくことすらなかった。
翌朝、世界は洗われたように澄んでいた。
一夜にして積もった薄い雪が、校庭を白く染めている。朝日に照らされて、キラキラと輝くその光景は、まるで無数の琥珀糖を敷き詰めたようだった。
文化祭の喧騒の中、私は進路指導室に向かっていた。手には新しく書き直した進路希望調査票がある。
廊下では、文化祭の準備に追われる生徒たちが慌ただしく動き回っている。
「会長、おはようございます!」
生徒会のメンバーが挨拶してくる。私はいつも通り笑顔で返した。
でも、今日の私はいつもと違う。
昨夜、漣歌とキスをした。
それも一度ではない。何度も何度も、貪るように。
その事実が、私の中で熱を持って燻っている。
進路指導室のドアをノックし、中に入る。
松田先生が机に座っており、私を見て少し驚いた表情を見せた。
「篠宮、どうした? 朝早くから」
「進路希望調査票の変更を提出に来ました」
私は用紙を先生の机に置いた。
先生はそれを手に取り、内容を確認する。その表情が徐々に険しくなっていく。
「篠宮、これはどういうことだ?」
担任教師が、私の提出した紙を見て眉をひそめた。
「志望校が、東京の私立大学に変更されているぞ。お前の成績なら、地元の国立理学部へ推薦で行けるのに。親御さんは知っているのか?」
「はい。昨夜、説得しました。勘当されかけましたが、今の私には交渉材料がありますから」
私は淡々と答えた。
実際、昨夜の電話は修羅場だった。
母は泣き、父は怒鳴った。
「お前は何を考えているんだ!」
でも、私は譲らなかった。
これまでの模範的な生徒としての実績、将来のビジョン(それは嘘で塗り固めたものだが)、そして何より、私の意志の強固さを見せつけることで、両親を強引に納得させたのだ。
最終的には、「自分の人生は自分で決める。失敗しても後悔はしない」と言い切った。
「しかし、東京の私立大学だと学費も……」
「奨学金と、アルバイトで賄います。それに、この大学には私の学びたい分野の研究室があります」
嘘だ。
正直に言えば、研究内容などどうでもよかった。
重要なのは、その大学が漣歌の美大から電車で二駅という距離にあることだけだ。
「……本当にいいのか、篠宮」
先生は心配そうに私を見た。
「お前らしくない選択だと思うが」
「私らしくないからこそ、です」
私は微笑んだ。
理屈に合わない選択だということは分かっている。
学費は跳ね上がるし、生活環境も激変する。これまでの努力の大半が無駄になるかもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
漣歌のいない世界で、どれだけ論理的に最適化された人生を送ったとしても、それは私にとって意味がない。
だったら、非効率で、不合理で、リスクだらけでも、彼女のそばにいる人生を選ぶ。
それが私の、感情に基づいた初めての選択だった。
進路指導室を出ると、廊下の突き当たりで漣歌が待っていた。
彼女は私の顔を見るなり、駆け寄ってくる。その顔には不安と期待が入り混じっていた。
「出した?」
「出したわよ。東京の大学。漣歌の美大から電車で二駅のところ」
「ふふ、本当に?」
漣歌の顔が、ぱっと輝く。
「本当に。言ったでしょ、責任取るって」
私は漣歌の手を握った。彼女の指には、昨日と同じように絆創膏が巻かれているが、その温もりは確かだ。
周りに生徒がいるのも構わず、私たちは手を繋いだまま廊下を歩いた。
「桜ちゃん、ありがとう」
漣歌が小声で囁く。
「お礼なんていいわ。これは私の勝手な選択だから」
「ううん、嬉しい。でもね、私、本当に一人でもやっていけるように頑張るから。桜ちゃんに頼ってばかりじゃなくて、ちゃんと自立できるように」
「……そう。でも、困った時は頼っていいのよ」
私は少し寂しさを覚えながら言った。
私は「漣歌を行かせない」という選択を捨て、「私が漣歌についていく」という選択をした。
それはある意味で、彼女への完全な敗北であり、同時に究極の勝利でもあった。
東京という未知の土地で、私はまた彼女の世話を焼き続けるだろう。彼女が自立したいと願っても、私がそれを許さないかもしれない。いや、彼女の方こそ、私がいないと生きていけないように振る舞い、私を縛り続けるのかもしれない。
私たちは、互いに依存し合うことでしか安定できない、歪な結晶構造を選んだのだ。
でも、それでいい。
完璧な結晶よりも、不完全でも強固に結びついた結晶の方が、時に美しいこともある。
教室に戻ると、クラスメートたちが文化祭の最終準備をしていた。
「おお、篠宮! 早坂! やっと来たか」
クラス委員の田中が声をかけてくる。
「琥珀糖カフェ、いよいよ今日だぞ。準備万端か?」
「ええ、もちろん」
私たちは笑顔で答えた。
昨夜、二人で仕上げた装飾が、教室を彩っている。
「ねえ桜ちゃん、琥珀糖、もう一個食べる?」
漣歌が小瓶を取り出して、私に差し出す。
「……いらない。漣歌の口にあるやつでいい」
私が小声で囁くと、漣歌は耳まで真っ赤にして、でも嬉しそうに目を細めた。
「もう、桜ちゃんったら……」
彼女が恥ずかしそうに笑う。
そして、周りに人がいないのを確認してから、素早く私の唇にキスをした。
一瞬の、甘い接触。
琥珀糖の味が、また口の中に広がった。
窓の外では、秋の陽射しが校庭の木々を黄金色に染めている。昨夜の雪はもう溶けて、地面を濡らしているだけだ。
この美しい閉じた世界の中で、私たちは溶け合い、そして再び固まった。
二度と離れることのない、強固で、甘く、少し歪な宝石として。
文化祭の開会式を告げるアナウンスが流れた。
私たちの新しい物語が、今、始まろうとしている。
琥珀糖のように、外は硬く、中は柔らかく。
そして何よりも、甘く。
(了)
三月。卒業式の日。
桜の蕾が膨らみ始めた校庭で、私たちは制服姿で写真を撮った。
「ねえ、桜ちゃん。東京で、一緒に住もうよ」
漣歌が唐突に言った。
「え?」
「だって、二駅離れてるんでしょ? それなら真ん中に部屋借りれば、二人とも通いやすいじゃん」
「……親に何て説明するの?」
「ルームシェアって言えばいいよ。生活費も節約できるし、論理的でしょ?」
漣歌が私の口癖を真似して笑う。
私は呆れたように溜息をついたが、その提案を拒否する気はなかった。
むしろ、彼女がそう言ってくれることを、密かに期待していたのだ。
「……仕方ないわね。でも、家事は私がやるからね」
「ええー、私も手伝うよ」
「漣歌が料理すると、キッチンが戦場になるでしょ」
「ひどい! 最近は上達したもん」
私たちは笑い合った。
春の風が、桜の花びらを運んでくる。
まだ咲いていない桜が、もうすぐ満開になる。
私たちの未来も、きっとそうだろう。
不確定で、予測不能で、でも美しい。
琥珀糖の飽和点を超えて、私たちは新しい結晶を作り始める。
それがどんな形になるのか、まだ誰にも分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
私たちは、二度と離れないということ。
甘く、強固に、そして永遠に。
(完)
第1章:沈黙の戒律と石の温度 聖セシリアの沈黙修道院は、雪に閉ざされた山脈の奥深くにあった。修道院の石造りの壁は、外気と同じ温度で冷たく、冬の間、院内を支配するのは、古いインセンスの微かな香りと、修道女たちの粗いウールの修道服が擦れる音だけだった。 シスター・クレマンスは、この修道院の戒律と沈黙を、誰よりも完璧に体現していた。彼女の背筋は常にまっすぐに伸び、視線は決して地上のものに向けられることはない。彼女の所作は、一つの無駄もなく、完璧な献身というアルゴリズムで動いているかのようだった。その完璧な禁欲は、神への純粋な愛と、人間的な温もりへの恐れという、クレマンス自身の矛盾の上に成り立っていた。 彼女の主な役割は、古びた礼拝堂の聖具の手入れだった。彼女は、金箔の聖杯や、古い木製のロザリオといった、神に捧げられた人工物を、自分の肉体よりも丁寧に磨き上げた。なぜなら、それらは完璧であり、永遠に変わらないからだ。 ある雪の深い夜、一人の若い修道女が、この沈黙の修道院に加わった。シスター・テレーズ。彼女は、他の修道女たちと比べ、顔の表情が豊かで、喜びや驚きといった感情を、隠すことなく発する、異質な存在だった。 クレマンスは、戒律に従い、テレーズの指導役となった。聖具室での手入れの指導中、クレマンスはテレーズの手に触れた。その瞬間、クレマンスは思わず手を引いた。「テレーズ、なぜ貴女の手は、こんなにも温かいのですか?」 クレマンス自身の手は、長年の冷たい石の床と聖具の管理により、氷のように冷えていた。「ごめんなさい、クレマンス様。私は、まだ神の愛を、この身体で温めてしまうようです」 テレーズは、困ったように微笑んだ。その笑みは、クレマンスの完璧な沈黙の空間に、不必要なほど鮮やかな人間の色彩を持ち込んだ。クレマンスは、その温かい手の感触が、自分の禁欲のタペストリーに、一筋の乱れを生じさせたことに気づいていた。第2章:粗いウールと温かい手 テレーズは、クレマンスの厳格な指導にもかかわらず、どこか不器用だった。聖具の手入れ中、彼女は小さなミスを犯し、クレマンスの完璧な作業を何度も中断させた。 ある夕暮れ、二人きりの礼拝堂。窓から差し込む冬の光が、埃の粒子を美しく照らしていた。 クレマンスは、テレーズに、古の修道女が着用していた粗いウールの下着を見せた。それ
第1章:バグと虚構の砂漠 二酸化炭素の濃霧が漂う現実世界は、もはや生存のための砂漠だった。人々は、精神安定のために「オアシス」と呼ばれる超巨大仮想現実空間へと意識を逃がす。 霧島は、そのオアシスを専門に破壊するハッカーだった。現実では常に黒いフードを深く被り、愛を「論理的なバグ」と見なす極度のコミュニケーション不全者だ。彼女の任務は、オアシスの最深部に位置する人気エリア「永遠の泉」を破壊し、人々の依存を断ち切ること。 彼女の今日のターゲットは、その「永遠の泉」の設計者であり、オアシスで最も愛されているVRアーティスト、咲良(さくら)。 霧島は、自室のチェアに深く座り、神経インターフェースを装着した。視界が一瞬のノイズと共に切り替わり、目の前にオアシスの風景が広がる。 人工の太陽が輝き、空にはピンクとオレンジのグラデーション。目の前には、コード一本で無限に再生される、完璧な青い湖が揺れていた。「愛をデータ化するとは、悪趣味なバグだ」 霧島は、VR内のアバター(フード付きの白いパーカー姿)で、咲良の造った「永遠の泉」へと歩みを進めた。彼女のミッションは、泉の深部に仕掛けられた「感情のコアアルゴリズム」を破壊し、オアシス全域を機能停止させることだった。 泉のほとりには、咲良のアバターがいた。白い麻のワンピースを纏い、裸足で水面に立っている。そのアバターが纏う感情のコードは、海音のソナーのように、霧島の視界に複雑で、しかし調和した金色と薄緑色の波として映った。「あなた、ここで何を?」 咲良は、霧島に気づき、優雅に微笑んだ。その笑顔は、あまりに完璧で、霧島の脳内では『最大偽装(MAX_FALSITY)』という警告コードが点滅した。「バグチェックです。あなたの描く『愛』のロジックに、脆弱性がないか確認に来ました」「脆弱性? ふふ。私の愛は、人類の集合無意識を学習させた、最も強固なアルゴリズムで動いていますよ」 咲良は、一歩霧島に近づいた。VR内の二人の間に、現実世界ではありえない親密な距離が生まれる。「ねえ、あなた。バグを見つけるのもいいけど、たまにはこの世界の『美しさ』も感じてみたらどうですか」 咲良の手が、霧島のアバターの頬に触れた。VR空間では、触覚は精巧なフィードバックで伝わる。その指先から伝わる人工的な温かさが、霧島の神経インターフェー
第1章:音響技師と不協和音の海 深海研究都市ネオ・アトランティス。地表から五百メートルの水深に位置するこの都市は、厚いチタン合金のドームに守られ、外界の濁流と喧騒から完全に隔離されていた。 音響技師の海音(うみね)にとって、この場所は唯一の安息の地だった。彼女は生まれつき、極めて強い共感覚を持っていた。人の会話だけでなく、感情の起伏までもが、彼女の視界に色と音の波として押し寄せてくる。特に、怒りや嫉妬といったネガティブな感情は、耳をつんざくような不協和音と、濁った濃い赤や黒の色彩を伴って、彼女の思考を侵食した。 そのため、海音は人との関わりを極力避け、濁った不協和音の届かない深海探査船の管制室に籠もっていた。ここにいるのは、水圧と、彼女が扱うソナーの単調な信号音だけだ。「ソナー、異常なし。外殻に付着した生物の振動を確認。青みがかった三オクターブ、安定」 海音は、感情のない機械のような声で報告した。彼女が認識する音は、いつでも論理的で規則正しく、美しい。 そんな海音の管制室に、突然、騒がしく、しかし心地良い透明な緑色を伴うノックが響いた。ノイズの少ない、稀有な色だ。 入ってきたのは、深海ダイバーの淡水(あくあ)。鍛え上げられた身体に、深海作業用の分厚いウェットスーツを羽織っている。短く切り揃えられた黒髪から、一筋、水滴が滴り、チタン合金の床に落ちた。「海音ちゃん。今日のメンテナンス、手伝ってくれない? 探査艇の船底ソナーの調整だ」 淡水の声は、海音にとって、淡い、揺らぎのないターコイズブルーに見えた。澄んでいて、濁りがない。彼女の感情は、共感覚を持つ海音のフィルターを通しても、ごく平穏な波長しか持たなかった。「私は管制が専門です。ダイバーの仕事は――」「ソナーの波長を体で感じられるのは、君だけだろ? 地上にいる時より、水中の方が、君の共感覚は正確になる。知ってるよ」 淡水は、海音の目をまっすぐ見た。その瞳は、海底に沈んだ宝石のように深く、海音の心臓が、微かに不規則なリズムを刻む。淡水は、海音が最も信頼するダイバーだった。なぜなら、彼女の感情は常に安定しており、海音にとって「無色の沈黙」に近い存在だったからだ。第2章:光の波長と感情のデッドスポット 探査艇の船倉。海音は、淡水と共に、ソナーの調整作業に取り掛かっていた。 海音は、ドライスー
第1章:琥珀と銀の不協和音 九条暦にとって、世界とは「完璧に織り上げられたタペストリー」でなければならなかった。一糸の乱れもなく、配色も構図も論理的かつ美しく配置されていること。それが彼女の人生の原則であり、生徒会副会長という立場は、その原則を体現するための最高の舞台だった。 放課後の生徒会室は、照明が規則的に並び、書類が正確に積み上げられた、彼女の理想の空間だ。しかし、その完璧な空間から逃げ出し、暦は古い校舎の立ち入り禁止の屋上へと足を運んでいた。 屋上のフェンスに凭(もた)れ、彼女はポケットから小さな布片を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの、未完成のブローチ。緻密な銀糸で四分の一ほど刺繍された、小さな琥珀糖のモチーフだ。外側は硬質な砂糖の結晶、内側はゼリーの柔らかさを表現しようとしたその作品は、あと少しで完成というところで手が止まっていた。糸が、ほんのわずかに毛羽立ってしまったのだ。「……失敗作」 完璧ではないものは、存在価値がない。彼女の指先が、その失敗を隠蔽するように、布片を強く握りしめた。愛を込めて作ったものほど、その不完全さが許せない。誰かに見つかる前に、この世から消し去らなければならない。それが彼女のルールだった。 暦がブローチをフェンスの外へ放り投げようとした、その刹那……。「もったいないね、九条さん」 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。 暦は反射的に身体を硬直させた。生徒会副会長が立ち入り禁止区域にいるという事実よりも、自分の「失敗」を見られたことへの恐怖が勝った。 振り返ると、そこにいたのは白瀬蒼。美術部で、いつも古いキャンバスと画材に囲まれている、自由奔放な生徒だ。制服の上から着古したオーバーオールを羽織り、鳶色の瞳は、屋上の西日を吸い込んで琥珀色に輝いていた。「白瀬さん……? どうしてここに」「私はいつもここにいるよ。古い校舎の時計が遅れてるみたいに、時間が緩いからさ」 蒼はそう言って、軽やかにフェンスの足元を覗き込む。そして、暦が投げ捨てようとしたブローチを、器用に指先で拾い上げた。「これ。失敗作なの?」 蒼の指が、銀糸のモチーフを優しく撫でる。その無遠慮な行為に、暦の胸が強く締め付けられた。「ええ。糸が毛羽立っていて、もう……」「ふうん。でも、すごく綺麗だよ」 蒼はそう言うと