ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……

ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……

last updateLast Updated : 2025-12-17
By:  佐薙真琴Updated just now
Language: Japanese
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さまざまな百合カップルの愛の形を書いたガールズ・ラブ短編集です。 一話完結形式なのでどのお話から読んでもOKです。

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Chapter 1

001:琥珀糖の飽和点

第1章 過冷却の平衡

 世界は、ある一定の条件が揃って初めて、その形を保つことができる。

 たとえば、純粋な水は静かに冷やしていくと、氷点下になっても凍らないことがある。「過冷却」と呼ばれるその現象は、きわめて不安定な均衡の上に成り立っている。一見、穏やかな液体に見えるそれは、ほんのわずかな衝撃を与えるだけで、一瞬にして凍りつくのだ。

 私、篠宮桜にとって、早坂漣歌との関係はまさにこの過冷却の水に似ていた。

 放課後の図書室には、西日が長く伸びていた。

 十一月半ば。窓の外の銀杏並木は黄金色に輝き、時折吹く風に舞った葉が硝子に当たってかさりと音を立てる。古い紙の匂いと、微細な埃が舞う光の粒子。その中で、カリ、と硬質な音が響く。

 隣に座る漣歌が、小瓶から取り出した琥珀糖を齧った音だ。

「桜ちゃん、ここの微分のところなんだけど」

 漣歌がシャープペンシルの先で数学の問題集を指し示す。彼女の指先は白く、爪は桜貝のように薄いピンク色をしている。その指に、うっすらと白い粉がついているのが目に入った。琥珀糖の砂糖衣だ。

 私は小さく溜息をついてから、彼女のノートを覗き込んだ。いつものことだ。漣歌の数学は、基礎は理解していても応用が効かない。それは彼女が感覚的に物事を捉えるタイプだからで、論理的思考を要求される数学とは根本的に相性が悪いのだ。

「……漣歌、そこは合成関数の微分だから、まずは外側の関数を微分して、そのあとに中身の微分を掛けるの。チェーンルールって言ったでしょう?」

「うーん、なるほど? 桜ちゃんの説明はいつも分かりやすいねえ」

 漣歌はふにゃりと笑うと、また一つ、宝石のような青い琥珀糖を口に放り込んだ。口の中で転がすようにして味わう仕草が、どこか子供っぽい。

 寒天と砂糖を煮詰めて結晶化させたその菓子は、外側は磨りガラスのように硬く、内側はゼリーのように柔らかい。その矛盾した食感は、どこか彼女自身に似ていた。

 天真爛漫で、少し抜けていて、私がいないと危なっかしくて見ていられない。

 たとえば、三年前。

 私たちが出会ったのは、高校の入学式の日だった。偶然隣の席になった彼女は、配布された書類をすべて机の下に落とし、慌てて拾い集めていた。私が手伝ってやると、彼女は満面の笑みで「ありがとう! あなた、神様?」と言った。

 神様などではない。ただ、効率の悪い人間を見ると、システムを最適化したくなる性分なだけだ。

 それから私たちは親友になった。いや、正確には、私が彼女を管理するシステムの一部になった。

 朝は七時にモーニングコール。寝坊しがちな彼女を起こす。

 昼は私が栄養バランスを考えて弁当を二人分作る。彼女は「桜ちゃんのご飯、世界一美味しい!」と無邪気に喜ぶ。

 放課後はこうして勉強を教え、提出物の期限を管理し、持ち物チェックをする。

 彼女の成績、提出物の期限、体調管理、それら全てを私が制御(コントロール)することで、漣歌という存在は最適化されている。それが私にとっての日常であり、幸福な「平衡状態」だった。

 窓の外で、誰かがバスケットボールを弾ませる音が聞こえる。規則的なリズム。世界は予測可能で、秩序立っている。

「ねえ、桜ちゃん」

 問題を解き終えたのか、漣歌が頬杖をついて私を見つめていた。夕陽が彼女の鳶色の瞳を透かし、琥珀色に輝かせている。長い睫毛が影を落とし、その表情には普段の天真爛漫さとは異なる、何か思慮深いものが浮かんでいた。

「ん、何?」

 私は参考書のページをめくりながら答える。次の単元の予習に入るつもりだった。今日中に三章分を終わらせる計画だ。

「私ね、進路希望調査票、出したよ」

「そう。漣歌なら地元の私大の文学部がA判定だし、妥当な線だね」

 私は手元の参考書から目を離さずに答えた。その返答は既にシミュレーション済みだった。私の進路は地元の国立大学理学部ですでに決定している。漣歌の学力なら、通学圏内の大学に進むのが最もリスクの少ない、論理的な選択だ。これからも私は、彼女の生活圏内で彼女を守り続けることができる。

 完璧な計画だった。

 私たちは大学に進学しても同じ街に住み、私が適度に彼女の生活を管理し続ける。彼女は私に依存し、私は彼女を必要とする。その相互依存のシステムは、熱力学的に見ても極めて安定した状態だ。

「ううん、違うの」

 ページをめくる私の手が止まる。

 漣歌の声には、いつもの甘えるような響きが含まれていなかった。その声のトーンの変化に、私の心臓が一拍跳ねる。

「私、東京の美大に行こうと思ってる。油絵科」

 カタン、と私の手からシャープペンシルが滑り落ちた。

 その乾いた音は、過冷却の水に落とされた氷の欠片のように、私の思考を一瞬で凍結させた。

 思考回路が停止する。いや、停止したのではない。あまりにも多くの変数が同時に発火し、演算能力がオーバーフローしたのだ。

 東京。美大。油絵科。

 それらの単語は、私の構築した完璧なシステムとは全く異なるパラメータを示していた。

「……は?」

 声が裏返る。普段の私なら決してしない、感情の露呈。

 漣歌は少し申し訳なさそうに、しかし確固たる意志を込めて続けた。

「ずっと考えてたんだ。絵を描くのが好きだし、もっと本格的に勉強したいなって。夏休みにオープンキャンパス行ってきたの。それで、やっぱりここで学びたいって思った」

「待って。論理的に考えて」

 私は無意識のうちに早口になっていた。心拍数が上がり、冷静さを装うための仮面(ペルソナ)にひびが入る。体温が上昇し、掌に汗が滲む。生理的反応を制御できない自分に、更なる焦りを覚える。

「東京での一人暮らしのコスト、美大の倍率、卒業後の就職率、リスクが高すぎる。それに、漣歌は一人で朝も起きられないし、栄養管理だってできないじゃない。誰がそれをサポートするの? 三食カップ麺で生活して、体を壊すのが目に見えてる」

 私の声は次第に大きくなっていた。図書室の静寂を破る、感情的な声。数人の生徒がこちらを見る。

 司書の老教師が「静かに」と注意する声も耳に入らない。

「それは……頑張るよ、一人で」

 漣歌の声は小さかったが、その奥には揺るがない何かがあった。

「頑張るでどうにかなる問題じゃない。これは確率とリソースの話よ。君の生活習慣を三年間観察してきた私が言うんだから、データに基づいた客観的な分析なの」

 漣歌は、私の言葉に反論しなかった。ただ、困ったように眉を下げ、しかしその瞳の奥にある光だけは、決して揺らいでいなかった。

 彼女の瞳には、私が今まで見たことのない、静かな決意が宿っていた。

 その時、私は悟ってしまった。

 彼女は相談しているのではない。決定事項を報告しているのだと。

 私の管理下にあったはずの変数が、私の計算の外へ飛び出そうとしている。システムに想定外のエラーが発生している。そして私には、それをデバッグする手段がない。

 喉の奥が、乾いた砂糖を飲み込んだ時のように焼きついた。

「桜ちゃん、怒ってる?」

 漣歌が不安そうに私の顔を覗き込む。その仕草さえも、いつもなら微笑ましく思えたのに、今は胸を締め付ける。

「……怒ってない。ただ、驚いただけ」

 嘘だ。怒っている。いや、怒りではない。これは恐怖だ。

 彼女が私の手の届かない場所へ行ってしまう恐怖。

 私の存在理由が失われる恐怖。

「ごめんね、突然で。でも、桜ちゃんには一番に伝えたくて」

 漣歌が私の手を握る。その温もりが、今はやけに熱く感じられた。

 西日が更に傾き、図書室は茜色に染まっていく。

 その美しい光の中で、私の世界は音もなく崩れ始めていた。

第2章 エントロピーの増大

 エントロピー増大の法則によれば、自然界のあらゆる事象は、秩序ある状態から無秩序な状態へと向かう。

 私の世界はあの日以来、確実に崩壊へと向かっていた。

 教室の窓を叩く秋の雨音が、ノイズのように思考を阻害する。

 十一月の終わり。外気温は急激に下がり、暖房の効いた教室内との温度差で窓硝子に結露が生じている。その水滴が不規則に流れ落ちる様子を、私はぼんやりと眺めていた。

 進路指導室から出てきた漣歌の背中を見かけるたび、私の胸には黒い澱のような感情が堆積していった。

 それは「親友の夢を応援すべき」という理性と、「私の目の届かない場所へ行かせたくない」という独占欲の葛藤だった。いや、もっと醜いものだ。

 私は、漣歌が無力でいることを望んでいたのだ。

 私がいなければ何もできない彼女でいてくれることが、私の存在意義(アイデンティティ)を保証していた。彼女が自立しようとすることは、私にとっての「死」と同義だった。

 その真実に気づいてから、私は自己嫌悪に苛まれていた。

 生徒会の仕事中も、授業中も、一人で家にいる時も。常に漣歌のことが頭から離れない。彼女の笑顔を思い出しては、それが遠ざかっていくような錯覚に襲われる。

「篠宮、ちょっといいか」

 昼休み、クラスメートの一人、田中が声をかけてきた。彼は漣歌の友人でもある。

「何?」

「早坂のこと、なんだけどさ」

 その名前を聞いただけで、私の心臓が跳ねる。

「彼女、最近美術室にこもりっきりだろ? ポートフォリオ作ってるらしいんだけど、桜は何か聞いてる?」

「……特には」

「そっか。なんか最近、早坂と篠宮、ちょっと距離あるなって思って。喧嘩でもした?」

「してない」

 私は短く答えて、話を打ち切った。田中は不思議そうな顔をしたが、それ以上追及してこなかった。

 距離がある、か。

 正確には、私が一方的に距離を取っているのだ。

 漣歌から逃げている。彼女の決意に満ちた瞳を見るのが怖くて、美術室に近づくことさえできない。

 放課後、生徒会室で書類仕事をしていると、副会長の橋本が心配そうに声をかけてきた。

「会長、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」

 嘘だ。昨夜も眠れなかった。

 ベッドに横になっても、天井を見つめながら漣歌のことばかり考えている。東京で一人暮らしをする彼女を想像する。朝起きられず遅刻する彼女。栄養の偏った食事をする彼女。病気になっても誰も看病してくれない彼女。

 そして、新しい友人ができて、私のことなど忘れてしまう彼女。

 その想像は、胸を掻きむしられるように痛かった。

「桜、顔色が悪いぞ。文化祭の準備、無理しすぎじゃないか?」

 六時間目が終わった後、担任の松田先生に声をかけられた。

 私は曖昧に笑って誤魔化した。

「大丈夫です。ただの睡眠不足ですから」

「そうか。でも、無理はするなよ。お前は優秀だが、完璧主義が過ぎるところがある」

 完璧主義。

 その言葉が胸に刺さる。

 そうだ、私は全てを制御下に置きたがる。変数を最小化し、リスクをゼロにしたがる。でも、人間関係において完璧なコントロールなど不可能だ。それは論理的に考えれば自明なのに、私は漣歌に対してだけは、その真理を認められなかった。

 私は優秀な生徒会長であり、頼れる委員長だ。個人的な感情でパフォーマンスを落とすことなど、論理的に許されない。

 だから私は仮面を被る。完璧な優等生の仮面を。

 しかし、その仮面は日に日に重くなっていった。

 放課後、美術室の前を通りかかると、油絵の具の独特な匂いが漂ってきた。

 テレピン油と亜麻仁油の混じった、濃密で有機的な香り。

 足が勝手に止まる。

 少し開いたドアの隙間から、キャンバスに向かう漣歌の姿が見えた。

 髪を無造作に束ね、汚れてもいいようにつなぎを着て、真剣な眼差しで筆を走らせている。その横顔には、創造者特有の集中力が宿っていた。

 筆を握る手つき。キャンバスに向かう姿勢。全てが、私の知らない「早坂漣歌」を物語っていた。

 彼女はもう、私が守るべき庇護対象ではないのかもしれない。その事実は、私を激しく打ちのめした。

 キャンバスには、まだ描きかけの風景が広がっている。荒々しいタッチで描かれた空。それは嵐の前の静けさを表現しているようにも、何かを渇望する魂の叫びのようにも見えた。

 漣歌は、こんなにも才能があったのか。

 私が知っていたのは、数学ができなくて、朝起きられなくて、部屋が散らかっている彼女だけだった。でも、彼女にはこんな一面もあったのだ。

 私の知らない才能。私の管理が及ばない領域。

 それは嬉しいはずなのに、どうしようもなく寂しかった。

 私は逃げるようにその場を離れようとして、足元の筆洗い用のバケツに躓きかけた。

 ガタン、と大きな音が廊下に響く。

 しまった。

「……桜ちゃん?」

 漣歌が顔を出した。筆を持った手には、さまざまな色が混じり合い、混沌とした美しさを生み出していた。カドミウムレッドとウルトラマリンブルーが混ざり合って、深い紫を作り出している。

 彼女の目が、私を捉える。

 その瞳には驚きと、そして少しの悲しみが浮かんでいた。

「ごめん、邪魔したわね」

 私は冷たく言い放って、その場を去ろうとした。

「待って」

 漣歌が廊下に出てきて、私の腕を掴む。絵の具のついた指が、私の制服の袖に色を移す。

「ねえ、ちょっと話せない? お願い」

 その懇願するような声に、私は拒否できなかった。

 漣歌に手招きされ、私は強張る足を動かして美術室に入った。

 室内は油絵の具の匂いで充満している。窓際には何枚ものキャンバスが並べられ、イーゼルには描きかけの作品が立てかけられている。

 描きかけのキャンバスには、抽象的な色彩の嵐が描かれている。激しくて、でもどこか寂しい色合い。赤と青と黄色が複雑に絡み合い、何かを訴えかけているようだった。

「これ、何を描いてるの?」

 私は思わず尋ねていた。

「感情」

 漣歌が短く答える。

「言葉にできない感情を、色で表現してるの。この絵はね、『すれ違い』っていうタイトルをつけようと思ってる」

 すれ違い。

 その言葉が胸に突き刺さる。

「桜ちゃん、最近避けてるでしょ」

「そんなことない。受験勉強と生徒会の仕事が重なって、リソース配分が上手くいってないだけ」

 嘘を重ねる。まるでフィボナッチ数列のように、嘘が嘘を呼んで増殖していく。

「嘘だ」

 漣歌が、私の真正面に立った。

 絵の具のついた指先が、私の制服の袖を掴む。その力は意外なほど強かった。普段の頼りない彼女からは想像できない、確固たる意志を感じさせる力。

「私が東京に行くのが、そんなに嫌?」

 その問いかけに、私は言葉を詰まらせた。

 喉の奥に何かが詰まったような感覚。言葉が出てこない。

「……嫌とか、そういう感情的な話じゃないの。私はただ、客観的に見て君には無理だと言っているだけで」

「客観的に?」

 漣歌が苦笑する。その笑顔は、いつもの無邪気なものではなく、どこか大人びていた。

「桜ちゃんにとって、私はそんなにダメな人間? 一人じゃ何もできない、無能な人間?」

 その問いかけに、私は言葉を詰まらせた。

 違う。そうじゃない。

 漣歌は素晴らしい。その感性も、優しさも、誰よりも尊い。彼女の描く絵には、私には決して表現できない何かがある。数式や論理では捉えきれない、人間の本質的な何かを掴んでいる。

 ダメなのは私の方だ。君を鳥籠に閉じ込め、翼をもぎ取ろうとしている私の方こそが、欠陥だらけの人間なのだ。

 けれど、その真実を口にすれば、今度こそ本当の終わりが来る気がした。

 沈黙が流れる。

 美術室の時計が、秒針を刻む音だけが響く。カチ、カチ、カチ。

「……証明してよ」

 私の口から零れたのは、冷たく突き放すような言葉だった。自分でも驚くほど残酷な言葉。

「一人でも生きていけるって、私に証明して見せてよ。そうしたら認めるわ」

 漣歌は傷ついたように目を伏せた。

 その表情を見て、私の心臓が痛んだ。まるで自分で自分を刺したような痛み。

 でも、私は謝ることができなかった。

 漣歌はゆっくりと顔を上げ、その瞳には涙が滲んでいた。しかし、彼女は泣かなかった。代わりに、静かに頷いた。

「分かった。見ててね、桜ちゃん」

 その決意に満ちた瞳を見た瞬間、私の中の何かが音を立てて千切れた。

 秩序は失われた。私の心の中は、制御不能な嵐の中にあった。エントロピーは最大値に向かって、加速度的に増大していく。

 漣歌は再びキャンバスに向かい、私はその背中を見ることしかできなかった。

 窓の外では、雨が強くなっていた。

第3章 臨界点での相転移

 文化祭前夜。

 私たちは教室に残っていた。クラスの出し物である「琥珀糖カフェ」の内装仕上げが終わらず、最終下校時刻ギリギリまで作業を続けていたのだ。

 十一月最後の金曜日。外は既に真っ暗で、校舎のあちこちで文化祭の準備をする声が聞こえていた。吹奏楽部の音、演劇部のセリフの練習、バタバタと走り回る足音。

 不運なことに、空調設備が故障し、教室は冷蔵庫のような冷気に包まれていた。業者が来るのは月曜日だという。よりによって、このタイミングで。

 窓の外は漆黒の闇。遠くの校舎から、吹奏楽部がチューニングする不協和音が微かに聞こえてくる。その不安定な音の重なりが、私の神経を逆撫でする。

 教室の壁には、クラスメートたちが作った装飾が貼られている。琥珀糖をモチーフにした、色とりどりの飾り付け。キラキラとしたホイル紙で作られた宝石たち。

 皮肉なことに、この企画を提案したのは漣歌だった。

「琥珀糖って、見た目が綺麗で食べても美味しいでしょ? それに、作るのも楽しいよ」

 彼女がそう言った時、クラス全員が賛成した。漣歌のそういう才能は、私にはない。人を惹きつける何かが、彼女にはある。

 そして今、私たちは二人きりで最後の仕上げをしていた。他のクラスメートは先に帰り、残ったのは私たちだけだった。

「寒いね……」

 漣歌が白い息を吐きながら、両腕をさすった。

 教室の温度計は摂氏五度を示している。外気温より低い。暖房がないと、建物内の方が冷え込むのだ。

 私たちは教室の隅、カーテンにくるまるようにして座り込んでいた。作業はあらかた終わっていたが、身体が冷え切って動けずにいた。

「風邪ひくわよ。カイロ、持ってないの?」

 私は自分のポケットから使い捨てカイロを取り出し、漣歌に差し出そうとした。

「使い切っちゃった。でも、桜ちゃんは温かいね」

 漣歌が遠慮なく私の肩に頭を預けてくる。彼女の体温が、ブレザー越しに伝わってくる。髪からは甘いシャンプーの香りがした。

 その温もりが心地よいと同時に、どうしようもなく苦しかった。

 この温もりも、あと数ヶ月で私のものじゃなくなる。

 東京とここ。物理的な距離は、心の距離を容赦なく引き離すだろう。数式で証明するまでもない自明の理だ。

 人間の感情は距離の二乗に反比例する、というわけではないが、物理的な距離が心理的距離に影響を与えるのは、経験則から明らかだ。

 週に一度会えればいい方だろう。そのうち月に一度になり、半年に一度になり、やがて年賀状だけの関係になる。

 そんな未来が、容易に想像できてしまう。

「ねえ、これ」

 漣歌がポケットから小瓶を取り出した。カフェで出す予定の、試作品の琥珀糖だ。青、緑、ピンク、黄色。様々な色の宝石たちが、瓶の中でキラキラと輝いている。

 一つ摘み上げ、私の口元に差し出す。

「あーん」

「……自分で食べられる」

 私は顔を背けようとした。

「手が冷たいんでしょ。いいから」

 拒絶する気力もなく、私は口を開いた。

 砂糖の結晶が舌の上で転がり、噛み砕くとジャリッという音と共に強烈な甘さが広がった。外側の硬い砂糖衣が崩れ、内側の柔らかい寒天の層が現れる。その複雑な食感が、口の中で溶けていく。

 続けて漣歌も自分の口に放り込む。

「甘いね」

 彼女が幸せそうに目を細める。

「……甘すぎるわ。配合、間違えたんじゃない?」

「そうかな。でも、疲れてる時はこれくらいが丁度いいよ。脳が糖分を欲してるもん」

 漣歌は笑って、砂糖がついた指先を、無防備に舐め取った。

 濡れた舌が指を這う光景。その生々しい質感に、私の視線が釘付けになる。

 薄暗い教室の中で、彼女の唇だけが妙に艶やかに見えた。

 理性という名の回路が、ショートを起こして火花を散らした。

 心拍数が上がる。体温が上昇する。瞳孔が開く。

 これは何だ。この感情は、一体何なのだ。

「漣歌」

「ん?」

 私は彼女の手首を掴んだ。

 思ったよりも強く握ってしまったようで、漣歌が少し驚いたように目を見開く。彼女の手首は細く、私の指で簡単に包み込めてしまう。その華奢さが、逆に私の支配欲を刺激した。

「行かないで」

 論理も、プライドも、全てかなぐり捨てた言葉だった。

 自分でも驚くほど、切羽詰まった声。

「東京になんて、行かないでよ。ずっと私のそばにいて。私が全部やってあげるから。漣歌は何もできなくていい、ただ私の隣にいてくれれば、それでいいの」

 それは愛の告白などではない。呪いだ。

 相手の翼を奪い、自分の重力圏に縛り付けようとする、醜いエゴイズムの塊。

 軽蔑されると思った。突き飛ばされると思った。

 しかし、漣歌は逃げなかった。

 逆に、私の頬に手を添え、至近距離から私の目を覗き込んだ。その瞳は、すべてを見透かすように深く、静かだった。

 彼女の指は冷たく、でもその瞳には温かい光が宿っていた。

「やっと言った」

「え……?」

 思考が追いつかない。

「桜ちゃん、いつも理屈ばっかりなんだもん。本当はずっと、そう言って欲しかった。桜ちゃんの本音が聞きたかったの」

 漣歌の指が、私の唇をなぞる。そこにはまだ、琥珀糖の甘い余韻が残っていた。その触感に、私の思考が完全に停止する。

「私ね、東京に行きたいのは本当だよ。でもそれは、桜ちゃんから離れたいからじゃない」

「どういう……こと?」

 声が震える。

 漣歌は少し悲しそうに微笑んだ。

「今のままじゃ、私は一生桜ちゃんに守られるだけの子供でしょ? それが嫌だったの。桜ちゃんは私のこと、いつまでも無力で、何もできない子供だと思ってる。でも、私だって成長したいの」

 彼女の言葉が、心に染み込んでいく。

「強くなって、自立して、桜ちゃんの隣に立っても恥ずかしくない人間になりたかった。対等になりたかったの。一方的に守られるだけの関係じゃなくて、お互いに支え合える関係になりたかったの」

 世界が反転する。

 彼女は私から離れようとしていたのではない。私に近づこうとしていたのだ。

 私たちが共有していた「すれ違い」という名の非対称性は、実は同じ中心を目指す円運動だった。

 私は彼女を支配したかった。彼女は私と対等になりたかった。

 ベクトルは違えど、目指していたのは同じ「近さ」だったのだ。

「でも、桜ちゃんがそこまで私に執着してくれてたなんて、嬉しい誤算かな」

 漣歌は悪戯っぽく笑うと、私の首に腕を回した。

 逃げ場のない距離。互いの吐息が混ざり合い、飽和水蒸気量を超えて結露しそうだ。

「キスして、桜ちゃん。共犯者の証に」

 その言葉は、私の理性を粉々に砕くハンマーだった。

 私は彼女の唇を塞いだ。

 琥珀糖のように甘く、そして涙のように少ししょっぱい味がした。

 最初は触れるだけの、おずおずとしたキス。でもすぐに、それでは足りなくなった。

 何度も角度を変え、互いの存在を確かめ合うように深く、貪欲に。

 漣歌の指が私の髪に絡まり、私は彼女の腰を抱き寄せた。体温が伝わり、心臓の鼓動が響き合う。

 息が苦しくなって、ようやく唇が離れる。

 唇が離れる時、銀色の糸が引いた。

 その粘り気のある光景は、私たちの関係がもはや綺麗な友情などではなく、ドロドロに溶け合った不可分な何かへと変質した(相転移した)ことを示していた。

 冷え切った教室の中で、私たちの体温だけが異常なほど熱かった。

 漣歌の頬は紅潮し、その瞳は潤んでいた。

「もう一回」

 彼女が囁く。

「……贅沢ね」

 でも私は、彼女の求めに応じた。

 二度目のキスは、一度目よりも激しかった。

 まるで、これまで抑え込んでいた感情が一気に溢れ出したように。

 外の不協和音はいつの間にか止み、ただ二人の荒い呼吸音だけが響いていた。

 窓の外では、細かい雪が降り始めていた。初雪だ。

 でも私たちは、その美しい景色に気づくことすらなかった。

第4章 再結晶化

 翌朝、世界は洗われたように澄んでいた。

 一夜にして積もった薄い雪が、校庭を白く染めている。朝日に照らされて、キラキラと輝くその光景は、まるで無数の琥珀糖を敷き詰めたようだった。

 文化祭の喧騒の中、私は進路指導室に向かっていた。手には新しく書き直した進路希望調査票がある。

 廊下では、文化祭の準備に追われる生徒たちが慌ただしく動き回っている。

「会長、おはようございます!」

 生徒会のメンバーが挨拶してくる。私はいつも通り笑顔で返した。

 でも、今日の私はいつもと違う。

 昨夜、漣歌とキスをした。

 それも一度ではない。何度も何度も、貪るように。

 その事実が、私の中で熱を持って燻っている。

 進路指導室のドアをノックし、中に入る。

 松田先生が机に座っており、私を見て少し驚いた表情を見せた。

「篠宮、どうした? 朝早くから」

「進路希望調査票の変更を提出に来ました」

 私は用紙を先生の机に置いた。

 先生はそれを手に取り、内容を確認する。その表情が徐々に険しくなっていく。

「篠宮、これはどういうことだ?」

 担任教師が、私の提出した紙を見て眉をひそめた。

「志望校が、東京の私立大学に変更されているぞ。お前の成績なら、地元の国立理学部へ推薦で行けるのに。親御さんは知っているのか?」

「はい。昨夜、説得しました。勘当されかけましたが、今の私には交渉材料がありますから」

 私は淡々と答えた。

 実際、昨夜の電話は修羅場だった。

 母は泣き、父は怒鳴った。

「お前は何を考えているんだ!」

 でも、私は譲らなかった。

 これまでの模範的な生徒としての実績、将来のビジョン(それは嘘で塗り固めたものだが)、そして何より、私の意志の強固さを見せつけることで、両親を強引に納得させたのだ。

 最終的には、「自分の人生は自分で決める。失敗しても後悔はしない」と言い切った。

「しかし、東京の私立大学だと学費も……」

「奨学金と、アルバイトで賄います。それに、この大学には私の学びたい分野の研究室があります」

 嘘だ。

 正直に言えば、研究内容などどうでもよかった。

 重要なのは、その大学が漣歌の美大から電車で二駅という距離にあることだけだ。

「……本当にいいのか、篠宮」

 先生は心配そうに私を見た。

「お前らしくない選択だと思うが」

「私らしくないからこそ、です」

 私は微笑んだ。

 理屈に合わない選択だということは分かっている。

 学費は跳ね上がるし、生活環境も激変する。これまでの努力の大半が無駄になるかもしれない。

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 漣歌のいない世界で、どれだけ論理的に最適化された人生を送ったとしても、それは私にとって意味がない。

 だったら、非効率で、不合理で、リスクだらけでも、彼女のそばにいる人生を選ぶ。

 それが私の、感情に基づいた初めての選択だった。

 進路指導室を出ると、廊下の突き当たりで漣歌が待っていた。

 彼女は私の顔を見るなり、駆け寄ってくる。その顔には不安と期待が入り混じっていた。

「出した?」

「出したわよ。東京の大学。漣歌の美大から電車で二駅のところ」

「ふふ、本当に?」

 漣歌の顔が、ぱっと輝く。

「本当に。言ったでしょ、責任取るって」

 私は漣歌の手を握った。彼女の指には、昨日と同じように絆創膏が巻かれているが、その温もりは確かだ。

 周りに生徒がいるのも構わず、私たちは手を繋いだまま廊下を歩いた。

「桜ちゃん、ありがとう」

 漣歌が小声で囁く。

「お礼なんていいわ。これは私の勝手な選択だから」

「ううん、嬉しい。でもね、私、本当に一人でもやっていけるように頑張るから。桜ちゃんに頼ってばかりじゃなくて、ちゃんと自立できるように」

「……そう。でも、困った時は頼っていいのよ」

 私は少し寂しさを覚えながら言った。

 私は「漣歌を行かせない」という選択を捨て、「私が漣歌についていく」という選択をした。

 それはある意味で、彼女への完全な敗北であり、同時に究極の勝利でもあった。

 東京という未知の土地で、私はまた彼女の世話を焼き続けるだろう。彼女が自立したいと願っても、私がそれを許さないかもしれない。いや、彼女の方こそ、私がいないと生きていけないように振る舞い、私を縛り続けるのかもしれない。

 私たちは、互いに依存し合うことでしか安定できない、歪な結晶構造を選んだのだ。

 でも、それでいい。

 完璧な結晶よりも、不完全でも強固に結びついた結晶の方が、時に美しいこともある。

 教室に戻ると、クラスメートたちが文化祭の最終準備をしていた。

「おお、篠宮! 早坂! やっと来たか」

 クラス委員の田中が声をかけてくる。

「琥珀糖カフェ、いよいよ今日だぞ。準備万端か?」

「ええ、もちろん」

 私たちは笑顔で答えた。

 昨夜、二人で仕上げた装飾が、教室を彩っている。

「ねえ桜ちゃん、琥珀糖、もう一個食べる?」

 漣歌が小瓶を取り出して、私に差し出す。

「……いらない。漣歌の口にあるやつでいい」

 私が小声で囁くと、漣歌は耳まで真っ赤にして、でも嬉しそうに目を細めた。

「もう、桜ちゃんったら……」

 彼女が恥ずかしそうに笑う。

 そして、周りに人がいないのを確認してから、素早く私の唇にキスをした。

 一瞬の、甘い接触。

 琥珀糖の味が、また口の中に広がった。

 窓の外では、秋の陽射しが校庭の木々を黄金色に染めている。昨夜の雪はもう溶けて、地面を濡らしているだけだ。

 この美しい閉じた世界の中で、私たちは溶け合い、そして再び固まった。

 二度と離れることのない、強固で、甘く、少し歪な宝石として。

 文化祭の開会式を告げるアナウンスが流れた。

 私たちの新しい物語が、今、始まろうとしている。

 琥珀糖のように、外は硬く、中は柔らかく。

 そして何よりも、甘く。

(了)


エピローグ 飽和点を超えて

 三月。卒業式の日。

 桜の蕾が膨らみ始めた校庭で、私たちは制服姿で写真を撮った。

「ねえ、桜ちゃん。東京で、一緒に住もうよ」

 漣歌が唐突に言った。

「え?」

「だって、二駅離れてるんでしょ? それなら真ん中に部屋借りれば、二人とも通いやすいじゃん」

「……親に何て説明するの?」

「ルームシェアって言えばいいよ。生活費も節約できるし、論理的でしょ?」

 漣歌が私の口癖を真似して笑う。

 私は呆れたように溜息をついたが、その提案を拒否する気はなかった。

 むしろ、彼女がそう言ってくれることを、密かに期待していたのだ。

「……仕方ないわね。でも、家事は私がやるからね」

「ええー、私も手伝うよ」

「漣歌が料理すると、キッチンが戦場になるでしょ」

「ひどい! 最近は上達したもん」

 私たちは笑い合った。

 春の風が、桜の花びらを運んでくる。

 まだ咲いていない桜が、もうすぐ満開になる。

 私たちの未来も、きっとそうだろう。

 不確定で、予測不能で、でも美しい。

 琥珀糖の飽和点を超えて、私たちは新しい結晶を作り始める。

 それがどんな形になるのか、まだ誰にも分からない。

 でも、一つだけ確かなことがある。

 私たちは、二度と離れないということ。

 甘く、強固に、そして永遠に。

(完)

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001:琥珀糖の飽和点
第1章 過冷却の平衡 世界は、ある一定の条件が揃って初めて、その形を保つことができる。 たとえば、純粋な水は静かに冷やしていくと、氷点下になっても凍らないことがある。「過冷却」と呼ばれるその現象は、きわめて不安定な均衡の上に成り立っている。一見、穏やかな液体に見えるそれは、ほんのわずかな衝撃を与えるだけで、一瞬にして凍りつくのだ。 私、篠宮桜にとって、早坂漣歌との関係はまさにこの過冷却の水に似ていた。 放課後の図書室には、西日が長く伸びていた。 十一月半ば。窓の外の銀杏並木は黄金色に輝き、時折吹く風に舞った葉が硝子に当たってかさりと音を立てる。古い紙の匂いと、微細な埃が舞う光の粒子。その中で、カリ、と硬質な音が響く。 隣に座る漣歌が、小瓶から取り出した琥珀糖を齧った音だ。「桜ちゃん、ここの微分のところなんだけど」 漣歌がシャープペンシルの先で数学の問題集を指し示す。彼女の指先は白く、爪は桜貝のように薄いピンク色をしている。その指に、うっすらと白い粉がついているのが目に入った。琥珀糖の砂糖衣だ。 私は小さく溜息をついてから、彼女のノートを覗き込んだ。いつものことだ。漣歌の数学は、基礎は理解していても応用が効かない。それは彼女が感覚的に物事を捉えるタイプだからで、論理的思考を要求される数学とは根本的に相性が悪いのだ。「……漣歌、そこは合成関数の微分だから、まずは外側の関数を微分して、そのあとに中身の微分を掛けるの。チェーンルールって言ったでしょう?」「うーん、なるほど? 桜ちゃんの説明はいつも分かりやすいねえ」 漣歌はふにゃりと笑うと、また一つ、宝石のような青い琥珀糖を口に放り込んだ。口の中で転がすようにして味わう仕草が、どこか子供っぽい。 寒天と砂糖を煮詰めて結晶化させたその菓子は、外側は磨りガラスのように硬く、内側はゼリーのように柔らかい。その矛盾した食感は、どこか彼女自身に似ていた。 天真爛漫で、少し抜けていて、私がいないと危なっかしくて見ていられない。 たとえば、三年前。 私たちが出会ったのは、高校の入学式の日だった。偶然隣の席になった彼女は、配布された書類をすべて机の下に落とし、慌てて拾い集めていた。私が手伝ってやると、彼女は満面の笑みで「ありがとう! あなた、神様?」と言った。 神様などではない。ただ、効率の悪い人間を見る
last updateLast Updated : 2025-12-14
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002:『真夜中のデコード』
第1章 暗号化された金曜日 東京の夜景は、基板(マザーボード)の上を走る電流に似ている。無機質で、規則的で、そして残酷なほどに明るい。渋谷のスクランブル交差点から見上げる広告塔の光は、まるでデバッグ中のコードが吐き出すエラーログのように、私の網膜を焼き付ける。 三十二階建てのオフィスビル。その最上階フロアの窓ガラスに映る私は、加賀見雫という完璧なシステムとして稼働していた。 タイトスカートのラインに乱れはなく、ルージュは朝七時に引いた紅のまま鮮やかさを保っている。肩まで伸ばした髪は一本の乱れもなく、ブラウスのボタンは首元まできっちりと留められている。外見上、私はプロジェクトマネージャー・加賀見雫として、完璧に機能していた。 だが、内側のCPUはとっくにオーバーヒート寸前だった。 デスクに積まれた仕様書の山。モニターに並ぶ未読メールの赤い通知。スマートフォンには、クライアントからの催促が三十分おきに届いている。 午後十一時を回った金曜日のオフィスに、まだ二十人近くの社員が残っている。皆、青白い顔でモニターに向かい、必死にキーボードを叩いていた。 三週間にわたるデスマーチ。 大手銀行の基幹システムリニューアルという巨大プロジェクトは、当初の予定から大幅に遅延していた。仕様変更が重なり、テストで次々とバグが発見され、週末返上で対応を続けてきた。 私の身体は、もはやカフェインとプライドだけで立っていた。 眼鏡の奥で焦点が定まらない。視界の端が白く滲む。水曜日から四時間しか眠っていない。木曜日は二時間。昨夜は──記憶がない。おそらく、デスクで気絶していたのだろう。「……加賀見さん、ここ」 背後から投げかけられた声は、低く、ハスキーで、私の偏頭痛を心地よく──そう、心地よく──刺激した。 振り返ると、牧村夜がブルーライトカット眼鏡の奥から私を見上げていた。 彼女は私の部下であり、この社内で唯一、私に躊躇なく意見してくるリードエンジニアだ。私より六つ年下。入社三年目でありながら、技術力は部内トップクラス。 グレーのオーバーサイズのパーカーを羽織り、エナジードリンク片手にキーボードを叩く姿は、いかにも技術屋らしい。首から提げたイヤホンからは、微かにロックミュージックが漏れている。 メイクはほとんどしていない。素顔に近い。けれど、その切れ長の瞳と、意
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003:鉄の森の聖歌(オラトリオ)
序章 灰色の世界 世界が終わったのは、二十三年前のことだった。 人々はそれを「大崩壊」と呼んだ。自律型兵器の制御システムが暴走し、わずか七十二時間で人類の九割が消失した。生き残った者たちは地下に潜り、やがてそこでも飢えと病で数を減らしていった。 今、地上に残るのは瓦礫と錆、そして無数の機械の残骸だけだ。 空からは絶えず「灰色の雨」が降り注ぐ。それは大気中に漂う塵と化学物質が結合したもので、皮膚に触れればただれ、吸い込めば肺を焼く。かつて文明を誇った摩天楼は、今や鉄の墓標となって地平線を埋め尽くしている。 私、エルマ・クラウゼは、その鉄の森を彷徨う一匹の野犬のようなものだ。 二十八歳。職業は回収屋——つまりは死体漁り。崩壊前の技術遺産を掘り起こし、辺境の集落に売りつけて糊口をしのぐ、社会の最底辺に位置する仕事だ。 防毒マスクとゴーグルで顔を覆い、継ぎ接ぎだらけの防護服を着込んで、私は今日も廃墟を探索する。背負った袋には、昨日見つけた古い真空管が三本と、使えるかどうか分からないバッテリーパックが一つ。 あまり良い収穫ではない。だが、生きるとはそういうことだ。明日の食料と、次の雨を凌ぐ屋根。それだけを求めて、一日一日を積み重ねていく。 希望? そんなものは、親の顔と同じくらい忘れて久しい。第一章 瓦礫の中の歌姫1 旧市街の中心部、かつて「文化地区」と呼ばれていたエリア。 私がこの危険な場所に足を踏み入れたのは、偶然ではなく必然だった。三日前、廃棄物処理場で出会った老人が、息を引き取る直前にこう囁いたのだ。「……オペラハウス……地下三層……歌姫が……眠って……」 老人は元エンジニアで、崩壊前の記憶を持つ数少ない生き証人だった。彼の言葉には重みがある。もし本当に旧型のアンドロイドが無傷で残っているなら、それは小さな集落一つを養えるほどの価値がある。 地下三層への階段は、瓦礫と蔦で完全に塞がれていた。 私は腰のベルトから小型の爆薬を取り出し、慎重に設置する。轟音とともに崩れた岩の壁。舞い上がる粉塵の中を、携帯ライトの光を頼りに降りていく。 十分ほど歩いただろうか。 突然、視界が開けた。 そこは、旧時代の歌劇場跡だった。崩落した天井から差し込む微かな光が、舞台を照らしている。かつて千人の観客を収容したであろう客席は
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004:ロープブレイク・キス
第1章 処刑台のカーテンコール後楽園ホールの空気は、酸素よりも熱気と殺意の濃度の方が高い。天井から吊るされた巨大スクリーンに、私の凶悪な笑みがクローズアップされる。二千人の観客が上げる怒号が、リングのキャンバスを揺らし、マットの振動となって私の足裏に伝わってくる。「殺せ! やっちまえカルマ!!」「セイントを潰せええぇッ!」四方から浴びせられる罵声。空のペットボトルが、リングサイドに投げ込まれる。警備員が慌てて走る。これらすべてが、私――ヒールレスラー「紅蓮の処刑人・カルマ」にとっては最高の賛美歌だ。観客の憎悪が濃ければ濃いほど、私の価値は高まる。それがヒールという存在の宿命であり、誇りだ。私は、リングの中央で倒れている早乙女聖――リングネーム「聖女・セイント」の長い黒髪を無造作に掴み上げ、強引に立たせた。彼女の頭皮が悲鳴を上げるのを感じる。だが、それを顔に出すことは決してない。それが彼女のプライドだ。スポットライトに照らされた聖の顔は、汗と流血で化粧が崩れ、痛々しくも神々しい。白いコスチュームは私の毒霧と、彼女自身の鮮血で汚れている。額から滴る血が、彼女の頬を伝い、顎から滴り落ちる。「立てよ、聖女様。皆がお前の奇跡を待ってるぜ?」低くドスの効いた声で囁き、私は彼女の腹部に膝を叩き込んだ。ドゴッ、という鈍い音が響く。最前列の観客が息を呑む音が聞こえた。聖の口から苦悶の声が漏れ、身体がくの字に折れる。私はそのまま彼女の左腕を極め、マットにねじ伏せた。クロスフェイス・カルマロック――私のフィニッシュホールドだ。関節が悲鳴を上げる感触。筋肉が限界まで伸展する張り。私の腕の中にいる聖の肉体は、驚くほど熱い。体温計で測ったら、おそらく38度は超えているだろう。肉体が極限まで追い込まれた時、人の体温はこれほどまでに上昇する。汗で滑る肌の感触、荒い呼吸と共に上下する肋骨の動き、脈打つ血管。細い首筋を走る頸動脈が、私の前腕に激しく拍動している。そのすべてが愛おしく、どうしようもなく興奮する。(ああ、聖。なんて綺麗なんだ)私は凶悪な笑みを観客に見せつけながら、心の中で彼女に口づけを送る。カメラマンがリングサイドから望遠レンズを向けている。明日のスポーツ紙には、この残虐な構図が一面を飾るだろう。「紅蓮の処刑人、聖女を完全制圧!」というような見出しと共
last updateLast Updated : 2025-12-14
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005:絡繰り屋敷の女郎蜘蛛
序章 運命の予兆帝都の夜は、常に何かを隠している。九条小夜が生まれたその夜、九条家の屋敷を囲む梅の古木が、季節外れの花を一斉に咲かせたという。白い花弁が、真夏の闇に舞い落ちる光景を、乳母は「不吉の前触れ」と呼んだ。それから二十年。小夜は九条家当主の娘として、祓い屋の技を叩き込まれた。血筋が持つ霊力は、代々受け継がれる家宝の刀と共に、彼女の全てを規定していた。感情を殺し、欲望を封じ、ただ聖なる務めを果たす――それが九条の女の定めだった。だが、小夜の胸の奥には、常に黒い空洞があった。誰かに壊されたい。誰かに堕とされたい。その禁断の渇望は、年を重ねるごとに濃くなり、夜ごと彼女を悪夢で苛んだ。そして今宵。師である祖母から命じられた任務が、その渇望と運命的に交差する。「吉原に巣食う女郎蜘蛛を祓え」雨が降り出した夜、小夜は一人、魔都の闇へと足を踏み入れた。第一章 雨夜の訪問者一、黒い雨の街帝都に降る雨は、黒い墨汁を流したように重く、そして冷たい。石畳を打つ雨音が、街全体を水底に沈めたような錯覚を生む。ガス灯の明かりさえも、この闇には飲み込まれそうだった。九条小夜は、番傘を傾けながら、吉原の表通りを歩いていた。白衣に緋袴。腰には魔除けの守り刀。髪は高く結い上げ、額には九条家の家紋を刻んだ銀の簪を挿している。この色街には、あまりに似つかわしくない装束だった。すれ違う客引きの男たちが、怪訝そうに小夜を見る。遊女たちは格子の向こうから、好奇と憐憫の混じった視線を向けてくる。「ねえ、あの娘、坊さんかい?」 「違うよ。祓い屋だ。どこかで悪さでもあったのかね」 「あの格好で吉原たぁ、野暮の極みだねえ」ひそひそと交わされる囁きを、小夜は聞こえないふりをした。彼女の目的は、遊郭の最奥――吉原でも最も格式が高く、最も謎めいていると噂される「蜘蛛の館」と呼ばれる屋敷の主、八重だ。祖母の言葉が、小夜の脳裏に蘇る。『八重と名乗るあの女郎蜘蛛は、少なくとも三百年は生きておる。これまで幾多の男を喰らい、その精気を啜って生き永らえてきた。最近では、富豪や政治家までもがあの屋敷に通い、骨抜きにされておるという。放置すれば、帝都の中枢まで蝕まれるやもしれぬ』『しかし、祖母様。なぜ今まで放置を……』『……あやつは狡猾でな。決して一線を越えぬのだ。人を
last updateLast Updated : 2025-12-14
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006:コルセットの戒め、夜の鍵
第1章 鯨骨の牢獄 ロンドンの朝は、霧と紅茶の香りで始まる。 一八七五年、ヴィクトリア女王治世三十八年目の初冬。テムズ川から立ち上る濃霧が、ベルグレイヴィアの高級住宅街を白い綿のように包み込んでいた。ハミルトン伯爵邸は、その一角に威厳を持って佇む石造りの館だった。四階建ての建物には、使用人だけでも二十名が住み込みで働いている。 重厚なベルベットのカーテンを開けると、灰色の光が三階の主寝室に差し込んだ。窓の外では、朝霧の中を馬車の車輪が石畳を削る音が微かに響いている。街路樹の裸の枝が、霧の向こうに黒い影絵のように浮かんでいた。「おはようございます、お嬢様」 私、マーガレット・サットンは、ベッドサイドで深々と頭を下げた。齢二十五。この屋敷で上級メイドとして、主人の身の回りの世話を一手に引き受けている。黒いドレスに白いエプロン、頭には質素なモブキャップ。眼鏡の奥の灰色の瞳は、常に冷静な観察者の色を湛えている。 天蓋付きのベッドの中、絹のシーツと羽毛の掛け布団に包まれて眠るのは、この屋敷の主、エリザベス・ローズ・ハミルトン伯爵令嬢だ。齢二十二。父である伯爵が外遊中の今、この広大な屋敷の実質的な主人は彼女一人である。 金の髪が枕に散らばり、白磁のような肌が朝の光に透けている。長い睫毛が頬に影を落とし、薔薇色の唇が微かに開いている。まるで絵画の中の天使のように、彼女は眠りの中で無防備だった。「……マーガレット? まだ眠いわ……何時なの……」「午前七時でございます。いけません。今夜はバッキンガム宮殿で王室主催の舞踏会がございます。準備には時間がかかりますので」 私は容赦なく掛け布団を剥ぎ取った。十二月の冷気が部屋に満ち、エリザベスが小さく悲鳴を上げる。「ああ、もう! あと十分だけ……」「十分お待ちしたら、次は二十分、その次は一時間とおっしゃるでしょう。起きてください、お嬢様」 不満げに呻くエリザベスを、私は慣れた手つきで抱き起こした。彼女の身体は驚くほど軽い。私より三歳若いとはいえ、貴族の娘らしく華奢で、まるで陶器の人形のように繊細だ。 まず洗面台へ連れて行き、薔薇水で顔を洗わせる。冷たい水に触れて、ようやくエリザベスの翠玉色の瞳が完全に開いた。鏡に映る自分の寝乱れた姿を見て、彼女は小さくため息をついた。「本当に今夜なの? 舞踏会……」「ええ。先
last updateLast Updated : 2025-12-14
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007:硝煙とブルームーン
第1章 雨とジャズと9ミリ弾 この街の雨は、いつだって洗い流すべきものを隠すために降っている。 葛城ケイはそう信じていた。少なくとも、この十二年間で九十七人を「掃除」してきた彼女にとって、雨は共犯者だった。路地裏のマンホールからは白い蒸気が立ち上り、ネオンサインの赤が水溜まりに滲んでいる。街角のジャズバーからは、マイルス・デイヴィスの『ソー・ホワット』が漏れ聞こえてくる。 廃ビルの非常階段を登りながら、ケイは愛用のグロック19のマガジンを確認した。フルロード。十五発プラスワン。標的一人には過剰だが、裏切り者には慈悲をかける理由もない。 スライドを引く。カチャリ、という金属音が、廃ビルの静寂に冷たく響いた。 今日の仕事は単純だ。組織の金を横領し、機密データを盗み出した裏切り者――コードネーム「キャンディ」――を「掃除」し、データを回収する。それだけのはずだった。 雨音に紛れて足音を殺しながら、ケイは最上階へと向かった。濡れたコンクリートの匂い、錆びた鉄の匂い、そして微かに漂う甘い香り。ロリポップキャンディの匂いだ。「……見つけた」 最上階の一室。ケイが靴底でドアを蹴り破ると、蝶番が悲鳴を上げて崩れ落ちた。 そこには一人の女がいた。 部屋の隅、サーバーラックの緑色のLEDに照らされたその女――ルカは、手に持っていたロリポップキャンディを口から離し、ニカっと笑った。まるで旧友の訪問を待っていたかのような、無邪気で危険な笑みだった。「遅いよ、お姉さん。待ちくたびれて飴が三本も溶けちゃった」 金髪のショートヘアに、派手な龍の刺繍が入ったスカジャン。ピアスだらけの耳たぶと、チェーンのついたブーツ。どこかのパンクロッカーのような出で立ちだが、その目だけは違った。底知れぬ虚無を湛えた、ケイと同じ種類の瞳。 銃口を向けられているというのに、恐怖の色は微塵もない。狂っているか、大物か――いや、両方だろう。「遺言は?」ケイは感情を殺した声で問いかけた。「ないね。強いて言うなら、このデータの中身を見ないこと」ルカは傍らのハードディスクを指差した。「見たら、組織だけじゃなく、この国全体が揺れるよ」「興味ない」 ケイは引き金に指をかけた。仕事だ。感情はいらない。いつも通り、一発で終わらせる。頭部に一発。確実に。九十八人目だ。 だが、その瞬間―― ルカがふ
last updateLast Updated : 2025-12-14
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008:指先のレゾナンス
第1章 深夜の不協和音 深夜二時十五分。サントリーホールの静寂は、深海の底のように重く、そして張り詰めている。 外気温は氷点下三度。しかしホール内は湿度四十五パーセント、室温二十二度に完璧に保たれている。スタインウェイのコンディションを最良に保つための、計算し尽くされた環境だ。 ステージ中央に鎮座するフルコンサート・グランドピアノ、スタインウェイD‐274。全長二七四センチメートル、重量四百八十キログラム。約一万二千個のパーツから成る、黒い巨獣。 その前に座る二階堂亜蘭は、美しい金髪を振り乱し、鍵盤に突っ伏していた。「……違う。これじゃない。音が死んでる!」 ダンッ! 彼女が握り拳で鍵盤を叩きつける。 不快な音塊がホールに残響し、空気を汚した。二秒残響のホールアコースティックが、その不協和音を執拗に反復する。まるで彼女の精神状態を嘲笑うかのように。 亜蘭は二十六歳。ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクールを史上最年少で制覇した天才ピアニストだ。コンサートドレスを脱ぎ捨て、大きめのリネンシャツ一枚でピアノに向かうその姿は、成人女性というよりも、玩具を与えられて癇癪を起こしている子供のように見えた。 彼女の髪は汗でべっとりと額に貼りついている。シャツの胸元は乱れ、肩が露わになっている。裸足の足は冷たい床に投げ出され、ペディキュアを施された爪先が小刻みに震えていた。「ピアノのせいにしないで、亜蘭」 客席の暗がりから、私は静かに声をかけた。 コツ、コツ、とヒールの音を響かせながらステージに上がる。私の足音だけが、このホールに秩序を取り戻すリズムを刻んでいる。 私は佐伯透子。二十八歳。このスタインウェイD‐274の専属管理を任されている調律師であり、そして亜蘭の恋人だ。 黒いパンツスーツに身を包み、腰まで伸ばした黒髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。調律師として十年のキャリアを持つ私は、この業界では「絶対音感の魔女」と呼ばれている。A440ヘルツから0.5ヘルツでもずれていれば即座に感知できる聴覚を持っているからだ。「透子……。直してよ。このピアノ、低音が濁ってる。倍音が鳴りすぎてて気持ち悪い。特に左手のG♭。あそこだけ周波数が狂ってる気がする
last updateLast Updated : 2025-12-14
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009:『雨宿りの陶(すえ)』
第1章 泥濘(ぬかるみ)の逃避行 ワイパーが必死に水を弾いても、視界は滲むばかりだった。 六月の長雨。山梨県の県境付近、名もない林道。 私の愛車であるコンパクトカーは、舗装されていない泥道にタイヤを取られ、虚しい空転音を上げていた。「……あーあ。もう、何もかも駄目だ」 私、篠原紬は、ハンドルに額を押し付けた。 東京でのデザイナー職。深夜残業、クライアントの理不尽な要求、すり減っていく神経。 「少し休みます」と書き置きを残して逃げ出してきたが、まさかこんな山奥で立ち往生するとは。 携帯電話のアンテナは圏外を示している。 私は溜息をつき、傘をさして車外に出た。 湿った森の匂い。雨音だけが支配する世界。 ふと見上げると、木立の向こうに薄っすらと煙が昇っているのが見えた。 人家だ。 泥だらけの靴で山道を歩くこと十分。 現れたのは、築百年は経っていそうな立派な古民家だった。軒先には乾燥中の薪が積まれ、入り口には「葛西陶房」という小さな木の看板が掛かっている。「すみません……どなたか、いらっしゃいますか?」 引き戸を開けると、土間特有のひんやりとした空気と、土の匂いが漂ってきた。 奥から、一人の女性が出てくる。 作務衣(さむえ)に手ぬぐいを頭に巻き、腕まくりをしたその腕は、白く粉を吹いたように汚れていた。「……お客さん? 今日は教室の日じゃないけど」「いえ、車が泥にはまってしまって。電話をお借りしたくて」 彼女は私の顔――疲労と雨でぐしゃぐしゃになった顔――をじっと見て、ふい、と視線を逸らした。「電話はあるけど、この雨じゃレッカーは来ないよ。……上がりな。とりあえず拭くものを貸してやる」 ぶっきらぼうだが、その声には不思議な温かみがあった。 それが、私と陶芸家・葛西藍との出会いだった。第2章 土と静寂の時間 結局、藍さんの予言通り、レッカー車は土砂崩れの影響で到着まで三日かかると言われた。 私はなし崩し的に、この古民家に居候することになった。 ここにはテレビもない。ネットもほとんど繋がらない。 あるのは、雨音と、藍さんが回すろくろの音だけ。「……暇なら、やってみるか?」 二日目の午後。工房でぼんやりと彼女の背中を見ていた私に、藍さんが声をかけた。 電動ろくろの上で、粘土の塊が生き物のように回転している。「私、不
last updateLast Updated : 2025-12-17
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010:銀糸の不完全性(メメント・モリ)
第1章:琥珀と銀の不協和音 九条暦にとって、世界とは「完璧に織り上げられたタペストリー」でなければならなかった。一糸の乱れもなく、配色も構図も論理的かつ美しく配置されていること。それが彼女の人生の原則であり、生徒会副会長という立場は、その原則を体現するための最高の舞台だった。 放課後の生徒会室は、照明が規則的に並び、書類が正確に積み上げられた、彼女の理想の空間だ。しかし、その完璧な空間から逃げ出し、暦は古い校舎の立ち入り禁止の屋上へと足を運んでいた。 屋上のフェンスに凭(もた)れ、彼女はポケットから小さな布片を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの、未完成のブローチ。緻密な銀糸で四分の一ほど刺繍された、小さな琥珀糖のモチーフだ。外側は硬質な砂糖の結晶、内側はゼリーの柔らかさを表現しようとしたその作品は、あと少しで完成というところで手が止まっていた。糸が、ほんのわずかに毛羽立ってしまったのだ。「……失敗作」 完璧ではないものは、存在価値がない。彼女の指先が、その失敗を隠蔽するように、布片を強く握りしめた。愛を込めて作ったものほど、その不完全さが許せない。誰かに見つかる前に、この世から消し去らなければならない。それが彼女のルールだった。 暦がブローチをフェンスの外へ放り投げようとした、その刹那……。「もったいないね、九条さん」 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。 暦は反射的に身体を硬直させた。生徒会副会長が立ち入り禁止区域にいるという事実よりも、自分の「失敗」を見られたことへの恐怖が勝った。 振り返ると、そこにいたのは白瀬蒼。美術部で、いつも古いキャンバスと画材に囲まれている、自由奔放な生徒だ。制服の上から着古したオーバーオールを羽織り、鳶色の瞳は、屋上の西日を吸い込んで琥珀色に輝いていた。「白瀬さん……? どうしてここに」「私はいつもここにいるよ。古い校舎の時計が遅れてるみたいに、時間が緩いからさ」 蒼はそう言って、軽やかにフェンスの足元を覗き込む。そして、暦が投げ捨てようとしたブローチを、器用に指先で拾い上げた。「これ。失敗作なの?」 蒼の指が、銀糸のモチーフを優しく撫でる。その無遠慮な行為に、暦の胸が強く締め付けられた。「ええ。糸が毛羽立っていて、もう……」「ふうん。でも、すごく綺麗だよ」 蒼はそう言うと
last updateLast Updated : 2025-12-17
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