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夫を賭けた勝負に、私は負けた
夫を賭けた勝負に、私は負けた
Author: スウちゃん

第1話

Author: スウちゃん
とうとう、9回目がやってきた。

花織から「今すぐ来てほしい」という電話がかかってきただけで、正樹は玲奈を人通りの少ない郊外に置いていこうとした。

「悪い、玲奈。ちょっと急用ができたんだ。ここで降りてもらって、タクシー拾って帰ってくれる?」

悪びれる様子もなく、正樹はそう言った。

外では、激しい雨が降り続いている。そして、玲奈はまだ生理中。

彼女が何か答えるより前に、正樹は傘を取り出し、その手に押しつける。

一刻も早く花織のもとへ行きたい。その気持ちが、隠しきれないほど顔に出ていた。

「家に着いたら、連絡してくれ」

それだけ言うと、正樹は玲奈を車から降ろした。そしてカーナビに花織の家の住所を入力する。

それを見た玲奈は、胸の奥がずきりと痛んだ。

正樹が運転するスポーツカーは雨の中を走り去っていく。

斜めに降りつける雨が、あっという間に玲奈のスカートの裾を濡らした。冷たい夜風が容赦なく頬を打ち、身体の芯まで凍えそうになる。

タクシーを捕まえることができず、玲奈は、ただひとり歩き続けた。

雨の中を歩けば歩くほど、靴擦れがひどくなっていく。気づけば、足元は血で赤く染まっていた。

数時間後、玲奈はようやく、家の近くへたどり着いた。

生理ナプキンの交換ができず、スカートにも血が滲んでいたことに気づく。玲奈は痛む下腹部を押さえながら、その場に崩れ落ちた。息をするだけでも苦しい。

雨のせいで視界が滲む。その向こうから、ひとりの女性が傘を差して歩いてくる。

花織だった。

玲奈の前まで来ると、花織は満足そうに微笑んだ。

「あら、辛そうね。私の賭けを受けたこと、後悔してるんじゃない?

まあ、玲奈のことだもの。きっと、どこかで期待してたんでしょ?長い間正樹と一緒に暮らしてきたんだから、少しくらいは自分のことを気遣ってくれるんじゃないかって。

でも、残念だったわね。正樹にとって、一番大切なのはいつだって私よ。あなたが私に敵うはずなんて、ないもの」

玲奈はふらつきながら、ゆっくりと立ち上がった。だが、その真っ青な顔に、悲しみも怒りもなかった。

「……これで9回目だね。あなたの勝ちだよ。約束どおり、私は正樹と離婚する」

それだけ告げると、玲奈はふらつく足で歩き出した。雨が降り続く中、家へ向かって歩いていく。

その道すがら、過去のことが、次々と胸の奥から蘇ってきた。

玲奈と花織は、大学時代のルームメイトだった。

大学1年の頃、花織が開いた誕生日パーティーで、玲奈は正樹に出会った。

正樹に会った瞬間、そのどこか近寄りがたい気品と、凛とした冷たさをまとった姿に、玲奈は目を奪われた。胸が、どうしようもないほど高鳴った。

その日、花織は幼馴染みである正樹をみんなに紹介し、その直後、新しい恋人を紹介した。

相手は、校内でも有名な不良だった。

そのことを聞いた時の正樹の顔を、玲奈は今でも覚えている。驚きと落胆が入り混じり、冷静さを失った、あまりにも痛々しい表情だった。

正樹は花織のことが好きなのだと、あの表情を見て、玲奈は分かった。

けれど、花織は昔から刺激を好む性格だった。一緒に授業をサボって遊んでくれたり、無茶な運転に付き合ったり、危険を顧みず、スリルのある毎日を楽しんでくれる相手がよかった。

そんな無鉄砲な不良に惹かれる一方で、何かと口を出してくる正樹のような堅物は、どうにも好きになれなかった。

「いちいちうるさい」と言って、正樹を遠ざけ続けた花織は、とうとう彼から逃げるために、玲奈の気持ちを知ると、それを利用するようになった。

玲奈と正樹が会えるように仕向け、2人で食事をする機会を作る。何かと理由をつけては、正樹を玲奈のほうへ押しやった。

花織への想いを断ち切れずにいた正樹が、最初こそ玲奈との接触を頑なに拒んでいたが、次第に受け入れるようになり、そして、大学3年の頃、2人は花織の思惑どおり恋人になった。

それから2年後、正樹のほうから玲奈にプロポーズした。

結婚してからの3年間、2人は互いを尊重し、穏やかで温かな毎日を過ごしていた。

玲奈は、きっとこのまま正樹と年を重ねていくのだと思っていた。

しかし1ヶ月前、花織が海外から戻った。玲奈を呼び出し、とある「賭け」を持ちかけた。

「玲奈、私ね……やっぱり後悔したの。正樹とやり直したい。あなたたち、知り合ってもう9年になるでしょう?だから、一つ賭けをしてほしいの。

私とあなた、どちらか一人のそばにいなきゃいけない場面で、9回、正樹が私を選んだなら、あなたの負け。そうなったら、正樹と離婚して、私に返して」

理不尽な賭けだったが、玲奈はそれに応じた。

正樹が今でも花織が好きなのか、それを確かめたかった。

そして――

その答えを、玲奈は自分の目で見ることになる。

花織から連絡があったたび、正樹が躊躇うことなく自分を置き去りにし、彼女のもとへ向かった。

1回目は、結婚3周年の記念日だった。

正樹が天体や地理に興味を持っていることを知っていた玲奈は、ずっと前から場所を下見し、2人で流星を眺められるよう、山の上でのピクニックを計画していた。

けれど、約束の場所へ向かう途中、正樹のもとに花織からメッセージが届いた。それだけで、正樹は玲奈を山の上に残し、引き返した。

その夜、玲奈は冷たい風に吹かれながら、朝までひとりで過ごした。

2回目は、玲奈が虫垂炎になり、手術を受けることになったとき。手術が始まる直前、正樹は花織がチンピラたちに絡まれていると知り、玲奈のそばを離れた。そして、そのまま1週間姿をくらました。

手術の同意書に署名したのは玲奈自身。手術を終え、傷の痛みに耐えながら、検査も、食事も、全部ひとりで済ませた。

3回目は、祖母の葬儀の日だった。よりによって、葬儀の最中に正樹は姿を消した。花織と食事をするためだった。

正樹が玲奈を置いていくたびに、玲奈の胸の奥にあった愛情は少しずつ削られていった。そして9回目を迎える頃には、もう何も残っていなかった。

――これだけ長く一緒にいても、正樹は花織を忘れられなかった。

玲奈は、完膚なきまでに負けた。

だから、約束どおり負けを認めることにした。

家に戻ると、玲奈はシャワーを浴びた。濡れた身体を温め、肌触りのいい部屋着に着替えてから、キッチンに立ち、ホットココアを作った。

それを少しずつ口にすると、冷え切っていた身体にようやく血が巡ってくる。

そして、賭けに応じた日に用意していた離婚届を取り出した。そこに自分の名前を書き入れると、花織を家に呼び、彼女に書類を渡した。

「これ、正樹にサインしてもらって。提出は私がやるけど、1ヶ月後にしてもいい?色々片付けないといけないこともあるから」

花織は少し眉を上げた。「いいけど……どうして私に?」

「私から離婚の理由を説明するの、面倒だから。花織がお願いすれば、正樹は確認もせずにサインしてくれるでしょ?」

その言葉を聞いた途端、花織の口元に得意げな笑みが浮かんだ。玲奈から離婚届を受け取ると、いかにも優しい顔で言う。「わかった。1ヶ月後に、提出をお願いね。玲奈も、そんなに落ち込まないで、またいい人を紹介してあげるから」

「うん、お願い」

あまりにもあっさり返ってきた返事に、花織の目がわずかに揺れた。

「……本当にいいの?正樹のこと、もう吹っ切れた?」

玲奈は小さく笑った。けれど、その笑みにはどこか苦いものが滲んでいた。

「私、今まで本気で好きになったのは正樹だけだったけど、結局、振り向いてもらえなかった。9回もチャンスをあげたのに、彼は一度も私を選ばなかった。このままいつまでも彼にしがみついているなんて……さすがに、諦めが悪すぎるでしょ」

玲奈は花織を見つめた。

「だから、もう終わり。これからは、自分のために生きるの」

その言葉が落ちた直後、玄関の扉が開いた。

帰宅した正樹は、リビングにいる花織に気づくと、足を止めた。

「……花織?さっき病院に送ったばかりだろ?どうしてここに?」

足を捻り、病院に送ってほしいと連絡したのが、正樹の気を引くための芝居だったことなど、花織が口にするはずもない。

彼女は何食わぬ顔で、離婚届を別の書類の間に挟み、正樹に差し出す。

「正樹に用があって来たの。ここの書類、サインしてくれない?役所の手続きで、代理人になってほしくて」

正樹の視線は、書類よりも花織に向いたままだった。そして、どんな書類なのか確かめようともせず、花織に示された場所へペンを走らせる。

さらさらと署名を書き終えてから、正樹はようやく書類へ目を落とした。

「真ん中の1ページ……ちょっと変わったフォーマットだったけど、あれは何の書類だった?」

花織は一瞬、正直に答えようとした。

けれど、ふと何かを思いついたように目を細めると、すぐに満面の笑みを浮かべた。

「あれはね……玲奈と一緒に用意した、とっておきのプレゼントなの。どんなプレゼントなのかは、1ヶ月後のお楽しみってことで!正樹、きっと喜ぶと思うよ」

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