LOGIN今日は、藤城賢太(ふじしろ けんた)と私、三重野知紗(みえの ちさ)が結婚式を挙げるはずの日だった。それなのに私は、40分ものあいだ、たったひとりで壇上に立たされていた。 賢太は来なかった。私の実の兄ふたり、三重野大輔(みえの だいすけ)も、三重野真斗(みえの まさと)も、姿を見せなかった。 事の発端は、その30分前にさかのぼる。養妹の浅野結衣(あさの ゆい)が、かすり傷がついた車のドアの写真をグループチャットに送ってきたのだ。 結衣はすっかり怯えきり、とても駐車場にひとりではいられないと泣きついてきた。 真っ先に車のキーを掴んで式場を飛び出したのは、賢太だった。 大輔はホテル中の警備員を結衣のもとへ向かわせ、真斗に至っては、私に渡すはずのヴェールを手にしていることさえ忘れてしまっていた。 いつ戻るのか問いただそうと、私は賢太に電話をかけた。 だが電話越しに聞こえてきたのは、結衣の笑い声だった。 車の傷は、ほんの少し塗装が剥げただけだったというのに。 3人は近くの店で結衣を囲み、寄せ鍋をつつきながら彼女を慰めている最中だった。私は焦る気持ちを必死に抑え、早く戻ってきてとだけ告げた。 賢太の声は、それが当然のことだとでも言わんばかりの口調だった。 「少し遅れたって、式には影響ないだろ? 結衣は怖がりなんだ。姉なんだから、こんな時に目くじらを立てるなよ」 私は壇上から、3人分空いたままの親族席に目を向けた。 この結婚式は、会場選びから招待状の宛名書きまで、すべて私ひとりで取り仕切ってきた。 賢太は仕事が忙しいと言った。 ふたりの兄からは、結衣はブライズメイドなんて初めてで勝手がわからないだろうから、ついでに面倒を見てやってくれと言われた。 要するに誰もが、私だけは怖がることも、失望することもないと思っていたのだ。 電話を切ると、ウェディングプランナーが遠慮がちに尋ねてきた。 「……まだ、お待ちになりますか?」 私は手にしていたブーケを、空いたままの新郎の椅子に置いた。 「もう、待ちません。 この結婚式は、中止にしてください」 この家のことも、10年間愛してきたこの人のことも――もう、私は待たない。
View More半年後、新プロジェクトが正式に発表された。私は発表会のステージの舞台裏に立っていた。秘書が袖口を整えながら、手首のバングルに目を留める。バングルは修復されたが、割れた跡はまだわずかに残っていた。修復した線が、かつての亀裂をなぞるように走っている。完璧ではない。けれど前よりもずっと自分のものらしく見えた。「お時間です」私は頷いた。ステージの照明が点く。今度は誰も遅れてこない。誰かのために照明を落とす者ももういない。大型スクリーンには、私の名前がはっきりと記されていた。プロジェクト研究開発統括責任者、三重野知紗。客席から拍手が湧く。私はステージの中央に立ち、最後のプロダクトデモンストレーションを終えた。中継カメラが客席を映す。賢太は最後列に座り、ふたりの兄は反対側の席にいた。彼らは連絡してこなかったし、舞台裏に押し入ろうともしなかった。発表会が終わると、記者が尋ねた。「三重野博士、この技術の最初のひらめきはどこから来たのでしょうか」私はバングルに目を落とす。「母からです。壊れたものは直せると教えてくれました。でも直ったからといって、ひび割れを無理に隠す必要はないと」再び拍手が湧いた。舞台裏の控室で、スマホに3件の友だち追加リクエストが表示された。賢太のメッセージ。【あの新居、買い戻した】大輔のメッセージ。【家の暗証番号は、変えてない】真斗のメッセージ。【母さんのアルバム、もう一部バックアップを作った】私は長い間それを見つめ、すべて拒否した。秘書が尋ねる。「昔のお友達ですか?」「いいえ」私はスマホをしまった。「過去の人たちよ」ドアの外で取引先の代表が私を待っていた。海外本社の新しい研究室は完成しており、これからさらに3つの都市を回る予定だった。忙しい。けれどその一日一日は、すべて私自身のものだった。賢太は、あの新居に戻った。部屋の中は結婚式前の様子に戻されていたが、壁にウェディングフォトはない。机の上には栗のケーキがひとつ置かれていた。彼は夜更けまで座り続け、ケーキには一口も手をつけなかった。大輔と真斗は、三重野家に戻った。私の部屋はそのまま残されていたが、もう誰も入ろうとはしなかった。
帰国前、私は弁護士に依頼し、正式に結衣を提訴した。バングルは専門業者に修復を依頼し、修復費用と価値の減少分については、彼女に損害賠償を請求する。彼女が流用した研究開発基金も、全額返還させる。三重野家も、これまで結衣に無償で与えていた財産をすべて回収した。ただし、結衣を無一文で追い出したわけではない。大輔が彼女のために質素なアパートを用意し、毎月最低限の生活費だけを渡すことにした。「あいつは過ちを犯した。責任を取らせる。だが三重野が養ってきた以上、追い詰めて死なせるわけにもいかない」それが大輔の最後の決断だった。私は何も評さなかった。彼はようやく責任の区別を学んだが、その気づきはあまりに遅すぎたのだ。帰国の日、賢太が空港で待っていた。結衣は連れておらず、花も用意していない。ただ、1枚の結婚式の企画書を差し出した。「ブライズメイドはいない。藤城家からの要求も一切ない。場所も時間も、全部お前が決めていい」私は受け取らなかった。「賢太、まだ分からないの?この結婚式に足りなかったのは照明や花じゃないわ。花嫁がもう、あなたと結婚したくないと思っていること」彼の目が赤くなる。「結衣に関する物は、すべて処分した。連絡先も削除した。これからは、お前だけのそばにいる」「昔の私は、確かにそれを欲しがっていたわ。でも今は違うよ。もう必要ないもの」ふたりの兄は少し離れた場所に立っていた。真斗は修復された母のアルバムを手にし、大輔は三重野家の鍵を持ってきている。「部屋は元に戻した。研究室も改装し直した」真斗がアルバムを差し出す。「母さんのもの、全部ここにある」私はアルバムを開いた。傷んでいた写真は修復されている。あの家族写真の中で、ふたりの兄が私の隣に立ち、明るく笑っていた。だが写真は直せても、関係は直せない。私はアルバムだけを受け取り、鍵は受け取らなかった。大輔が小さな声で言う。「株式も、不動産も基金も、もうすべて返した」「返したんじゃないよ」私は訂正した。「もともと私のものだし」「そうだな」彼は苦しげに頷いた。「もともと、お前のものだった」賢太が私の前に立ち塞がる。「どんな罰でも受ける。完全に見捨
結衣が、海外まで追いかけてきた。彼女はホテルのロビーで私を呼び止めるなり、その場に膝をついた。周囲にはたちまち人だかりができる。「知紗姉ちゃん、私が悪かった。お兄ちゃんたちを見捨てないで!ふたりともこの数日まともに食べられないし、眠れてもいないの。知紗姉ちゃんが家に戻ってくれるなら、私すぐに三重野家を出るから」賢太とふたりの兄が、ちょうど駆けつけてきた。結衣はさらに激しく泣き出す。「全部、私が知紗姉ちゃんの居場所を奪ったせいなの。死んで償ってもいいから!」そう言うと、彼女は不意に隣のテーブルの角へ頭をぶつけようとした。真斗が彼女を止める。結衣はその勢いのまま彼の胸に倒れ込んだ。これまでと変わらない、あまりにも手慣れた流れだった。だが今回、真斗は彼女を支えた後、すぐに手を離した。「ちゃんと立て」結衣は固まった。私は秘書にパソコンを開かせた。「せっかく全員揃ったので、きちんと清算しましょう」ひとつ目は、ホテルの駐車場の記録。結婚式当日、結衣の車は軽く擦れただけだった。それなのに賢太が駆けつけた後、彼女は自ら鍋を食べに行こうと言い出していた。ふたつ目は、家族グループチャットのバックアップ。私に点滴の写真を送った後、彼女は別のグループでこう言っていた。【あの人、絶対薬を届けに来るよ。ほんと、安っぽい女】3つ目は、家政婦の証言を録音したデータ。バングルが落ちる直前、結衣が故意に手を離したのを、家政婦がはっきりと目にしていた。結衣の顔が真っ青になる。「全部嘘よ。知紗姉ちゃんは私を恨んでるんだから、何だって捏造できるでしょう!」私は最後の監視カメラの映像を再生した。彼女が私の手を掴み、自分の頬を叩いている姿がはっきりと映っていた。賢太が目を閉じ、真斗が一歩後ずさる。大輔の顔には何の表情もなかった。結衣が彼にしがみつく。「大輔兄ちゃん、私はただ、あなたたちを失うのが怖かっただけなの!知紗姉ちゃんを傷つけたいなんて、思ってなかった」大輔は彼女を押し離した。「失うのが怖いからといって、知紗のものを壊していいのか?」「だって、みんな私のことが好きだったじゃない!」結衣が泣きながら叫ぶ。「私を選んだのは、あなたたち自身よ!」
翌日、ふたりの兄から会いたいと連絡があった。場所は母が生前好んでいたレストランだった。私が着いた時、ふたりはすでに2時間も待っていた。大輔がひとつの書類箱を押し出す。「これは母さんが残した手紙だ。ずっと金庫にしまってあった」私は受け取らなかった。「単刀直入に言って」真斗がかすれた声を出す。「……僕たちは間違っていたと分かってる。知紗、母さんは最後に、お前のことを頼むと言った。僕たちは、それができなかった」大輔が続ける。「だが、俺たちはそれでも家族だ。一緒に戻ってこい。家にはいつでもお前の居場所がある」私は彼らに目を向けた。「私の居場所?結衣のクローゼットの半分を、私にくれるのね?」大輔の顔が白くなる。「部屋は元に戻した。お前のトロフィーも、写真も全部元の場所に戻したぞ」「あのベッドカバーは?」ふたりは言葉を失った。母が手縫いしてくれたあのベッドカバーは、靴拭きマット代わりにされていたのだ。真斗が俯く。「洗ったら、ボロボロになってしまった。だから、もう元には戻らない」私は自分の書類袋を開き、母が生前に作成していた信託書類を出した。3人の子供へ残した手紙も一緒に。「あなたたちはいつも、お母さんが結衣の世話を頼んだと言っていたね。それ、一体どこに書いてあるの?」大輔が手紙を受け取る。母の筆跡に間違いはなかった。3人の子供が互いに支え合ってほしいと願い、ふたりの兄に私を守ってほしいと書かれている。全文のどこにも結衣の名前はなかった。母が亡くなった時、結衣はまだ三重野家に入っていなかったからだ。真斗の手が震え始めた。「そんなはずはない……父さんは、母さんが最後に結衣を養女として三重野家に迎えることを承諾したと言っていた」「お父さんが結衣と知り合ったのは、母が亡くなった半年後よ。時期の矛盾さえ確かめていなかったのね」私は信託書類の添付資料をめくった。母のアクセサリー、不動産、研究室は、すべて明確に私へ遺されていた。「結衣に分け与える」という記述はどこにもなく、譲るようにとの指示も一切ない。大輔は文書を見つめた。「それなら、俺たちがこれまで……」「あなたたちはただ、お母さんの名前を都合よく借りて