LOGIN須賀玲奈(すが れな)の夫・正樹(まさき)には、長年、心から想い続けている女性がいた。 その女性の名は、水野花織(みずの かおり)。 長いあいだ海外で暮らしていた彼女だが、ある日、ようやく帰ってきた。 そして、帰国して真っ先にしたことは――玲奈に一つの「賭け」を持ちかけることだった。 その賭けの内容は、こうだ。 正樹が花織と玲奈、どちらか一人のそばにいなければならない場面で、9回、花織を選んだなら――その時は、玲奈が正樹と離婚し、彼を花織に譲る。 玲奈は、その賭けを受け入れた。
View Moreやがて車が本邸の前に止まった。車を降りると、玄関先には2人の中年の男女が立っていた。どちらも上品な服装に身を包み、玲奈を見るなり、穏やかな笑みを浮かべる。玲奈は小さく息を吸った。緊張していることに気づいた雅紀が、そっと手を握ってくれる。「父さん、母さん。こちらが坂本玲奈さん。玲奈さん、こちらが僕の両親」玲奈は慌てて頭を下げた。「初めまして。坂本玲奈と申します。今日はお招きいただき、ありがとうございます。こちらは些細な気持ちですが、よかったら、皆さんで召し上がってください」用意してきた贈り物を差し出すと、雅紀の母親が嬉しそうに笑った。「初めまして、雅紀の母、和美です。今日は来てくれてありがとうね」そう言いながら、自然な仕草で玲奈を家の中へ案内した。「雅紀から、いつもあなたの話を聞いてるわ。今日はおじいちゃんとおばあちゃんも楽しみにしてるの。2人とも玄関まで来るって言って聞かなかったんだけど、もう歳だからって私が止めたのよ。気を悪くしないでね」「いえ、そんな……」和美(かずみ)に手を引かれるまま、玲奈は邸宅の中へ入った。リビングでは、雅紀の祖父母が彼女を待っていた。「お義父さん、お義母さん。こちらが坂本玲奈さんよ。雅紀がいつも話している恋人なの」「まあまあ、よく来てくれたね」温かい言葉を次々とかけられ、玲奈の緊張はいつの間にか消えていた。その日の午後、玲奈は、瀬尾家の人々と笑い合いながら、穏やかな時間を過ごした。帰り際、和美から大きな紙袋を渡された。「うちからの気持ちよ。遠慮しないで受け取って」そこまで言われては断ることもできない。玲奈は「ありがとうございます」と頭を下げ、そのまま受け取った。帰りの車内。後部座席に並んで座った玲奈と雅紀は、もらった紙袋を開けてみた。最初に出てきたのは、年季の入った小さなジュエリーボックスだった。蓋を開けた瞬間、玲奈は息を呑む。中に入っていたのは、深い緑色が美しいエメラルドのネックレスだった。透明感のある宝石が光を受けて、鮮やかな緑を浮かべている。「これ、すごく高いものなんじゃ……?」一目見ただけでも、その価値が分かる。「このネックレスは、うちに代々伝わってきたものなんだ。家のお嫁さんに渡すことになっている。だか
目の前で後悔を滲ませ、必死に愛を語る正樹を見ても――玲奈の胸に湧いたのは、嫌悪感だけだった。もし今、正樹が何も失っていなかったら。花織に裏切られることもなく、会社を失うこともなく、すべてが順調だったなら。果たして、こんなふうに自分を追いかけてきただろうか。答えは、分かりきっている。きっと、来なかった。正樹が今求めているのは、無条件で自分を愛してくれる人だ。けれど、自分から同じだけの愛を返すつもりはない。玲奈は、ふと考えた。正樹は、昔、本当に花織を愛していたのだろうか。――愛していたのかもしれない。ただ、それは純粋な愛というより、手に入らない相手への執着に近かった。いざその相手を手に入れてしまえば――それまでの執着は、あっけないほど色褪せていく。花織と一緒になってから、正樹が早々に玲奈を思い出すようになったのも、そのためなのだろう。手に入らないからこそ価値があった。手に入れてしまえば、もう必死になる必要がない。そこまで考えて、玲奈はようやく気づいた。自分は、もう何も抱え込まなくていいのだと。正樹も、花織も、自分たちの欲望に振り回されて、目の前にあった真心を見ようとしなかった。それはあの2人の問題だ。玲奈が自分を責め続ける必要なんて、どこにもない。胸の奥に残っていた最後のわだかまりが、静かにほどけていく。「……あなたって、本当にどうしようもない人だね」そう言い残し、玲奈は車に乗り込み、走り去った。その一部始終を警備員から聞いていた雅紀は、手の中のボールペンをくるりと回した。口元には、薄い笑みが浮かんでいる。――ようやく、時が来たのだ。実は、警備に隙ができたのも偶然ではなかった。正樹を玲奈の前まで通したのは、雅紀自身の指示だった。玲奈には、最後に一度だけ正樹と向き合う必要があった。自分の手で過去を断ち切らなければ、本当の意味で前へ進めない。そして、正樹と花織が今のように落ちこぼれたのも、全部雅紀の手配だった。いつまでも正樹や花織に、玲奈の周りをうろつかせたくなかった。今の彼らに、玲奈を傷つけることはできない。それでも――やはり鬱陶しい。「水野花織は最近、裏社会の連中とつながりを持ったようです」秘書が淡々と報告する。「玲奈さんの車に細工をして、事故を起
正樹の苦境は、さらに深刻になっていった。瀬尾グループが、本格的に動き始めたのだ。取引先への圧力、資金面での締めつけ、契約の打ち切り。正樹の会社は、まだ業界に名を知られ始めたばかりの新興企業にすぎない。長年この業界に君臨してきた瀬尾グループが真正面から潰しにかかられれば、耐えられるはずもなかった。しかも、花織に裏切られた怒りまで重なっていた。冷静さを失った正樹は、焦りのままいくつもの判断を誤った。それが、かろうじて持ちこたえていた会社の経営をさらに悪化させた。もう、挽回する余地はなかった。倒産。その2文字が、現実のものになった。そう悟ったとき、正樹の身体も限界を迎えた。以前にも救急外来へ運ばれたこともあり、彼の体はとうとう壊れてしまった。ある日、オフィスで突然、正樹が血を吐いた。そのまま倒れ込み、再び救急車で運ばれることになった。そして、病院から出てきたときには――会社は正式に倒産していた。すでに破産手続きが始まり、正樹名義の銀行口座も、家も、車も、すべて凍結されていた。そのとき、正樹の脳裏に浮かんだのは玲奈だった。離婚前、玲奈は自分のことを誰よりも大切にしてくれていた。それなのに、自分はそんな玲奈を大切にしなかった。花織が少し手招きをすれば、尻尾を振るようにそちらへ駆け寄った。その結果が、今の自分だ。だが――正樹は、自分が悪いと思いたくなかった。だから、怒りの矛先を花織へ向けた。花織の家を訪ねると、久しぶりに顔を合わせた2人は、互いを責め始めた。花織もまた、正樹に切り捨てられて以来、必死だった。かつて自分を追いかけていた男たちに連絡を取り、昔の「取り巻き」の中からまだ自分に好意を持っている相手を探した。けれど、今さら頼れるのは事情を知らない相手ばかり。少しくらい援助を引き出せても、以前の暮らしを取り戻せるほどではない。そんな中で、正樹が現れた。花織は一瞬、すべてが元通りになるのだと思った。けれど――正樹がここへ来た理由は、仲直りのためではなかった。「全部お前のせいだ!」「はあ?自分が無能だからって、私のせいにしないでよ。そもそも、私が好きだから、玲奈と別れたんじゃないの?」「お前こそ、俺のことずっと甘えてたんじゃないのか?お前がいなかったら、俺は玲奈と別れなか
秘書が大画面に映し出した防犯カメラの映像を、何度も繰り返し再生する。そこに映っているのは、花織のほうから玲奈に絡んでいった一部始終だった。それを見て、ようやく自分の行動を後悔する者もいた。――もっとも、後悔しているのは玲奈を誤解したことではない。自分にまで火の粉が飛んできたことだった。中には瀬尾グループの傘下企業に勤めている者もいた。そのあとすぐ会社から契約解除を知らせるメールが届いた。「なんで私まで……!」怒りに任せて花織を責めようとしたものの、彼女には正樹がついている。須賀グループの社長である正樹を相手にする度胸など、誰にもなかった。結局、腹の虫を収められないまま、自分の不運を嘆くしかない。――まさに、強者同士の争いに巻き込まれた弱者が割を食う形だった。さらに、瀬尾グループと取引のある企業に勤めていた同級生たちもいた。今回の件を知った取引先は、こちらにまで飛び火することを恐れ、彼らとの契約を次々と打ち切っていった。同窓会が終わったあと、参加者たちは今日の出来事をSNSで議論し始めた。花織が玲奈を追い詰めようとして、結局は自分自身を窮地に追い込んだこと。その一部始終が広まり、花織の評判は一気に地に落ちていった。そもそも前回、正樹が玲奈と離婚した直後に、花織が彼に告白した一件も、決して好意的に受け止められていたわけではない。それでも当時は、「正樹のほうが花織を追いかけ回していた」、「花織は巻き込まれただけだ」と、擁護する声も少なくなかった。けれど、今回は違った。誰かが撮影した防犯カメラの映像が、名もない動画投稿者によってSNSに載せられた。それが瞬く間に拡散され、騒ぎになった。今度は誰も、花織を庇おうとしなかった。【玲奈が悪いってみんなが言ってたけど、今回の映像を見る限り、花織も完全に黒じゃん】【そもそも既婚者と関係を持ってた時点でアウトでしょ】かつて花織を擁護していた者たちまで、次々と手のひらを返していった。それらの投稿を目にした花織は、怒りに任せて部屋中のものを投げつけた。テーブルの上にあったものまで次々と薙ぎ払われ、整っていた部屋は見る影もなく荒れ果てていった。一方、正樹もそれどころではなかった。会社では、これまで取引していた企業が次々と態度を変え始めていた。