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第1486話

Author: 心温まるお言葉
霜村冷司が気にしていたのは、記憶喪失そのものではなく、記憶を失った自分が桐生志越のことだけを覚えていて、霜村冷司だけを忘れてしまっていたことだった。きっと彼は、自分が心の奥底で一番愛しているのは桐生志越だと考えているのだろう。

確かに、覚えていたのは桐生志越で、彼ではなかった。しかし、和泉夕子自身も、なぜこうなってしまったのかは理解できなかった。

考え込んでいる彼女の表情を見た霜村冷司の目に、一瞬悲しみの色が映った。だが、それも束の間。男は辛い気持ちを抑え込み、彼女の手を離すと、彼女の顔に触れた。

「いいんだ。お前が無事でいてくれさえすれば、たとえ一番愛している人が彼だとしても、構わない」

子供を産むために大出血、合併症、そして生死の境をさまよった彼女が、今こうして生きて目覚めたこと自体が奇跡なのだ。今更一番愛している人が誰かなんて、気にすることではないだろう。

どちらにせよ、霜村冷司が生涯望んでいたのは、和泉夕子の健康と子供の無事なのだ。和泉夕子が無事に目覚め、子供も危険を脱した今、自分のささやかな感情など、取るに足らない。

和泉夕子は、自分が答えを出す前に、霜村冷司がすでに気持ちを整理したこと、そして......たとえ自分が桐生志越を一番愛していたとしても、彼は気にしないことに驚いた。

痩せこけて、輪郭が浮き彫りになったその顔を見つめながら、和泉夕子はゆっくりと手のひらを返し、霜村冷司の指を握りしめた。「志越を愛していた時、彼のためにできたことは、ただ彼と結婚することだけだった。でも、あなたは......」

彼女はもう一方の手を上げ、霜村冷司の豊かな髪に触れ、額から後頭部へと指先をゆっくりと滑らせた。「もしもいつか、頭の中のチップが、あなたを連れて行ってしまう日が来たら、私は迷わず、あなたと一緒にこの世界を去るわ」

彼女のこれまでにないほど強い声は、まるで魔法のように、霜村冷司を包んでいた孤独感を一瞬にして吹き飛ばした。

この世界には、自分だけではなく、命を懸けて自分を愛してくれる女性がいるのだと、彼は感じた。

和泉夕子は、霜村冷司に心の奥底で誰を一番愛しているのかは言わなかった。ただ、共に死ぬことができると告げただけだった。こんなにも強い信念の前では、どんな答えも取るに足らないものだろう。

霜村冷司の人生において、和泉夕子から愛していな
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