霜村冷司の顔は冷たく引き締まり、一言も発さずに立っていた。彼は桐生志越と話す気などないかのようだった。 しかし、桐生志越はそれを気にする様子もなく、口元に微笑みを浮かべた。 「小さい頃は、本当に苦労ばかりだった。でも、大人になって力をつけたら、彼女を必ず華やかな形で迎えに行き、これからの人生を安心して過ごせるようにしたいと思ったんだ」 そう語りながら、一瞬言葉を止め、目に過去の思い出がよぎるような暗い光が宿った。 「知っているかい?彼女は何度も僕に、『いつになったら迎えに来るの?』って聞いたんだ。その度に僕は『もう少し待って』って言っていた。でも今になってわかったんだ。待たせちゃいけない人がいるってことを」 霜村冷司の冷たい桃花眼が彼を一瞥し、淡々と言い放った。 「今、その人を迎えたんだろう」 桐生志越は苦笑を浮かべた。その笑みは深い哀しみと苦味に染まっていた。 「そうだね。やっと迎えた」 霜村冷司の彫刻のように整った顔立ちは、徐々に陰りを帯びていった。 「おめでとう」 それだけ言い残し、彼はその場を離れようとした。 桐生志越はそんな彼の背中に声をかけた。 「この譲渡契約書は受け取らないよ。君が持ち帰ってくれ」 冷司は足を止め、振り返った。彼の目は鋭く冷たく桐生志越を見据えた。 「これはお前に渡したものじゃない」 桐生志越は柔らかな笑みを浮かべながら答えた。 「それはわかっている」 彼の声には静かな決意が含まれていた。 「助けて、世話をして、守ってくれて、今になって望月家まで渡してくれる。このすべてが彼女のためだろう」 「君がここまでするなんて、彼女を本当に深く愛しているんだね。でも、一つだけわからないことがある」 桐生志越は冷司の顔を見上げ、疑念に満ちた目を向けた。 「君がそんなに彼女を愛しているのに、なぜあの時、彼女を捨てたんだ?」 霜村冷司の顔色はさらに青ざめ、声を低くして答えた。 「それはお前には関係ない」 桐生志越はそれ以上追及しなかった。ただ譲渡契約書を差し出しながら、静かに言った。 「ありがとう。でも、この借りは君に返すつもりはない」 冷司は軽蔑したように鼻で笑った。 「お前が望月家に戻
「僕が事故に遭った夜は、彼女にプロポーズするつもりだった。でも、その夜、僕たちは些細なことで喧嘩をしてしまったんだ……」 桐生志越は静かに語り始めた。 「原因は僕自身にある。彼女がレストランでアルバイトをしていたとき、男の同級生と楽しそうに話しているのを見て、どうしようもなく嫉妬してしまったんだ」 「そのせいで、つい彼女に酷いことを言ってしまった。彼女は怒り狂って、雨の中へ飛び出していった……」 「そのときは暴風雨だった。僕は慌てて彼女を追いかけて背負おうとしたけど、彼女はそれを拒んだ。それ以上強引には行けなくて、ただ彼女の後ろを黙ってついていくしかなかった」 「君は知らないだろうけど、彼女が一番嫌うのは、僕が問題起きたときに何も言わずに黙り込むことなんだ」 「彼女が怒って走り出したのも、僕が何も言い返さなかったからだ。そして運悪く、操縦不能になった車にぶつかってしまった……」 桐生志越は言葉を切り、顔に浮かんでいた青白い笑みが徐々に消え、淡々とした表情へと変わった。 「こんな話を君にしたのは、嫉妬心で彼女を傷つけたり、問題が起きたときに黙り込むようなことは絶対にしないでほしいからだ」 「君たちがなぜ離れたのかは知らないけれど、多分僕のときと同じような理由だろう」 彼は遠い目をしながら、かつての自分と冷司が同じような人間だったことを自覚していた。偏執的で、強い独占欲に支配されていた。 そんな人間は、一度失って初めて愛の本質に気づくのだ。 霜村冷司は相変わらず無言だったが、まつ毛がかすかに震えていた。 もし桐生志越があの夜事故に遭っていなければ、そもそも彼に和泉夕子が回ってくることなどなかっただろう。 桐生志越は手に持った指輪に目を落とし、一瞬ためらった後、それを霜村冷司に差し出した。 「この結婚式を君に譲るよ」 冷司は驚きを隠せない様子だった。 彼がこんな状況でこのような決断をするとは思ってもみなかったのだ。 だが、彼は指輪を一瞥しただけで、胸の中の感情を抑え込み、王者のような冷静さを取り戻した。 彼はゆっくりと口を開き、桐生志越を見下ろしながら言った。 「彼女は物ではない。君が譲るとか、私が譲るとか、そんなことでは決まらない。彼女には彼女自身の意
彼女は生涯、美しさを大切にしてきた。 死の間際にも、浮腫みを防ぐ薬を飲んでいたほどだ。それほど、醜く死ぬことを恐れていた。 だが今、彼女の背中は、もう以前のような完璧さを取り戻すことはない…… その無残な姿を目にした瞬間、霜村冷司の心臓は凍りついたかのように動きを止めた。 彼の端正な顔は青ざめ、血の気を失っていった。 手にしていた傘を地面に投げ捨て、彼は彼女の前に跪き込んだ。 震える手を彼女に伸ばすが、その手はどうしても彼女に触れることができなかった。 彼女の背中にまとっていたウェディングドレスはすでに硫酸で焼け焦げ、皮膚は黒く変色し、骨が露出していた。 そのあまりに深刻な傷に、冷司の胸は張り裂けそうになり、涙が溢れ出した。 震える指先で彼女の顔にそっと触れると、彼女は痛みに震えながら声を絞り出した。 「触らないで……痛い……」 その言葉に、冷司は慌てて手を離した。 唇を動かそうとしても、言葉が出てこない。 桃花眼に映る彼女の顔は、どれほど美しかったとしても、今はただ彼を苦しめるだけだった。 彼は必死に周囲を見回し、遠くから駆けつける新井杏奈に向かって叫んだ。 「早く!杏奈、彼女を助けてくれ!」 その声は、かすれた叫びのようで、彼の心の痛みを如実に表していた。 彼の声がどれほど震えていようとも、彼がどれほど痛みを抱えていようとも、彼女が感じている痛みに比べれば何でもないのだろう。 「どうして、こんなに愚かなことを……」 冷司は呟き、痛みに耐える彼女の小さな体を見て、胸が締め付けられるような思いだった。 和泉夕子は最後の力を振り絞り、顔を少しだけ動かして、遠くにいる桐生志越を見つめた。 その瞳がかすかに伏せられた後、再び冷司に目を向けた。 彼女の瞳には、淡い微笑みが浮かんでいた。 「私……あなたに借りすぎたから……」 彼女は、生涯で二人の男性に対して罪を負っていた。 桐生志越は、彼女を半生にわたって支え、彼女のために命を懸けた男だった。 霜村冷司は、彼女に8年間の愛を注ぎ、惜しみなく尽くしてくれた男だった。 彼女には、二人のどちらにも応える力がなかった。 彼女は、桐生志越にこれからの人生を捧げると決めていた。そして、冷司には働いて稼いだ金銭を持って償うつもりだ
ナイフが霜村冷司の首元を刺そうとした瞬間、彼の真紅に染まった瞳が鋭く光り、反射的に手を伸ばして襲撃者の手首を掴んだ。彼は力強く手首を捻り、清掃員の腕を音立ててへし折った。そのまま相手のナイフを奪い取り、ためらうことなくその胸に深々と突き刺した。 全力で突き刺した刃先からは、血が噴き出し、冷司の袖を真紅に染めた。 それでも彼は一切目を伏せることなく、無表情のまま刃を引き抜き、再び深く刺し込んだ。 「霜村さん!」 杏奈より先に駆け寄った相川涼介は、冷司が完全に殺意に飲まれているのを見て、慌てて叫んだ。 「殺してはいけません!ここは私に任せてください!」 だが地面に倒れた清掃員は狂ったように笑い出した。 「霜村冷司!やれるものなら俺を殺してみろ!お前が人を殺したら、霜村家の当主なんて続けられないだろう!」 その言葉に、冷司の瞳は一層鋭く冷たく光を放ち、躊躇なくナイフを振り上げた。 「やめろ!」 涼介はナイフが相手の首元を切り裂こうとする瞬間、自らの手を差し出してその刃を受け止めた。 鋭い刃が手の甲を深く切り裂き、血が滴り落ちたが、涼介は痛みを堪え、冷司に必死で訴えかけた。 「霜村さん、挑発に乗らないでください!今は和泉さんを助けることが最優先です!」 その言葉でようやく冷司は手を止め、目の前の現実に引き戻された。 同時に杏奈が駆け寄り、地面に倒れた和泉夕子の背中を見て顔を青ざめさせた。 彼女は周囲を見渡したが、ここには応急処置を施す設備も、水を洗い流す手段もなかった。ただ冷たい雨が降り続けるだけだった。 「孤児院に水があります!」 動けない車椅子の桐生志越が震える声で叫んだ。 杏奈はそれを聞いて必死に冷静さを取り戻し、冷司に叫んだ。 「霜村さん、早く和泉さんを孤児院に運んで!」 冷司はナイフを放り投げ、和泉夕子を慎重に抱き上げると、そのまま孤児院へ向かって全速力で走り出した。 杏奈も後を追いかけ、途中で駆け寄ってきた白石沙耶香に向かって言った。 「沙耶香、早く病院に電話して救急車を呼んで!」 沙耶香は震える手でスマートフォンを取り出し、手早く電話をかけながら孤児院に向かって走り始めた。 混乱する一行の後方で、清掃員は狂気じみた笑
孤児院で、霜村冷司は和泉夕子を抱きかかえ、新井杏奈の助けを借りて、彼女をカーペットの上にそっと横たえた。新井は孤児院のスタッフを呼び、柔らかいホースを持ってきてもらい、大量の水で夕子の背中にかかった硫酸を繰り返し洗い流した。洗い流している間、地面にうつ伏せになっていた夕子の体は、意識がないにもかかわらず、痛みで止まらない震えを見せていた。霜村は彼女のその姿を目にし、心臓が締めつけられるような苦しみに襲われた。罪悪感が胸を埋め尽くし、彼は再び彼女の前にひざまずいた。彼は白くなった手をそっと彼女の頬に伸ばし、血の気のない顔に触れた。指先が感じたのは、氷のように冷たい肌だった。彼の胸は激しく痛み、3年前に彼女を失った時の恐怖が、再び全身を支配した。彼は震える手を彼女の鼻先に近づけたが、息を感じることができず、その場で力が抜け、崩れ落ちた。「新井……彼女が息をしていない……」霜村の震える声に、新井は水を流す手を止め、すぐに彼女の鼻先と脈を確認した。「かすかに息があります。でも、夕子さんは大手術を受けたことがあり、こんな重傷では……耐えられるかわかりません……」新井の言葉を聞いた途端、霜村は制御を失い叫んだ。「そんなはずがない!彼女は絶対に無事だ!何があっても助ける!」彼は狂ったように新井の手からホースを奪い取り、硫酸が手に触れることも構わず、懸命に彼女の体を洗い流し続けた。沙耶香はその光景を目にし、瞬く間に泣き崩れ、心の中で何度も天に祈り続けた。「どうか夕子を助けてください……どうか……」一方、門の外で車椅子に座る桐生志越は、何もできない自分に苛立ちながら、その場で足を強く握り締めた。自分の無力さが深い絶望感となって彼を飲み込み、彼はまるで深淵に落ちていくような感覚に陥っていた。新井は霜村を止めようとしたが、彼の耳には届かず、仕方なく救急車を呼ぶために動き出した。その時、孤児院の門の外から救急車のサイレンが響いた。新井が霜村に彼女を病院に運ぶよう指示しようとした瞬間、彼はすでに夕子を抱き上げ、迷わず救急車に向かって走り出していた。彼は周囲の人々の存在を忘れたかのように、彼女をしっかりと抱きかかえたまま救急車に乗り込んだ。彼は夕子を医師たちに引き渡し、冷たい声で命じた。「何があって
沙耶香と相川が駆けつけた時、彼らが目にしたのは、まるで魂が抜けたような霜村社長の姿だった。相川は彼の前に立ち、指先が黒くなっているのを見ると、すぐに声を上げた。「霜村社長、すぐに医者を呼んできます!」彼は急いで医師を連れてきて、傷口の処置を始めたが、霜村社長は反応を見せず、ただ地面に座り込んでいるだけだった。医師たちにされるがまま、まるで自分のことには無関心なようだった。一方、沙耶香は彼の様子に構う余裕もなく、手を強く握りしめ、目の前の閉ざされた扉をじっと見つめていた。時間が一分一秒と過ぎ、ついに救急室の扉がゆっくりと開いた。無菌服を着た新井杏奈が、汗まみれの顔で室内から出てきた。沙耶香が近づこうとする前に、黒い影が彼女の横をすり抜けた。「彼女はどうだ?」全身が濡れ、額には濃い前髪が垂れ、水滴がポタポタと落ちている霜村社長が、気にも留めることなく新井を見つめて問いかけた。彼の瞳は光を失い、暗い闇が広がっているようだった。新井は息を整えながら答えた。「一時的に危機は脱しましたが、非常に重症です。現在はまだ意識不明のままです……」彼はすぐに中に入ろうと足を踏み出したが、新井がそれを制した。「すでに重症病室に移しました」彼は立ち止まり、冷たい声で言った。「彼女に会わせてくれ」新井は頷き、彼と沙耶香を連れて病室へ急いだ。「ここはICUなので、中に入ることはできません。感染を防ぐためです。ガラス越しに見るだけにしてください」霜村社長はガラス越しに病床の上で横たわる夕子を見つめた。彼女の顔は蒼白で、まるで生気を失っているかのようだった。彼は長い間その姿を見つめ、視線を新井に移した。「ICUにいるということは、まだ命の危険があるということだ。どれくらいかかる?」新井は額の汗を拭いながら答えた。「霜村社長、1~2週間はかかるでしょう。その間に生命の危険を脱することができるか様子を見る必要があります」彼の体は再び緊張し、その視線はベッドの上の小さな背中に固定されたままだった。無限の罪悪感が彼の目に浮かび、彼を責め立てていた。「霜村冷司、お前がしたことを見ろ……お前の選択のすべてが彼女を傷つけた。もし結婚を強行しなければ、もしあの場に彼女を連れてこなければ、彼女が硫酸を受
重症看護室の中、和泉夕子は背中の大部分が硫酸で焼かれたため、繰り返す感染と戦いながら、医師たちが懸命に救命措置を施していた。二週間が経ち、彼女はついに危機を乗り越えたものの、目を覚ました直後に襲い来る激痛に再び意識を失った。 新井杏奈は一瞬の気も抜けず、全力を尽くして彼女を再び死の淵から引き戻した。 ICUの外で栄養点滴を受けながら待機していた霜村冷司は、その光景を目の当たりにし、胸が痛みで締めつけられるのを感じた。 「もし硫酸が自分にかかっていたなら……」 そう思うたび、彼は後悔に押しつぶされそうになった。 彼女は彼への恩返しのために、これほど痛ましい選択をしたのだ。 ガラス越しに何度も意識を失う彼女の姿を見つめる霜村は、心の底から彼女の痛みを代わりに引き受けたいと思った。 時間が過ぎていき、新井はモニターに映る心電図を見つめながら、波形が正常に戻ったことを確認すると、深く息をついた。 そして別の通路を通り、待機していた霜村と沙耶香の元に向かった。 「夕子さんの容態は安定しました」 沙耶香はその言葉を聞いた瞬間、力が抜けて地面に崩れ落ち、2週間分の抑え込んでいた感情が一気に爆発した。 彼女は顔を覆いながら泣き続け、涙が止まらなかった。 新井は彼女をそっと抱きしめ、無言で慰める一方、病室の扉の前に立つ霜村を見上げた。 彼の感情はわからなかったが、おそらく同じように安堵しているはずだと感じた。 2日後、夕子は重症病室から一般病室に移された。 沙耶香はたくさんのものを買い込んで病室を訪れたが、そこには霜村がタオルを手に、細心の注意を払って夕子の顔を拭いている姿があった。 その光景を見た彼女は、手にした荷物を置き、静かにその場を後にした。 廊下に出た沙耶香は携帯を取り出し、桐生志越に電話をかけたが、相手は出なかった。 彼女は深い溜息をつきながら思った。 「夕子が重症病室であれほど苦しんでいたのに、彼は一度も姿を見せなかった……」 彼女は携帯をしまい、病室に目を向けると、夕子だけを見つめている霜村の姿があった。 その姿を見て、ようやく桐生がここに来なかった理由を理解し始めた。 霜村は宝物を扱うように、夕子の顔を拭き終えると、手を拭いてから彼女
霜村冷司が水を飲ませ終えると、静かに彼女に尋ねた。 「まだ欲しいか?」 和泉夕子はかすかに首を振り、その視線が彼の指先に移った。 そこには、硫酸による火傷の跡が残っていた。 彼女はそっと彼を見上げて尋ねた。「あなたの手……」 彼は指を軽く丸め、彼女の視線を避けるようにして、もう片方の手で清潔なタオルを取り、彼女の唇を拭き始めた。 彼は何も答えず、夕子もそれ以上問い詰めることなく、病室の中を見回しながら静かに口を開いた。 「どれくらい眠っていたの?」 彼は唇の水分を拭い終えると、落ち着いた声で答えた。 「半月以上だ」 彼女は目を大きく見開いた。数日程度と思っていたが、まさかそんなにも長い間意識を失っていたとは思わなかった。 目の前には霜村冷司だけがいる。沙耶香や桐生はどこにいるのだろう―― 彼女が尋ねようとした矢先、彼はそっと彼女の顔を両手で包み、新しい枕に交換してあげた。 続けて洗面用具を取り出し、彼女の顔や口内、露出した肌を丁寧に清潔にした。 その一連の動きはあまりにも自然で、彼女が昏睡していた間も、彼がこのように細心の注意を払って世話をしていたことを思わせるものだった。 彼女は気まずそうに目を伏せ、長い睫毛の影が頬に落ちた。 彼は世話を終えると彼女を数秒間じっと見つめ、その後浴室へ向かった。 彼が衣装棚を通り過ぎる際、中からスーツを取り出す姿を見て、彼女は思わずそちらに目を向けた。 棚には彼の衣類がびっしりと掛けられ、洗面用具まで置かれている。 潔癖症の彼が、自分の衣類をこんな場所に置くことは滅多にない。 それでも彼は、自身のルールを破ってまで夕子の世話を優先していた。 彼女はその事実を考えると、眉を少しひそめた。思考が乱れ始めたところで、彼が浴室から出てきた。 高級な黒のスーツに身を包んだ彼は、立ち姿が一層際立っていた。 鋭い顎のラインと端正な顔立ちは完璧で、わずかな疲れさえ隠され、冷静で高貴な雰囲気を漂わせていた。 彼が病室を出ると、ガラス越しに待っていた桐生の姿を目にした。 桐生は長い間そこにいたのだろう。しかし、彼がいる間は入室しないと決めたようだった。 彼は一瞬立ち止まると、何事もなかったかのように夕子の方へ戻り、彼女の短い髪にそっと触れた。
和泉夕子が城館を出て、鉄格子越しに見てみると、相川泰と大野佑欣が激しく取っ組み合っているのが見えた。沢田が戻ってきた時に、大野皐月の妹、大野佑欣は喧嘩がとても強いと聞いていたが、和泉夕子は信じていなかった。しかし今、実際に現場を目の当たりにし、彼女は驚愕した。180cmを超える大男の相川泰でさえ、大野佑欣のパンチに押されている。「大野さん」鉄格子越しに優しい声が聞こえ、大野佑欣は握りしめていた拳をゆっくりと開いた......彼女は体を起こし、振り返って、鉄格子の中に立っている和泉夕子を見た。「あなたが和泉夕子さん?」「ええ」陽光の下に立ち、軽く頷く彼女の姿に、大野佑欣は少しぼんやりとした。こんなにも生き生きとした命を、どうして奪えるだろう。でも、母親を失いたくもない......大野佑欣は数秒迷った後、和泉夕子に近づこうとしたが、相川泰に止められた。「奥様に近づくな。でないと、容赦しないぞ......」彼は女には手をあげないと決めているため、大野佑欣に手加減をしていたが、もし彼女が奥様に危害を加えようものなら、容赦はしない!大野佑欣は相川泰を一瞥したが、全く気にせず、大きな目で鉄格子の向こうにいる和泉夕子を見つめた。「霜村奥さん、少し外に出て話せますか?」「ごめんなさい。それはできませんわ」和泉夕子はきっぱりと断った。「あなたが来た目的は知っています。ここで話しましょう」大野佑欣は彼女を外に連れ出して拉致するつもりだったが、和泉夕子は彼女の目的に勘づき、警戒していた。「あなたのお兄さんから電話があったんです。あなたが私の心臓を奪いに来ると」なるほど。だからブルーベイに、屈強なボディーガードが配置されていたのか。まさか、兄が事前に連絡しているとは思いもしなかった。兄に先手を打たれた大野佑欣は、相手が全て知っているのを見て、潔く認めた。「ええ、その通りです。私はその目的でここに来ました」和泉夕子は唇の端を上げ、困ったように微笑んだ。「大野さん、医師は既に私の血液を採取し、適合検査を行い、あなたのお母様とは適合しないことが結果として分かっています。だから、無理やり私の心臓を奪って移植しても、無駄なんです。しかも、適合しないドナーの臓器を移植すれば、拒絶反応で、あなたのお母様はすぐ
和泉夕子は少し驚き、そして恭しく言った。「新井先生の先生だったのですね......」大田は湯呑みを置くと、謙遜するように手を振った。「先生なんてそんな大層なものではないよ。私はたった数年間彼女を指導し、その間にたくさんの医学賞をとらせてあげたってだけ。私なんか、本当にたいしたことないよ......」隣に座っていた霜村爺さんは杖で床を突き、「もったいぶるな、早く脈を取れ!」と言った。大田は彼を睨み、「いい歳をしていつも仏頂面をしていると、痔になるぞ!」と言った。夕子の前で痔になるなどと揶揄され、霜村爺さんは激怒した。「大田、年甲斐もなくはしゃぐな!」和泉夕子は笑いをこらえ、手を差し出して二人の言い合いを仲裁した。「大田先生、脈診をお願いします。私がまだ治療できるかどうか......」霜村爺さんに言い返そうとしていた大田は、和泉夕子が手を差し出すのを見て口をつぐみ、脈診を始めた......しばらくして、大田は顔を上げて和泉夕子に尋ねた。「薬をたくさん飲んでいるようだが、止められるか?」和泉夕子は首を横に振った。「心臓の拒絶反応を抑える薬と、目の治療薬は、どちらも止められません」大田は思わず彼女の心臓に視線をやった。こんな若いのに心臓移植をしているとは、どうりで体が弱々しいわけだ。和泉夕子は彼が黙っているので、霜村爺さんの顔色を窺いながら、緊張した面持ちで尋ねた。「私は......まだ子供を産めますか?」大田は脈診を終え、彼女を一瞥した。「大きな手術を何回受けたか?」和泉夕子は正直に答えた。「大きな手術は2回です。どちらも心臓に関するものです。その他、小さな手術も......」彼女が何度も手術を受けていると聞いて、霜村爺さんは眉をひそめた。「手術のせいで、子供が産めなくなったのか?」大田は診察バッグに小さな枕をしまいながら、首を横に振った。「手術とは関係ない。奥さんは不妊症ではない。子供を産める」医師の言葉に、霜村爺さんと和泉夕子は二人とも安堵した。大田が何か言おうとした時、新井さんの慌てた声が外から聞こえてきた――「奥様、外にとても強い女性が!ボディーガードたちが全員やられてしまいました!早く!」和泉夕子は大野皐月の妹が来たと分かり、急いで立ち上がった。「おじいさん、大田先生、少しお待ちください
翌日の昼、和泉夕子はデザイン画を描き終えると、穂果ちゃんにビデオ通話をかけた。「穂果ちゃん、今日は学校でご飯ちゃんと食べた?」「うん!美味しいご飯がいっぱいあるよ!でもね、空が、いつも私のタルトを横取りするの!」穂果ちゃんは何度も柴田空と同じ学校に通うのは苦痛だとこぼしていた。それを聞いて、和泉夕子は穂果ちゃんに転校するかどうか尋ねた。穂果ちゃんはこの街で一番の学校だから転校したくないと言った。柴田空からは最後まで逃げないと決意した穂果ちゃんは、最後まで戦い抜く、そうでなければ池内思奈じゃない、と言った。和泉夕子は彼女に何も言えず、ただ姪の根性はなかなか良いと思い、好きにさせることにした。「穂果ちゃん、今度空がタルトを横取りしたら、分けてあげるから取らないでって言ってみなさい」「うん、今度やってみる。それでも言うことを聞かないで、私のタルトを横取りするなら、隅っこに連れて行って、思いっきり殴ってやる!」和泉夕子は穂果ちゃんに暴力を振るわないように言おうとした時、ビデオ通話の向こうから、先生がお昼寝の時間だと子供たちを呼ぶ声が聞こえてきた。「おばさん、もう行かなきゃ。小花先生と一緒にお昼寝する時間なの」小花先生は本当は華という名前の男の子で、とてもカッコいいなので、穂果ちゃんは何でも彼の言うことを聞く。「分かった。早く行きなさい」二人は手を振って別れを告げ、和泉夕子はビデオ通話を切った。食事をしに階下に降りようとした時、新井さんから霜村爺さんが来たと聞いた......階段の手すりを掴んでいた手が止まった。「新井さん、私がいないと言って......出かけているって......」言葉が終わらないうちに、玄関から力強い声が聞こえてきた。「なんだ?わしが怖いのか?」霜村爺さんの声を聞いて、和泉夕子はもう隠れることができず、仕方なく階下に降りてきた。「おじいさん、どうしてここに?」新しい杖を買った霜村爺さんは、和泉夕子の前に来ると、杖で床を突いた。「夫に許可をもらった」和泉夕子は彼がなぜ来たのかを尋ねたのだが、霜村爺さんは霜村冷司の許可を得てきたと答えた。もうそれ以上聞く必要はなかった。「夫」という言葉で、和泉夕子は霜村爺さんがなぜ家に入れたのか理解した。彼は彼女を認めたのだ。和泉夕子は霜村
相手の声を聞いて、和泉夕子は一瞬固まった。まさか「バカ」が大野皐月だったとは。すぐに我に返り、「適合しないって言ったのに、どうしてまだ私の心臓が欲しいの?どうかしてるんじゃない?」移植したって無駄なのに。拒絶反応で即死するかもしれないのに。生きるためなら、どんな非常識なことでもするんだな。大野皐月もそれは理解していた。「母さんは少し精神的に参っているようだ。だが、妹は分別のある子だ。見つけたら、説得する」そう言われて、和泉夕子は怒りを抑え、「そうした方がいいわよ。でないと、私が怒ったらどうなるか、知らないんだから!」なぜか、和泉夕子がそう脅した時、大野皐月の脳裏には、彼女が歯を食いしばって怒っている可愛いらしい姿が浮かんだ......そして、慌てて電話を切った!霜村冷司の女がどうしたっていうんだ?あんな下劣な想像をさせるなんて!大野皐月は携帯電話を投げ捨て、ソファに倒れこんだ。「ふん、体で男を釣る女なんて、霜村さんみたいなバカにしか相手にされないさ!」独り言を呟いていると、耳元にはまだ「私が怒ったらどうなるか、知らないんだから!」という言葉が響いていた......そして再び、彼女が怒っている可愛いらしい姿が脳裏に浮かび、大野皐月は爆発した!「ちくしょう!私はきっと頭がおかしくなったんだ!」彼は携帯電話を取って医師に電話をかけようとしたが、南から電話がかかってきた。「大野様、お嬢様が空港に向かいました。きっと帰国するつもりです。私は彼女に勝てません、止めることもできません。どうしましょう?」「......」大野皐月は眉をひそめて考え、冷たく言った。「専用機を準備しろ。私が戻って彼女を止める」霜村冷司が浴室から出てくると、和泉夕子が彼の携帯電話を持っているのを見て、少し口角を上げた。「夕子、これは浮気調査か?」和泉夕子は携帯電話を握ったまま振り返り、「ええ、冷司が私に隠れて他の女と遊んでいるんじゃないかって」と答えた。霜村冷司は近づき、片腕で彼女の腰を抱き寄せ、自分の腕の中に引き寄せた。「何か見つかったか?」和泉夕子は穏やかな顔で微笑みながら、「残念ながら何も見つからなかったわ。ただ、バカって名前の人の妹が、私の心臓を奪いに来るみたいだけど」と言った。霜村冷司は伏し目がちに、冷たい視線を向け
大野佑欣は驚いた。「兄さんは適合しなかったって言ってたじゃない?」適合しないなら、心臓を奪っても無駄だ。移植しても拒絶反応が出て、すぐに死んでしまうかもしれない。追い込まれ既に見境がなくなっている春日椿には、そんなこと全く関係がなかった。「彼女には春奈の心臓が移植されているわ。彼女に適合したのならば、私にだって適合するはずだわ。」春日椿がそう言った時、彼女の目に宿る陰湿な光に、大野佑欣は息を呑んだ。母親はいつも優しく上品だったのに、どうしてあんな表情をするのだろう?自分の見間違いだろうか?大野佑欣がもう一度よく見ようと顔を近づけた時には、春日椿は既に鋭さを隠し、か弱く無力な様子に戻っていた。「佑欣、お母さんがずっとそばにいてほしい?」「もちろんよ」そうでなければ、なぜ彼女と兄は世界中を駆け巡ってドナーを探しているのだろう?母親に生きていてほしい、ずっと一緒にいてほしいからに決まっている。「そう思ってくれるなら、お母さんのために春奈の心臓を持ってきてくれない?」「それは......」大野佑欣はためらった。春日春奈の心臓は、すでに和泉夕子に移植されている。つまり、和泉夕子は生きている人間だ。生きている人間の心臓を持ってくるなんて......「あなたも兄さんと同じで、私が生きていてほしくないのね......」「そんなことないわ!この世で私が一番大切なのはお母さんよ......」春日椿は震える手で、大野佑欣の手の甲を軽く叩いた。「お母さんもあなたと離れたくないからこそ、お願いしているのよ......」大野佑欣はまだ抵抗を感じていたが、何も言わなかった。春日椿はそれを見て、深くため息をついた。「先生は彼女の心臓があれば、私はあと数年生きられると言っていたけれど、あなたが嫌ならそれでいいわ。お母さんは、あなたに無理強いするつもりはない」「先生がそう言ったの?」医師は無理だと言ったが、春日椿は聞く耳を持たない。「ええ、先生は春奈の心臓は私と適合するから、移植できると言っていたわ」医療の知識があまりない大野佑欣は、少し迷った後、腰をかがめて、病気でやつれた春日椿の顔に触れた。「できるなら......お母さん、ここでゆっくり休んでて。私が夕子を連れてくるから......」もし霜村冷司が
大野皐月が大野佑欣を見つけた時、彼女は車の中に座り、虚ろな目で遠くの森を見つめていた。気が強く活発な妹が、こんな放心状態になっているのを見るのは初めてで、彼は胸が痛んだ。「佑欣、霜村さんの部下に何かされたのか?」大野佑欣は動かない瞳をゆっくりと動かし、縄を解いてくれている大野皐月を見た。「兄さん、霜村さんの部下に、私が拉致されたの?」大野皐月は苦労して縄を解きながら、頷いた。「彼の妻は春奈の実の妹だ。母と適合するかもしれないと思い、彼女を連れてきたんだ。まさかその前に、霜村さんが君を拉致していたとはな。彼は私を牽制するために、君を巻き込んだんだ。辛い思いをさせてすまなかった。全部、兄さんの責任だ......」大野皐月は縄を解き終えると、大野佑欣に謝った。大野佑欣は事情を理解すると、無表情で首を横に振った。「大丈夫......」沢田健二は霜村冷司の部下だったのか。彼が自分に近づいてきたのは、自分たちがなぜ春日春奈を探しているのか探るためだったのだろう。霜村冷司が兄の計画に乗じて、危険を犯し目的を達成した今、私の利用価値はもう無い。だから沢田健二はあんなに冷酷に去っていったのか。まさか、彼にとって自分は霜村冷司の手先で、用済みになったら捨てられるただの道具だったとは。大野佑欣は全てを理解すると、突然冷笑した......その冷たい笑みに、大野皐月は背筋が寒くなった。「佑欣、大丈夫か?」大野佑欣は無表情のまま、首を横に振った。「兄さん、適合したの?」大野皐月は何も言わなかったが、彼の表情から、大野佑欣は答えが分かった。彼女はそれ以上聞かずに、「母さんの様子を見てくる」と言った。大野皐月を車から降ろした後、大野佑欣は素早く後部座席から運転席に移動し、バックで邸宅を出て行った。猛スピードで走り去る車を見つめ、大野皐月は心配そうに眉をひそめた。「南、後を追って様子を見て、何かあったらすぐに報告しろ」大野佑欣は病院の病室に着くと、苦しそうにベッドで丸まっている母親を見て、胸が痛んだ。「お母さん、大丈夫?」春日椿は息苦しさに胸を押さえ、やっとの思いで息を吸い込んだ。酸素が体内に入ると、彼女の視界がはっきりとしてきた。自分の娘だと分かると、春日椿は震える手で彼女の顔に触れようとしたが、力が入らない。
怒りに満ちていた大野佑欣は、その言葉を聞いて心臓がズキッと痛み、苦しくなった......なんてことだ。彼女は本当に彼のことが好きになってしまったらしい......大野佑欣、なんて役立たずなの!心の中で自分を叱った後、彼女は沢田に宣告した。「どこに逃げても、私は見つけてやるから。今日のことの復讐を果たすまでは!」今回、沢田は何も言わず、ただ唇の端を少し上げた。彼が自ら姿を現さない限り、Sのメンバーを簡単に見つけられるわけがない。しかし、彼は女のために自ら進んで命を落としに行くほど愚かではない。だから、今回のお別れで、大野佑欣とはもう二度と会う事がないだろう。バックミラー越しに、沢田の目に浮かぶ決意を見て、大野佑欣は怒りと憎しみに満ちた。「沢田、この卑怯者!」口説いて、惹きつけて、体まで奪ったのはいいとして、騙しておいて、その後自分に敵わないからって逃げようとするなんて。これでも男か?獣だ!この世にどうして沢田のような人間がいるんだ?よりによって、こんな男を好きになるなんて!信じられない!罪悪感に苛まれながらも、沢田は大野家の前でスピードを落として車を止めた。ドアを開けて車から降り、後部座席に回った。彼はドアを開け、腰をかがめて大野佑欣を起こした。その動作で、二人は向き合った......沢田がちゃんと見れば、大野佑欣の怒りに満ちた目の奥には、実は彼に対する未練があることに気づくはずだった......しかし、沢田は無理やり彼女の顔を見ないようにして、うつむき、彼女の右手を縛っていた縄を解いた。「片手だけ解いてやる。好きなだけ殴ってくれていい。ただ、殴り終わった後は、もうそんなに怒らないでくれ。漢方医によると......女の人が怒ると体に......」言い終わらないうちに、自由になった大野佑欣は、沢田の顔に平手打ちを食らわせ、彼の髪を掴んだ。沢田がまだ状況を把握していないうちに、彼女は片手で彼を車内に引きずり込んだ。そして、雨粒のような拳が彼の胸に降り注ぎ、胸に鈍い痛みを感じ、呼吸困難になり、目がチカチカした......ほら、片手を解いただけなのに、こんなに殴られた。両足を解いていたら、2分も立たなければあの世行きだっただろう......彼女には借りがある。沢田は激痛をこらえ、抵抗しなかった。大野佑欣が殴る
沢田は唾を飲み込み、大野佑欣の前にしゃがみこんで謝った。「ごめん。わざと縛ったわけじゃないんだ」大野佑欣は口にタオルを詰め込まれていて、声が出せない。ただ、沢田を睨みつけることしかできなかった。彼女の目から放たれる憎しみに、沢田は思わず身震いした。「今から君を帰すから、そんな目で見ないでくれないか?」帰してもらえるという言葉を聞いて、大野佑欣はゆっくりとまつげを伏せ、憎しみを隠して、おとなしくなったふりして沢田に頷いた。沢田は彼女がこんなにか弱く見えるのは初めてで、心が揺らぎ、彼女の口からタオルを外した。大野佑欣は大きく空気を吸い込み、呼吸を整えると、充血した目で、全身を縛っている縄を見つめた。「解いて」彼女の視線を追って、沢田は上半身を縛っている縄を見て、思わず首を横に振った。「解いたら、絶対に殴られる......」沢田は想像するまでもなく、縄を解けば、彼女は拳で自分を殴り殺すだろうと分かっていた。自分の命は、まだこれから闇の場で霜村冷司を助けるために必要なのだ。死ぬにしても、女に殺されるわけにはいかない。縄を解いてくれないのを見て、大野佑欣は縛られた両手を握りしめ、怒りを抑えながら、澄んだ瞳を上げた。「健二、あなたのことが好きになったの。殴ったりしない......」あなたのことが好きになったの......沢田は驚き、縄で縛られてやつれた大野佑欣を見つめた。「薬を飲ませて、拉致したのに、それで俺のことを好きになったと言うのか?」彼の信じられないという表情を見て、大野佑欣は花が咲いてような明るい笑顔を見せた。「あなたにはあなたなりの理由があるはずよ。そうでなければ、私を傷つけるはずがないもの。だって......」大野佑欣は2秒ほど間を置いて、沢田の下半身に視線を落とした。「あんなに何度も一緒に寝たんだもの、少しは情が移ったでしょう?」沢田は彼女が自分の下半身を見つめているのに気づき、照れくさそうに膝を閉じた。「俺は......」「もしかして、私のことが好きじゃないの?」その挑発的な問いかけに、沢田はどう返事していいのか分からなかった......タオルを外したら、大野佑欣はきっと最初に自分に向かって暴言を吐き散らかすだろうと思っていたのに、告白されたとは想像もしなか
大野皐月が壁に寄りかかり、顔が赤く、息を切らしているのを見て、春日琉生は恐る恐る尋ねた。「兄さん、だ、大丈夫か?」大野皐月は充血した目で春日琉生を睨みつけた。「どっか行け!」春日琉生は足を速めて去りながら、南に声をかけた。「薬を飲むように言ってくれよ......」南はいつも持ち歩いてる薬を取り出し、水と一緒に大野皐月に渡した。「お、大野様、まずは薬を飲んで落ち着いて......」怒りを必死に抑えようとしている大野皐月は、薬を受け取り、仰向けになって飲み込んだ。気持ちを落ち着かせ、再び目を開けると、その目には冷たい光だけが残っていた。彼は床に落ちた携帯を拾い上げ、霜村爺さんの電話番号を探してかけた......霜村爺さんは大野皐月の話を聞いて固まった。「な、なんだって?彼女が本当に春日家の人間じゃないんだと?」大野皐月は我慢できず、怒鳴った。「耳が聞こえないのか?それとも目が悪くなったのか?!人の話が分からないのか?何度言ったら信じるんだ?!」霜村爺さんは初めてこんなに人に怒鳴られ、激怒した。「耳も目も悪くなってない!まともに話せないくせに、逆ギレするとはいい度胸だ!」どうして霜村家と関わるといいことがないんだ?!若い奴が生意気なのはまだしも。今度は年寄りも楯突いてくるとは!私を誰だと思っているんだ?!「このジジイ、よく聞け!てめえが飯食えば歯に詰まり、水を飲めばむせて死にかけ、車に乗ればタイヤが外れて、外に出れば即交通事故、おまけに子孫は三代続かずに滅ぶように呪ってやる!」大野皐月は一気に怒鳴り散らかした後電話を切り、霜村爺さんの番号をブロックした。霜村爺さんは怒りで体が震え、言い返そうとしたが、ブロックされていることに気づき、さらに激怒した。「この野郎!」「この畜生め!」「わしも呪ってやる!不幸になれ!嫁をもらえず、たとえもらえても、子供には障害あれ!!!」霜村爺さんは一通り怒鳴り散らかした後、霜村冷司が前にもってきたDNA鑑定書を改めて確認した。今はかつて和泉夕子が春日家の人間だと嘘をついていた大野皐月でさえ、彼女が春日家の人間ではないと言っている。ということは、この鑑定書は本物だ......本物だとしたら、春日椿がこの件を利用して霜村家の人間を煽り、和泉夕子を殺すようにと