ログインある事故をきっかけに、柚木星奈は記憶を失った。さらに事故の影響で、身体まで弱くなってしまう。 過去のすべてを手放し、新たな人生を穏やかに生きていこうとしていた星奈。ところが、そんな彼女の前に、過去を知る男――千堂純希が現れる。 純希は、星奈がかつて犯した過ちを償わせるために、自分が来たのだと告げた。 星奈には、過去に何があったのか分からない。それでも純希がそう言うのなら、少しでも早く過去の罪を償い,すべてを清算しようと懸命に彼の要求に応えていく。 けれど――。 どうして純希が星奈を見つめる眼差しは、日に日に熱を帯びていくのだろう。 そしてなぜ、彼の復讐は、次第におかしな方向へと変わっていくのだろうか――。
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この先、自分がこれほどまでに不幸になり、二人の男から執拗なまでの執着を向けられ、どれほど逃げようとしても決して手放してもらえなくなると知っていたなら――あのとき、もっと遠くへ逃げておくべきだった。
誰にも見つけられないほど遠く、二人の手が決して届かない場所まで逃げてしまえばよかったのだと、星奈は今になって思う。
「何を考えてる?」
星奈が心ここにあらずなのに気づいたのか、ベッドの上にいた男が低く笑った。
そのまま当然のように唇を重ねようと顔を近づけてきたため、星奈は触れられるより先に顔を背ける。
「……婚約者のところへ行かなくていいの?」
「でも今は、お前のほうが欲しい」
その言葉を聞いた途端、心臓が何度も引き攣るように痛んだ。
星奈はそれ以上何も言わず、痛みに耐えるように固く口を閉ざした。
再び距離を詰めてきた男の身体を両手で押し返し、よろめきながらベッドから下りると、一刻も早くこの場所から離れようと、そのまま扉へ向かって歩き出す。
けれど、扉を開けた先にいたのは、星奈をこの上なく苦しめ、どれほど逃れようとしても決して逃がしてはくれない、もう一人の男だった。
部屋から出てきた星奈の姿を目にした途端、その男の目は瞬く間に赤く染まる。
まるで捨てられた子犬のような目で星奈を見つめると、今にもここから逃げ出そうとする彼女へ堪えきれないように駆け寄り、その背中へ縋りつくように抱き締めた。
「行かないでくれ……お願いだ。もう少しだけ、俺を見てくれないか」
その声を聞いた瞬間、星奈の脳裏には幾つもの夜の記憶が鮮明に蘇る。
かつては、星奈のほうが目の前の男へ必死に縋っていた。
床へ跪き、もう殴らないでほしいと懇願した。どうか許してほしいと、涙を流しながら何度も何度も頼み続けた。
それでも男は、一度として星奈の言葉へ耳を貸そうとはしなかった。
今は、ただ立場が入れ替わっただけだ。
だから星奈も、彼の願いを聞き入れるつもりなど微塵もなかった。
かつて男が自分へ浴びせた言葉を、そのまま返す。
「放して。これ以上、私に付きまとわないで。本当に気持ち悪い」
背後の男は、それでも腕を緩めようとはしなかった。
わずか数秒、重苦しい沈黙が二人の間に流れた。
やがて、その静寂を震わせるように、押し殺しきれない嗚咽混じりの泣き声が、星奈のすぐ背後からかすかに漏れ聞こえてくる。
すべては数か月前――二人と再会した、あの日から始まった。
***
<1>
「恵子さん、納品しておきますね」
二階へ向かって声をかけると、すぐに「お願いね」と明るい返事が返ってきた。
ここは小さな手作り工房だ。
二階は手芸教室、一階は作品を販売する小さな店になっている。広くはないものの、店内には羊毛フェルトや陶芸作品が種類ごとに並べられ、中央のショーケースには店の看板でもある恵子お手製の大きなぬいぐるみが飾られていた。
この店で働くようになって、もう数か月が経つ。
星奈は今でも、恵子と出会った日のことだけは鮮明に覚えていた。
――いや。
正確には、それ以前のことを何ひとつ覚えていない。
見知らぬ町の路上で目を覚ましたとき、星奈は古びた鞄を提げ、傍らには少し歪んだスーツケースが転がっていた。
転んだのか、右膝からはひどく血が流れ、わずかに動かすだけでも激痛が走った。それ以外の場所もひどい状態で、全身がずきずきと痛んでいた。
だが、外傷よりも深刻だったのは、自分に何が起きたのかまったく思い出せないことだった。
頭の中は真っ白で、自分が何者なのかさえ、きれいさっぱり忘れていた。
どうすればいいのか分からず、その場に座り込んでいた星奈を見つけたのが、朝のジョギング中だった恵子だった。
血まみれの星奈を見るなり、恵子は悲鳴を上げて救急車を呼び、病院まで付き添ってくれた。
検査の結果、車にはねられた可能性が高いと告げられた。
全身の擦り傷は、衝突したあと路面を滑った際にできたものらしい。幸い命に別状はなかったものの、頭を強く打った影響で、星奈は記憶を失っていた。
過去のことは何ひとつ思い出せない。
自分がどんな人生を歩み、誰と出会い、何を大切にしてきたのか――そのすべてが、跡形もなく消えてしまっていた。
幸い、鞄の中に入っていた健康保険証のおかげで身元だけは判明した。
分かったのは、「柚木星奈」という名前だけ。
住所や家族の情報は確認できず、鞄の中にも携帯電話は入っていなかった。何度探しても、自分を知っていそうな人へつながる手がかりは何ひとつ見つからない。
そんな星奈を放っておけなかったのだろう。心優しい恵子は、退院した星奈を自宅へ迎え入れてくれた。
もちろん、星奈も最初から甘えるつもりはなかった。
これ以上迷惑はかけられないと、身体が回復したらすぐに家を出るつもりでいた。けれど、記憶を失ったままでは帰る場所も、頼れる相手も分からない。
行く当てのない星奈は、結局、恵子の厚意に甘え、その家で暮らすことになった。
日中は手芸教室で助手を務め、給料をもらっている。教室が忙しくないときは、今のように一階の店番を手伝っていた。
ここは地図で見ても辺鄙な場所にある小さな町だ。それなのに、星奈の健康保険証に記載されていた所在地は東京だった。
自分がどうしてこんな場所まで来たのか、星奈には分からない。
恵子から「東京へ戻ってみる?」と聞かれたこともあった。
健康保険証には東京の住所が記されていても、その場所にどんな家があり、誰と暮らしていたのか、何ひとつ思い出せない。
そんな状態で戻ったところで、行く当てもなければ頼れる相手もいない。
星奈は、ひとまず東京へ戻ることを諦めた。
この町は居心地がよかった。
時間がゆっくりと流れ、穏やかで、傷を癒やすにはぴったりの場所だった。
星奈は次第にこの町での暮らしに馴染み、恵子と一緒に過ごす日々を好きになっていった。数か月のうちに二人の距離はすっかり縮まり、恵子は星奈をさまざまな面で支えてくれた。
そのため星奈は、ときどき思うようになった。
記憶を失ったことも、案外悪いことばかりではないのかもしれない。
過去を思い出せないのなら、これから新しい人生を始めればいいのだ、と。
完成した作品を棚へ並べ終えた星奈は、ずらりと並んだ愛らしい人形たちを満足そうに見つめた。
その中には、自分が作った作品も混じっている。
どうやら星奈には手芸の才能があったらしい。恵子に何度か教わっただけで、すぐに一人でも作れるようになった。
今日もいつもと変わらない、穏やかで幸せな一日になる。そう思っていたとき、一台の車が店の前に停まった。
この町では見かけたことのない高級車だった。
磨き上げられた黒い車体は、のどかな町並みからひどく浮いて見える。
「兄さん、あの女、本当にこんな辺鄙なところにいるのかよ」
助手席から降りてきた若い男が、不満そうな声を上げた。その声に、星奈は思わず顔を向ける。
続いて、もう一人の男が車を降りた。
長身で、息をのむほど整った顔立ち。
黒いシャツに黒のスラックスという簡素な装いでありながら、その無駄のない体躯がひどく目を引く。
星奈は思わず目を瞬かせた。
次の瞬間には、その端正な横顔から視線を逸らせなくなっていた。
女は星奈を見下ろし、無表情のまま彼女が起き上がるのを待っていた。その腕には、ひと揃いの衣服らしきものが抱えられている。 星奈がようやく目を開けたと分かると、女は手にしていた服を無造作に投げてよこした。 畳まれていた服は星奈の胸元へ落ち、そのまま膝の上で崩れる。 どうやら、これに着替えろということらしい。「もうお嬢様でもないくせに、いつまで寝ているつもり?」 女は冷ややかな声で言い放った。「早く起きなさい。今日から千堂家の使用人になるなら、使用人らしく振る舞ってもらわないと困るわ」 なぜか、その声には星奈に対する強い不満が滲んでいた。 以前から彼女のことを快く思っていなかったかのように、女の言葉には刺々しい響きがあった。 星奈は何が起きているのか理解できないまま、片手をマットレスについて、ゆっくりと身体を起こした。 頭にはまだ深い眠気が残り、全身にも昨日の疲労と痛みが重くまとわりついている。 星奈は胸元へ投げられた服と目の前の女を交互に見つめ、どうすればよいのか分からないまま、呆然としていた。 その鈍い反応が、女をさらに苛立たせたらしい。「何をぼうっとしているの」 女は声を荒らげると、星奈の背中を平手で強く叩いた。「……っ!」 乾いた音とともに鋭い痛みが走り、星奈の身体が大きく前へ揺れる。 まだ眠気の残る頭では、突然叩かれた理由さえすぐには理解できなかった。ただ反射的に肩を竦ませ、痛む背中を庇うように身体を小さくする。「早くしなさい。もう仕事を始める時間よ。着替えたらすぐに出てきて。あなたが今日から何をするのか、私が教えるから」 女は一方的にそう告げると、その場を離れようともせず、星奈を厳しい目で見下ろし続けた。 まるで、今すぐ着替え始めなければ、もう一度手を上げるとでもいうように。 女は星奈に自分のフルネームを名乗ろうとはせず、ただ「水留さんと呼びなさい」とだけ告げた。 水留は、千堂家に長く仕えている古参の使用人らしい。屋敷で働くメイドたちを取りまとめ、それぞれの仕事や掃除場所を割り振る役目を任されていた。 星奈へ与えられた時間は、着替えと身支度を合わせて、わずか十分だった。 その時間が過ぎても星奈が使用人用の洗面所から出てこないと、水留は遠慮なく扉を開けて中へ入り、まだ髪を整えていた星奈の腕を掴んで強引に引っ張り
遠田の仕事は早かった。 内線で二人の使用人を呼び出すと、物置として使われていた部屋をすぐに掃除させた。 片隅に積み上げられていた荷物を運び出し、床や窓を隅々まで丁寧に拭き上げたあと、新しいマットレスを運び込み、肌触りのよいシーツや掛け布団まで用意する。「星奈お嬢様……」 星奈を前にすると、遠田はどうしても以前の呼び方をしてしまうらしい。 口にしてから純生の言葉を思い出したのか、わずかに言葉を止めた。 何かを迷うようにしばらく沈黙したものの、結局は呼び方を訂正することなく、何事もなかったかのように話を続ける。「もう夜も遅いので、ベッドフレームは明日、業者を呼んで組み立ててもらう予定です。今夜は申し訳ありませんが、こちらのマットレスでお休みいただけますでしょうか」「あ……大丈夫です。そんなにしていただかなくても、私……どこでも眠れますから」 星奈は慌てて両手を振り、恐縮した様子で何度も遠田へ頭を下げた。「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」 遠田は、そんな星奈の姿を戸惑ったように見つめていた。 以前の星奈とは、性格も振る舞いもまるで違っている。 かつての彼女がどのような少女だったのか、遠田はよく知っていた。 幼い頃から何度となくこの屋敷を訪れ、純希や純生と一緒に過ごしていた星奈は、遠田にとっても長年成長を見守ってきた大切な存在だった。 それだけに、今こうして些細なことにまで遠慮し、自分が何かをしてもらうこと自体が申し訳ないとでもいうように、何度も礼を口にする星奈を前にすると、事情を聞かされていても、すぐには気持ちが追いつかなかった。 目の前にいるのは、間違いなく星奈お嬢様のはずなのに。 そのあまりにも変わり果てた様子に、遠田の胸には困惑とともに、痛ましさにも似た感情が込み上げてくる。 小さく息をついたあと、遠田は結局、昔と何一つ変わらない丁寧な態度で星奈へ告げた。「それでは星奈お嬢様、今夜はどうぞごゆっくりお休みください。私はこれで失礼いたします」「あ、ありがとうございます……遠田さん。お、おやすみなさい」「おやすみなさいませ」 遠田が退室し、扉が静かに閉じられた。 一人きりになった星奈は、しばらく扉の前で呆然と立ち尽くしていた。 やがて身体の重さに耐えきれなくなり、足を引きずるようにマットレスの傍ま
星奈には、かつて自分が使っていたという部屋の記憶がなかった。 そこでどのように過ごしていたのかも、純希がどんな思いでその部屋を用意してくれたのかも、何一つ覚えていない。当然、部屋に対する愛着もなければ、特別な感情が湧くこともなかった。 だからこそ、純生から今のお前にはあの部屋を使う資格などないとはっきり言われても、星奈はさほど傷つかなかった。 言い返すこともなく、ただ静かに俯いている。 ところが、その反応は純生の望んでいたものではなかったらしい。 昔の部屋を奪われたことに屈辱を覚え、悔しそうに顔を歪めたり、傷ついて涙を浮かべたりする姿を期待していたのだろう。 あまりにも反応の薄い星奈を見ているうちに、純生の顔には次第に不満の色が浮かび始めた。「やっぱり、使用人部屋だってこいつにはもったいないな」 純生はわざと星奈にも聞こえるように声を大きくし、遠田へ向き直った。「遠田さん、適当な物置を探して、そこに放り込んでおいてよ。それもなければ、犬小屋でいいだろ」「純生様……」 純生の口から飛び出す言葉は、次第に度を越したものになっていく。 遠田は明らかに困り果てた様子で眉を寄せ、何度も純希の顔色を窺った。純希が何か言ってくれることを期待しているのだろう。 けれど、純希は一向に口を挟まなかった。 主人の意向が分からない以上、遠田も純生の言葉を否定することも、承諾することもできない。どう返事をすればよいのか分からず、困惑したままその場に立ち尽くしていた。 純生は返事を急かすように、遠田へ問いかけた。「どうしたの、遠田さん。そんな部屋はない? だったら、この女は庭にでも置いておけばいいよ。それとも……」 そこで何かを思いついたらしく、純生の口元に意地の悪い笑みが浮かんだ。「裏庭のプール、まだ水は入ったままだよな?」 プールという言葉を耳にした瞬間、星奈の身体が反射的に強張った。 星奈はびくりと肩を震わせた。別荘のプールで味わった冷たさと苦しさが、一瞬にして蘇ったのだ。 水を吸って重くなった服も、冷たい水に浸かり続けて身体の感覚が失われていった恐怖も、意識を失う直前の苦しさも、まだ星奈の身体には生々しく残っている。 純生は、その小さな変化を見逃さなかった。 先ほどまで何を言っても平静だった星奈が、ようやく怯えた。求めていた反応を引き出
以来、遠田はまだ幼かった純希と、生まれたばかりの純生のすぐ傍に付き添い、二人が成長していく姿を見守ってきた。 当然、純希の婚約者だった星奈とも、数えきれないほど顔を合わせている。 柚木家と千堂家は隣り合って暮らし、家同士の付き合いも深かった。星奈は幼い頃から何度もこの屋敷を訪れ、純希や純生と一緒に過ごしていた。 遠田にとって星奈もまた、兄弟と同じように、幼い頃から成長を見守ってきた大切な子供の一人だった。 柚木家に起きたことは、もちろん遠田も聞かされている。 それでも純生の口から、星奈はもう令嬢ではないとはっきり告げられると、すぐには受け入れられないらしい。 昔とほとんど変わらない姿で目の前に立っている星奈を、これまでのように「お嬢様」と呼んではいけない。 頭では事情を理解していても、長年染みついたものをそう簡単に切り替えることはできず、遠田の顔には隠しきれない困惑が浮かんでいた。「こいつは今日から、千堂家の奴隷になるんだ」 純生は見せつけるように星奈の腕を引き寄せると、そのまま遠田の前へ突き出した。「間違っても主人みたいに扱わないでよ。面倒な仕事も汚い仕事も、これからは全部こいつにやらせればいいから」 突然前へ押し出された星奈は大きくよろめき、倒れないよう懸命に足を踏ん張った。 遠田は、そんな星奈を複雑そうな表情で見つめている。 かつてはこの屋敷を自由に出入りし、誰からも「お嬢様」と呼ばれていた少女が、今度は使用人としてここへ戻ってきた。 あれほど大切にされていた少女を、今さら使用人として扱えと言われても、遠田には簡単に割り切れることではなかった。 しばらく言葉を失っていた遠田だったが、やがて自分が千堂家へ仕える立場であることを思い出したように表情を整え、静かに頭を下げた。「……承知いたしました、純生様」 純生はその返事に満足したように口元を緩めた。 さらに何か言おうと口を開きかけたところで、二人より少し遅れて屋敷へ入ってきた純希の声が、背後から響いた。「もういい、純生。今日は戻ってきたばかりだ。仕事を割り振るのは、明日からでも遅くない」 純希は星奈へ目を向けることなく、淡々と続ける。「それに、まだ契約書へ署名もさせていない。遠田さん、父は最近こちらへ戻ったか?」 純希の姿を目にした遠田は、すぐに深く一礼した。先ほど
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