LOGINある事故をきっかけに、柚木星奈は記憶を失った。さらに事故の影響で、身体まで弱くなってしまう。 過去のすべてを手放し、新たな人生を穏やかに生きていこうとしていた星奈。ところが、そんな彼女の前に、過去を知る男――千堂純希が現れる。 純希は、星奈がかつて犯した過ちを償わせるために、自分が来たのだと告げた。 星奈には、過去に何があったのか分からない。それでも純希がそう言うのなら、少しでも早く過去の罪を償い,すべてを清算しようと懸命に彼の要求に応えていく。 けれど――。 どうして純希が星奈を見つめる眼差しは、日に日に熱を帯びていくのだろう。 そしてなぜ、彼の復讐は、次第におかしな方向へと変わっていくのだろうか――。
View More「恵子さん、納品しておきますね」
二階へ向かって声をかけると、すぐに「お願いね」と明るい返事が返ってきた。
ここは小さな手作り工房だ。
二階は手芸教室、一階は作品を販売する小さな店になっている。広くはないものの、店内には羊毛フェルトや陶芸作品が種類ごとに並べられ、中央のショーケースには店の看板でもある恵子お手製の大きなぬいぐるみが飾られていた。
この店で働くようになって、もう数か月が経つ。
星奈は今でも、恵子と出会った日のことだけは鮮明に覚えていた。
――いや。
正確には、それ以前のことを何ひとつ覚えていない。
見知らぬ町の路上で目を覚ましたとき、星奈は古びた鞄を提げ、傍らには少し歪んだスーツケースが転がっていた。
転んだのか、右膝からはひどく血が流れ、わずかに動かすだけでも激痛が走った。それ以外の場所もひどい状態で、全身がずきずきと痛んでいた。
だが、外傷よりも深刻だったのは、自分に何が起きたのかまったく思い出せないことだった。
頭の中は真っ白で、自分が何者なのかさえ、きれいさっぱり忘れていた。
どうすればいいのか分からず、その場に座り込んでいた星奈を見つけたのが、朝のジョギング中だった恵子だった。
血まみれの星奈を見るなり、恵子は悲鳴を上げて救急車を呼び、病院まで付き添ってくれた。
検査の結果、車にはねられた可能性が高いと告げられた。
全身の擦り傷は、衝突したあと路面を滑った際にできたものらしい。幸い命に別状はなかったものの、頭を強く打った影響で、星奈は記憶を失っていた。
過去のことは何ひとつ思い出せない。
自分がどんな人生を歩み、誰と出会い、何を大切にしてきたのか――そのすべてが、跡形もなく消えてしまっていた。
幸い、鞄の中に入っていた健康保険証のおかげで身元だけは判明した。
分かったのは、「柚木星奈」という名前だけ。
住所や家族の情報は確認できず、鞄の中にも携帯電話は入っていなかった。何度探しても、自分を知っていそうな人へつながる手がかりは何ひとつ見つからない。
そんな星奈を放っておけなかったのだろう。心優しい恵子は、退院した星奈を自宅へ迎え入れてくれた。
もちろん、星奈も最初から甘えるつもりはなかった。
これ以上迷惑はかけられないと、身体が回復したらすぐに家を出るつもりでいた。けれど、記憶を失ったままでは帰る場所も、頼れる相手も分からない。
行く当てのない星奈は、結局、恵子の厚意に甘え、その家で暮らすことになった。
日中は手芸教室で助手を務め、給料をもらっている。教室が忙しくないときは、今のように一階の店番を手伝っていた。
ここは地図で見ても辺鄙な場所にある小さな町だ。それなのに、星奈の健康保険証に記載されていた所在地は東京だった。
自分がどうしてこんな場所まで来たのか、星奈には分からない。
恵子から「東京へ戻ってみる?」と聞かれたこともあった。
健康保険証には東京の住所が記されていても、その場所にどんな家があり、誰と暮らしていたのか、何ひとつ思い出せない。
そんな状態で戻ったところで、行く当てもなければ頼れる相手もいない。
星奈は、ひとまず東京へ戻ることを諦めた。
この町は居心地がよかった。
時間がゆっくりと流れ、穏やかで、傷を癒やすにはぴったりの場所だった。
星奈は次第にこの町での暮らしに馴染み、恵子と一緒に過ごす日々を好きになっていった。数か月のうちに二人の距離はすっかり縮まり、恵子は星奈をさまざまな面で支えてくれた。
そのため星奈は、ときどき思うようになった。
記憶を失ったことも、案外悪いことばかりではないのかもしれない。
過去を思い出せないのなら、これから新しい人生を始めればいいのだ、と。
完成した作品を棚へ並べ終えた星奈は、ずらりと並んだ愛らしい人形たちを満足そうに見つめた。
その中には、自分が作った作品も混じっている。
どうやら星奈には手芸の才能があったらしい。恵子に何度か教わっただけで、すぐに一人でも作れるようになった。
今日もいつもと変わらない、穏やかで幸せな一日になる。そう思っていたとき、一台の車が店の前に停まった。
この町では見かけたことのない高級車だった。
磨き上げられた黒い車体は、のどかな町並みからひどく浮いて見える。
「兄さん、あの女、本当にこんな辺鄙なところにいるのかよ」
助手席から降りてきた若い男が、不満そうな声を上げた。その声に、星奈は思わず顔を向ける。
続いて、もう一人の男が車を降りた。
長身で、息をのむほど整った顔立ち。
黒いシャツに黒のスラックスという簡素な装いでありながら、その無駄のない体躯がひどく目を引く。
星奈は思わず目を瞬かせた。
次の瞬間には、その端正な横顔から視線を逸らせなくなっていた。
恵子と二人で店内をあらかた片づけ終える頃には、すっかり夜も更けていた。 店に並んでいた作品の半分以上は、素材の性質上、原形を失うほどひどく壊されてはいなかった。 それでも、恵子が一つひとつ念入りに確認した結果、かなりの数を売り場から下げることになった。壊れていなくても、多かれ少なかれ傷や汚れがついており、商品として売るわけにはいかなかったのだ。 店を閉めたあとも、恵子はずっと星奈を励まし続けていた。 売り場から下げた作品を詰め込んだ大きな紙袋を両腕に抱え、何でもないことのように言う。「ちょうどよかったわ。実はこの子たち、どれも売るのが惜しいと思ってたの。それに、あれだけのお金があれば、しばらく店を休んだって平気よ」 星奈は重い足取りで、恵子と一緒に家へ向かった。 この町に来てから、星奈は恵子の家に住まわせてもらっている。恵子は家賃すら受け取ろうとせず、星奈が何度も頼み込み、ようやく水道光熱費の一部だけ負担させてもらえるようになった。 そんなにも優しい恵子が、自分のせいで何の落ち度もないのに巻き込まれ、被害を受けてしまった。 そう考えるうちに、星奈は泣きそうになった。 隣を歩く星奈がいつまでも黙っていることに気づき、恵子は顔を覗き込む。今にも泣きだしそうな表情を見て、小さく息をついた。「星奈ちゃん、私を見て」 言われるまま星奈が顔を上げると、恵子はすぐに満面の笑みを浮かべた。「本当に気にしてないのよ。昔、父が借金を作ったせいで、高利貸しが家まで押しかけてきて、散々物を壊されたこともあるんだから。私、ああいうのはもう見慣れてるの」 恵子はことさら大げさな口調で続けた。「あの頃なんて、家をめちゃくちゃにされても一銭ももらえなかったのよ? それに比べたら、今日はあんな大金まで置いていってくれたんだから、大儲けじゃない!」 星奈を笑わせようと、あえて明るく茶化してみせる。 恵子がそんな苦労をしてきたとは、星奈は初めて知った。 思わず呆然と彼女を見つめた瞬間、それまでどうにか堪えていた涙が一気に溢れ出す。「恵子さん、そんなにつらい思いをしてきたんですね……。ごめんなさい。本当にごめんなさい……!」 星奈は恵子に抱きつき、子供のように声を上げて泣いた。 今度は恵子が呆然とする番だった。 自分の苦労を笑い話に変えるのは、昔から人を笑わ
純希の言葉に、恵子は眉をひそめた。 目の前の二人が、記憶を失う前の星奈と浅からぬ関係にあったことは察しがつく。 ただ、どう見ても彼らは友好的な相手ではない。星奈がこんな辺鄙な町まで逃げてきたことも、事故に遭ったことも、もしかすると彼らが関係しているのかもしれなかった。 そんな相手に、星奈が記憶を失っていることを明かしていいものか、恵子には判断できない。 今はひとまず隠しておき、二人が帰ってから星奈本人の意向を確かめるつもりだった。「お二人と星奈の間に何があったのか、星奈が以前何をしたのか、私には分かりません。ですが、あなたたちが今していることは犯罪です。すぐにやめてください」「犯罪? だったら警察に通報すればいいだろ。正義の味方が助けに来てくれるか、試してみろよ」 純生は少しも怯まず、恵子の警告を鼻で笑った。 幼い頃から何不自由なく育ち、何をしても兄が後始末をしてくれた。今も純希が止めないということは、この程度なら何の問題にもならないということだ。 星奈まで険しい顔をしていることに気づくと、純生は恵子と言い争うのをやめ、背後にいる星奈へ挑発的な視線を向けた。「聞いただろ、お姫様。お前がここにいるかぎり、その友達も、この店も、平穏に過ごせると思うなよ」「お姫様」という呼び名は、甘さとは程遠く、皮肉と嘲りに満ちていた。星奈は、その悪意に胸を締めつけられるような思いがした。* 店は十分に荒らした。捜していた星奈も見つけた。 純希は腕時計に目を落とし、一枚の小切手を取り出して恵子へ差し出す。「俺は先に車へ戻る」 純生へそう告げると、星奈にはもう一度も目を向けず、そのまま店を出ていった。 純希が立ち去ると、純生もそれ以上暴れる気はないらしい。 最後に星奈を憎々しげに睨みつける。「覚えてろよ」 吐き捨てるように言い残し、純希のあとを追って店を出ていった。 ほどなくして、店の前に停まっていた車も、星奈と恵子の視界から遠ざかっていく。 店内に静けさが戻ると、星奈はようやく、恵子がまだ自分の手を強く握り締めていることに気づいた。 まるで、自分が傷つけられないよう必死で守ってくれているかのようだった。 その温もりに、張り詰めていた心が少しだけ和らぐ。 だが、荒れ果てた店内を見回した途端、胸いっぱいに申し訳なさが込み上げ、星奈の気
「それは……!」 星奈がなおも口を開きかけた、その声を遮るように、「何があったの? さっきからずいぶん騒がしいけど……」 一階の騒ぎを聞きつけた恵子が、二階から慌てて下りてきた。 今日は教室のない日だった。 普段なら二階で新しい作品を作っている時間だ。このところ、コンクールへ出品する陶芸作品の構想がまとまらず、恵子はずっと制作に没頭していた。 少しでも制作に集中してもらいたくて、星奈は店番を一人で引き受けていた。 こんな騒ぎになるとは、夢にも思わなかった。 一階へ下りてきた恵子は、変わり果てた店内を目の当たりにし、息を呑んだ。「星奈ちゃん!」 青ざめた顔で星奈の名を呼ぶ。 店内には見知らぬ男が二人。 身なりを見るだけで、裕福な家の人間だと分かった。 恵子は警戒を露わにすると、すぐに星奈のもとへ駆け寄り、庇うように自分の背中へ隠した。「お二人とも、私の店でいったい何をなさっているんですか?」 恵子はもともと穏やかで、礼儀を重んじる人だった。 大切な店をここまで荒らされ、怒りで震えているはずなのに、その口調にはなお相手への節度が残っている。 恵子が現れると、純生はようやく店を壊す手を止めた。 大股で恵子の前まで歩み寄り、星奈を庇うように立つ彼女を不快そうに睨みつける。「お前が店主か。この女を拾ったのもお前なんだな。後ろにいる女がどれだけ最低な人間か、知ってて――」「その方は」 恵子は眉を寄せ、厳しい声で純生の言葉を遮った。「星奈は私の友人であり、大切な仕事仲間です。本当に優しい子なんです。そのような言い方は、おやめください」「優しい……?」 とんでもない冗談を聞かされたかのように、純生は目を見開いた。「こいつが、優しい子だって……?」 怒りのあまり言葉が追いつかないのか、星奈を指さしたまま何度も口を開くものの、喉の奥で言葉が途切れてしまう。「お前は何も知らないから、そんなことが言えるんだ。こいつが……この女が、何をしたのか……」 純生の呼吸は目に見えて乱れ始めた。 浅く、速く、息を繰り返す。 異変に気づいた純希はすぐに弟の腕をつかみ、そっと背中へ手を添えた。 純生はもともと短気で、感情を抑えることが苦手だった。激しく興奮すると、過呼吸を起こしてしまうこともある。 とはいえ、ここまで取り乱すことは滅多にない
床一面に散らばった人形を目にし、星奈は思わず焦りの声を上げた。「やめてください……!」 慌てて純生を止めようと手を伸ばす。 星奈の指先が彼の服にわずかに触れた瞬間、純生は大げさなほど激しく腕を振り払い、そのまま彼女を突き飛ばした。 まるで星奈に触れられること自体が、耐え難くおぞましいことだったかのように。 直後に吐き捨てられた言葉が、その嫌悪を何よりも雄弁に物語っていた。「触るな! 汚ねえんだよ」「汚い……?」 星奈は反射的に自分の手へ目を落とした。 何か汚れでもついているのかと確かめ、何も付いていないことを確認してから、ようやく純生が言っているのは、そういう意味ではないのだと気づく。 記憶を失って以来、星奈は誰かから悪意を向けられたことがなかった。 閉ざされた小さな町では、住民同士が互いをよく知っている。 そこへ怪我を負い、記憶まで失ったよそ者の娘が突然現れたというのに、人々は誰一人として冷たい態度を取らず、何かと星奈へ手を差し伸べてくれた。 星奈がこの数か月で知ったのは、人の優しさと温かさばかりだった。 目の前へ突きつけられた露骨な悪意は、あまりにも突然で、あまりにも激しかった。 どう受け止めればいいのかも分からず、星奈は呆然と立ち尽くす。 純生はそんな星奈を見ても苛立ちが収まらないのか、今度は別の陳列棚を勢いよく蹴りつけた。 作品や組み立て式の棚が激しい音を立てながら床へ崩れ落ち、その音が静かな店内へ立て続けに響き渡る。 耳をつんざくような物音に、星奈ははっと我に返った。 助けを求めるように純生から視線を外し、もう一人の男へおそるおそる目を向ける。「あの……すみません。お連れの方を……」 自分へ声をかけられるとは思っていなかったのか、男はわずかに眉を上げた。 その表情はどこまでも淡々としている。 純生が店を好き勝手に壊していても、驚く様子はない。止めようとする気配さえ見せなかった。 男はゆっくりと店内へ入り、星奈との距離を静かに詰めてくる。「柚木星奈。今度はそういう手で来たのか?」「え……?」「俺たちを知らないふりでもすれば、誤魔化せると?」 低く落ち着いた声は、本来なら耳に心地よく響くはずだった。 だが、その声色には凍てつくような冷たさが宿り、星奈を見据える眼差しには、隠しきれない憎悪が滲んでいる