孝典は険しい表情のままベッドへ近づき、手の甲でそっと梨花の額に触れて熱を確かめた。その熱さに触れた瞬間、彼の顔色はさらに険しくなった。すぐに手を引き、かかりつけの医者を呼ぼうとした時――手のひらが何かに引き止められた。一瞬戸惑いながら視線を落とすと、梨花が無意識のまま彼の手を握っていた。小山とアシスタントが横で見ている。部屋の中に、言葉にしにくい気まずい空気が静かに広がった。孝典の口元に微かに笑みが浮かびかけた、その直後――梨花の口から、彼が最も忌み嫌う名前がぽつりと漏れた。「……清……」その瞬間、孝典は反射的に手を引き抜いた。「社長!私、中川先生をすぐお呼びします!」ア
薄く引き結んだ唇。孝典の漆黒の瞳は、何にも焦点を合わせていなかった。ようやく、喉がからからになるまでプレゼンをしていたプロジェクトリーダーが話を終え、期待に満ちた目で孝典を見た。「藤屋社長、いかがでしょうか?」「いいんじゃないか」孝典は気のない口調でそう答えると、淡々と立ち上がった。「それで進めて」それだけを言い残し、部屋に残された呆然とした社員たちに目もくれず、そのまま会議室を出て行った。廊下に出た瞬間、アシスタントが駆け寄ってきた。「社長!誰かが会社に無理やり入ってきて、どうしても藤屋社長に会わせろと騒いでいます!」孝典の足が止まった。数分後、彼は会社のロビーへ降りて行
孝典は、今すぐ答えを出すよう梨花に迫ることはなかった。彼は彼女をそのまま家に留め、客間を用意して休ませた。梨花自身、今どこに行けばいいのか分からなかった。スマホの電源は切ったまま。清には会いたくないし、自宅に戻る気もない。だから、黙って孝典の好意を受け入れた。夜が明け、彼女は再びスマホの電源を入れた。すると未接着信が十件以上も届いていた。どれも清からだった。「土屋さん」部屋のドアがノックされ、聞き覚えのない女性の声がした。「もうお目覚めですか?」梨花がドアを開けると、そこには穏やかな雰囲気の中年女性が立っていて、手には湯気の立つ海老粥の入ったお椀を持っていた。表面にはごま油の
車は三階建ての別荘の前で止まった。孝典は梨花に車から降りるよう促し、「中に入って体を拭こう」と言った。そこでようやく、梨花は彼に会ってから初めて口を開いた。「私は行かないわ。道端にでも下ろして。自分で帰れるから」「そんな格好で道端にしゃがむつもりか?」孝典が指差した先に目を向けた梨花は、濡れた服が肌にぴったり張りついて、自分の体のラインがはっきりと浮き出ていることに気づき、たちまち動揺を浮かべた。どこを隠せばいいのかわからず、戸惑っていた。孝典はそれ以上、言葉で説得しようとはせず、自ら先に別荘へと入っていった。指紋ロックを解除してドアを開けると、梨花は少し躊躇したものの、そのあと
梨花の顔から一気に血の気が引き、全身の血液が凍りついたかのようだった。清もまた、両拳を固く握りしめていた。「あなた、言い過ぎよ。これって梨花のせいじゃない。彼女に謝って」「じゃあ、謝ればいいんでしょ」清の母は口ではそう言ったものの、その顔には微塵も謝意が見えなかった。「土屋さん、あなたならわかってもらえるわよね?うちは別に名家ってほどじゃないけど、清の父親と私は教師をやってるし、一応書香の家って呼べなくもないのよ。そんな家に、あなたみたいな人を迎え入れるわけにはいかないの」清の母は最初から遠慮するつもりなんてなかった。だから今の梨花の気持ちは、まるで裸にされたまま街中に放り出され
梨花が白湯を手に取った。確かに熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうど良い温度だった。彼がわざわざ温度を確認したのだろう。ふと清の方を見やると、彼は焼き栗の皮をむいてくれていた。その姿に、胸の奥がふわりと温かくなる。彼女は暑さにも寒さにも弱かった。多くの人には「神経質」「甘やかされて育った」などと言われ、時には実の両親ですら呆れるほどだった。だが清だけは、文句一つ言わず、いつも優しく世話を焼いてくれた。キッチンからは蒸気とともに香ばしい匂い、鍋を振るう音がしていた。リビングでは、梨花と清が他愛ない会話を交わし、笑い合っていた。莉花の顔に浮かんだ笑顔を見れば、ただの会話というより――むしろ