その条件だけでも、彼女の心を浮き立たせるには十分だった。戦争の苦しみから解放されたい、それだけが彼女の願いだった。かつて自分も美貌と才知を兼ね備え、一時は江国男性と結婚する幸運を掴んだ身だ。だが、今は状況が違う。目の前にいる海咲を見つめながら、彼女はもう何もせずに待つわけにはいかないと感じていた。「海咲、早く着替えておいで。服がすっかり濡れてるよ」おばちゃんたちが海咲を呼んだ。リンもすぐさま声を上げた。「私の服着てみてよ、サイズそんなに変わらないし!」「ありがとう」ちょうど海咲も背負っていた篭の中の薬草を整理し終わったところだった。彼女たちが用意した服は手作りで、布を自ら織り、縫
海咲は彼がどう思おうと気にしなかった。彼女が言ったのはただの事実だった。これから先、彼女と州平はすれ違うだけの関係になる。だからこそ、一人に縛られる必要はない。彼にもわからせるべきだ。彼女は決して彼一人だけに固執するような人間ではないと。州平の考えがどうであれ、海咲は意に介さず、リンの腕を取りその場を離れた。リンは密かに、これが良い機会だったと思っていた。しかし、思っていた通りの結果にならなかった。---竹と木で作られた一棟の古い建物。周囲には山や川、竹林があり、景色は美しく、古風な趣が漂っている。その建物は非常に大きく、何百平米もの広さがあり、外壁の木材には精緻な彫刻が施
「彼は他の人にもこんな感じなの?」「若様とはあまり接触がないですが、普段から何事にもあまり関心を持たない方です」タカシがそう答えると、音ちゃんの心は少しだけ落ち着いた。「彼はここにいない間、どこへ行っていたの?」「若様は近くの村をぶらぶら歩くのが好きみたいです」「そんな余裕があるの?何を見に行くというの?」「考え方が普通とは違う人ですから」「お父様は彼を放っておくの?」音ちゃんは本当に父にどうにかしてもらいたい気持ちだった。誰が彼にこんな態度を許すのかと思っていた。「放っておいています」タカシはそう答えた。音ちゃんはさらに好奇心が膨らんだ。彼が一体何を見に行っているのか気にな
海咲は彼女を見つめていた。チャナの言葉、その真意を聞き取れないはずがなかった。それは明らかに彼女への示唆だった。海咲はあえて彼女の言葉に乗ってみることにした。「葉野州平に作るつもりですか?」チャナは笑みを浮かべた。「そうですよ。葉野隊長には母子共々とてもお世話になったんです。本当に感謝しています。彼は私たちを祖国に連れて帰ると言ってくれたし、それに以前私たちを助けるために負傷したこともありましたわ。彼には命の恩があります。それをどう返せばいいのか分かりませんね」そう言うと、チャナはさらにこう付け加えた。「それに葉野隊長はいつも一人みたいです。独身ですかね?」海咲は答えた。「直接本人に聞
彼女は州平がまだ戻っていないと思っていた。彼のベルトを置いてそのまま立ち去るつもりだった。しかし、目にした光景に彼女はその場で固まってしまった。どうやらタイミングが悪かったらしい。自分が他人の邪魔をしてしまったのではないかと思った。チャナは海咲が入ってきたのを見て、これが絶好のタイミングだと感じた。すかさず州平に想いを伝え始めた。「あなたさえ嫌でなければ……私はあなたの女になります。たとえここだけの一時的な関係だとしても、それでも構いません……」彼女はここまで自分を卑下してでも、守ってくれる存在を求めていた。彼女と子供にはもう頼れる人がいないのだ。州平なら、彼女たちを守ることができる――
州平は少し眉をひそめながらも、説明を始めた。「俺とチャナの間には何もない。ただ、道中で助けた母子の一人だ」その言葉を聞いた瞬間、海咲は冷笑を漏らした。「そうだろうね。知ってるわ、前から聞いてたもの。この辺りにはどれだけ堕落した女たちがいるのか。だけど、あなたはわざわざ彼女を助けた。顔がそこそこいいと思ったんじゃないの?でも彼女には子供がいるのよ。もし本当に彼女と何かあったら、後々あなたが継父になってもいいって覚悟してるのね。まあ、好きなら構わないけど!」「彼女が俺のテントに入るなんて、知らなかった」州平は静かに答えた。「でも、決して君が想像しているようなことじゃない。助けた理由は、彼女
その瞬間、海咲の瞳は大きく見開かれた。まるで夢を見ているかのようだった。反応することさえ忘れてしまった。州平は彼女の歯列をこじ開け、彼女の呼吸と甘さを奪い取った。同時に彼女の腰を抱き寄せ、まるで彼女を失うことを恐れるかのようにしっかりと抱きしめ、その想いを伝えた。彼は彼女を想っていた。常に、どんなときも。危険な状況に陥ったとき、彼に生きる希望を与えてくれる唯一の存在が彼女だった。海咲も彼の熱烈な想いが伝わってきたのか、拒絶することなく、その広い背を抱きしめ、全力で応えた。彼女は目を閉じ、涙がこみ上げてきた。なぜか分からないが、涙が溢れ出し、ついには一筋の涙が頬を伝った。州平は彼女の涙を
州平は唇をわずかに歪めて微笑みながら言った。「俺はこうして無事だろう?あいつらの苦労に比べれば、俺なんて恵まれすぎている」その言葉に、海咲の鼻先がツンとした。胸の奥から込み上げる感情で、温かい涙がまた目に溢れそうになる。彼女は顔を上げて、涙をこぼさないように努めた。感傷的な空気に流されると、感情を抑えきれなくなるのが怖かった。「じゃあ聞くけど、私の毒はどうやって解いたの?解毒剤はどこから?」海咲は納得できなかった。多くの人が解毒剤を探しても見つからなかったのに、どういうわけか突然手に入った。それが命を救ったのだ。不自然すぎる。州平は少し沈黙した後、静かに言った。「解毒剤は、俺が頼んで
「ありがとう」健太はそう言ったものの、実際はこの言葉を口にすること自体に抵抗があった。彼は海咲に「ありがとう」と伝えたくなかったし、彼女から「幸せでいて」と祝福されることも望んでいなかった。だが、どうしようもなかった。これが二人の間に訪れる最良の結末だったのだから。「これから予定があってね……また帰国した時、もし仕事のことで何かあれば、その時にまた会いましょう」海咲は微笑みながら、一言一言、完璧なタイミングで言葉を紡いだ。「わかった」健太は彼女が去っていく姿をじっと見つめていたが、その間、心臓が締め付けられるような痛みが徐々に増し、最後には大きな怪物に飲み込まれるような激痛に襲
当初、一緒に京城に戻った後、健太は藤田家に戻った。海咲は、健太が自分に寄せる想いや、彼がかつて自分に尽くしてくれたことを知っていた。だが、京城に戻ってからというもの、海咲は彼にメッセージを送る以外、直接会うことはなかった。それに、彼女が送ったメッセージにも健太は一度も返信をしてこなかった。海咲の「元気にしてた?」というたった一言は、まるで鋭い刃のように健太の胸を貫いた。――どうやって元気でいられるというのか? 健太が藤田家に戻った途端、彼の自由は奪われ、スマホも取り上げられた。イ族での長い過酷な生活の中で、彼の身体はすでにボロボロだったが、家族は彼の自由を制限し、無理やり療養さ
清墨がそう言い終えると、彼は恵美に深く真剣な眼差しを向けた。その瞬間、恵美はすべてを悟った。恵美は微笑みを浮かべながら言った。「大丈夫よ。あなたの力になれるなら、結婚式なんてただの形式に過ぎないわ」清墨は彼女の頭を優しく撫でると、続けて彼女の眉間にそっと一吻落とした。恵美の心はまるで静かな湖に小さな波紋が広がるように揺れ動いた。二人はその場で結婚式の日取りを一週間後と決めた。まず、イ族全土にその報せが発表され、次に親しい友人や家族に招待が送られた。これを聞いたファラオは、清墨の今回の迅速な動きに驚きつつ、彼に軽く小言を言った。「前に海咲と一緒に話した時、お前は『好きじゃない』
リンが同じ方法で清墨を彼女から奪い取ったように感じた。もしリンがもっと策略を駆使していたのなら、恵美も納得したかもしれない。だが、この状況で…… 恵美の心は言いようのない苦しさで満ちていた。彼女はその場でじっと見つめていた。清墨がどれほど丁寧にリンの世話をし、優しく薬を飲ませているのか。そして、清墨がリンのそばに付き添い、彼女が眠るのを確認してからようやく立ち上がり部屋を出てきたその瞬間、清墨は恵美と目が合った。清墨は唇を引き結び、低い声で尋ねた。「どうしてここに?」恵美は彼の背後、ベッドに横たわるリンを一瞥した。「彼女の存在なんて、今や秘密でも何でもないわ」現在、イ族中
清墨は状況を察し、ジョーカーを呼び出した。「リンを研究所に連れて行け」目的のために手段を選ばない者たちがいる。そのことを清墨はよく理解していた。リンは自分にこの情報を伝えるために命を懸けたのだ。リンは苦しそうに息をつきながら言った。「清墨先生、私のことは放っておいてください。治療なんて必要ありません」「相手がどう出るかはともかく、今最優先すべきは君の安全だ」清墨は厳しい口調で言い切った。その言葉にリンは心が温かくなるのを感じた。清墨が人道的な立場から彼女の命を気遣っていることはわかっていたが、それでも、彼の関心を自分に向けてもらえたことが嬉しかった。こうしてリンはジョーカーによ
清墨は身分が高貴でありながら、イ族の未来の発展や民衆のために、自ら身を低くし、薬草の見分け方や栽培方法を教え、さらには子供たちに読み書きを教えることも厭わなかった。あの時期、清墨は子供たちに贈り物を配っていたが、そのついでにリンにも小さな贈り物をくれたことがあった。そして、清墨はどんな性格の持ち主かというと―― 一度嫌った相手には、どんなに頑張っても心を開かない人間だった。もし彼女がここで間違った選択をしてしまえば、それは清墨の中での彼女の印象を完全に壊すことになるだろう。そうなれば、彼に嫌われ続け、彼女が一人で清墨を想い続けることになるのは目に見えていた。とはいえ、今のリンはこの場
清墨の言葉に、リンは言いたいことがいくつかあった。だが、彼女が何かを口にする前に、清墨が先に話し始めた。「今の僕は、すでに恵美に約束をした。男として、一度口にしたことは必ず果たさなければならない。それに、恵美に対して嫌悪感は全くない」リンは一瞬息を呑んだ。「責任」に縛られて異性を遠ざけていた清墨が、今は恵美と共に歩む決意をしている。そして、恵美の存在に嫌悪感どころか好意すらある。加えて、恵美は長い間清墨のそばにいた。「近くにいる者が有利」、「時間が経てば真心がわかる」という言葉が、これほど当てはまる状況はないだろう。リンの心は痛みに満ちていた。彼女はただの庶民に過ぎず、恵美とは地
話としては確かにその通りだが、恵美は長い間清墨に対して努力を重ねてきた。彼女が手にしたものをしっかり守るべきではないだろうか? しかし、恵美の様子はまるで何も気にしていないかのように見えた。その飄々とした態度に、目の前の女はどうしても信じることができなかった。「じゃあ、もし私が彼を手に入れたら、あんたは本当に発狂しないって言い切れるの?」恵美は口元の笑みを崩さずに答えた。「どうして?もしあなたが清墨の心を掴めたら、それはあなたの実力。そんな時は、私は祝福するべきでしょ」恵美がこれまで清墨にしがみついてきたのは、清墨の周囲に他の女がいなかったからだ。もし他の女が現れたら、彼女は今のよ
恵美は信じられないような表情で聞き返した。「私がやったことでも、あなたは私を責めないの?」清墨が突然こんなにも寛容になるなんて。それとも、彼女に心を動かされ、彼の心の中に彼女の居場所ができたのだろうか?彼女がここに根を張り、花を咲かせることを許してくれるということなのだろうか? 「そうだ」清墨の答えは、全く迷いのないものだった。恵美はそれでも信じられなかった。「あなた……どうして?私と結婚する気になったの?」清墨は恵美の手をしっかりと握りしめた。「この間、ずっと俺のそばにいてくれた。俺にしてくれたことは、俺にはよくわかっている。お前は本当に素晴らしい女だ。そして今や、誰もが俺