ログイン翌日の午前。
神田法律事務所では、一本の電話が鳴っていた。
「お電話ありがとうございます。神田法律事務所です」
事務員が応対すると、受話器の向こうから苛立った声が響く。
『朝倉拓也だ。担当の弁護士に代わってくれ』
ほどなくして担当弁護士が電話を引き継いだ。
「お電話代わりました。藤崎です」
『あんた、美月から依頼を受けたって本当か』
「はい。現在、朝倉様の代理人を務めております」
『あいつを返してください』
藤崎は一瞬、言葉を選んだ。
「申し訳ありませんが、そのご要望にはお答えできません」
『妻なんですよ! 夫婦の問題でしょう!』
「現在は、依頼人の代理人として私が窓口となっております」
穏やかな口調は変わらない。
『美月と直接話をさせてください』
「その件につきましても、お受けできません」
短く、しかしはっきりとした返答だった。<
数週間後。 離婚調停の日がやってきた。 美月は家庭裁判所の前で、小さく息を吐いた。「緊張しますね……」 隣には藤崎がいる。「今日は、ご自分の考えをそのまま話せば大丈夫ですよ」「はい」 美月は頷いた。 ここまで来た以上、もう引き返すつもりはない。 建物へ入り、案内された待合室へ向かう。 拓也とは別の場所で待つことになっていた。 それでも、同じ建物のどこかに拓也がいる。 そう思うだけで、身体が少し強張った。 やがて名前を呼ばれ、美月は藤崎とともに調停室へ入った。 調停委員から、まず現在の状況や離婚を希望するまでの経緯を尋ねられる。「離婚を希望されているということで、間違いありませんか?」「はい」 美月ははっきり答えた。「離婚したいです」「ご主人は、夫婦関係を修復したいというお考えのようです。それを踏まえても、お気持ちは変わりませんか?」「変わりません」 美月は迷わなかった。「もう戻るつもりはありません」「分かりました」 調停委員はそれ以上、美月を説得しようとはしなかった。 続いて、これまでの経緯を確認される。 拓也の浮気を知ったこと。 家を出たこと。 その後も何度も連絡や接触が続いたこと。 実家やカフェへ来たこと。 警察へ相談したこと。 第三者を通じて手紙を届けてきたこと。 美月は藤崎の助けを借りながら、一つずつ説明していった。「現在、ご主人と直接連絡を取ることには抵抗がありますか?」「はい」「今後の連絡についても、代理人を通してほしいというご希望ですね」「はい。直接会って話すつもりもありません」「分かりました」 調停委員が記録を取る。
拓也は家庭裁判所から届いた書類を、何度も読み返していた。「……意味分かんない」 離婚調停。 文字を見れば見るほど、苛立ちが込み上げてくる。「美月、本気で離婚するつもりなのか?」「でも、調停なんでしょう?」 和江が向かいから書類を覗き込む。「話し合いをするだけじゃないの?」「たぶん」「だったら、離婚したくないって言えばいいじゃない」 拓也は顔を上げた。「そうだよな」「あなたが嫌だって言ってるのに、勝手に離婚なんてできないでしょう」 和江の言葉に、拓也は少し安心した。「俺は絶対に離婚しない」 そう口にすると、ようやく気持ちが落ち着いてくる。 美月が何を言っても、自分が拒否すればいい。 そう思った。 けれど。「……何て言えばいいんだ?」「何が?」「調停で」 拓也は書類をテーブルへ置いた。「離婚したくない理由、聞かれるだろ」「そんなの決まってるじゃない」 和江は当然のように答える。「子どものためよ」「子ども……」「もうすぐ父親になるんでしょう? 父親が必要だって言えばいいじゃない」「そうだよな」 拓也の表情が明るくなる。「俺だって子どものことは考えてる」 まだ生まれていない。 顔も見たことがない。 それでも、自分の子どもだ。「美月だって、一人で育てるより俺がいた方がいいに決まってる」「そうよ」「仕事だってしてないんだし」 拓也はそこまで言って、黙った。 今、自分も無職だった。「……でも、俺はこれから働けばいい」「
数日後。 美月は藤崎の事務所を訪れていた。「では、離婚調停を申し立てる方向で進めます」「はい」 美月はしっかりと頷いた。 拓也が話し合いでの離婚に応じない以上、いつまでも返事を待っているつもりはない。「調停になったら、拓也と会わないといけないんですか?」「基本的には、同じ場所で直接話し合うわけではありません」 藤崎が説明する。「裁判所では、それぞれ別の待合室で待機して、調停委員を介して話をする形になります。事情についてはこちらからも伝えておきます」「そうなんですね」 美月は少しだけ肩の力を抜いた。 拓也と顔を合わせなければならないのではないか。 それが一番不安だった。「ただ、ご主人がどういう主張をするかは分かりません」「……はい」「これまでの経緯についても整理しておきましょう」 藤崎は手元の資料へ視線を落とす。 拓也の浮気。 家を出てから繰り返された連絡。 実家やカフェへの訪問。 警察への相談。 第三者を使って届けられた手紙。 一つずつ並べていくと、美月自身が思っていた以上に多かった。「こんなにあったんですね……」「そうですね」 藤崎は淡々と答える。「記録が残っているものは、今後のためにもまとめておきます」「お願いします」 事務所を出る頃には、美月は少し疲れていた。 けれど、不思議と後悔はなかった。 もう待たない。 そう決めてから、少しずつ前へ進んでいる。 建物の外へ出ると、蒼真の車が停まっていた。 美月に気付いた蒼真が、運転席から降りる。「お疲れさまでした」「ありがとうございます」 車へ乗り込んでから、蒼真が尋ねる。「今日はどうでした?」「離婚調停を申し立てることになりました」「そうですか」「やっぱり少し緊張しますけど」 美月は苦笑した。「でも、拓也が離婚してくれるのを待ってるよりいいと思います」「はい」「裁判所で直接顔を合わせなくていいみたいなので、それはちょっと安心しました」「それなら良かったです」 蒼真はそれ以上、離婚について口を挟まなかった。 そのことが、美月にはありがたかった。 自分で決める。 蒼真は、その決断を邪魔せずに支えてくれる。「終わったら、何か食べて帰りませんか?」 不意に蒼真が言った。「え?」「昼食には少し遅くなりましたが、まだ何も
藤崎からの電話を切ったあとも、拓也はしばらくその場に立ち尽くしていた。 美月は手紙を読んだ。 それなのに、帰ってこない。 離婚する意思も変わっていない。「……なんでだよ」 拓也はソファへ座り込んだ。「俺、ちゃんと書いたよな?」 和江が向かいに座る。「書いたわよ。私も読んだもの」「だったら、普通は少しくらい返事するだろ」「そうね……」「それすらしないって、おかしくない?」 拓也は納得できなかった。 何度も謝った。 やり直したいと伝えた。 九条とのことまで許すと書いた。 それでも美月は、自分を拒絶した。「やっぱり、九条が何か言ってるんだ」 拓也が呟く。「弁護士も美月本人の意思だって言ってたけど、そんなわけない」「拓也……」「だって、あいつはこんな女じゃなかった」 以前の美月なら、拓也が怒れば謝った。 頼めば家事もしてくれた。 多少不満があっても、最後には自分に合わせてくれた。 それが拓也にとっての「美月」だった。「急に人間が変わるわけないだろ」 拓也はそう言い切った。 一方。 サービスアパートメントでは、美月が藤崎からの報告を受けていた。『ご主人には、手紙を受け取ったことと、直接返答する意思がないことを伝えました』「ありがとうございます」『今後の連絡についても、改めてこちらを通すよう伝えています』「はい」『また何かあれば、すぐにご連絡ください』「分かりました」 通話を終える。 美月は小さく息を吐いた。
三日目の朝。 拓也は目を覚ますと、真っ先にスマートフォンを確認した。 通知はいくつか届いている。 けれど、どれも美月からではない。「……まだかよ」 ベッドの上で、何度も画面を更新する。 手紙は確実に届いている。 知り合いが、美月の実家に届けたと言っていた。 なら、美月は読んでいるはずだ。 それなのに、何の返事もない。 拓也は身体を起こした。「考えるって言っても、三日もかかるか?」 もちろん、美月は考えるとは一言も言っていない。 それでも拓也の中では、返事がない理由は「迷っているから」になっていた。 リビングへ行くと、和江がテレビを見ていた。「母さん」「何?」「まだ美月から返事ないんだけど」「そうなの?」「もう三日だよ」 和江は少し考える。「手紙、本当に美月さんが受け取ったの?」「実家には届けたって」「でも、お母さんが美月さんに渡さなかった可能性もあるんじゃない?」 拓也の動きが止まった。「……え?」「だって、あっちのご両親もあなたに怒ってるんでしょう?」「……」「美月さんに見せないで、勝手に捨てたとか」 拓也の表情が変わっていく。「ありえる……」 自分の手紙を読んでも返事をしない。 その可能性よりも、誰かが美月へ届けなかったと考える方が、拓也には受け入れやすかった。「じゃあ、美月は読んでないのかもしれない」「そうかもね」「だったら、返事がないのも当然じゃん」 拓也は立ち上がった。 何か別の方法で、美月本人に届けなければならない。 しかし、すぐに昨日の知
知り合いと別れたあと、拓也は一人で自宅へ戻った。 玄関を開けると、和江がリビングから顔を出す。「お帰り。どうだった?」「駄目だった」「何が?」「あいつ、もう協力しないって」 拓也は苛立った様子でソファへ腰を下ろした。「手紙は届けてくれたんでしょう?」「昨日はな」「じゃあ、もう一度頼めばいいじゃない」「頼んだよ」 拓也はスマートフォンをテーブルへ置く。「美月から返事があるか聞いてきてくれって言ったら、そこまではしたくないって」「どうして?」「知らないよ」 和江は不満そうに眉を寄せる。「それくらい聞いてくれてもいいのにね」「だろ?」「手紙を届けるのも、返事を聞くのも同じじゃない」 拓也は大きく頷いた。 自分たちにとっては、その違いが理解できなかった。「美月、読んだかな」「読んでるでしょう」「そうだよな」 拓也は自分に言い聞かせるように呟く。 手紙には、自分の気持ちをきちんと書いた。 怒っていないこと。 九条とのことも許すこと。 帰ってきてほしいこと。 子どもが生まれたら、今度こそ家族としてやり直したいこと。 あれを最後まで読めば、美月だって少しは考え直すはずだ。「でも、返事がないんだよ」「まだ一日でしょう?」「……そうだけど」「考えてるんじゃない?」 和江の言葉に、拓也の表情が少し明るくなる。「そうかな」「すぐ返事できるような話じゃないもの」「そうだよな」 拒絶されているとは考えない。 返事がないのは、迷っているから。 そう思えば、拓也には希望があるように感じられた。「しばら







