ログイン翌日。 美月は病院へ電話を掛けていた。 昨日、藤崎から勧められた通り、拓也が受付へ来たことについて記録を残してもらえるか確認するためだった。『承知しました。こちらでも昨日の対応について記録しております』「ありがとうございます」『今後、同じ方がいらした場合についても、院内で共有しておきますね』「お願いします」 通話を終える。 美月はスマートフォンをテーブルへ置いた。「……本当に来たんだ」 昨日から何度も考えている。 偶然、拓也が病院の近くにいた。 そこで自分を見かけた。 それだけなら、あり得ないことではない。 けれど。 自分が帰ったあと、わざわざ病院へ入り、次の予約日と出産予定日を尋ねている。 偶然見かけただけの人間が、そこまでするだろうか。「前からいたのかな……」 その考えが浮かんだ瞬間、美月の背中が冷たくなった。 病院へ着いた時。 診察を受けている間。 帰る時。 どこかから見られていたのではないか。「朝倉さん」 蒼真の声に、美月は顔を上げた。「すみません。ちょっと考えてました」「昨日のことですか?」「はい」 美月は少し迷ってから続ける。「次の健診、九条さんに送ってもらってもいいですか?」「もちろんです」 即答だった。「帰りもお願いします」「分かりました」「……ありがとうございます」 美月はほっと息を吐いた。「一人で行くの、ちょっと嫌になっちゃって」「では、しばらくは私が送迎します」「でも、お仕事が」「時間は調整できます」「毎回は悪いですよ」「でしたら、私が難しい日は別の者に頼みます」「別の人?」「会社の運転手を手配できます」 美月は少し驚いたあと、苦笑した。「そうでした。九条さん、本当に社長なんですよね」「今さらですか?」「たまに忘れます」 蒼真がわずかに笑った。 その顔を見て、美月の緊張も少しだけほどけた。 一方。 拓也は求人サイトを眺めていた。 次の調停までに仕事を見つける。 そう言った以上、何もしないわけにはいかない。 一件、条件の合いそうな求人を見つける。「ここならいいかな」 応募画面を開く。 だが、面接可能日の入力欄で手が止まった。 表示された候補日の一つ。 その日は、美月が病院へ行くかもしれない日だった。「この日は無理だな」 拓
拓也は病院から帰る電車の中でも、スマートフォンのカレンダーを眺めていた。 今日の健診日は当たった。 前回からの日数を数える。「このくらいか……」 次も同じ間隔とは限らない。 それくらいは、拓也にも分かっていた。 だから候補日をいくつか入れておけばいい。 仕事もまだ決まっていない。 時間ならある。「一日くらい外れてもいいし」 誰かに予定を教えてもらう必要はない。 自分で確かめればいい。 そう考えると、病院で断られたことさえ大した問題ではなくなった。 帰宅すると、和江がリビングにいた。「どこ行ってたの?」「美月の病院」「病院?」「今日、健診だった」 和江が驚いた顔をする。「美月さんから聞いたの?」「聞いてないよ」「じゃあ、どうして分かったの?」「前に行った日から予想したら当たった」 拓也は得意そうに答えた。「今日も見たよ。美月」「話したの?」「話してない」「そう」「見るだけなら問題ないだろ?」 和江は少し黙った。 けれど、止めることはなかった。「病院にも聞いてみたんだ」「何を?」「次の予約とか予定日」「教えてくれた?」「全然」 拓也はソファへ座った。「夫だって言っても駄目だった」「最近はそういうの厳しいのかしらね」「意味分かんないよな」 拓也は笑った。 怒っているようには見えなかった。「まあ、別にいいけど」「いいの?」「うん。次も自分で当てればいいから」 そう言って、スマートフォンを和江へ見せる。 カレンダーには
数日後。 美月は健診のため、病院を訪れていた。 診察を終え、医師から今回も問題ないと聞いて、ようやく緊張がほどける。「ありがとうございます」 診察室を出たあと、美月は少し迷ってから受付へ向かった。「あの、相談したいことがあるんですけど」「はい。どうされましたか?」「夫のことで……」 受付の女性が美月を見る。「できれば、夫が来ても私のことを教えないでほしいんです」 言葉にすると、胸がざわついた。「今、離婚の話し合いをしていて、直接会うことも避けています」「そうなんですね」「以前、この病院の近くで待っていたこともあって……」 正確には、以前病院で偶然拓也に見つかった。 けれど今となっては、また来る可能性を考えずにはいられない。「少々お待ちください」 受付の女性は奥の職員へ声を掛けた。 しばらくして、美月は別の場所で詳しい事情を説明することになった。 現在、離婚調停中であること。 警察にも相談していること。 本人への直接の連絡を控えるよう言われているにもかかわらず、実家へ第三者を使って手紙を届けてきたこと。「夫が来た場合、私の予約日とか、通院しているかどうかを教えないでもらえますか?」「もちろん、患者さんの受診状況や予約について、ご本人の同意なくお答えすることはできません」「良かった……」「ご不安があるということですので、院内でも情報を共有しておきますね」「お願いします」 美月は頭を下げた。 こんな相談までしなければならない。 少し前なら、申し訳ないと思っていたかもしれない。 けれど今は違う。 自分と子どものために必要なことだ。 診察を終えて病院を出ると、蒼真の車が待っていた。
次の調停の日がやってきた。 美月は前回と同じように、藤崎と家庭裁判所を訪れていた。 緊張していないわけではない。 けれど、前回ほど身体は強張っていなかった。「お気持ちに変わりはありませんか?」 調停委員に尋ねられ、美月は頷く。「はい。離婚したいです」「ご主人は、今回も夫婦関係を続けたいと希望されています」「そうですか」 予想していた。「ご主人からは、生活を立て直すために仕事を探しているというお話もありました」「はい」「今後は家族を大切にしたいと。その点を踏まえても、お気持ちは変わりませんか?」「変わりません」 美月は迷わず答えた。「拓也がこれからどうするかとは別に、私はもう一緒に暮らしたくありません」「分かりました」 調停委員は静かに頷いた。「では、そのご意向としてお伝えします」 美月は小さく息を吐く。 前回と同じだ。 拓也が何を約束しても、自分の答えは変わらない。 しばらくして、今度は拓也が調停室へ入った。「奥様は、離婚の意思に変わりはないとのことです」「……またですか?」「はい」「俺が仕事を探してることは伝えました?」「お伝えしています」「もう浮気もしないってことも?」「夫婦関係を改善したいというご意向についてもお伝えしています」「それでも?」「はい」 拓也は黙った。 以前なら、そこで苛立っていたかもしれない。 けれど今日は違った。「分かりました」 調停委員が少し意外そうに拓也を見る。「離婚に同意されるということでしょうか?」「違います」 拓也は穏やかに答えた。「離婚はしません」「そ
翌日。 拓也は近所のドラッグストアにいた。 目的は決まっている。 美月が帰ってきた時に必要なものを揃えるためだ。「シャンプー……これだったよな」 棚に並んだ商品を見比べる。 美月が以前使っていたもの。 同じパッケージを見つけ、かごへ入れた。 次は歯ブラシ。 洗顔料。 化粧水。 拓也は店内を歩きながら、以前家にあったものを思い出していく。「これも使ってた気がする」 正確には覚えていない。 それでも、見覚えのある商品を次々とかごへ入れた。 会計を済ませる頃には、袋が二つになっていた。 家へ戻ると、和江が驚いた顔をする。「ずいぶん買ったのね」「美月の」「全部?」「うん」 拓也は袋を持って、自分たちが夫婦で使っていた部屋へ向かった。 美月が出ていってから、ほとんど変わっていない。 空いている場所へ、買ってきたものを一つずつ置いていく。 洗面所には新しい歯ブラシ。 浴室にはシャンプー。 棚には洗顔料と化粧水。「これでいいか」 拓也は少し離れて眺めた。 足りないものは、美月が帰ってきてから買えばいい。 何を使いたいのか、その時に聞けばいい。「拓也」 和江が洗面所を覗く。「これ、開けない方がいいんじゃない?」「なんで?」「いつ帰ってくるか分からないでしょう」「でも、すぐ使える方がいいじゃん」「歯ブラシくらいは袋のままでいいんじゃない?」「……それもそうか」 拓也は歯ブラシだけ元の包装へ戻した。 その顔は真剣だった。 美月を困らせないために準備している。 本人
数日後。 和江が掃除をしていると、拓也が廊下を何度も行き来していた。「さっきから何してるの?」「ちょっと片付けようと思って」「珍しいわね」 拓也は返事をせず、家の中を見回した。 美月が出ていってから、そのままになっているものも多い。 もちろん、美月が持っていったものもある。 けれど拓也には、それが一時的なことのように思えていた。「赤ちゃんが来るなら、物多いよな」 和江が振り返る。「赤ちゃん?」「うん」 拓也は当然のように答えた。「帰ってきた時に危ないものがあったら困るだろ」「……そうね」「この辺も片付けた方がいいかな」 拓也はリビングの棚を見る。 赤ちゃんが生まれて、すぐに歩き回るわけではない。 そんなことは考えていなかった。 ただ、美月と子どもが帰ってくる。 そのための準備をしておきたかった。「母さん、この棚使ってる?」「上の方は使ってるけど」「じゃあ下だけ空けてよ」「何を入れるの?」「赤ちゃんのもの」 まだ、ガーゼハンカチ一枚しかない。 それでも拓也の中では、そこはもう子どものための場所だった。「ベビーベッドって必要かな」「さあ。美月さんに聞かないと分からないんじゃない?」「今は聞けないから」 拓也はスマートフォンを取り出す。「調べればいいよ」 ベビーベッド。 ベビー布団。 哺乳瓶。 おむつ。 次々と検索する。「結構いろいろいるんだな」「生まれる前に全部買う必要はないでしょう」「でも、帰ってきて何もなかったら困るじゃん」 帰ってくる。 和江も、もうその言葉に何も言わなかった。 拓也は商品を眺めながら、楽しそうにしている。「これ、かわいいな」 小さなベビー服だった。 淡い色のロンパース。「サイズ分かんないけど」「生まれてからでいいんじゃない?」「そうかな」 拓也は少し迷って、画面を閉じた。「じゃあ、今は場所だけ作っとく」 その日の午後。 拓也は棚の下段を空にした。 中に入っていたものを別の場所へ移し、きれいに拭く。 そして、一枚だけ持っているガーゼハンカチを置いた。「……よし」 何もない棚。 その真ん中に、小さなハンカチだけが置かれている。 拓也は満足そうに眺めた。 一方。 美月はサービスアパートメントで、藤崎と電話をしていた。『次回も







