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私たち三人がアパートまで歩いて戻ると、翔太はまだそこにいる。今回は彼を完全に無視し、顔も上げようとしない。彼に話すことなんて、もう何もない。私のそばの優月が彼の姿を見つけ、はっと目を見開いた。先輩が優月の様子に気づき、優しく「どうしたの、優月?」と声をかけた。優月が首を振り、「ううん、何でもない」と答えた。私たちが翔太の前を通り過ぎようとした時、彼は優月を呼び止めた。「優月……パパだよ」すると優月は淡々と彼の手を振り払い、「おじさん」と呼んだ。優月が翔太を知っている様子に、先輩はほっと胸をなでおろした。誘拐犯ではないと分かり、安心したのだ。しかしすぐに、この男が優月の無責任な実の父親だと悟った。 先輩は殴りかかろうとしたが、優月に服の裾を引かれた。「パパ、どうでもいい人に構わないで。手を出したら、パパが怪我する。それに、ママも私も悲しむから」先輩は一瞬驚いたが、すぐに大きな喜びに包まれた。優月が彼を「パパ」と呼んだのだ!先輩は優月を高く抱き上げ、ほっぺたにちゅっとキスをした。「わかった!パパの大事な娘よ!」 二人の嬉しそうな様子を見て、私の顔にも自然と笑みがこぼれた。翌日、アパートを出る時、翔太の姿はどこにも見えない。彼もようやく諦めて、国に帰ったのだろう。 私は胸のつかえがおりたような気がする。数日後、国際宅配便で書類が一通届いた。開けてみると、翔太の署名がある離婚協議書だった。 その夜、翔太の友人から謝罪のメッセージが届いた。【前にバンクーバーで偶然君を見かけたんだ。翔太が家でめちゃくちゃな状態なのを見て、つい、君が生きてるって伝えちゃった。悪かった】翔太の印象を少しでも良くしようとしたのか、ついでに詩雫と玲奈の近況も教えてくれた。【飛行機事故のニュースが報じられてから、国内ではみんな君が死んだと思ってて、詩雫は嬉しそうで、もう演技すらしなくなったみたいだよ。翔太が落ち込んで酒に溺れてた時、彼女は裸で迫ったんだって。でも翔太に裸のまま外に放り出されて、ちょうど記者が翔太の取材に来てて、彼女の姿を写真に撮られて、大きく報じられたらしい。すぐに、彼女が君の家庭を壊したってバレて、母子ともども、みんなに嫌われるようになってさ。彼女は翔太に助けを求めて、前みたいに
私は冷たく彼を引き起こし、近くの歩道橋を指さした。「そこから飛び降りたら、許してあげる」あの歩道橋は普通の人にとって高くはないが、翔太には重度の高所恐怖症がある。 かつて父親が十八階から飛び降り、彼の目の前で亡くなって以来、少しでも高い場所には強いトラウマを抱えている。 普通の人なら平気な場所でも、彼には到底無理なのだ。 翔太が諦めることを期待していたが、彼の病的なまでの執念を甘く見ていた。彼は躊躇なく歩道橋へと走り出した。血の気が完全に失せているのに、その目には一切合切を捨てる覚悟が光っている。彼は目を閉じて、その縁から身を投げ出した。橋の下の川に落ち、しばらくしてようやく岸に這い上がってきた。全身ずぶ濡れで私の前に立ち、すがるような笑みを浮かべて言った。「藍、約束だろ?飛び降りたら許すって!やったぞ、許してくれないか?」私は一瞬、目を閉じ、いらだちを覚えた。しつこく絡みつく翔太が、煩わしい。「嘘よ。あなたのこと絶対に許さない。永遠に!」翔太はぼう然とした表情で私を見つめ、私の言葉が理解できていないのようだ。私は嘲るような目で彼を見た。「どうしたの、騙されるのは慣れてない?でも、嘘をつくのはあなたの得意技じゃなかった?詩雫と玲奈のために、数えきれない嘘をついてきたんだから」翔太はうつむいた。体から滴る水が足元に小さな水たまりを作り、彼はまるで雨に濡れた野良犬のように見える。そのみじめな姿に、むしろ嫌悪を覚え、私はますますとげのある言葉を浴びせた。「一緒に戻るなんてありえない。私のそばにいることも許さない。私たちは離婚した。離婚協議書にサインしていないなんて言わないで。あなたも分かっているでしょ、私たちの関係は、役所の書類で決まるものじゃない。だって、あの時も、私たちが結婚届を出したのに、あなたがそれを公にしなかった。優月にすら、パパと呼ばせることさえ許さなかった!翔太、おかしいと思わない?実の娘があなたをおじさんと呼ぶなんて。あなたは継父なの?このことを思い出すたびに、あなたを憎む。翔太、あなたは今日来て『ごめん』って言えば、私たちが感謝してあなたについて帰ると思っているの?あり得ない。これから何が起ころうと、私と優月はあなたともう何の関係もない。私が最も間違っていたのは、優月があ
穏やかで温かい日々が過ぎるうちに、私と優月の心の傷は少しずつ癒されていった。かつての生活も、あの人のことも、私と優月は少しずつ忘れかけていた。まさか再び翔太と出会うことになるとは思っていなかった。ある、ごく平凡な午後のことだった。優月が先輩と公園にスケッチに出かけたまま、なかなか帰って来ない。迎えに行こうと下の階へ降りたとき、目の前に現れたのはみすぼらしい翔太の姿だった。普段は身だしなみに気を使う彼が、今では顔色が青白く、ひげもぼうぼうで、まるでホームレスのような格好をしている。 一瞬、見間違えかと思った。しかし、彼だと分かっても、話すつもりはなかった。背を向け、彼を避けるように階段を降りた。背後で、彼が赤く潤んだ目で、声を詰まらせながら言った。「藍……行かないで……」 そう言うと、背後からぎゅっと抱きしめてきた。服越しに、彼の温かい涙が肩を濡らしていくのを感じた。彼は泣いている。翔太と結婚して五年、彼が涙を見せたのは、義母が危篤で亡くなった時だけだった。あの時は、ただ胸が痛くて、「どんな代償を払ってでも、彼の悲しみを和らげてあげたい」と心に誓ったものだ。しかし、この五年間、私が何をしようと、翔太は私と優月を愛してはくれなかった。今になって後悔したところで、何の意味があるか?私は彼の腕を振りほどくと、冷たい口調で言った。「翔太、私たちもう離婚した。もう関わらないで」 翔太の目が真っ赤に染まっていく。「いや、していない!あの離婚協議書にはサインしていない!離婚なんてしない……しないんだ……藍、君は永遠に俺の妻、優月は俺の娘なんだ!」その言葉を聞いて、私は思わずあざわらった。「ふん……翔太、今のその姿、誰に見せているの?私が妻で、優月が娘だなんて?ふざけないで。あなたの妻は詩雫で、娘は玲奈でしょ?」翔太の瞳から涙がこぼれ落ちた。「藍、そんなふうに言わないで。俺が君と優月に悪かったと分かっている。償うチャンスをくれ、俺の元に戻ってくれないか。良き夫、良き父になるよう、俺は学んでいくから」私は、彼に握られていた袖を引き戻した。「わざわざ学ばなくていい。あなたはもう立派な夫であり父親よ――詩雫と玲奈にとってはね。あなたは彼女たちにとって、世界で一番の夫で、世界で一番の父親。
翔太の目頭が熱くなった。 彼は手を上げて自分の頰を強く殴り、はっきりとした手の痕を残した。翔太は全速力で走った。通常15分かかる道のりを、わずか5分で自宅の前にたどり着いた。驚いたことに、家の中に明かりが灯っている。 もしかすると……藍と優月が戻ってきたのかもしれない。 その期待に胸を躍らせ、彼はドアを勢いよく押し開けた。「藍!優月!?」 大声で二人の名を呼びながら、「ごめん!あの時は悪かった!これからは必ず……!」 反省と後悔、そしてこれから母子を守り通すという誓いを、一気にまくし立てた。しかし、一階から二階へ、二階から一階へと、必死に探し回っても、二人の姿はどこにも見当たらなかった。その時、翔太は二人の私物さえもすべて消えていることに気づいた。広々とした部屋の中に、二人がかつてここで暮らした痕跡は微塵も残されていなかった。 この事実は、翔太に絶望を突きつけた。彼はぐったりとソファーに倒れ込んだ。天井を見上げるうちに、いつの間にか涙が頬を伝い落ちていた。ソファーの肘掛けから滑った腕がリモコンを弾き落とし、テレビの電源がつくと、825便国際線の事故報道が画面に映った。翔太の身体は瞬時に凍りついた。藍がどんなに茶番を演じようとも、これだけのメディアを一斉に動かすのは不可能だ。つまり……秘書が今朝伝えたことは、全て事実だったのだ。翔太はリビングのテーブルに置かれた、秘書が届けた通知書に目を向けた。震える手で開き、搭乗者情報欄に記載された森川藍と加藤優月の名前に、その目は焼き付くような痛みを覚えた。翔太はよろめきながら立ち上がり、口から溢れた血が傍らの離婚協議書と許しチケットの空箱を染めた。彼はその箱を手に取った。空っぽの箱が、鉛の塊のように手に重くのしかかってきた。彼は空の箱を見つめ、目を大きく見開き、瞳が裂けんばかりだ。いったいいつから中身が空になっていたのか?数字に敏感な翔太の脳裏で、許しチケットに関する記憶がふっと霞んだ。 藍がかつて発した警告が蘇った。「チケットが一枚もなくなったその日が、娘を連れて永遠にあなたの前から消える時だ」 翔太の口元に、泣くよりも見苦しい笑みが浮かんだ。彼は虚ろな目で目の前のものを見つめ、呟いた。「これが……天の罰というやつか?
翔太に突然、もどかしいほどの焦りが湧き上がった。優月の七歳を待つ必要などない。今すぐこの瞬間に、藍が自分の妻、優月が実の娘だと世間に示してやりたい。そうすれば、優月に「おじさん」ではなく、堂々と「パパ」と呼ばせてやれるのだ。優月はきっと大喜びするに違いない。もしかしたら、嬉しさのあまり、許しチケットを使わなくても、あの日の過ちを許してくれるかも。翔太は興奮しながら会社公式サイトの担当者に連絡し、既に妻と娘がいることを公開するよう指示した。だが、電話の向こうの担当者は言った。「奥様も会社の社員ですし、ご同意はいただいた方が……」 ごく当然の意見に、翔太はスマホを取り出し、いつの間にか自然と覚えてしまった番号に電話をかけた。それでも繋がらない。 翔太の表情が見る見るうちに曇っていく。結婚したばかりのこと、彼が病気で熱を出した時、藍に電話しても繋がらず、自宅で高熱により危うく昏睡しそうになったことがあった。 その時は彼女も心底慌てふためき、涙で赤く腫れた目をしながら二度と電話を出し漏らさないと誓った。 その後、彼女の携帯は24時間体制で、一度も彼からの電話やメッセージを取り逃がしたことはなかった。だが今、藍の電話は12時間も繋がらない。秘書の伝えた飛行機事故が頭をよぎり、翔太の心臓が一瞬、止まりそうになった。もう誕生日どころではない。早足で詩雫の脇を通り過ぎようとした。詩雫は彼のわずかな表情の変化も見逃さなかった。彼が去ろうとすると、今までのお嬢様ぶった態度を捨て、唇を噛んだ。手を伸ばして彼を引き留め、胸を彼の腕に押し当てた。 「翔太……今夜だけ、私と玲奈の側にいて」 頬を赤らめてせがむように言った。翔太の体が一瞬、硬直した。 彼は詩雫をきっぱりと押しのけた。「藍と優月が待っている」そう言い残して、振り返らずに立ち去った。詩雫の顔に一瞬、歪んだ表情が走ったが、すぐに取り繕って言った。「翔太、誤解よ。私じゃなくて玲奈のことで……あなたに積み木の城を作ってほしいの」タイミングよく玲奈が現れ、翔太の服の裾をぎゅっと握り、潤んだ目で見上げながら頼んだ。「翔太パパ、積み木で遊んで。行かないで。パパがいないと、ママと二人さみしいんだから」かつてなら玲奈のそんな姿に心を揺らしていた翔太だ
翔太が握っていた携帯が、床に転がり落ちた。「……何だって?」 普段の冷静さは消え、彼の目にはただ虚ろな光が揺れている。秘書が恐る恐る、悲痛な知らせを繰り返した。翔太は秘書の手に取っている通知書に目をやり、やがて嘲るような笑みを浮かべた。「お前、藍と優月から、いくら貰ったんだ?ここまで芝居に付き合うとはな」 唐突な問いに、秘書はただ茫然とする。翔太は離婚協議書と空の箱を掴み上げて、冷ややかに一瞥し、嘲笑した。「離婚協議書に、使い切った許しチケット、その次は飛行機事故? 百枚もあったチケットが、そうあっさりなくなるわけないだろ? それに、本物の遭難者名簿通知書を見たことがないとでも思ってるのか?そんなでたらめな書類で俺を騙せると?藍は世の中の誰もが自分と同じ、脳みそ空っぽだと思ってるのか?嫉妬だけでここまで大騒ぎし、子供を巻き込んで家出するなんて、大人げないにも程がある」秘書は、これが航空会社から届いた正式な通知書だと必死に訴えようとしたが、翔太の携帯が鳴り、その言葉は遮られた。電話で何を聞いたのか、翔太はコートを取ると、慌てて出て行こうとした。「藍に伝えろ。騒ぎが済んだら、とっとと優月を連れて戻って来い」そう言うと、早足でその場を離れた。秘書は手にした通知書を見つめ、奥様とお嬢様のこれまでの真心が報われぬ結末に、ただため息をつくしかなかった。翔太が鹿島家に慌てて駆けつけたが、目に映った玲奈の元気な姿は、詩雫が電話で言っていたような重い病状とはまるで違っていた。その代わり、テーブルには祝宴のような料理が並び、詩雫はすでに席につき、彼の到着を待ちわびているところだった。テーブルの中央には、包装紙がきらりと光るケーキが置かれている。彼ははたと、今日が自分の誕生日だったことを思い出した。詩雫と玲奈がケーキを手に「ハッピーバースデー」を歌う姿を見ていると、ふと、藍と優月の顔が頭をよぎった。 以前は毎年、彼の誕生日になると、藍と優月は自分たちの誕生日より嬉しそうにしてくれた。 早くからプレゼントを準備し、当日は二人で手作りケーキを焼いてくれたものだ。 そんな過去の誕生日の光景を思い出し、翔太の顔に思わず柔らかい笑みが浮かんだ。しかし、そんな穏やかな時間は、詩雫が帰国してから、二度と訪れることは