慎一の姿は、見るも無惨だった。けれど私は、それでも振り返れなかった。だって、あの人の雪のように青ざめた顔や、漆黒の瞳から光が消えてしまった姿を見るのが、怖かったから。私は残された理性で、看護師を呼んだ。それが小柄な彼女に、あんな大きな男を支えられるかなんて、考える余裕もなかった。ただ、私はとにかく、病院から逃げるように飛び出した。オレンジ色の花びらが、風に吹かれて激しく揺れていた。両親のお墓の前以外に、私はどこで堂々と泣ける場所があるのか、わからなかった。大人って、きっとこんなものだ。泣くことひとつにも、場所と理由が必要になるなんて。私は、きっとここで思い切り泣いて発散できると思っていた。でも実際に両親のお墓の前に跪いたとき、あれほど強かった怒りも、悔しさも、悲しみも、どこか薄れてしまった。ただ哀しいことに、私はもう泣く力さえ失ってしまったみたいだった。それとも、慎一との歪んだ関係のことなんて、両親にさえ話せないから、ただ虚しく落ち込むだけで、自分で消化するしかなかったのかもしれない。ここに来たのも、本当に、ただ花を供えて、両親を思い出すためだけだったのかもしれない。雲香から電話がかかってきたとき、私はどれだけ一人で座っていたのかも覚えていない。ただ、太陽が東から昇って西に沈む、それだけだった。私は夕焼け空をぼんやり見上げていた。彼女は声を潜めて、早口で言った。「佳奈、真思に会ったんでしょ?」誰かに隠れて電話しているような、馴染みのある声なのに、まるで幽霊みたいに耳元で冷たい風を吹かせてくる。そのせいか、私の今いる場所もあいまって、妙に不気味で落ち着かない気分だった。やっと、彼女が前に言っていた「手を組まない?」という意味が分かった気がした。雲香は、慎一のそばに、他の女がいるのをどうしても許せない人だ。たぶん、彼の周りを蚊が飛んだって、自分の腕を差し出して蚊に血を吸わせるような人なんだろう。「会ったよ」と私は淡々と答えた。私は、彼女が何を言うのか、聞いてみたかった。「え、なんでそんな反応薄いの?」彼女のほうが私より驚いている。「あの女の正体知らないの?」彼女は私に逆に問いかける。正体?私は、知らないといけない?今日、真思と慎一が話しているのを聞いた。二人は親密で、どこか曖昧な雰囲気だ
もう、どれくらいぶりだろう。慎一がこんな目で私を見るのは。ほんの数時間前まで、彼は信じられないほど優しくて、私を見るその瞳には、比べようもないほどの深い愛情が宿っていた。なのに、今の彼は目を細めて、目の奥に苛立ちを浮かべている。「外で立ち聞きでもしてたのか?」私は深呼吸して、わざと気楽そうに笑ってみせた。「言っちゃったこと、今さら誰かに聞かれたくらいで、怖がる必要ある?それとも……私にだけは知られたくなかったの?」長い間、朝も夜も顔を合わせてきた彼のその顔を見つめながら、胸の奥が複雑な感情でいっぱいになる。愛してる?いや、そんな大層なもんじゃない。だって、何度も何度も彼に心をズタズタにされたんだもの。じゃあ、憎んでる?それも違う。私だって悪いとこあるの分かってるし、彼に全てを求めるつもりもない。たぶん、頭良いつもりで全部見抜いたつもりが、結局は彼に全部あしらわれて、惨めで、恥ずかしくて、プライドは地に落ちて……そのせいで、私はひどく傷ついて、こんなにも絶望してるんだ。私と彼の間だけ、時間が止まったみたいだった。ずいぶん長いこと、私は彼を見つめていた。そして、ようやく心の中でひとつの結論に辿り着いた。この男は、嘘をつくような人間じゃない。つまり、彼の言葉は全部本心だ。私への想いなんて、最初から無かった。ただ、「悪くない」だけ。私が問い詰めたとき、何か適当な言い訳でもしてくれたら――そんなことすら、なかった。もしかして、真思が彼に持ってきた水に毒でも盛ったんじゃ?と疑うほど、彼はまた昔みたいに冷たく、無表情になっていた。「慎一」私は呼ぶ。「私に、何か言いたいことないの?」「何を?」ようやく口を開いた彼の声は、感情のカケラもなかった。「お前は今、感情的すぎる。今何を言っても、全部歪んで聞こえるだろう。少し落ち着いてから話そう」「本当に、理性的だね」女は誰だって、慰められたいものだ。私だって例外じゃない。「証拠、まだ私の手元にあるの。雲香のためだって言うなら、少しくらい綺麗事でも言ってくれてもいいんじゃない?」私は自嘲気味に笑った。慎一の前でこんなふうに口が立つ自分なんて、初めてだ。私は自分を武装して、無関心を装って、彼から受けた屈辱を、全部そのまま返してやろうとしてた。この「お互い同意の上」の
緊張すればするほど、人はミスをするものだ。逃げたい気持ちばかりが先走って、スカートの裾を持ち上げるのも忘れて、私は思いっきり床に転んだ。まるでドレスに包まれたまま地面に叩きつけられたみたいに、情けなく。その物音を聞きつけて、真思が病室から飛び出してくる。「えっ、大丈夫?どうして転んじゃったの?」彼女は驚きの声をあげて駆け寄り、私の肩を支えた。「気をつけてよ。もしケガでもしたら、慎一が心配するよ?」私はうつむきながら、必死で涙を拭った。顔を上げた時には、無理やり笑顔を作り「ありがとう」とだけ返す。今の私は、きっと涙も隠せていなくて、見るからにボロボロだろう。それでも、子供のころから負けず嫌いな性格のせいで、どれだけ涙目でも、どれだけ悔しくても、私を辱める共犯の前でだけは、絶対に弱みを見せたくなかった。「気にしないで。私たち、もう顔見知りだし、友達みたいなものよね?」真思はにこやかに笑いながら、私を支えて慎一の病室へと向かう。一歩一歩、彼の元へ近づくたびに、心臓まで震えているのがわかる。慎一はまた、どんな酷い言葉を投げつけてくるのだろう。まるで処刑台に引きずられていく罪人みたいだ。深く息を吸い込んで、背筋を伸ばし、大股で歩く。さりげなく、真思の手を振りほどいた。可笑しいのは、慎一の顔だ。さっきまでの険しい表情が、私を見た途端に少し和らいだ。私は一体どれだけ惨めなんだろう。弄んでいた相手に、ほんの一瞬でも同情されるくらいに。「奥さん、今日は午前中に看護師が来る予定なんだけど、それまでの間だけ、私が慎一のお世話をするように頼まれてたの。もう奥さんが来たなら、私の出番は終わりね」そう言いながら、彼女は大きなあくびをして、まるでお嬢様らしくもなく伸びをする。「男の世話って、ほんと大変!」数分もしないうちに、広い病室には私と慎一だけが残された。慎一はベッドにもたれ、上半身は裸で、逞しい胸板が晒されている。傷口には包帯が巻かれていても、隠しきれない体つきだ。これじゃあ、さっき真思が言い寄りたくなるのも無理はない。こんな姿で女と二人きりの病室なんて、慎一にとっても「新鮮」な体験なのかしら。私は拳をぎゅっと握る。「新鮮だ」なんて言葉、今まで気にも留めなかった。けれど、今はその言葉が頭の中で何度もこだまして、腐っ
新鮮だって。そうよ。慎一は、何年も禁欲的で無欲な人間だったのに、やっとのことで燃え上がる炎になった。彼と一緒に過ごすひと時ひと時が、まるで魔法のような体験だった。彼が新鮮じゃないわけがないでしょう?でも、笑っちゃうよね。毎回、自分の感情が深みにハマらないよう、必死でコントロールしようとする私の前で、慎一はまるで冒険者のごとく、あれこれ仕掛けを用意してくる。「悪くない」「新鮮だ」と思う罠を、私を巻き込むために張り巡らせて。巻き込まれるならそれもいい。大人同士のゲームだと思えば、割り切って受け入れられる。けれど、最後に私が得たものは、ただの一言――「雲香のためだ」彼は、雲香のために、私を手のひらの上で弄んでいた。ただ、その過程で「悪くない」とか「新鮮だ」とか感じていただけ。結局、彼の方がよっぽど上手だったのだ。私は自分が仕掛け人だと思っていた。慎一との関係を利用して、雲香を怒らせ、罰したいだけだと。でも、慎一の仕掛けは、もっと上手だった。彼の紳士的な態度も、優しさも、私への告白も、すべてはその計画の一部だったのだ。まあ、フェアと言えばフェアなのかも。私だって、彼に本気だったわけじゃないから。なのに、どうしてこんなに、心の奥底まで痛みが広がるんだろう。まるで体中の毛細血管にまで、鋭い痛みが駆け巡るみたい。自分の中で、血肉が弾け飛ぶ音さえ聞こえてきそうだ。そのとき、真思のあどけない声が耳を打った。「本当なの?雲香は慎一が長年守ってきた妹でしょ?たった一人の『新鮮』な女のために、妹を海外に送っちゃうの?今日新鮮に感じた女も、明日には私が新鮮って思うかもしれないよ、バカ男!」慎一って、そんな親密な女友達いたっけ?私は、何年もあの人の後ろを必死で追ってきたのに……一度だってそんな名前、聞いたことなかった。今となっては、あの数珠が真思のバッグにあった理由なんてどうでもいい。大事なのは、彼が私をただ弄ぶだけでなく、他人と一緒に私のことを笑いものにしていた、という事実だ。子供の頃、私をいじめてた康平でさえ、ここまではしなかった。康平はあからさまに悪い奴だったけど、慎一は違う。彼は、飴のフリをしてガラス片を差し出すような人間だった。彼の優しさは、全部ウソだった。この数日間の甘い時間も、仮面を剥がせば、すべて私を傷つけるための
病院の廊下は陰気で静まり返り、薄暗い黄色の照明はまだ昼間の明るさに切り替わっていなかった。今この瞬間、私の影だけが、今にも消えてしまいそうなほど頼りなく、私の後ろをついてきていた。私はふらふらと足元もおぼつかないまま、病院の最上階にある特別病室へと駆け込んだ。徹夜で待ち続けた体は、激しく跳ねる心臓の鼓動とともに、ようやく少しずつ温もりを取り戻していく。冷え切っていた両足も、走るうちにじわじわと感覚が戻ってきた。病室の中から、男の咳き込む声が聞こえてくる。私はドアの前で立ち止まり、迷っていた。中に入ったら、慎一にお水でも差し出したほうがいいのだろうか?そんなことを考えているうちに、脚が自分の意思とは別物のように動かなくなった。痺れたような痛みが足元から這い上がり、私はその場に釘付けになってしまった。「ゴホッ、ゴホッ」慎一の咳はまだ続いている。私は仕方なく、床を引きずるほど長いスカートの裾を持ち上げた。こうして目で確かめていないと、自分の足がまだあるのかどうかさえ分からなくなりそうだった。ふかふかのカーペットの上に足を踏みしめる。まるで体の芯を刺すような痛みと、かすかに響く咳き込み、どちらが自分を苦しめているのか、もう分からなかった。その時、病室の中からかすかな足音が聞こえてきた。続けて、ポットから湯呑みにお湯を注ぐ音がする。優しい女の声が、どこか心配そうに響いた。「もう、ホントに……自分の体、大事にしてよ」私はスカートの裾をつかんだまま、思わず固まってしまった。信じられない気持ちで、少し離れた病室のドアを見つめる。まるで誰かに見られるのを避けるように、ドアは完全には閉じていなかった。足のしびれが徐々に和らぎ、その代わりに胸の奥に重くて息苦しい感覚が広がっていく。私はゆっくりと背筋を伸ばした。そのにいたのは、七瀬真思だ。慎一は水を飲んだ後、ほっとしたようにため息をついた。「雲香のためだ」真思は笑いながら答える。「でも、そのケガ、結構やばいよ?もうちょっとズレてたら腎臓だったんじゃない?どうするの、ほんとに」女の楽しげな笑い声は、私の耳にはひどく耳障りに響いた。柔らかいカーペットの上に立っているのに、昨晩の非常階段よりずっと冷たく感じた。二人の会話を遮りたいと思った。でも、どういうわけか声帯まで凍りついて
霍田夫人は私の目を避けて、どこか落ち着かない様子で話し始めた。「ただの友達の娘じゃない。そんなに大騒ぎすることかしら」彼女はそう答えると、深いため息をついた。「もうそのくだらない仕事なんてやめなさい。もし本当にこの家でうまくやっていきたいなら、会社は辞めるべきよ。私がもっと上流の奥さまたちを紹介してあげるから、同世代の友達も増やせるわ。あなたのせいで家の皆が振り回されて、お義父さんは何日も眠れなかったのよ。お医者さんにも病状が悪化してるって言われてるの。あなた、本当にあの人を死ぬほど怒らせたいわけ?今度は雲香と慎一にもこんなことが起きて……お義母さんだってあなたに優しくしてきたでしょう?あなた、まるで厄病神みたいに、うちに来ると、ろくなことがない……」家の奥さまたちは、家族の絆を深める接着剤みたいなものなのよ。なのに、あなたは一体どんな良いことをしてくれたの?」彼女はそう言いながら、悲しそうに涙を二粒だけこぼした。私は歯を食いしばった。ここで姑と喧嘩するつもりなんてなかった。でも、彼女がここまで面子も気にせず、全部私のせいにしようとするなら、さすがに我慢できない。「雲香が慎一を刺して、そのあと自分にも刃を向けたのよ。私には関係ない!」私の反論に、彼女の顔色が一気に変わった。ここには真思だけじゃなく、雇われのボディーガードたちも何人もいる。霍田夫人の声が急に高くなった。「なんであんた、止めなかったのよ!」「私だって刺されるのが怖くて、止められなかっただけよ。私は娘じゃないの?」「雲香はうつ病なのよ。気持ちが不安定なのは仕方ないじゃない。少しは譲ってあげられないの?」「病気なら病院に行けばいいじゃない!彼女が暴れるのは私のせいじゃない!」「この子!」霍田夫人は私を指差し、手まで震えていた。……うつ病、ね。私、彼女と何年も一緒に暮らしてきたけど、そんな話一度も聞いたことない。なのに、事件を起こした途端にうつ病?しかも、都合よく海外に行くタイミングで?まったく、逃げ道は最初から用意されてたってわけね!「喧嘩はやめてください!ここは病院ですよ!」看護師が慌てて駆け寄ってきたけど、黒服のボディーガードたちの姿を見て、声がどんどん小さくなり、帰るときには膝まで震えていた。真思が驚いたように言った。「皆