康成は妻を溺愛しているというのは、白核市では誰もが知る話だ。だが、子供を失って、二人はついに別居することになった。そんなことになって、康成が康平を許すはずもない。家庭を壊され、キャリアも傷つけられて、たとえ血の繋がった弟でも、康平が無事でいられるはずがない。ましてや、そこには大江家が絡んでいるのだから。康平のことを思い出すと、心の奥に棘が刺さったような痛みが広がる。消えそうな罪悪感が、胸を締め付けて離れない。大江夫人は目をくるくると動かして、もし来たのが佳奈の元夫だったら、きっと大喜びで玄関を開けて、慎一を家に招き入れ、何かと便宜を図っただろう。だが、来たのが佳奈だと知るや否や、大江夫人は口をとがらせて言い放つ。「聞こえなかった?さっさと出ていきなさい。あんたなんかがうちと取引できる立場じゃない」私は微笑んだ。「奥さんは、康平が兄を陥れたってことだけをご存じなんでしょう?でも、どうしてそうせざるを得なかったのか、聞いたことはあります?」奥さんは首を振る。「康成が言ってた、全部あなたのせいだって。だから、あなたの顔は見たくない。あなたを見るたびに、あの子を思い出してしまうから」大江夫人の目は、私に対して軽蔑の色を帯びていた。私はそれを無視して、奥さんに向き直る。「もし、私が康成に殺されかけていたとしたら?」大江夫人は鼻で笑った。「このご時世、人の命なんて安いもんね。死にたがる人までいるんだから」奥さんも言う。「佳奈、あなたと康平がどうして康成を目の敵にするのかわからないけど、あの人が人を傷つけるなんて絶対にないわ」例え今は別居していても、彼女はやはり鈴木家の奥様だ。その口調には、これまでにないほどの強い意志が感じられた。鈴木家を貶める言葉は決して許さない、という気迫だった。私は黙って、そっと襟元を引き下げる。そこには白く浮き出た傷跡、言葉よりも雄弁な証拠だ。本当は首の傷は、もうほとんど見えなくなっていた。だが今朝、家を出る前にアイブロウペンシルで影をつけて、わざと目立たせてきたのだ。うつむきながら、襟を整えて、これから全てのいきさつを話そうとした、その時だった。背後から轟くエンジン音。スポーツカーの咆哮が近づいてくる。康成が勢いよく駆け込んできて、私は腕を強く引かれ、思わずよろめいた。「お前、うちの妻
いいじゃない。黒川が気に入る女の子なんて、きっと家柄も悪くないはずだし。本当に康平とうまくやっていけるなら、それはそれで喜ばしいことだろう。「それは本当に素敵ですね。もう長いこと康平に会ってないので……おじさん、代わりにお祝いを伝えてください」そう言いながら、私はグラスを持ち上げた。これが今夜、私の最初の一杯だった。慎一は、康平が海外に行くつもりだと聞いて、ふっと興味を示した。この「兄貴」もまた、「弟」のことが気になるのだろう。私はもう、その話を聞く気も起きず、ちびちびと酒を口にした。気づけば、数杯はもう空けていた。このお酒、思ったより美味しい。もっと飲みたいと思ったその時、慎一が私のグラスを押さえた。二人が何を話しているのか、私はよく聞き取れなかった。気づけば彼に横抱きにされていて、私は彼の肩越しに黒川に手を振り、明日また会いに行くと伝えた。慎一は私を車に押し込んだ。その動きはどこか乱暴だった。酔ってはいなかったけれど、頭の中の感覚がやけに鋭敏になっている気がした。長い髪をぐしゃぐしゃに顔にかけて、彼にもたれかかり、酔ったふりをする。彼は私が酔いすぎたと思ったのか、静かな声で「明日はどこにも行くな」と囁いた。闇の中で目を開けていると、彼のその言葉が聞こえてきた。私は返事をしなかった。慎一は俯き、私の髪をそっとかき分けて、私が「ぐっすり眠っている」のを見つけた。彼の指先が、時折私の頭を優しく撫でていた。家について、寝室のベッドに私を横たえるまで、ずっとそのままだった。その後、彼は酔い覚ましのお茶を作って飲ませてくれ、顔を拭いて、パジャマに着替えさせてくれた……昨晩のように、また私の隣で眠るのかと思ったけれど、彼はそうしなかった。「よく寝ろ」彼は静かにベッドのそばに立ち、そう言った。一瞬だけ、私の演技が上手すぎたのかと思ったけれど、今やっと分かった。彼は私の芝居を見破っていながら、あえてそれを指摘しなかったのだ。でも、私たちの間にそんなものはもう要らないのに。目を開けて彼を見ようとした時には、彼はもう背を向けて去っていた。彼がいなくなった瞬間、それまで張り詰めていた神経がふっと緩んで、私はようやく眠りについた。翌朝、私は真思からの電話で目を覚ました。「出発前に、もう一度会いたい
「夜之介と会ったんだろ?ならもう分かってるはずだ、康平の件はそんな簡単じゃない。お前が俺と一緒に彼のお父さんの前でラブラブ夫婦ごっこしても、解決できる問題じゃないんだぞ!」慎一の言葉はよく分かってる。でも、私がこうしなかったら、康平のために一体何ができるっていうの?私は無邪気な顔でパチパチと瞬きをして、じっと彼を見つめた。怒りで顔をしかめる慎一の様子が、なんだか可笑しくて、私は洗面台からピョンと飛び降りて、彼の目の前まで歩いていき、背伸びしてそっと顎にキスをした。「これで、足りる?」しばらく彼は固まったまま動かなかった。もう一度背伸びしようとしたら、彼はひょいと身をかわして逃げてしまう。私は肩をすくめてみせる。「もう、助ける気はないってことね」彼の返事を待たず、横をすり抜けて出ていこうとした、その瞬間、彼に手首をガシッと掴まれた。慎一は目を細めて、どこかイライラした気配を漂わせている。「どこ行く気だ!」「康平のお父さんのところ。だって、あなたに頼んでもダメなら、自分でなんとかするしかないでしょ?」「ふん」慎一は鼻で笑う。「お前に一体何ができるっていうんだ」子どもを失う痛みがどれだけ深いか、私は知ってる。私も、失ったから。「賠償が欲しいなら、それ相応に払えばいい。この件は康平ひとりに背負わせるものじゃない」私は、慎一が私の手首を掴む指を一本ずつ外しながら、静かに言う。「私にも責任があるよ。だって、康平は私のために……」言い終わらないうちに、顎を彼にぎゅっと掴まれて、もう声も出せなくなった。痛みがじわじわと広がっていく……慎一の目は赤くなり、声は冷たいのに、なぜかその瞳はとても優しかった。「康成は自業自得だ。お前を傷つけたのは彼だ。康平はせめてもの正義を果たしたんだ。まあ、そんな奴の子どもが生きてたって、ろくなもんにならなかった」私は思わず慎一を見つめる。まさか彼がそんなことを言うなんて。どんな理由があっても、子どもは無実なのに。足元が冷たくなり、全身が震える。ふと気づく。もし康平が兄のことを許していたら、慎一は鈴木家にもっと酷いことをしてたんじゃないか?きっと、私と慎一が離婚してようがしてまいが、康成が私を傷つけた時点で、それは彼のプライドを傷つけたってことなんだろう……ふと、トイレの外で女性
ほんの数歩歩いただけなのに、戻ってきたときにはもう額に冷や汗がにじんでいた。背水の陣で慎一を巻き込んだつもりだったけれど、それだけじゃ終わらないらしい。これからどうやって慎一に切り出せばいいのだろう。彼に、ただで自分の人脈を差し出してもらうなんて。商売人が損する取引なんて、するわけがないのに。ぼんやりしたまま席に戻ると、慎一の視線を感じた。私は彼に微笑みかけ、黒川の前ではあえて仲睦まじい夫婦を演じてみせる。「ねえ、あなた、汗かいちゃった。拭いてくれる?」そう言って彼の隣に腰を下ろし、自然と身を寄せた。息遣いが聞こえるほど近く、彼の鼻先の毛穴まで見えそう。慎一は急に呼吸を荒くして、私の頬をつまんでぐいっと引き離した。懐からハンカチを取り出して私の額に当てながら、「おじさんもいるんだぞ、少しは控えろ」と小言を言う。でも、その声にはどこか甘やかすような響きが隠れていた。黒川が豪快に笑い出す。「この前ネットでニュース見たときは、お前と佳奈がどうなることかと思ったぞ……」彼はそこで言葉を飲み込み、言い直す。「佳奈は安井さんの大事な一人娘、あの人に託されてるんだ。慎一、彼女がもう頼る人がいないから、いじめたりしたら許さないぞ。外にどんなに綺麗で気の利く女がいても、やっぱり本妻が一番だ。それに佳奈は小さい頃からずっとお前一筋だったんだからな」黒川の言葉は耳触りがよかったが、私は特に気に留めなかった。人の本心ってものを、私はもう知っている。だから、嘘が混じっているのもすぐに分かる。ただ、父の話題が出たことで、少しだけ胸が痛んだ。私も上手に言葉を返す。まるで夫を立てる良妻のように、慎一の顔を立ててみせる。「おじさん、心配しないで。彼は私にとてもよくしてくれてます。ちょっとした喧嘩くらい、すぐに仲直りしますから」片手で頬杖をつき、ハンカチを頭に乗せたまま慎一を振り返る。無邪気に微笑んでみせた。「ね、あなた、そうでしょ?」慎一は無言で私の額からハンカチを引き剥がし、ポケットにしまい込むと、私の体を引き寄せて座り直させた。そして黙々と私の皿に料理を取り分けてくれる。「食べ終わったら、帰るぞ」私はエビが大好きで、慎一は気を利かせてエビをたくさん取ってくれた。でも、透明に輝くエビを見ていたら、彼との幸せな思い出がすべて
私はわざとらしく驚いたふりをして、慎一の背後から姿を現した。両手を広げて、黒川に笑顔で声をかける。私が姿を現した瞬間、黒川の体はピクリと固まった。そんな様子を見ても知らぬふり。まるで子供の頃のように、軽く彼を抱きしめ、そしてちゃんと距離をわきまえて慎一の後ろに戻る。動作は自然で、視線もごく澄んでいる。あたかも私と康平は、ただ幼い頃を共に過ごしただけの、純粋な幼馴染のように。男女の友情としてこれ以上ないほど潔白で、他意なんて微塵もないかのように。慎一の腕にそっと手を添えて、顔を上げて彼を見つめると、彼の唇のほほえみはうっすら消え、冷たい瞳がすっと伏せられた。その目はまるで毒蛇のように、静かに、冷ややかに、すべての感情を隠している。私は顔を上げて、にこっと笑いかけた。「ねえ、子供の頃、おじさんには本当に良くしてもらったんだよ。せっかくだから食事でも奢ろうよ?」慎一は冷ややかに私を見返す。もう、不満を隠そうともしない。その視線はまるで刃物のように私の心に突き刺さる。その空気を察したのか、夜之介が間に入ってくれた。「ちょうど鈴木社長との用事も終わったし、僕はこれで。あとはごゆっくり」私は慎一の腕をぎゅっと握って、「あなた、おじさんのことお願いね。私、渡辺先生を見送ってくるから」黒川は秘書も連れてきていなかったし、この申し出はごく自然だった。私が手のひらでそっと慎一の手をくすぐったせいか、それとも「あなた」と呼ばれるのが嬉しかったのか、慎一のこわばった表情がほんの少し和らいだ。彼は私の手をやさしくぽんと叩き、「早く戻ってこい。玄関まででいい」と口調だけは優しい。ただ、その視線は私ではなく夜之介に向けられている。彼は私が遠くへ行くのも、夜之介と二人きりになるのも、どちらも望んでいない。私は手のひらにじっとり汗を握りしめ、風が体を撫でるたびに小さく震えてしまう。「大丈夫?」夜之介が小さな声で尋ねる。私は首を横に振り、黒川と今日何を話したのか、それだけが気になって仕方ない。夜之介は私の気持ちを察して、私が口を開く前にそっと教えてくれた。「思ったより厄介なんだ。康成の奥さん、妊娠してたのは知ってる?」「うん、なんとなく……噂で」「康成の会社の事件があった時、彼は奥さんと家にいた。秘書が事情を伝
鈴木黒川は、康平の父親だ。今、彼の二人の息子は、まさに私のことを巡って大喧嘩の真っ最中。この父親にとっては、どちらも自分の大切な子で、どちらも切り捨てられない。黒川は、夜之介と康平が仲がいいことを知っていて、夜之介に相談してみることにした。どうにかして、康平に傷つけずに済む、表向きだけの厳しい罰――つまり、見せかけだけで実際は大したことのない落としどころがないかと。もちろん、彼だって康平に少しは懲らしめたいと思ってる。でも、本気で罰を与えるのは、やっぱり父親として心が痛むのだろう。私が夜之介から連絡をもらった時、すぐに思った。絶対に慎一を連れて黒川の前に現れなきゃって。黒川が怒っている原因のほとんどは、私のせいだ。もし私が慎一ともう仲直りしたって伝えれば、慎一が直接出てくるのと同じくらいの効果があるはず。そんな計算を心の中で巡らせて、家を出る時まで、私は慎一に満面の笑みで接していた。彼に怪しまれないように、早く住所がバレないように、車の運転も自分でした。私は康平に沢山の借りがある。だから、ほんの少しでも希望があるなら、どんなことでも努力してみせる。「靖浜?」車を降りて、慎一は一目で場所を見抜いた。「鈴木家の店だな」私はずっと慎一の顔色をうかがっていた。その一言を聞いた瞬間、彼の顔から笑みが消える。「そう」私は車のドアを閉めながら、わざと何でもないふうを装った。「穎子が薦めてくれたの。私、本当に知らなかった。もし嫌なら、別の店にしようか?」慎一は、外ではいつも完璧に振る舞う。既に店員がドアを開けてくれていたから、彼もそれ以上は何も言えなかった。私たちの席は店のど真ん中で、一番目立つ位置。夜之介と黒川は、店の隅っこの小さなテーブルにいた。彼らはこっそり話す必要があるけれど、私はむしろ目立ちたかった。私はちょっと「申し訳なさそう」に、慎一の好きな料理をいくつか頼んであげた。ようやく彼の機嫌も少し和らぐ。料理が来るまでの間、私はじっとしていられず、店の片隅にあるピアノの前に移動した。指はあまり器用じゃないけど、適当にいくつかの鍵を押してみる。靖浜は高級なビジネスレストランで、こんな下手なピアノを弾く人間なんて滅多にいない。こうなれば、注目を集めずにはいられない。他の人にとっては耳障りな音。でも、