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第323話

Author: 三佐咲美
博之の瞳は、まるで深い湖底のような色をしていた。

佳奈に会いたい――そう思ったのは、今日や昨日の話じゃない。一年や二年どころじゃなく、もうずっと胸の奥にくすぶっていた想いだ。

だけど、どうやら佳奈の記憶の中から、自分はすっかり消え去ってしまったらしい。

あの頃、佳奈は大学四年生だった。困っていたお婆さんのために弁護を引き受けたことがあった。そのお婆さんは、とてもよくしてくれた。食べるものにも困っていた博之に、そっとご飯を分けてくれたりして。だけど、お婆さんは病気になり、お金がなくて怪しい薬を買ってしまい、それを飲んだせいで容態がさらに悪化してしまった。

佳奈は、お婆さんの家計の事情を知って、一銭も受け取らなかった。そのせいで、恨みを買い、嫌がらせまで受ける羽目になった。

恩返しのつもりで、博之は何人か仲間を集めて、毎日こっそり佳奈の護衛をした。けれど、なぜかいつもある警察官がぴったりと付き添っていて、博之は結局、佳奈とまともに話す機会を逃してしまった。

思い返せば、あの時の警察官の警戒心の強さといったら、自分まで悪者扱いされたに違いない。

苦笑混じりに、博之は思う。世間なんて狭いものだ。

ぐるりと巡り巡って、こんな形で佳奈と再会することになるなんて。

博之は穎子を車に乗せ、シートベルトをしっかり締めてから、ふと口を開いた。「霍田社長の名前なんて、知らない人の方が珍しいでしょ?安井先生もついでに有名人だな。ま、もし機会があれば、霍田社長にうまく口添えしてくれると助かる。俺が稼げば稼ぐほど、穎子も幸せにできるんだし」

博之はそう軽口を叩くが、本心かどうかは、私にはよくわからなかった。ただ、彼が穎子を気遣う手つきは、どこか優しかった。根は悪い人間じゃないのかもしれない。

ふと、穎子が酔う前に私に言った最後の言葉を思い出す。

「自分が何をしているのか、わかってる。私のことで、佳奈が我慢するのは嫌。いつか、私も佳奈のために何かできる人になりたい……」

きっと、彼女なりの想いなのだろう。今の博之は、穎子にとって一番ふさわしい人なのかもしれない。だからこそ、博之が少しふざけた口調で私に話しかけても、私は怒ることができなかった。

この瞬間、私はまた一つ、真思への憎しみを強くした。もしあの女が余計なことをしなければ、穎子は今ごろ、バリバリ働くカッコいい弁護
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