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第363話

Author: 三佐咲美
最初は、はっきりとは見えなかった。けれど、ステージの上のあの人が慎一だと、私はほとんど確信していた。大きなスクリーンに彼の横顔が映し出された瞬間、驚いたのは私だけじゃなかった。

音楽祭の出演順はすでに公表されていたし、そもそも、あのステージの上の人は有名人なんかじゃない。

「顔を隠してるのは、大抵イケメンじゃないって相場が決まってる。せいぜい雰囲気的イケメンってとこだろうな」と、周囲で誰かが囁いているのが聞こえた。

その時、スクリーンの中の彼が、突然観客席に顔を向けた。まるで私の居場所を最初から知っていたかのように、仮面越しの視線がまっすぐ私を捉えた。

私は思わず一歩後ずさり、本能的にその場を離れたくなった。

突然、彼の指がピアノの鍵盤を強く叩き、優雅だった旋律が瞬時に全く違う雰囲気に変わった。

彼は唇をマイクに近づけ、優しく歌い始めた。

「君は本当に唯一の意味を知ってるか?ただ一緒にいるだけじゃなくて、本当にわかってほしい。目を閉じて、心で見て、本当に君を愛してる。他の誰にも真似できない……」

その澄んだ低い声は、ざわついていた会場を一瞬で静寂に包み込んだ。

全員がその歌声に引き込まれ、誰もが解けない哀しみの中へ連れて行かれた。

私の乱れた気持ちも、強制的に止められたようだった。彼の一言一言が、まるで私のために歌われているようで。

やがて、曲が終わり、彼がピアノの椅子から立ち上がると、ようやく観客たちは我に返り、歓声を上げた。

けれど彼は、拍手にも花束にも振り向かず、立ち止まることはなかった。

「誰なんだ!」と誰かが叫んだ。

彼は口元に微笑を浮かべて答えた。「今日は、たった一人のためだけに来た。彼女が俺を知っていれば、それで十分だ!」

会場がどよめいた。

いつも冷静なあの男が、ステージから飛び降りて走り出した。

観客たちは本能的に道を開け、私は根が生えたようにその場から動けなかった。彼がどんどん近づいてくるのに、一歩も動けなかった。

ついに、彼が私の目の前に立った。無邪気に笑い、胸を上下させて息を弾ませながら、「聞いてた?」と問いかけてきた。

私はぎこちなくうなずいた。

ほんの数秒の間、自分の全細胞に「動け」と言い聞かせていた。それでも、彼が私の頬を包み、そっと唇を重ねてきた瞬間、ようやく心の中の震えが現実になった。

けれ
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Comments (1)
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シマエナガlove
はあ~慎一ウザイ 縁を浅くしたのは お前と雲香が原因だよ
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