病院に着いたとき、医者は慎一を怒鳴る暇すらなく、すぐに私に安胎注射を打とうとした。私は医者の手をそっと押さえ、ただ慎一を見つめて、自分の決意を伝えた。「何をためらっているんですか?あれほど感情を激しくしないようにと言ったのに……もう子どもはいらないんですか?いらないなら、今までの注射は何のためだったんです!あなた、父親ですよね?奥さんの体がこんなに弱いのに妊娠させて、妊娠しても放ったらかし。毎回一人で来て、静かに注射を打って帰ります。医者として色んな患者を見てきたけど、こんなに切ない気持ちになるのは珍しいです。あなたが来なかったときは、あの人一人でちゃんと赤ちゃんを守っていたんです。でも、あなたが来た途端に、流産の兆候ですよ!」医者は怒鳴りながら頭を振った。「とにかく、あと5分だけ時間をあげます。しっかり話してください。それ以上は俺が注射を打ちます」慎一は私のカルテを手に、顔を暗くしていた。私が妊娠したと知った瞬間から、前回の悲劇を繰り返さないために、私は迷わず安胎の道を選んだ。サプリメント、タンパク質、Hcg、黄体ホルモン、免疫抑制剤、アスピリン、ステロイド……医者に薦められるものは何でも受け入れてきた。最初は一日一回の注射、それから二日に三回、ついには一日二回……私は常に不安と隣り合わせだった。前回の悲劇が怖くてたまらない。でも、それでも新しい命が生まれることを心から願っていた。心はずっと揺れていた。病室には慎一が紙をめくる音だけが響く。「どうして……どうしてこうなってしまうんだ?」「お前の体が弱いんじゃない、この病院が悪いんだ!すぐに高橋に連絡して専門医を呼ぶ。俺の子どもがこんなに親を悩ませるはずがない!」慎一は部屋の中で足を踏み鳴らす。「普段は誰がお前の面倒を見てるんだ?あの田中って人が変なもの食べさせたんじゃないのか?どうしてお前の体がこんなにボロボロなんだ!」……慎一は、料理を作ってくれている田中さんを疑っても、自分の母親を疑うことはなかった。「慎一……」私は力なく布団をめくり、彼を呼んだ。すると彼はすぐに私の横にしゃがみ込んで、手を握りしめた。「布団が重かった?俺がやるから、動かないで。こんな病院、設備も悪いから、少し良くなったらすぐに転院しよう」私は微笑んで、首を振った。「も
慎一がメッセージのやり取りをしている隙に、私はこっそりと車の中控パネルでドアロックを解除していた。彼が雲香に一通り報告を終えたころには、私はもう車のドアを押し開けて外に出ていた。冷たい夜風が一気に私の全身を包み込み、服の隙間から吹き込んできて、身震いするほど冷たかった。心の中で毒づく。せっかくのパーティーは台無しだし、慎一に関わると、必ず雲香がセットでついてくる。どう転んでも巻き込まれる。もう最悪!雲香のことを考えた瞬間、空気まで変な匂いがした気がして、思わずえづいてしまった。慌てて道端の大きな木に手をついて、鼻水も涙も一緒に流れてくる。慎一が後ろから追いかけてきて、見たのはまさに「五感すべてから水が流れる」私の情けない姿だった。彼がちょっと触れただけで、私の吐き気はさらに悪化した。彼の体から漂う匂いがまた一段ときつくて、余計に気分が悪くなる。慎一は持っていたハンカチを差し出しながら、なぜか笑って言った。「そんなに反応するくせに、俺のこと好きじゃないって言える?」内心で大きなため息をつく。妊娠中の悪阻だって、知らないの?慎一はさらに呑気な声で、「外にいると冷えるよ、家に帰ろう」と言った。元々体調も悪いのに、その一言でまた頭に血が上る。どこにそんな力があるのか、自分でも分からないけど、手に持っていたバッグで慎一の肩を思い切りぶつけた。「どこの家に帰るっていうの!」雲香に乗っ取られたあの海苑の別荘?それとも、私と慎一が数日だけ新婚気分を味わった新居?それとも、私が何日も待ち続けたあの古い屋敷?どうして彼は「家」なんて言葉を平然と私に向けられるんだろう。怒りが爆発して、バッグを何度も強く慎一にぶつけた。慎一の笑顔が消え、冷たい表情になる。でも避けることもせず、ただ静かに私を見ている。人って、こうやって静かに壊れていくんだなって思った。「もう気が済んだ?」「全然!」大声で叫んで、ついにはバッグごと慎一の顔に投げつけた。バッグが地面に落ちて、弾んで、道端に転がった。中から眩しいほどの写真が何枚も飛び出して、まるで羽が生えたように慎一の周りを舞った。本当は離婚の時に見せるつもりだった写真なのに、まさかこんな形でバラまかれるなんて。慎一は黙って一枚を拾い上げ、また一枚。私は、彼がショックを
慎一の動きが一瞬止まったが、私に構うことなく、再び唇を重ねてきた。彼の体から漂うホルモンの匂いと、微かに混じる彼自身の香り――どこか不思議な気配に包まれる。いつも感じていたお茶の香りは消え、代わりに血と消毒液の匂いが、淡く漂っていた。ただの一瞬だった。私の心も理性も、彼のほとんど狂おしいほどの求めに、すぐさま沈み込んでしまった。このキスは決して優しいものではない。むしろ、まるで千年もの間、待ち続けた救いのような、激しさと切なさに満ちていた。駆け引きも探り合いも、すべて消え失せ、私がもう拒む気配を見せないと悟ると、彼の動きも次第に穏やかになり、唇が何度もそっと私の唇に触れる。それはまるで、勝者が証を刻むかのような仕草だった。やがて、彼は私に身を預け、顔を私の首筋に埋めてきた。私はまるで抱き枕のように、彼の腕の中に強く抱きしめられる。押し返そうとした私の手は、空中で止まった。首筋を、何か温かいものが流れていくのを感じたのだ。慎一の涙だった……涙は首を伝い、襟元に染み込んでくる。その熱さが、胸の奥まで痛くさせた。慎一は泣いていた。かつて、彼が涙を見せることは、稀にあった。人は誰だって、心が動く瞬間があるものだ。慎一も例外じゃない。けれど彼は、そんな心のやわらかさを、誰にも知られたくない人だった。いつも、隠してきたのだ。だけど今、彼は隠すことなく、泣いている。嗚咽混じりに、彼が言う。「俺の未来は、真っ暗だ。もう何も見えない……」何を言っているのだろう。慎一はこの白核市でもっとも若くして成功した社長だ。離婚したところで、価値の高い独身男性になるだけだ。未来が暗いなんて、そんなはずがない。私は手を力なく下ろし、体を少し持ち上げて、黙ってそのままにしていた。そのとき、慎一のスマホがまた鳴った。彼はようやく気まずいと思うかのように、目も合わせず、背を向けてスマホを取り出した。けれど、私は見てしまった。画面に表示された名前――雲香。彼は電話を切り、ラインで雲香の名前を検索し、メッセージを送る。【雲香、今ちょっと手が離せない】雲香からの返信は早かった。【お兄ちゃん、早く帰ってきて!もうこんな時間なのに、なんで外にいるの?】【大丈夫だ】その一言だけ返し、慎一はスマホをポケットにしまった。その頃、郊
慎一は静かに目を上げ、私の視線を追うように窓の外を見やった。この場所は、私たちにとって見覚えのある場所だった。ここに来るのは、これで三度目だった。彼の肩が小さく震え、まるでトラウマに襲われたように、逃げるようにハンドルに手をかけ、エンジンをかけようとする。私は慌てて彼の手を押さえた。また無謀な運転をされるのが怖かった。お腹の中の子と一緒に、このまま終わってしまうのは嫌だったから。私は彼を見上げ、もう片方の手でお腹を守るように押さえ、首を横に振った。その仕草に、慎一の荒ぶる気持ちが、少しずつ静まっていく。ぎこちなく引きつった顔で、彼は私の目を手で隠してきた。「佳奈……俺、俺のこんな姿、怖いって思うか?」なぜそんなことを聞くのか分からない。でも彼は、必死に言い訳を続ける。「ごめん。でも、お前が俺のもとからいなくなるって思うと、どうしても抑えきれない。でも、抑えてるんだよ……ちゃんと……」不意を突かれ、視界は彼の手で真っ暗になった。思い出されるのは、さっきの、笑おうとしても引きつってしまった、あの顔。「大丈夫」私はもう彼を刺激したくなくて、じっとそのままにしていた。暗闇の中、むしろ自分の心がよく見える気がした。「なんで大丈夫なんだよ?なんで俺のこと、どうでもいいのか?」彼は低く、不満げに唸る。「こんなふうになったのは、運命だからって思ってるんじゃないだろうな?」「わ、私……」何を言えばいいのかわからなくなってしまった。まさか、「あなたが怒ってるのは私のせい」なんて、口が裂けても言えない……彼の声は冷たく、きっぱりと否定する。「運命なんて、俺は一度も信じたことない。もし運命ってものがあるなら、きっと俺を苦しめるためのものだ」長く沈黙が流れた。密やかな車内に、私たちの呼吸だけが響く。やがて、慎一がぽつりと呟いた。「お前が決めたことだろ。運命のせいにするなよ」その腕が震えている。なのに、どこか拗ねた子どもみたいな声音だった。まさか、彼が拗ねるなんて?私は思わず苦笑する。「慎一、私たちもう五年も一緒にいる。でもあなたがくれたのは、ほんのわずかな金だけ。ほかには?」「お前が欲しいもの、全部あげる!」彼は食い気味に答える。でも、その言葉には何の重みも感じなかった。「あなたの体も心も、私のものじ
慎一は、私に突然押しのけられて、全く予想していなかった様子だった。私の反応があまりにも激しかったのか、彼は慌てて起き上がった拍子に、頭をバックミラーにぶつけてしまった。ミラーは大きく歪んで、今にも外れそうだった。ガンという音が車内に響き渡り、私の取り乱した声さえもかき消してしまう。その後、車内には静寂が訪れた。慎一は痛みを感じていないのか、まったく声を漏らさない。それどころか、あの瞬間、彼の顔にはどこか解放されたような表情すら浮かんだ気がして、私は訳もなく不安になった。彼はゆっくりと目を閉じ、黙ったまま自分の感情を飲み込んでいる。どれほど時間が経っただろうか。彼のまつげが震えて、一筋の涙が閉じた瞳の端から流れ落ちた。小さな声で、彼は問いかけてきた。「なあ、佳奈。どうしてこんなことになったんだ?俺たち、一体どうしてしまったんだよ……」彼の手は私の手を強く握りしめていた。よく見れば、その手は小さく震えている。彼の言葉を聞いた瞬間、私は心の底から苛立ちを覚えた。よくもそんなこと、いけしゃあしゃあと聞けるわね。でも、その涙を見たとき、怒りのほとんどが消えてしまい、ただただ無力感に押し潰されそうだった。私は深く息を吸い、できるだけ冷静に見えるように努めて言った。「私も知りたいよ。あなた、本気で私があなたを傷つけたって思ってるの?二人がこんな風になったのは、全部私のせいだと思ってるの?」離婚調停の案件を数多く担当してきた。別れ際の夫婦は必ずと言っていいほど、どちらが悪いか言い争う。でも、結局その意味なんてほとんどない。正しいとか間違っているとかで、財産分与が変わるわけでもない。でも、それでも、どちらが悪いかという言葉は、ときに財産よりも重い。どれだけ他人のケースを見てきても、私自身はやっぱり平凡な女だった。「確かに、私から離婚したいって言った。でも、私たち、こんなに長く一緒にいて、いろんなことを乗り越えてきたんだよ?私はただ、穏やかに別れたかっただけ。あなたみたいに意地悪く、突然いなくなるなんて思ってなかった。私が妊娠していると分かったとき、どれだけ怖くて不安だったか、あなたには分かる?」「分かってる……分かってるよ……」「分かってる?何も分かってないくせに!」私は声を荒げて叫んだ。喉が裂けるほどだった。口
離婚しなくても、私たちはもうやっていけない。そんな思いが、胸の奥で何度もこだましていた。慎一の愛は、まるでガラス温室の中のバラみたいだった。見た目は艶やかで、命に溢れていて、誰もが憧れるものだった。でも、私はその温室の鍵を持っていない。彼の愛はいつも言葉だけ。私はバラの香りさえ知らない。だけど、バラには棘があることくらい、誰よりも知っている。触れたら最後、全身傷だらけになるって。たとえ私が、心のすべてを削って慎一の形に変えたとしても、結局ふたりは溶け合えない。それが痛いほど、分かってしまう。私が歩み寄ろうとすると、彼は突然、私の世界から消え去ってしまう。感情の波に一人きりで耐えて、誰にも言えず、やっとのことで立ち直った頃に、今さら離婚をやめるなんて、どういうつもり?私は乾いた笑いを浮かべた。「だいたいさ、元カノが良かったって思う男って、今の女がイマイチだからでしょ?」慎一が頭のいい人間だってことは分かってる。私だって、雲香と朔也に何かあったのは気付いてた。慎一が気付かないはずがない。それとも、全部分かってて知らないフリをしてる?曖昧な関係のままで雲香と一緒にいるのが、そんなに幸せ?ああ、本当に、彼は彼女のことが好きなんだな。「佳奈、俺には他に誰もいない。頼むから、赤ちゃんの前でそんなこと言わないでくれよ。もしこの子がお腹の中の記憶を持って生まれたら、きっとパパのこと嫌いになるぞ?」慎一は小さく反論しながら、私のお腹をじっと見つめていた。私は思わずお腹を手で隠した。「今はまだ胎芽だよ?記憶なんてあるはずないし、そもそもこの子は私の子。あなたには関係ない」慎一はそっと体を寄せてきて、私の拒絶の言葉なんて聞こえないふりをして、自分の世界で喋り続ける。「俺たちの子は絶対俺に似てるはずだ。きっと頭が良くて、物心つく前から記憶もあるはず。俺も胎児の時のこと覚えてるから、うちの子だってそうだよ」「よく言うわね、そんなホラ話」私は冷たく突き放した。もし私が理想の結婚をしていたら、妊娠中、夫はどんなふうに私と話してくれたんだろう。たぶん、私は彼の腕の中で甘えてただろう。「疲れたよ」「気持ち悪い」「お腹の子がね、あれ食べたいって言ってるの」そんなふうに、わがままを言って、最愛の人に守られて……妊娠中は、思う