雨上がりの匂いが、湿った風に混じって漂っていた。
けれど、その裏手にある古びた離れが、私――**藤咲美玲(ふじさき みれい)**の暮らす場所だった。
私は今年、二十四歳になった。
本邸とは廊下で繋がってはいるが、私はふだんそこに立ち入ることは許されていない。
本邸のリビングでは、シャンデリアの下で父をはじめ、継母である綾乃さんと、二歳年下の義妹、紗江が笑い合い、季節ごとに買い替えられる花々が飾られているはずだ。
私は、冷たい床に古びたベッドを置かれただけの六畳の部屋で、余りものの食事を与えられるだけの生活を送っている。
母が亡くなったのは、私がまだ十八歳の時。
「食べさせてもらえるだけありがたいと思いなさい」
「これで十分よ。あなたには似合うわ」
その言葉の刃が突き刺さるたびに、私はただ唇を噛んで俯くしかなかった。
本邸とは廊下で繋がってはいるが、私はふだんそこに立ち入ることは許されていない。
――そんなある日
その日も、本邸のリビングの花瓶に水を補充するよう命じられていた。
けれどその日は、ふとした拍子に、リビングの扉の隙間から綾乃さんと紗江の声が聞こえてきた。
「紗江にお見合いの話があるの」
「ええ? 見合い? 私はまだ結婚なんてしたくないわ。で? 相手はだれ?」
「一条グループの当主よ。……怜司さん」
その名前を聞いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
「はあっ? 一条怜司!? あの冷酷な二代目でしょ?」
「私だって、本音を言えば乗り気ではないわ」
確かにそうだろ。父が経営する「藤咲ホールディングス」は、古くから続く老舗の建設会社だ。
そうでなければ、大切な娘をさしだすようなことはしないはずだ。
しばらくの間、紗江も言葉を失っているようだった。
「たとえ中身がどうであれ、あの家の嫁という立場は、私たちにとって大きな“後ろ盾”になる。お父様は、それを選んだのよ」
「でも、それを私に押しつけるの!?」
その言葉が放たれた瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われた。
「……そうね。あの子なら、ちょうどいいかもしれないわ」
「どうせ誰にも必要とされてないんだし、誰も相手にしない“お姉様”には、お似合いよ」
くすくすと笑い合う声が、重たい空気の中に響いた。
私は、誰かの逃げ道。
――ならば。
……そう思ってしまった自分が、ひどく哀れで、情けなかった。
数日後、私は父に呼び出された。滅多に私に声をかけることのない父だ。廊下を歩くだけで背筋がこわばり、応接間の扉を開いた瞬間、冷たい視線が私を射抜いた。「座れ」低く短い命令に従い、革張りのソファの端に腰を下ろす。そこには父と綾乃さん、そして紗英が並んでいた。三人とも、まるで私を突き放すような目で見ている。「美玲、お前に見合いが決まった」父は淡々と告げた。「相手は一条グループの若き当主、一条怜司氏だ」予想していた通りの名前だった。けれど、それが現実として突きつけられた瞬間、頭が真っ白になるほどの衝撃が走った。ああ、本当に――逃げられないんだ。そう悟ったとき、心の奥が静かに凍っていくようだった。「お父様……私は」勇気を振り絞って口を開きかけた瞬間、綾乃さんがあざ笑うような声でさえぎった。「何を勘違いしているの。あなたに選ぶ権利なんてないのよ」「そうよ、お姉様」紗英があざ笑うように口を開く。「本当なら私が行くはずだったけれど、私にはもっとふさわしい縁談があるもの。だから――あなたで十分」そう言いながらも、紗英の口元にはわずかな安堵の色が浮かんでいた。一条怜司の噂は、綾乃さんや紗英の耳にも届いている。冷酷で感情を見せない男。しかも、社外秘とされているが、“身分違いの愛人”の存在も一部では囁かれているらしい。今回の結婚は、その関係を隠すためのカモフラージュ――といったところだろうか。形式だけ整えられればいい、表向きだけ“まともな結婚”に見えればいい。つまり、一条にとっては、派手すぎず、おとなしくて従順な女のほうが都合がいい。「それにね、あの男はうるさい女が嫌いなの」綾乃さんが皮肉めいた口調で言う。「紗英のような華やかな子とはあわないわ。でも……美玲なら、ちょうどいい。大人しくて、主張もしないし。空気みたいな嫁が、彼には合っているのよ」嘲笑に包まれる部屋の中で、私は拳を固く握りしめた。悔しさよりも、胸に広がるのは虚しさだった。私は、ただの駒。父の会社と一条グループの繋がりを強めるために差し出される、都合のいい交換材料にすぎない。――けれど。ここに留まる限り、私は一生家族の駒として生きるしかない。ならば、どんな相手でも――嫁ぐことで、この屋敷から抜け出せるのかもしれない。自分の運命を受け入れるしかないと、心のど
雨上がりの匂いが、湿った風に混じって漂っていた。 大手の会社を経営する父の屋敷は高台に建っており、磨き上げられた石造りの門や、手入れの行き届いた広い庭園が、外から見れば誰もが羨むような豪邸に映るだろう。けれど、その裏手にある古びた離れが、私――**藤咲美玲(ふじさき みれい)**の暮らす場所だった。私は今年、二十四歳になった。 身長は少し高めの一六五センチ。けれど、まともに食事を与えられない生活が続いているせいか、体つきは細く、決して「女性らしい」と言えるものではない。視力も悪いが、コンタクトすら買わせてもらえず、ずっとかけている度のあまりあっていない黒縁の眼鏡をかけている。本邸とは廊下で繋がってはいるが、私はふだんそこに立ち入ることは許されていない。 それでも、掃除や雑用があるたびに「家政婦のように」呼び出されては、継母や義妹の命令に黙って従っている。 使用人のように扱われながらも、戸籍上は家族。 けれど、私がこの家で居場所を与えられていないことは、誰の目にも明らかだった。本邸のリビングでは、シャンデリアの下で父をはじめ、継母である綾乃さんと、二歳年下の義妹、紗江が笑い合い、季節ごとに買い替えられる花々が飾られているはずだ。 最新の家電や高級家具が整然と並ぶ部屋で、ふたりは何不自由なく優雅に過ごしている。 けれど私は、そこに座ることは許されていない。ただ、雑用のたびにその華やかさを横目に通り過ぎるだけだ。私は、冷たい床に古びたベッドを置かれただけの六畳の部屋で、余りものの食事を与えられるだけの生活を送っている。母が亡くなったのは、私がまだ十八歳の時。 そしてそのわずか数か月後には、綾乃さんが“後妻”として家に入り、紗江も一緒にやってきた。 父の愛人だったと噂されるそのふたりに、家の中のすべてが塗り替えられた。「食べさせてもらえるだけありがたいと思いなさい」 綾乃さんはいつもそう言って、冷たく笑った。 そして紗江は、わざと私にブランド品の箱を見せびらかしながら、古びたお下がりを押しつける。「これで十分よ。あなたには似合うわ」その言葉の刃が突き刺さるたびに、私はただ唇を噛んで俯くしかなかった。本邸とは廊下で繋がってはいるが、私はふだんそこに立ち入ることは許されていない。 それでも、掃除や雑用があるたびに「家政婦のように」呼
眩しい光が目に差し込んだ瞬間、私は思わず息を呑んだ。 ここは……どこ? 真っ白なシーツに包まれたベッド。薔薇の花が飾られた豪奢なスイートルーム。 壁にかけられた大きな鏡には、淡い色のドレス姿の私が映っていた。 婚約の顔合わせの夜、形式的な食事会を終え、休むために用意された部屋――。 ――嘘。 これは、見覚えがある。 いや、嫌というほど思い出したくもない「あの夜」だ。 すべてが転がり落ちるきっかけとなった、運命の始まり。前世、私は「姉の代わり」に政略結婚で一条怜司と結婚することになった。 けれど彼に愛されたことは一度もなく、家族からも利用され、最後に残ったのは彼の冷たい「婚約破棄だ」その言葉だけだった。 絶望の果てに海に身を投げ、そこで私の人生は終わったはずだった。なのに、どうして。「……まさか、私は生まれ変わったの?」呟きは、虚しく天井に吸い込まれていく。 心臓が早鐘のように打ち、手のひらは汗ばむ。 でも、確かに分かる。これは夢じゃない。今度こそ、同じ過ちを繰り返すつもりはない。 彼に愛されるために必死になって、自分をすり減らすなんて二度と。 私は――一条怜司から離れて生きる。そう決意した瞬間、静かにドアが開いた。「……起きていたのか」低く落ち着いた声が響く。 黒のタキシードに身を包んだ男性が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。 鋭い灰色の瞳が私を射抜き、その視線に思わず呼吸を忘れた。前世と同じ夜。 私はこの人を知っている――。 けれど、彼の目はどこか違って見えた。「美玲」 名前を呼ばれただけで、身体が震える。 私は決意を胸に、彼から視線を逸らした。「もう……あなたのそばにいるつもりはありません」そう言い切った私に、彼はゆっくりと歩み寄り、そして――。「許さない」耳元に落とされた囁きは、凍えるほど冷たく聞こえた――