INICIAR SESIÓN翌日。
綾香は病院を訪れていた。
昨日からずっと考えていた。
父をどうすれば守れるのか。
一日中そばについていることはできない。
食事も薬も、すべてを綾香が確認するのは現実的ではなかった。
それなら、まず理央から離せばいい。
少なくとも、今よりは安全になる。
「遥臣」
診療を終えて出てきた遥臣に声をかける。
「何だ」
「ちょっと相談があるの」
「またか」
「何よ、その言い方」
「最近多いだろ」
「仕方ないじゃない」
遥臣は綾香を見る。
「それで?」
「お父様のことなんだけど」
遥臣の表情が少し変わった。
「また具合悪いのか」
「ううん。今は大丈夫」
「じゃあ何だ」
「少し静養させたいの」
「静養?」
「この前倒れた
『じゃあ、僕から美月に話してもいいんだね。綾香が僕との結婚を断ったって』「ええ。構わないわ」 綾香が答えると、理央はしばらく黙っていた。『……本当に、それでいいの?』「ええ。曖昧にしていたのは、私もよくなかったと思っているわ」『僕は、まだ諦めていないんだけど』「気持ちはありがたいわ。でも、私の答えは変わらないの」 電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。『分かったよ。綾香がそこまで言うなら』「ありがとう」『ただ、ひとつだけお願いがあるんだ』「何かしら?」『御影のおじさんには、僕から話してもいいかな』 綾香は少し考えた。「いいえ。お父様には私から話すわ。私が決めたことだもの」『……そうだね』 理央は力なく笑った。『じゃあ、また』「ええ」 通話が切れた。◇◆◇ その日の夕食後、綾香は父に婚約の話をした。「理央との婚約のお話だけれど、正式になくしていただきたいの」 父は少し驚いたものの、すぐに頷いた。「そうか。綾香が決めたのなら、それでいいよ」「ありがとう、お父様」「橘にも私から話しておこう。理央にはもう伝えたのかい?」「ええ。先ほど」「そうか。長い付き合いだから、少し寂しくはあるけれどね」 父は穏やかに微笑んだ。「九条先生と幸せになってくれれば、それが一番だよ」 綾香は嬉しくなって、父の手を握った。◇◆◇ 翌日の昼過ぎ、美月から電話がかかってきた。『綾香、理央から聞いたわ』「婚約のこと?」『ええ。正式に解消するんですってね』「そうよ」『……本当にいいの?』「もちろんよ。
「私、理央のことを好きになってしまったの」 美月は涙を浮かべたまま、綾香を見つめた。「……そうなの?」「ええ。ずっと言えなかったの。理央は綾香の婚約者だったから」 綾香はカップを置いた。 前の人生でも、美月と理央は親密な関係にあった。けれど、二人がいつからそうだったのかは知らない。「それなら、私に遠慮する必要はないわ」「え?」「理央との婚約は延期したままだし、私は遥臣とお付き合いしているもの」 美月は驚いたように目を見開いた。「……怒らないの?」「どうして怒るのかしら?」「だって、理央はずっと綾香のことが好きだったでしょう? 私が好きになるなんて、許されないと思っていたから」「人を好きになることは、誰にも止められないわ」 綾香は微笑んだ。「理央があなたの気持ちに応えてくれるといいわね」 美月は俯いた。「でも、理央はまだ綾香を諦めていないの」「それは理央が決めることよ」「……そうね」 美月はハンカチで目元を押さえた。「綾香は優しいのね。私だったら、きっとこんなふうには言えないわ」「そうかしら」「ええ。ありがとう」 美月はようやく笑顔を見せた。◇◆◇ その夜、綾香は遥臣と電話で話していた。『今日は何をしていた?』「美月が家に来たの」『昨日、美術館で会った友人か』「ええ。少し驚くことを聞いたわ」『何だ?』「理央のことが好きなんですって」『そうか』 遥臣の返事はあっさりしていた。「驚かないの?」『綾香の友人と、昔の婚約相手の話だろう。俺が口を出すことじゃない』「ふふ、そうね」『それより、来
「理央さんも、久世について問い合わせていらっしゃいました」 杉浦の言葉に、綾香は驚いた。「理央が、ですか?」「はい。もっとも、ずいぶん昔のことでございます。詳しい事情までは存じません」「そうでしたか。ありがとうございます」 綾香はそれ以上、質問を重ねなかった。 母の死については、まだ分からないことが多い。けれど、今ここで杉浦を問い詰めても、答えが見つかるとは限らない。 杉浦に礼を告げ、綾香はホテルをあとにした。◇◆◇ その週末、綾香は遥臣と美術館を訪れていた。 母が好きだった画家の展覧会は盛況で、館内には多くの人が集まっていた。「この絵、お母様がとても好きだったの」 綾香は一枚の風景画の前で足を止めた。「家にも、この画家の画集があったわ」「綺麗な絵だな」「ええ。母と一緒に見たことを思い出すわ」 遥臣は隣で静かに絵を眺めていた。 展示を見終えたあと、二人は美術館に併設されたカフェへ向かった。「綾香、次はどこへ行きたい?」「そうね。今度は遥臣の行きたいところにしましょう」「それなら、海を見に行かないか」「海?」「ああ。少し遠出して、ゆっくり過ごすのもいいだろう」「素敵ね。ぜひ行きたいわ」 綾香が微笑むと、遥臣も嬉しそうに笑った。 その時だった。「あら、綾香?」 聞き覚えのある声に振り返ると、美月が立っていた。「美月。偶然ね」「ええ。本当に」 美月は遥臣に目を向けた。「九条先生もご一緒だったんですね。こんにちは」「こんにちは」 遥臣は軽く会釈した。「お二人で展覧会を?」「ええ。母が好きだった画家なの」「そうだったのね。素敵だわ」 美月は微笑んだ。「実は私も、今日は友人と
『そういえば、綾香のお母さんが亡くなる前、僕のことで何か話していなかった?』 理央の問いに、綾香は一瞬返事をためらった。「……どうして?」『いや、さっきも言ったけど、少し気になって』「お母様があなたについて何か話していたとして、それがどうかしたの?」『別に深い意味はないよ。ただ、昔のことを思い出していたら、気になっただけなんだ』 理央の声はいつもどおり穏やかだった。「そう。残念だけれど、私には心当たりがないわ」『そっか。ありがとう』「ええ」『ごめんね、何度も変なことを聞いて』「気にしないで」 電話を切った綾香は、机の上に置いた母の手帳に目を向けた。 理央は父親である橘にも、綾香にも、母が亡くなる前のことを尋ねている。 しかも、母が自分について何か話していなかったか、と。 手帳に書かれていた一行と、あまりにもよく似ていた。 綾香は手帳を開き、問題の日付を確かめた。 母が亡くなる十日ほど前だった。 その前後には、庭師との打ち合わせや病院の予約など、ごく普通の予定が並んでいる。 綾香はページをめくった。 数日後の欄には、短い文字が残されていた。『杉浦さんに電話』 綾香は指を止めた。 杉浦は、母方の祖父に長く仕えていた秘書だ。 以前、祖父が久世雅彦という人物について調べていたことを教えてくれたのも杉浦だった。 母も、杉浦に何かを尋ねようとしていたのだろうか。◇◆◇ 翌日、綾香は杉浦に電話をかけた。『御影様、お久しぶりでございます』「お久しぶりです、杉浦さん。突然ごめんなさい」『いえ、どうなさいましたか』「母のことで、少し伺いたいことがあるの」『奥様のことでございますか』「ええ。亡くなる少し前に、母からお電話がありませんでし
「理央のこと、誰かから何か聞いたの?」 美月はそう尋ねると、綾香の顔をじっと見つめた。「どうしてそんなことを聞くの?」「ごめんなさい。理央が気にしていたから、私も気になってしまって」「理央が知りたいのなら、本人が聞けばいいことだわ」「そうよね……」 美月は困ったように微笑んだ。「でも、綾香は理央に何も話してくれないでしょう?」「話したくないことまで、話す必要はないと思うわ」「ええ。もちろんよ」 美月はカップを持ち上げた。「ただ、昔は何でも相談してくれたから、少し寂しくて」「そうね。昔はそうだったわね」 綾香は静かに答えた。 前の人生では、理央とのことも、父のことも、美月には何でも話していた。 それがどんな結果を招いたのか、綾香は知っている。「美月は、理央からどんな相談を受けているの?」 今度は綾香から尋ねた。「え?」「私のことを、いろいろ聞かれているのでしょう?」「ええ、まあ……」 美月は少し戸惑ったようだった。「綾香が何か悩んでいるんじゃないかって。それくらいよ」「そうなのね」「理央も、綾香を責めたいわけじゃないと思うの。ただ、理由が分からないから……」「美月」 綾香は言葉を遮った。「私と理央の間に、あなたが入る必要はないわ」 美月は目を伏せた。「……ごめんなさい」「あなたを責めているわけではないの。ただ、何度も同じことを聞かれるのは困るのよ」「ええ。分かったわ」 美月は小さく頷いた。 その後は買い物や最近の流行について話し、二人は店を出た。 別れ際、美月はいつもと変わらない笑顔を見せた。「またお茶
「そういえば、理央がもうひとつ、妙なことを聞いてきたんだ」 父はアルバムを閉じながら言った。「何かしら?」「綾香が婚約を延期した頃、誰かに何かを吹き込まれたんじゃないか、ってね」 綾香は父を見た。「誰かに?」「ああ。急に気持ちが変わったように見えたから、心配していたらしい」「……そうなのね」「もちろん、そんなことはないだろうと答えたよ。綾香は自分で考えて物事を決められる子だからね」 父は笑った。「ただ、理央も戸惑っているんだろう。長い付き合いだから、綾香のことは何でも分かっているつもりだったのかもしれないな」「そうかもしれないわね」 綾香は微笑んだ。 けれど、胸の内では別のことを考えていた。 理央は、遥臣の存在を疑っていた。 それを否定されると、今度は誰かが綾香に何かを吹き込んだのではないかと考え始めたらしい。 綾香が自分の意思で婚約を避けたとは、思いたくないのだろうか。「お父様」「何だい?」「私が理央との婚約を待ってほしいと言った時、お父様はどう思われた?」 父は少し驚いたようだった。「そうだね。何か考えがあるんだろうとは思ったよ」「理由を聞こうとは思わなかった?」「聞いたじゃないか。でも、綾香はもう少し時間がほしいと言った。それなら待とうと思ったんだ」「……ありがとう」「結婚は綾香の人生に関わることだからね。私が急がせる理由はないよ」 父は穏やかに微笑んだ。「それに、今は九条先生という素敵な方がいる。私は嬉しいよ」 綾香も笑顔を返した。◇◆◇ 自室へ戻ると、綾香は机の引き出しから手帳を取り出した。 婚約を延期した頃の記録を確かめる。 あの時、綾香は父の病状を気にかけながら、理央との距離を置こうとしていた。 前の人生で理央と美月に裏切られたことを、忘れるはずがなかった。 しかし理央にとっては、何の前触れもなく綾香の態度が変わったように見えただろう。 誰かに何かを吹き込まれた。 理央がそう考えるのなら、次はその誰かを探そうとするかもしれない。 綾香は手帳を閉じた。 その時、スマートフォンが震えた。 美月からだった。『綾香、今週末はお時間あるかしら。久しぶりに二人でお茶でもどう?』 綾香は少し考えてから返信した。『今週末は予定があるの。また機会があればね』 すぐに返事が届いた。『







