LOGINトップアイドルの恋人の浮気現場を目撃した彼女は、衝動のまま彼の最大のライバルである人気グループのセンターにキスをしてしまう。スキャンダルを避けるため始まった偽装恋愛。しかし彼は、奪われた振付の功績と傷ついた彼女の誇りまで取り戻そうとしてくれて――。裏切りから始まる、芸能界ラブ&逆転ロマンス。
View MoreJNXテレビ別館、4階の楽屋前。
金曜午後の生放送を控えた廊下は、熱気と騒音で息が詰まりそうだった。アイドルにダンサー、スタイリスト。大勢の人間が狭い通路を行き交い、すれ違うたびに衣装の裾が触れる。
スピーカーからは、ドライリハーサルを終えたばかりのガールズグループの曲が、耳をつんざく音量で流れていた。
パフォーマンスディレクターの水瀬紗奈は、黒いクリップボードを持ち直して息を吐いた。
5人組ボーイズグループ、ECLIPSE。
過去曲の再ブレイクをきっかけに勢いを増し、ついに地上波の音楽番組で週間1位の候補に名を連ねたグループだ。
今日は、その不動のセンター、一ノ瀬蓮が新曲を初披露する日でもある。
そして蓮は、紗奈が3年間、誰にも言えずにつき合ってきた恋人だった。
紗奈は廊下の突き当たりにある個室の楽屋へ向かった。今日のステージで最も重要な、2コーラス目のソロダンスブレイク。その立ち位置の修正を、最後にもう一度確認しておきたかった。
――蓮、あと少しだけ頑張ろう。今日1位のトロフィーをもらえたら、この3年間の苦労だって、きっと報われる。
期待で胸をいっぱいにして、ドアノブに手をかけた。そのときだった。
「……ん、蓮くん。待って。外に聞こえたら、どうするの?」
隙間から漏れたのは、甘く鼻にかかった女の声だった。
紗奈の手が止まる。
生放送直前の楽屋には似つかわしくない。あまりに親密な声だった。
続いて、聞き慣れた低い笑い声がした。
息が止まった。クリップボードの角が手のひらに食い込む。
「鍵、かけたから。スタッフも全員、『BEAT STAGE』のモニター確認に行かせた。誰も来ないって」
蓮の声だ。
この3年、電話越しに聞くたびに安心していた、あまりにもよく知っている声。
衣装のスパンコールが擦れる音に、熱を含んだ息遣いが混じった。
「莉々花、今日の衣装、ほんとかわいい。オープニングのリハから、お前しか見てなかった」
「うそ。こないだの『MUSIC FRONT』では、ほかのグループのセンター見てたくせに」
「あいつと比べんなよ。お前のほうが百倍かわいい」
ちゅ、と短いキスの音がした。
相手は、今まさに人気急上昇中の新人ガールズグループ、PINK BERRY。そのセンター、白石莉々花だった。
紗奈の脈が、一拍遅れて落ちた。
息ができない。指先から力が抜けていく。ドアノブをつかんだ手だけが、かろうじてその場に残っていた。
――私、今……何を聞いたの?
この3年間が、順番もなく頭をよぎった。
事務所が倒産寸前で、デビューさえ危うかった無名時代。紗奈は将来の住まいのために積み立てていた貯金を崩し、MVの撮影費として150万円を出した。
夜ごと、埃の舞う地下の練習室で床に這いつくばり、蓮の硬い関節や癖を隠せる、彼だけの決めの振りを考えた。
シャープな顎のラインが最もきれいに見える照明とカメラの角度。表情の作り方。その一つひとつまで教えた。
2コーラス目の16カウントで息が上がることも、左回りのターンで重心が崩れる瞬間も、誰より正確にわかっていた。
今日持ってきた修正案だって、その弱点を隠すために徹夜で組み直したものだった。
それなのに、蓮の知名度が上がるほど、事務所は振付のクレジットから紗奈の名前を消していった。
『紗奈、今は俺個人のファンを増やすのが一番大事だろ。事務所に俺たちのことがバレたら、グループごと終わる。1位になって、ちゃんと足場ができたら、お前の名前を一番前に載せるから』
そんな甘い嘘を、馬鹿みたいに信じていた。
好きだったから。彼の成功を支えることが、自分の夢を守ることでもあると、信じていたから。
だから紗奈は、黙って影に徹した。
その見返りが、楽屋のソファでほかの女と密会することなのか。
「でも、紗奈さんは大丈夫? 最近、蓮くんの振付の修正で、ずっと一緒にいたよね」
莉々花が甘えた声で尋ねると、蓮は鼻で笑った。
「なんで今、あの面白みも融通もない女の話すんの」
「でも、売れる前からすごく面倒見てくれたんでしょ? マネージャーとディレクター、両方やってくれてたって」
「面倒見てた? 違うって。あいつ、自分がデビューできなかったから、叶わなかった夢を俺に押しつけてるだけ。正直、振付のセンスももう古いし。そろそろ海外の有名な人に替えようと思ってる」
その声に、申し訳なさも感謝もなかった。
売れた男の思い上がりと、紗奈への侮りだけがあった。
「あいつは俺が捨てない限り、一生後ろをついてくるよ。気にしなくていいって」
また、キスの音がした。
涙は出なかった。
紗奈は、手にしたクリップボードを見下ろした。夜通し貼り足した付箋のいちばん下に、ボールペンで強く書き込んだ名前がある。
〈パフォーマンスディレクター 水瀬紗奈〉
そこだけが、妙にはっきりと目に映った。
この名前まで、蓮にくれてやるつもりはない。
凍りついていた感覚が、怒りと一緒に戻ってきた。
紗奈は震える指を押さえ、ドアノブを強く握り直した。鍵をかけたというのも口先だけだったのか、ノブはあっけなく回った。
もう、ためらわなかった。
勢いよく開け放ったドアが、壁に叩きつけられた。
バンッ!
それから1年余りが過ぎた、12月最後の夜。雪の舞う東京で、音楽界屈指の授賞式〈スターライト・ミュージック・アワード〉が開かれていた。会場のスターライトドーム東京には、数万人の観客が詰めかけている。ドームを揺らすような歓声と、青いペンライトの波が広がっていた。NOVAの5枚目のミニアルバム『BLACK OUT』は、発売直後に国内主要音楽チャートを制し、続いてグローバル・アルバム200チャートでも1位を獲得した。アルバムとステージのクレジット。その先頭には、統括パフォーマンスディレクター、水瀬紗奈の名前があった。紗奈は、1年にわたる調停と訴訟を経て、蓮に奪われていた創作報酬や不当な利益、計4,800万円を取り戻した。その後、国内外のアーティストから依頼を受けるトップディレクターとなり、独立のディレクションレーベル〈LUMEN〉を立ち上げた。初年度の仕事の一覧には、NOVAだけでなく、新人ガールズグループやソロシンガーの名前も並んでいた。紗奈が契約書で真っ先に確認するのは、創作者のクレジットと、二次使用の条件だった。莉々花は公の場で謝罪し、活動を控える期間を経て、再びステージに立った。紗奈へ、もう言い訳を送ってくることはなかった。LUMENのオフィスの壁には、紗奈が初めて正式なクレジットを得た『BLACK OUT』のアルバムが飾られている。その下のキャビネットには、所属する振付師の名前と収益の取り分を明記した契約書のコピーが、整然と並んでいた。一方の蓮は、広告主や元の所属事務所との、6億円規模の損害賠償をめぐる争いに追われていた。無断でのアカウントアクセスや名誉毀損など、一部の行為について第一審で有罪判決を受け、テレビの世界からも姿を消した。「今年のアーティスト大賞は……NOVAです!」司会の発表とともに、祝砲が響き、金色の紙吹雪が降り注いだ。黒いベルベットのタキシードを着た律と、メンバーたちがステージの中央へ出てくる。トロフィーを受け取った律が、マイクの前に立った。いつもは淡々としている口元に、明るい笑顔が広がった。「ファンの皆さん、そしてメンバーに、心から感謝しています」ひと息置いて、メインカメラをまっすぐに見る。「そして今夜、この場で、どうしても伝えたい人がいます」会場の視線と、生中継のカメラが律に集まった。その声
新作の準備と法的な対応に追われているうちに、1か月はあっという間に過ぎた。紗奈が総括を務めたNOVAの5枚目のミニアルバム。そのリード曲『BLACK OUT』は最終データの納品も済み、あとはリリース当日を待つだけになっていた。ティザーは公開直後、世界のSNSトレンド1位に上がった。振付の独創性と、鋭く張り詰めた空気が話題になっている。国内外の批評家からは「NOVAの強みを最も鮮やかに引き出したパフォーマンス」と期待が寄せられた。紗奈の名前が単独で記されたアルバムクレジットにも、大きな注目が集まっていた。そして、律と約束した、1か月限りの契約恋愛の最後の日が来た。月曜日、午後11時。代官山のペントハウスの書斎。窓の向こうに東京の明かりが広がる中、紗奈はバッグから1か月前の契約書を出し、そっとテーブルに置いた。〈NOVA・神宮寺律/パフォーマンスディレクター・水瀬紗奈 相互協力および1か月限定の公表交際に関する契約書〉前へ滑らせても、手を離せなかった。本社のロビーで、先に手を差し出してくれたこと。夜通し、元のファイルを照合したこと。どの資料でも、まず紗奈の名前があるか確かめてくれたこと。1つずつ、思い出した。契約で始まった。それでも、この1か月を偽物と呼ぶには、一緒に過ごした時間が、あまりにはっきり残っていた。けれど、契約は契約だった。律は驚くほど真面目に、ルールを守ってくれた。手をつなぐ前には、目で尋ねるか、言葉で確認した。紗奈が証拠の整理中に眠ってしまえば、毛布だけをかけて、距離を置いた。その抑えた優しさに、かえって気持ちを揺さぶられた。だからこそ、まぶしいほどの彼のキャリアの重荷にならないように、約束どおり引くべきなのだと思った。シャワーを終え、黒いシルクのガウンを羽織った律が、カモミールティーを2杯持って書斎へ入ってきた。濡れた髪から、水滴が1つ落ちる。律が向かいに座ると、紗奈は声を落ち着かせて口を開いた。「律さん。約束した1か月、今日で終わりです」契約書を、もう少し前へ押し出す。「契約は、今日で終わらせないと。明日の午前9時に、破局の発表を出す方向で広報の方と話しました。今まで……本当に、ありがとうございました」平気なふりをして笑った。「それが、紗奈さんの望む結論ですか」すぐには答えられなかった。「
資料が公開されてから、10日後。初秋の激しい雨が、東京の街を濡らしていた。仕事も住まいも失い、芸能ニュースの笑いものになった蓮は、傘も差さず、青山通りを歩いていた。一部の口座には裁判所の仮差押えが入り、活動停止と同時に、事務所が用意した住居からも退去を求められた。多くのファンに背を向けられ、同業者も知人も、次々に連絡を拒んだ。ステージメイクも、警護するスタッフもない顔は、わずか数日で目に見えてやつれていた。帽子を深くかぶっていても、気づいた通行人がスマートフォンを向ける。蓮は顔を隠し、足を速めた。「紗奈……紗奈に会わなきゃ。あいつが許してくれれば……もう一度、俺の振付を作ってくれれば、全部戻せる」現実を認めないまま、LUXE本社の正面にある花壇の陰へ身を潜めた。紗奈が一度だけ話を聞いてくれれば、元に戻れる。まだ、そう信じていた。午後6時。回転扉が開き、黒い傘を持った警護スタッフと、紗奈がロビーから出てきた。ベージュのトレンチコートに、革のブリーフケース。中には、NOVAのリード曲の最終振付データが入っていた。エントランスの大型モニターでは、承認されたばかりの『BLACK OUT』のティザーが繰り返し流れている。「紗奈……!」雨にずぶ濡れになった蓮が、名を叫びながら暗がりから飛び出した。警護スタッフが、即座に立ちはだかった。紗奈は、その後ろで距離を保って足を止めた。「近づけないでください。会話は、ここから録音します」スマートフォンを取り出すと、警護責任者がうなずいた。今度は、蓮の作った状況に引きずられない。終わらせる方法も、距離も、自分で決めた。蓮は、警護スタッフの前に膝をついた。雨に打たれながら、泣き叫ぶ。「紗奈! 俺を作ったのはお前だろ! 3年間、全部の振付を作って、トップスターにしたのはお前じゃないか! だったら最後まで責任取れよ! なんで俺を、こんなどん底に突き落とせるんだよ!」まだ、自分の裏切りも搾取も見ようとしない。紗奈が自分を救うべきだと、言い張っていた。紗奈は傘の下から、膝をついた蓮を冷たく見た。もう、怒りも恨みも残っていなかった。もう一度説得したいとも、わかってほしいとも思わない。「蓮」雨音の間に、声がはっきり響いた。「私が作ったのは、あんたのステージだよ。人生でも、選択でもない。
火曜日、午前9時ちょうど。大手ニュースサイトとテレビ局の芸能ニュースに、水瀬紗奈と一ノ瀬蓮の名前が同時に並んだ。【公式 水瀬紗奈ディレクター、一ノ瀬蓮とZENITHに未払い創作報酬など4,800万円を請求へ。刑事告訴も】【独占 「3年間、振付を奪われた」水瀬紗奈、原本の作成記録とリハーサル映像を公開】【暴言の録音を公開 一ノ瀬蓮「俺のひと言で、この業界にいられなくなる」】【白石莉々花が証言 「複数の女性との交際も、中傷工作の指示も、事実です」】LUXE法務部が約150の報道機関に配信した、40ページの事実確認資料は、たちまち主要記事で大きく取り上げられた。そこには、紗奈がこの3年で作った振付プロジェクトの初回作成時刻、モーションキャプチャーの記録、そして4,800万円の創作報酬などが支払われず、不当に処理されていた精算の詳細が載っていた。仕事の依頼が届くメールアカウントへの無断アクセスと、メールの隠蔽・削除の疑いを示すデジタル解析の資料も、合わせて公開された。資料が出ると、蓮への批判は急速に強まった。〈人の人生と才能を、4年も丸ごと盗んでたってこと?〉〈水瀬さん、3年間ただ働き同然で搾取されてたんじゃん。ひどすぎる〉〈スタッフへの暴言に中傷工作まで。もう芸能界に戻ってこないでほしい〉〈神宮寺律が4年も片思いして、守ろうとした理由、今ならわかる〉芸能ニュースや動画サイトには、蓮の過去の発言を掘り起こした映像が次々に上がった。「僕のダンスは、僕の魂から生まれるんです」得意げに語ったインタビューは、今や嘲笑の的だった。レコード会社と放送局は、事実確認が終わるまで、蓮を振付の創作者とする表記を保留し、紗奈から権利に関する異議が出ていることをクレジット情報に併記すると発表した。一部のステージ映像の説明欄には、提出された資料をもとに、先に〈振付原案 水瀬紗奈〉が追加された。権利の全面的な訂正手続きは、まだ残っている。それでも、紗奈の名前はもう、消されたままではなかった。LUXEの会議室で画面を見ていた紗奈は、記事のコメントより先に、公開資料の状態を確認した。ほかの被害者の名前は隠れているか。添付ファイルのハッシュ値は報告書と一致しているか。最後まで、目を通した。律が「おめでとうございます」と声をかけたが、紗奈は首を振った。「ま





