トップアイドルの彼の浮気を目撃したので、ライバルのセンターにキスしました

トップアイドルの彼の浮気を目撃したので、ライバルのセンターにキスしました

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トップアイドルの恋人の浮気現場を目撃した彼女は、衝動のまま彼の最大のライバルである人気グループのセンターにキスをしてしまう。スキャンダルを避けるため始まった偽装恋愛。しかし彼は、奪われた振付の功績と傷ついた彼女の誇りまで取り戻そうとしてくれて――。裏切りから始まる、芸能界ラブ&逆転ロマンス。

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Chapter 1

第1話 私が育てた男の裏切り

JNXテレビ別館、4階の楽屋前。

金曜午後の生放送を控えた廊下は、熱気と騒音で息が詰まりそうだった。アイドルにダンサー、スタイリスト。大勢の人間が狭い通路を行き交い、すれ違うたびに衣装の裾が触れる。

スピーカーからは、ドライリハーサルを終えたばかりのガールズグループの曲が、耳をつんざく音量で流れていた。

パフォーマンスディレクターの水瀬紗奈は、黒いクリップボードを持ち直して息を吐いた。

5人組ボーイズグループ、ECLIPSE。

過去曲の再ブレイクをきっかけに勢いを増し、ついに地上波の音楽番組で週間1位の候補に名を連ねたグループだ。

今日は、その不動のセンター、一ノ瀬蓮が新曲を初披露する日でもある。

そして蓮は、紗奈が3年間、誰にも言えずにつき合ってきた恋人だった。

紗奈は廊下の突き当たりにある個室の楽屋へ向かった。今日のステージで最も重要な、2コーラス目のソロダンスブレイク。その立ち位置の修正を、最後にもう一度確認しておきたかった。

――蓮、あと少しだけ頑張ろう。今日1位のトロフィーをもらえたら、この3年間の苦労だって、きっと報われる。

期待で胸をいっぱいにして、ドアノブに手をかけた。そのときだった。

「……ん、蓮くん。待って。外に聞こえたら、どうするの?」

隙間から漏れたのは、甘く鼻にかかった女の声だった。

紗奈の手が止まる。

生放送直前の楽屋には似つかわしくない。あまりに親密な声だった。

続いて、聞き慣れた低い笑い声がした。

息が止まった。クリップボードの角が手のひらに食い込む。

「鍵、かけたから。スタッフも全員、『BEAT STAGE』のモニター確認に行かせた。誰も来ないって」

蓮の声だ。

この3年、電話越しに聞くたびに安心していた、あまりにもよく知っている声。

衣装のスパンコールが擦れる音に、熱を含んだ息遣いが混じった。

「莉々花、今日の衣装、ほんとかわいい。オープニングのリハから、お前しか見てなかった」

「うそ。こないだの『MUSIC FRONT』では、ほかのグループのセンター見てたくせに」

「あいつと比べんなよ。お前のほうが百倍かわいい」

ちゅ、と短いキスの音がした。

相手は、今まさに人気急上昇中の新人ガールズグループ、PINK BERRY。そのセンター、白石莉々花だった。

紗奈の脈が、一拍遅れて落ちた。

息ができない。指先から力が抜けていく。ドアノブをつかんだ手だけが、かろうじてその場に残っていた。

――私、今……何を聞いたの?

この3年間が、順番もなく頭をよぎった。

事務所が倒産寸前で、デビューさえ危うかった無名時代。紗奈は将来の住まいのために積み立てていた貯金を崩し、MVの撮影費として150万円を出した。

夜ごと、埃の舞う地下の練習室で床に這いつくばり、蓮の硬い関節や癖を隠せる、彼だけの決めの振りを考えた。

シャープな顎のラインが最もきれいに見える照明とカメラの角度。表情の作り方。その一つひとつまで教えた。

2コーラス目の16カウントで息が上がることも、左回りのターンで重心が崩れる瞬間も、誰より正確にわかっていた。

今日持ってきた修正案だって、その弱点を隠すために徹夜で組み直したものだった。

それなのに、蓮の知名度が上がるほど、事務所は振付のクレジットから紗奈の名前を消していった。

『紗奈、今は俺個人のファンを増やすのが一番大事だろ。事務所に俺たちのことがバレたら、グループごと終わる。1位になって、ちゃんと足場ができたら、お前の名前を一番前に載せるから』

そんな甘い嘘を、馬鹿みたいに信じていた。

好きだったから。彼の成功を支えることが、自分の夢を守ることでもあると、信じていたから。

だから紗奈は、黙って影に徹した。

その見返りが、楽屋のソファでほかの女と密会することなのか。

「でも、紗奈さんは大丈夫? 最近、蓮くんの振付の修正で、ずっと一緒にいたよね」

莉々花が甘えた声で尋ねると、蓮は鼻で笑った。

「なんで今、あの面白みも融通もない女の話すんの」

「でも、売れる前からすごく面倒見てくれたんでしょ? マネージャーとディレクター、両方やってくれてたって」

「面倒見てた? 違うって。あいつ、自分がデビューできなかったから、叶わなかった夢を俺に押しつけてるだけ。正直、振付のセンスももう古いし。そろそろ海外の有名な人に替えようと思ってる」

その声に、申し訳なさも感謝もなかった。

売れた男の思い上がりと、紗奈への侮りだけがあった。

「あいつは俺が捨てない限り、一生後ろをついてくるよ。気にしなくていいって」

また、キスの音がした。

涙は出なかった。

紗奈は、手にしたクリップボードを見下ろした。夜通し貼り足した付箋のいちばん下に、ボールペンで強く書き込んだ名前がある。

〈パフォーマンスディレクター 水瀬紗奈〉

そこだけが、妙にはっきりと目に映った。

この名前まで、蓮にくれてやるつもりはない。

凍りついていた感覚が、怒りと一緒に戻ってきた。

紗奈は震える指を押さえ、ドアノブを強く握り直した。鍵をかけたというのも口先だけだったのか、ノブはあっけなく回った。

もう、ためらわなかった。

勢いよく開け放ったドアが、壁に叩きつけられた。

バンッ!

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第1話 私が育てた男の裏切り
JNXテレビ別館、4階の楽屋前。金曜午後の生放送を控えた廊下は、熱気と騒音で息が詰まりそうだった。アイドルにダンサー、スタイリスト。大勢の人間が狭い通路を行き交い、すれ違うたびに衣装の裾が触れる。スピーカーからは、ドライリハーサルを終えたばかりのガールズグループの曲が、耳をつんざく音量で流れていた。パフォーマンスディレクターの水瀬紗奈は、黒いクリップボードを持ち直して息を吐いた。5人組ボーイズグループ、ECLIPSE。過去曲の再ブレイクをきっかけに勢いを増し、ついに地上波の音楽番組で週間1位の候補に名を連ねたグループだ。今日は、その不動のセンター、一ノ瀬蓮が新曲を初披露する日でもある。そして蓮は、紗奈が3年間、誰にも言えずにつき合ってきた恋人だった。紗奈は廊下の突き当たりにある個室の楽屋へ向かった。今日のステージで最も重要な、2コーラス目のソロダンスブレイク。その立ち位置の修正を、最後にもう一度確認しておきたかった。――蓮、あと少しだけ頑張ろう。今日1位のトロフィーをもらえたら、この3年間の苦労だって、きっと報われる。期待で胸をいっぱいにして、ドアノブに手をかけた。そのときだった。「……ん、蓮くん。待って。外に聞こえたら、どうするの?」隙間から漏れたのは、甘く鼻にかかった女の声だった。紗奈の手が止まる。生放送直前の楽屋には似つかわしくない。あまりに親密な声だった。続いて、聞き慣れた低い笑い声がした。息が止まった。クリップボードの角が手のひらに食い込む。「鍵、かけたから。スタッフも全員、『BEAT STAGE』のモニター確認に行かせた。誰も来ないって」蓮の声だ。この3年、電話越しに聞くたびに安心していた、あまりにもよく知っている声。衣装のスパンコールが擦れる音に、熱を含んだ息遣いが混じった。「莉々花、今日の衣装、ほんとかわいい。オープニングのリハから、お前しか見てなかった」「うそ。こないだの『MUSIC FRONT』では、ほかのグループのセンター見てたくせに」「あいつと比べんなよ。お前のほうが百倍かわいい」ちゅ、と短いキスの音がした。相手は、今まさに人気急上昇中の新人ガールズグループ、PINK BERRY。そのセンター、白石莉々花だった。紗奈の脈が、一拍遅れて落ちた。息ができない。指先から力が抜けていく。ドアノブ
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第2話 だったら、もう終わりにしよう
ドアが壁にぶつかる音が、楽屋に響いた。ソファの上で重なっていた2人が、弾かれたように離れる。ステージメイクを済ませた白石莉々花は、口紅のにじんだ唇を押さえて床にへたり込んだ。シャツのボタンを2つも外した一ノ瀬蓮が、血の気の引いた顔で振り向く。「さ、紗奈……?」蓮の目が大きく揺れた。だが、固まっていたのは一瞬だけだった。すぐに襟元を直し、乱れた髪をかき上げる。見慣れた、厚かましい顔に戻っていた。「ノックもせずに人の楽屋に入ってくる癖、いい加減直せよ」謝るどころか、眉をひそめて責めてくる。紗奈には、乾いた笑いさえ出なかった。「人の楽屋? 蓮、今、なんて言った?」大股で歩み寄り、ソファの前のガラステーブルに修正案のファイルを叩きつけた。「私が、一生あんたの後ろをついてくるって? 振付が古いから、海外の振付師に替えるつもりだって?」蓮の顔がわずかにこわばった。最初から全部聞かれていたのだと、ようやく気づいたらしい。それでも、頭は下げなかった。「聞いてたんなら話が早い。莉々花、先に出てて」莉々花は2人の顔色をうかがいながら立ち上がり、逃げるように楽屋を出ていった。ドアが閉まると、蓮はパンツのポケットに手を突っ込み、顎を上げた。「じゃあ、正直に言うわ。紗奈、俺たち3年もつき合っただろ。アイドルが3年間も秘密でつき合ってやったんだ。俺だって、十分やったんじゃないの?」「……何?」「男が仕事してりゃ、後輩と飲むことも、多少くっつくこともあるだろ。それをいちいち責めて、テレビ局のど真ん中で騒ぐ必要ある? 今すぐ結婚するわけでもないのに、なんでそんな重いんだよ」言葉の端々で、紗奈のせいにする。3年間、自分の若さも、お金も、情熱も注いで支えた男が、目の前でいちばん醜い本性をさらしていた。「結婚するわけでも、ない……?」紗奈は拳を握った。手のひらが痛む。指先が白くなっても、ほどかなかった。「この3年、ろくに寝ないであんたのステージを作ったのも、貯金を全部出してデビューMVを撮ったのも……本気で好きだったからだよ」「誰がそこまで頼んだ? お前が好きでやったんだろ! そもそも、お前がいなくたって俺は売れてたよ。この顔とスター性があるんだから!」蓮は口の端をゆがめ、見下ろすように顎をそらした。「現実見ろよ、紗奈。お前はデビューもできなかった
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第3話 ライバルの唇
廊下の音が遠のいた。紗奈に見えていたのは、指に絡んだネクタイと、自分を見下ろす律の顔だけだった。黒いシルクを手前に引くと、背の高い律が上体をかがめる。紗奈はつま先立ちになり、その唇に自分の唇を重ねた。衝動で始めたことなのに、触れた感触も、止まった息も、思った以上にはっきりしていた。シダーウッドにペパーミントが混じる。ほんの一瞬、唇をつけて離れるつもりだった。ところが律は、驚いたように目を開けたまま、紗奈を押し戻さなかった。指先が震える。ネクタイの結び目だけが、さらに少し傾いた。廊下の奥から駆け寄ろうとしていた蓮の顔から、血の気が引いた。「……っ!」口を開けたまま、2人を見ている。デビュー以来、一度も越えられなかった壁。音楽界の頂点に立つ宿敵、神宮寺律。そのネクタイをつかみ、たった今自分を振った女が、キスをしている。楽屋で露見した裏切りが、想像もしなかった形で返ってきたのだ。律の目にも、短く戸惑いがよぎった。けれど彼は、すぐに紗奈の表情を確かめた。紗奈が踵を下ろし、唇を離そうとしたときだった。律の右手が、腰の後ろを支えた。バランスを崩して後ずさりかけた体が、彼の胸のすぐ手前で止まる。「あ……」紗奈が小さく息を吸うと、律は腰を支えたまま一歩近づいた。急がず、わずかに首を傾ける。紗奈が顔を背けないことを確かめてから、今度は彼のほうから唇を重ねた。最初のキスが衝動なら、2度目は、はっきりとした意思のあるキスだった。長く待っていた人のように慎重なのに、簡単には終わらせてくれそうになかった。律は紗奈に合わせるように、ゆっくり呼吸を落とした。紗奈の指が彼の襟元を放さないのを確かめて、口づけが少しだけ深くなる。復讐のために始めたはずなのに、いつの間にか蓮の姿が視界から消えていた。律の手は腰の後ろにとどまっている。近づいた胸から、違う速さの鼓動が重なって伝わってきた。紗奈は、ネクタイを放さなければいけないことさえ忘れた。壁際のスタイリストやほかのグループのメンバーたちが、息をのみ、口元を手で覆った。「ふざけんな……神宮寺! 人の女に何してんだよ!」目を血走らせた蓮が、拳を振り上げて突っ込んできた。だが、律の専属マネージャーと警護スタッフがすぐに割って入り、両腕を押さえた。「どけ! 放せよ! 紗奈、今すぐ離れろ!」廊下中
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第4話 1か月だけ、俺の彼女になってください
土曜日、午前8時。東京・南青山にあるLUXEエンターテインメント本社、18階の大会議室では、ニュースの通知音が立て続けに鳴っていた。正面のスクリーンには、昨夜浮上した神宮寺律の熱愛報道と、誹謗中傷の投稿数の推移が映し出されている。国内トップのボーイズグループ、NOVAの新作リリースまで、およそ1か月。その直前に起きた、大きすぎるスキャンダルだった。「水瀬さん。これはいったい、どういうことですか」NOVAの統括プロデューサーも務める黒川社長が、こめかみを押さえて深くため息をついた。紗奈は両手を膝にそろえ、頭を下げた。昨夜から記者の電話と知人のメッセージが何百件も押し寄せ、スマートフォンの充電はとうに切れていた。「申し訳ありません。私情で取り乱して、神宮寺さんにも会社にも、大変なご迷惑をおかけしました」震えそうになる声を整え、黒川の目をまっすぐに見る。「今すぐ、私の名前と顔を出して謝罪文を公表します。神宮寺さんには一切非がなく、私が衝動的にすがりついて、一方的にキスしたと説明します」自分のディレクターとしての経歴が傷ついても、律の名誉まで巻き込むわけにはいかなかった。必要なら、自分が前に出て責任を負うつもりだった。そのとき、会議室のドアが勢いよく開いた。黒いキャップを目深にかぶった男が、大股で入ってくる。ラフな黒のジップパーカー姿だったが、長身とこわばった表情だけで、役員たちの視線が一斉に集まった。律だった。「一方的だった? そんな、つじつまの合わない嘘を公式見解にするつもりですか」低い声が、会議室に通った。律は紗奈の隣の革張りの椅子を引き、そのまま腰を下ろした。「律! どれだけ深刻な状況かわかってるのか? ファンが大騒ぎしてるんだぞ。まずは交際を否定するリリースを出して、法的対応も打ち出さないと――」黒川が立ち上がって声を荒らげる。律は短く鼻で笑い、持っていたタブレットをテーブルの中央へ滑らせた。「否定すれば信じてもらえると思いますか。写真の角度も解像度も、見ましたよね。2度目は俺から腰を抱いてキスしてる。それを今さら、ストーカーに無理やりされたなんて言ったら、俺まで最低の嘘つきになる」役員たちが口を閉ざした。律は画面をスワイプし、続けた。「それに、本当に問題なのは報道より、一ノ瀬側です」映ったのは、LUXEの
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第5話 契約恋愛、最初のルール
正午が近づくにつれ、LUXEの社長室には張り詰めた空気が漂っていた。窓の下、本社正面にはすでに何十台もの報道車両が並び、芸能記者たちが詰めかけている。ガラステーブルには、法務部の確認を終えて印刷されたばかりの合意書が置かれていた。A4用紙で2枚。〈NOVA・神宮寺律/パフォーマンスディレクター・水瀬紗奈 相互協力および1か月限定の公表交際に関する契約書〉紗奈は黒いボールペンを指先で回し、向かいで脚を組む律を見た。「律さん。サインの前に、はっきりさせておきたいルールがあります」きっぱり告げると、律は頬杖をつき、余裕のある笑みを浮かべた。「どうぞ。全部聞きます」「1つ目。カメラや人前で必要な演出をする場合を除いて、私的な場での不要なスキンシップは禁止です」「合理的ですね。賛成です」「必要な場合も、先に確認すること。この条件も入れます」「それはルール以前に、当然の礼儀では?」あまりにさらりと返されて、紗奈は一瞬、言葉に詰まった。「……2つ目。この関係は、一ノ瀬蓮側の中傷を防ぎ、新作への影響を最小限に抑えるための仕事上の協力です。お互いの私生活への、不要な干渉や嫉妬は禁止します」律は軽くうなずき、黙って紗奈の目を見ていた。紗奈は息を整えてから、最後の条項を読んだ。「3つ目。1か月の契約期間が終わったら、速やかに破局を発表して、元のディレクターとアーティストの関係に戻ります。契約を理由に、本当の恋愛感情を求めてはいけません」各条項の横に、紗奈は自分のイニシャルを書き入れた。律は1つ目と2つ目にはすぐにサインした。3つ目の前でだけ、ペンがわずかに止まる。それでもやがて、契約書の下に自分の名前を書いた。「俺からも、1つ追加させてください」余白に、短い一文が加わった。〈危険や困り事が生じた場合は、1人で判断せず、すぐに連絡すること〉紗奈はその一文に線を引いた。「これは、どちらに適用されるルールですか」「両方です。ただ、先に破るのは水瀬さんでしょうね」「根拠は?」「1人で責任を取る、という言葉を、今日だけで3回聞きました」言い返そうとして、紗奈は口を閉じた。自分だけで謝罪文を出すと言ったばかりだった。「すべて同意します。では、外に出ましょうか」正午。【NOVA・神宮寺律、パフォーマンスディレクター水瀬紗奈と真剣交際。「温
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第6話 初めて、私の名前を呼んでくれた人
月曜日の午後。LUXE本社7階、制作会議室。紗奈の前には、黒い革のバインダーにまとめられたNOVAの5枚目のミニアルバムの企画書と、デモ音源が置かれていた。〈リード曲『BLACK OUT』統括パフォーマンスディレクター契約について〉破格の契約金に加え、振付の創作者としての権利と二次使用料の全額保証。アルバムの公式クレジットには単独で名前を載せる。その条件が、契約書に細かく記されている。「黒川社長。申し訳ありませんが、このお話はお受けできません」紗奈は書類を閉じ、向かいへ押し返した。ソファで決裁書類を確認していた黒川が、不思議そうに眼鏡を直す。「水瀬さん。業界最高水準の待遇も、単独クレジットも保証しているのに、どうしてですか」「神宮寺さんの恋人役を引き受けた見返りでしたら、辞退します。誰かの力や同情で、経歴を積みたくはないので」声は揺れなかった。3年間、蓮の陰で名前を奪われてきた。だからこそ、クレジットと契約の条件だけは、安易に折れるわけにいかなかった。そのとき、背後の強化ガラスのドアが開き、律が入ってきた。練習を終えたばかりらしい。汗で少し濡れた黒い前髪をかき上げ、首には白いスポーツタオルをかけている。首筋と肩には、まだ踊ったあとの熱が残っていた。「同情、ですか」律は紗奈の向かいの椅子に座り、冷えた水のボトルを開けた。「水瀬さんは、自分の実力をそんなに信じられませんか」「実力の話じゃありません。世間も業界も、どう見ると思います? 神宮寺律の彼女だからコネで仕事をもらったって、言われるに決まってます」「何を言われても、結果で示せばいい。ステージは、そういう場所でしょう」律は水をひと口飲み、ドアのほうへ顎を向けた。「来てください。自分の目で確かめてもらいます」先に歩き出したが、紗奈がついてきているか確認しながら、歩調を緩めてくれた。案内されたのは、9階にある律専用の映像チェックルームだった。壁のスイッチを入れると遮光カーテンが開き、大きな8Kプロジェクターのスクリーンに青い光がともった。リモコンを操作すると、何年も前の、けれど画質のいい映像が流れ始めた。紗奈はそれが何かに気づき、息を止めた。4年前。デビュー組から外され、途方に暮れていたころ。下北沢の地下の小劇場で踊った、わずか3分のショーケース。そのステージを客
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第7話 元彼が嫉妬を始めた
火曜日、午後2時。代官山のカフェ。初秋の涼しい風と柔らかな日差しが、ガラス張りのテラスに降り注いでいた。屋外席から少し離れた路地と、向かいの建物には、望遠レンズを構えた記者たちがいる。事務所の広報部が念入りに段取りした、「初めての公認デート」だった。大理石のテーブルには、焼きたてのバジルスコーンと、アイスアメリカーノが2杯、きちんと並んでいた。「3時方向の路地と、9時方向の屋上にカメラがいますね」紗奈はサングラス越しに周囲を見回し、小声で伝えた。律がカップを置き、のんびりと口元を上げる。「わかっています。だから、もっと自然に。仲よく見せましょう」伸ばしかけた手が、紗奈の頬の手前で止まった。「口元にクリームがついてます。取っても?」紗奈はカメラのほうを一度見て、小さくうなずいた。律の親指が、唇の端をそっとかすめる。「演出、ですからね」「そこまで念を押されなくても、わかっています」一瞬の接触だったのに、視線をどこに置けばいいのかわからなくなった。演出だとは知っている。それでも、自分を見る律の表情だけは、演技に見えなかった。律が目配せで、ずり落ちたカーディガンを教えてくれる。紗奈は自分で羽織り直し、それから手のひらを差し出した。律がテーブル越しに、その手を取る。指が絡んだところで、低く柔らかな声が届いた。「今日の服、よく似合ってます。きれいですよ、紗奈さん」「それも、カメラ用ですか」律は遠くのレンズをちらりと見た。「あの距離では、唇の動きまでは読めません」「じゃあ、どうして言ったんですか」「聞いてほしかったので。紗奈さんに」思いがけない答えに、耳が熱くなった。通りのあちこちで、望遠レンズのシャッターが忙しく切られていた。そして、わずか1時間後。芸能掲示板とSNSに、2人の写真が瞬く間に広がった。【神宮寺律♥水瀬紗奈、代官山でテラスデート。甘すぎる視線に「こっちまでときめく」】【独占 隠せない溺愛ぶり! 神宮寺律、初の公認交際で見せた本気の顔】鮮明な写真の中で、律は紗奈の口元を拭いながら、優しく笑っていた。* * *同じころ、天王洲にあるZENITH本社3階、メイン練習室。誰もいない床に座り込んだ蓮は、画面が割れそうなほど強くスマートフォンを握りしめていた。足元には、潰れたエナジードリンクの缶と、くし
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第8話 俺が欲しいのは、お前が捨てた彼女
水曜日の午後。お台場のBAYテレビ・メディアセンター、3階の楽屋前。NOVAの新曲『BLACK OUT』の振付第1案について、ステージでの動線を確認するため、紗奈はテレビ局を訪れていた。手元のタブレットを確認しながら、廊下を進む。昨夜、マンションの前で騒ぎ、警備員に連れていかれた蓮の声が、まだ耳に残っていた。それでも紗奈は、仕事に気持ちを戻した。非常階段の角を曲がった瞬間、暗がりから伸びた手に手首をつかまれた。「あっ……!」声を上げる間もなく、階段の内側へ引きずり込まれる。重い防火扉が、バン、と閉まった。視界が暗くなる。目を血走らせ、荒い息で立っていたのは蓮だった。「紗奈、なんでずっと無視すんだよ。昨日、家の前で何時間待ったと思ってる?」つかまれた手首が、みるみる赤くなる。紗奈は冷たくにらみ返し、腕を振りほどこうとした。ヒールで彼の足の甲を踏み、体をひねる。手首は抜けた。だが、防火扉のノブに届く前に、蓮が再び立ちはだかった。「どいて。テレビ局でまたこんな真似をしたら、イメージが悪くなるだけじゃ済まないよ」蓮は退かなかった。紗奈の肩をつかんで冷たい壁に押しつけると、今度はすがるように言い始めた。「紗奈、俺が悪かった。莉々花とは、新曲の前にちょっと息抜きしただけだって! 全部切るから、頼む、戻ってきてくれ」「……は?」「お前がいないと振付も決まらないし、ステージのバランスも崩れるんだよ! 神宮寺との偽装恋愛なんか今すぐやめろ。俺のこと好きだろ。俺を成功させるために、3年も尽くしてくれたじゃないか!」本当に悪かったなど、少しも思っていない。今も紗奈の献身も才能も、当然のように自分のものだと思っている。3年間好きだった男が、どれほど卑怯で、自分本位なだけの人間だったのか。嫌というほど突きつけられた。「いい加減、目を覚ましてよ、蓮」紗奈は低く、はっきり言った。「好きだから始めたのは本当。でも、あの振付の価値は、私が働いて、私の才能で作ったもの。あんたはそれを、自分のものみたいに盗んで使った」「紗奈……!」「私の中では、もう終わってる。手を放して、そこをどいて」蓮の顔が、ぐしゃりとゆがんだ。「お前、どこまでつけ上がれば……!」紗奈の頬に向けて、手が振り上げられた。その瞬間。バンッ!非常階段の鉄扉が、壊れそうな音
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第9話 偽装恋愛なのに、どうしてときめくの
その夜は、なかなか眠れなかった。非常階段で蓮を遮り、自分に手を差し出してくれた律の顔と声が、何度も浮かんでくる。『俺は、紗奈さんに本気なんだよ』ベッドに横たわり、天井を見つめていても、そのひと言と、つないだ手のぬくもりが消えなかった。マスコミ対策の、見せかけの恋愛。そう言い聞かせても、あの目まで演技だったとは思えない。木曜日の午前。LUXE本社1階の廊下で会った律は、昨日とは違い、いつもの涼しい顔に戻っていた。「昨日のことで、一晩中悩んでいたんですか。目の下、ずいぶんくまができてますよ」軽く笑い、冷たい紗奈の手に、テイクアウトのアイスアメリカーノを持たせてくれた。カップの側面には、シロップなし、ショットを1つ追加と、いつもの注文が正確に書かれている。「私の注文、どうして知ってるんですか」「火曜日のカフェで、同じものを飲んでいたでしょう」「覚えてたんですか?」「仕事に必要な情報は、よく覚えるんです」仕事と言うわりに、口元は少し上がっていた。シャツの襟をわずかに緩めてコーヒーを渡す姿には、昨日の張り詰めた雰囲気など、かけらもない。「律さん。昨日、非常階段で蓮に言ったこと……」顔を赤くしながら切り出すと、律は肩をすくめた。「一ノ瀬の前であえて口にしたのは、戦略です。一番効くカードを切らないと、また平気であなたの前に現れるでしょうから」「じゃあ、言った内容も戦略ですか」律はコーヒーの蓋を一度、押さえ直した。「嘘だとは言っていません」ほっとしていいのか、余計に混乱すればいいのか、わからない。律はそれ以上説明せず、エレベーターのボタンを押した。ドアが開いても先には乗らず、紗奈が入るまで横に避けて待っている。紗奈は、意味もなくコーヒーの蓋をいじりながら、その前を通った。今の答えをもう一度問いただしたら、契約の3つ目の条項から破ってしまいそうだった。――何を期待してるの、私。これはもともと、蓮に対抗し、新作への影響を防ぐための、1か月限りのビジネス契約。それだけだったはずなのに。* * *午後9時。本社地下1階の大きなダンススタジオ。紗奈は床に蛍光テープを貼り、センターラインと移動先の印をつけ直した。気持ちが乱れているときほど、仕事の基準は正確でなくてはいけない。律は黙ってテープの端を押さえ、紗奈のカウントを待って
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第10話 売名女のレッテル
金曜日、午前8時。紗奈を狙った悪意ある記事が、大手ニュースサイトの芸能欄を覆った。ZENITHと接触していた複数の芸能メディアが、示し合わせたように、でっち上げの暴露記事を配信したのだ。【独占 神宮寺律の恋人・水瀬紗奈の「裏の顔」。一ノ瀬蓮へのストーカー行為、売名目的の乗り換え疑惑が拡大】匿名の大手掲示板には、悪意をもって切り取られた過去のメッセージ画面や、偽の証言が次々と投下された。〈無名時代の一ノ瀬蓮につきまとい、売れてからは甘い汁を吸うだけ吸って、トップの神宮寺律へ乗り換えた悪質ディレクター〉〈NOVAの新作を潰すため、計画的に近づいた危険な追っかけ女〉巧みに作られた物語は、無責任な怒りと好奇心をあおるのに十分だった。紗奈の個人SNSには、何万件もの人格を傷つける言葉が書き込まれた。一部の過激なファンからは、不買運動やLUXE本社前での抗議活動まで予告された。電話は鳴り続け、住所を突き止めた記者たちがマンションのエントランスの外に陣取っている。広報部からは、投稿や記事が削除される前に、原文を保存してほしいと頼まれた。紗奈は日付とURLを添え、フォルダーに保存した。そのたびに、侮辱的な見出しを読み直さなければならなかった。通知を切っても、画面上の数字は増え続ける。「水瀬さん、しばらく外出は控えて、ご自宅にいてください」紗奈は記事に添付されたメッセージの画像を拡大した。残っているのは、自分が蓮の予定を確認している文面だけ。その前後にあった、蓮のほうから振付の修正を依頼してきたやりとりは、切り取られていた。3年間、仕事のために送った連絡が、ストーカー行為の証拠に変えられている。怒りはあった。けれど、それより先に頭をよぎったのは、律とNOVAに及ぶ被害だった。スマートフォンを伏せ、契約を終わらせたいと伝える文章を書き始める。紗奈は作業机の上の書類を整え、バッグを手に取った。契約恋愛を今すぐ終わらせ、自分が前に出て説明する。それでも収まらないなら、業界を離れることまで考えた。ノートパソコンに謝罪文の下書きを開く。最初の1文を3回書き直した。それでも、どの言葉も事実を正しく伝えてくれない。結局、空白の画面でカーソルだけが点滅していた。〈すべての責任は、私にあります〉そう打って、消した。自分が責任を負うべきなのは、衝
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