凛の部屋で、エマと共に推しについてを考えてから一週間がたった。 しかし、俺は推しについてまだ一文字も書けていない。 凛に推しについて考えておけよ、なんて偉そうに言っていたのが恥ずかしい。 結局、推しがプリンっていうのも陽川に認められていたし。『人が何を好きになろうと人それぞれ。凛のことをあなたが否定できるいわれはあるの?』 と、なぜか俺が陽川に咎められたくらいだ。 別に俺は否定なんてしていなかったし、凛が陽川に推しについての原稿を見せていたのを横から見ていただけなのに。 ちょっと酷いと思う。 プリンはないだろって心の中で思っていたのは事実だが。 でもまあ、凛がエマに固執することなかったのはいいことだと思うけど、 なんてことを考えていたら、前の席の吉岡がこちらに振り返った。「桐生、お前呼ばれてるぞ」「へ?」 完全に自分の世界に入り込んでいて授業中ということをすっかり忘れていた。 クラスメイトたちが俺の方を見ていた。「桐生くん。早くでてきなさい!いらないならホワイトボードに貼り付けてみんなにも見てもらうけど」「は、はい!」 慌てて立ち上がると、教卓の方へ向かう。 なにせ今は化学のテストを返しているところで、化学の教師である理科ちゃん(年配のおばちゃん)がカリカリとした様子で答案様子をホワイトボードに貼り出そうとしていたからだ。 俺が近づいていくのを見ると、理科ちゃんはテストを俺に手渡してくれた。 その時に一言だけ言った。「とっても残念です」 心をざわつかせるには十分な嫌な一言だった。 恐る恐る採点結果を確認すると、35点。 40点以下が赤点だと最初に発表していたからそれを下回っていることになる。 あーやっちまったなあ。 ここまでに返還されたテストはすべて、低空飛行ながらもギリギリ赤点は回避していたのに。 テストを貰って席に戻ると、ニヤニヤと笑みを浮かべた吉岡が待ち受けていた。「どうだったんだ?桐生」 この余裕な感じ、吉岡は余裕でクリアしたのだろう。 こいつにはバカにされたくないなと思って、すぐに机の中にしまってしまった。「余裕だよ」「ふーん。なんだ。つまんねーな」 横の席の凛は、答案用紙を誰かに見られてしまうのを気にする素振りもみせずに机の上で広げていた。 見たくもなかったけど点数が見えてしまった。
なにやら面倒なことになった。 俺も推しについて発表をしなければいけなくなってしまった。 以前、凛に推しを考えておくようにと偉そうに言ったことがあったが、そんな簡単なことではないと思い知らされた。 でも意外なことに、目の前で推しについて書き物をしている凛は、次々と方眼紙のマス目を埋めていく。 その横に座るエマも、たまに考えるような仕草をみせるが、少しづつ書き進めているようだ。 もちろん俺の前の方眼紙はまっさら。なにも書かれてはいない。「なあ凛。そんなにテキパキ書くって何について書いているんだ?」 そう聞いた直後に不意にエマと、目があった。そこでピンときた。 って、まさか……こいつ、エマについて書いているわけじゃあないよな? 推しなのはたしかだろうがそれはやめておいたいいと思う。「本当だ。凛ちゃん凄いねー。ちょっと見せてっ」 そう言うとエマは、凛の方眼紙を覗き込んだ。 凛はそれを振り払うような素振りはみせない。 絶対にこれはやばいやつだ。 そう思って俺は、咄嗟に凛の方眼紙を奪い取った。 当然、凛もエマも啞然とした様子だった。 でもさ、せっかくできた友達がいなくなるのは可哀想じゃないか。 距離は徐々につめていかないと。「ちょっと桐生くん、急にどうしたの?」 心底びっくりしたと言った感じで、エマはそう聞いてきた。 そんなのバカ正直に答えられる訳もない。「せっかくだったら俺が代読してやろうと思ってさ」 もちろん、ここに書かれているだろう、エマについてのことを読み上げるつもりはない。 かわりになにか適当なものをでっち上げて、読み上げている風にしてやろうと思ったのだ。 これも凛に対する親心みたいなものなのだろうか。 あまりに不器用すぎて不憫になるからな。こいつは。 俺のそんな気持ちは本人は知る由もなく、首を傾げてこちらを見ていた。「いいの?凛ちゃん」 そんな凛を心配してエマは声を掛けるが、凛は飄々とした態度で答えた。「う、うん。別にいいよ」 本当にいいのかよ。絶対に良くないよなあ。 はあ。心の中ででかいため息を吐いてから、凛に向き合った。「じゃあ、俺が何を言おうと文句はなしな?」 これは予防線ではない。あくまでも凛を守るための絶対防衛線なのだ。「うん」 本人はにこやかに微笑んでいるつもりなのだろうが、上手く
地獄の中間テストも終わり、下校をしようとしていた昼過ぎのことだ。 帰ったら勉強疲れの脳を労ってやろう。糖分を補給してやろうとウキウキしていた。 だけど、普段は俺相手に向けることはない柔和な笑みを浮かべ、陽川が俺の前に立ちはだかった。「えっと、陽川さん……?なんか、とっても不気味なんだけど、俺になんのようかなー?」 陽川は途端に表情を崩し、右手で自らの額をおさえた。頭痛が酷いのだろうか?「まったく、あなたには呆れるわ。エマと凛から話しは聞いていたはずじゃない」 エマと凛から……あっ。思い出した。 先週、凛の家に呼び出されて、何か約束事を取り付けられたような気がするがなんだったけな。 陽川も絡んでいたのは間違いないが。「……心の声みたいに語っているけど、全部口からダダ漏れなのよ。別にあなたがやりたくないのならそれでもいいわ。エマと凛は協力してくれるだろうから」「ちょ、ちょっと待って!」 背中から声をかけてきたのは凛だった。 凛は俺と陽川の間に入り、必死に言い訳をし始めた。「あの、きっと、陽葵も忙しくて、忘れていただけだと思うから、許してあげて。ね、陽葵?」「……」 陽川はそれをじっと見つめていたのだけれど、次の瞬間にはフッと一つため息を吐き出して、「凛がそう言うのなら、仕方ないわね」と諦めたような口調で言った。 ストーリー事件の件では凛に助けられたようなもんだからな。頭が上がらないらしい。 凛にオドオドとした不安げな瞳で見つめられていたら、こんな茶番なんてどうでもよくなってしまった。「ああ。そうだ。勉強疲れで忘れていたんだ。たしか……学園祭の準備の手伝いをすればいいんだったよな」「……あなた、最初からわかっていて、逃げようとしたわね」 実際のところそれは事実だ。手伝いをお願いされていたのをついさっきまで忘れていたのは事実。 陽川が立ちはだかった時にはすっかり思い出していたのだから。「鬼の前で嘘をつくわけがないだろう?」「鬼ってまさか……わたしのことを言っているんじゃないでしょうね?」 陽川の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。軽口で言ったつもりだったのに、クリティカルヒットしてしまったらしい。「……言い間違えだ。鬼は嘘をつけないんだってさ」「つまり、あなたは鬼ってことで嘘はつけないのね。よーく、覚えておくわ」
無機質な部屋に置かれたローテーブル。マグカップが置かれていない所を選んで腰を下ろすと、その正面に凛が座った。 凛と向き合って座ると、初めて会った頃を思い出すな。 思わずため息が漏れてしまう。これは凛のことが嫌だからでてしまったため息ではなくて、落ち着いているからこそのものだ。 そんな俺のため息を咎めることもせずに、凛は無言で俺を見ていた。「で、せっかくエマと二人になれていたのに、俺を呼んだ理由はなんだ?」 きっと、困ったことがあったはずなのだ。 そうでなければ、この状況で俺に声をかけてくるのがおかしな話だ。「あ、あのね、姫ちゃんから相談されたことがあってね、それを陽葵にも手伝って貰おうって話になったの」「陽川から相談ね」 なんかまた面倒ごとの匂いがする。 つい先日、陽川のストリー問題を解決したばかりだから、つい身構えてしまう。「……とりあえず内容は聞くけど、どんな相談なんだ?」「う、うん。学園祭のクラスのリーダーって、姫ちゃんと吉岡くんになったのは覚えてる?」「あー、なんかそんなこともあったな」 ストリー騒動の初めの方のだったと思う。 たしか、なにか考えごとをしている最中に全てが決まってしまっていたんだったな。 凛の言うとおり、クラスのリーダーは陽川と吉岡に決まった。 クラスの出し物はなにに決まったのかはよく覚えていない。……というより知らないと言ったほうが正しいだろう。「クラスの出し物、喫茶店やるってことになったよね?でもね、それ、ダメになっちゃったんだ」 そうなのか。喫茶店をやることになっていたのか。初耳だった。「なんでダメになったんだ?」「飲食店を出せるクラスの数が決まってるんだって。上級生優先だから、ダメって言われたみたい」「ふーん。なるほどな。それとこれ、俺に何の関係があるの?」「姫ちゃんからお願いをされたの。陽葵を私とエマちゃんで誘ってくれないかって」 俺がすべてを理解しているように話しているけど、もっと説明が欲しいところだ。現代文の成績が物語っているように、俺に行間を読む力はないのだから。 わからないところは、ある程度仮説を立てて話を続けることにする。 エマが帰ってくるのを待って、話をしたほうが効率はいいだろうけど。「誘うって言うのは、学園祭の準備に俺も協力してほしいってことか?それとも、ダ
自転車を飛ばすこと二十分。 凛のアパート前に到着。 相変わらず、陰鬱としたオーラを放っているアパートだな。 凛の住処にはこれほど相応しいものはないように思えた。 それと同時に、天使のような存在であるエマもここに居るということに違和感を覚える。 敷地内の邪魔にならなそうな端に自転車を止めて、今にも崩れ落ちそうな鉄骨階段を登った。 凛の部屋の扉の前まで行き、今日はいつもと違う、スマホを取り出して、インカメラで髪を整えていると、唐突に扉が開いた。 バコッ! 勢いよく開いた扉は俺の額に激突。 突如襲ってきた激痛に思わずしゃがみ込んだ。「……大丈夫?」 鈴の音のような声が俺を心配していた。「めちゃくちゃ痛かったけど、多分大丈夫」「ちょっと見せてみて」 そう言って、エマはしゃがみ込むと、俺の顔、特に額の辺りを覗き込んだ。 近い。エマの息遣いが感じられるほどの距離だ。 思わず息を呑んだ。「うん。ちょっと赤くなってるけど血も出てないし、大丈夫そう。……良かった」 エマは嘘偽りのないであろう言葉をかけてくれた。その言葉には心がこもっている。「……なんか悪いな」「なんで桐生くんが謝るの?謝らなければならないのは私の方なのに。ごめんなさい」「大丈夫だから。うん。本当に気にしないで」「扉を開ける時は気をつけないとね。次からはしっかり覗いてから開けるようにします」 エマは見たものを極楽浄土に導いてしまいそうな笑みを湛えて言った。 思わず見惚れて、額の傷みも忘れてしまうほどだった。「ふ、二人とも、なにしているの?」「うわっ!?」 突如、ボソボソとした口調で話しかけられたせいで、思わず悲鳴をあげてしまった。 べつに、罪悪感があったからではないのよ?「凛ちゃん。あのね、いま私が扉を開いたときに、ちょうど桐生くんが立っていて、頭をぶつけてしまったの」「だ、大丈夫?」「このとおり大丈夫だ」 凛も心配そうに俺の顔を見ていたから、額にかかる前髪をどけて健在ぶりをアピール。「赤くなってる」「このやりとりも二回目だからな」 そういいながら、凛の額にデコピンをみまってやった。「あうっ」 額を押さえてうずくまる凛。「凛ちゃん。大丈夫?」「だ、大丈夫慣れてるから」「慣れてるって、どうして?」 エマは疑いの目を俺に向けるが、こいつが
放課後。家に帰ってからのできごとだ。 最近勉強をしっかりしていなかったこともあって、俺は机に向かっていた。 来週は中間テスト。 苦手な化学の暗記問題を頭に叩き込んでいるところだ。 縦が属。その一番がアルカリ金属で、二番がアルカリ土類金属。 その違いが何なのか俺にはよくわからない。 そもそもアルカリ金属類なのに一番に水素がいるのはどういう理屈なんだ? 許せない。金属ってのはキラキラピカピカしてるもんだろうよ。なんで目にも見えない触れる事もできない物をそう、扱うんだ。 他にも金属か怪しいのが混じってるし。 そもそも周期表ってなんだよ。誰がなんの為につかったんだよ……「はーやめだ。やめ」 俺は静かに教科書を閉じた。 数1もやりたくないし、現代文なんて理解すらしたくない。 よし、今日のところは世界史をやるとしよう。 過去から学ぶってのは大切だって言うしな。 うん。 一人で納得して世界史の参考書を取りに本棚に向かうと、やたら派手な背表紙の本が目に入った。『恋愛心理戦──恋愛心理学を制す者は青春を制す──』 今となっては、懐かしくも思える本だ。 なんとなしに本を手にとってペラペラとめくってみる。 あれもこれも使おうとして失敗した心理学ばかりだった。 まだ、使っていない物もあるな。 ピグマリオン効果にダブルバインド、スノップ効果にカリギュラ効果。 もう使うこともないだろうけれど、ペラペラとページをめくって目を通すだけですんなりと頭に入ってくる。 こんだけ、周期表もすんなり覚えられればいいのにな。 ダブルバインド効果なんて、エマを誘うのに使えそうな心理学だな…… いや、だめだろ。エマは凛とくっつける為にあそこまでしたんだ。 今更、俺の出る幕はない。 少し虚しい気持ちになった。これ以上落ち込みたくもないから、世界史の参考書に手を伸ばした。 ちょうど、そのタイミングだった。 口笛のような着信音が室内に響き渡った。 どうやら誰かからメッセージが届いたようだ。 参考書を机の上に置いて、触らないように鞄の中にしまっていたスマホを取り出す。 そして、メッセージの送信者の名前を見て震えた。 矢野エマ。 しかも、グループメッセージではなかった。 個人宛に送られてきたメッセージだった。 頭では分かっているのに、それでもワク