「すぐに意識の焦点を、すべての内的な映像や音から切り離して、俺の指示に従って!」「君の右手側に光がある。何が見えようと関係ない。ただその存在を感じて、光のある方向を探して。見える必要はない。方向を感じるだけでいい。どうですか、光の方向が感じられえう?」光......光を探す......極度の恐怖の中で、由佳はかすかな方向感を捉えたようだった。身体が無意識にほんのわずかに動いた。「よし!その方向が感じられたね。では、その光の方向に向かって足を動かして!自分がしっかりとした地面を走っている、あるいは歩いていると想像してください。一歩一歩、君は不快な闇から遠ざかっていく」「そう、それでいい。そのまま動き続けて。足元の確かな感触を感じて。闇は背後に退いていき、前方には光が、少しずつ、はっきりと、そして温かく現れてくる」由佳の呼吸がやや落ち着き、震えも少しずつ収まってきたころ、ボブ教授の声はさらに低く、穏やかなトーンになった。「とてもよくできている。君は今、成功裏に脱離のプロセスを進めている。ではゆっくりと、意識の焦点を内なる光から、身体の外の感覚へと移していこう」「背中が治療用の椅子にしっかり支えられているのを感じてください。腕に触れている私の手の温かさと圧力を感じてください」「私の声が、はっきりと安定して耳元に届いているね。同時に、アンダーソン博士が機器を操作している微かな音にも意識を向けて。それが現実の音だ」「準備ができたら、ゆっくりと、まずはうっすらと目を開けてみて。焦らなくていい。まぶたの重さを感じて、それから、光をほんの少しだけ入れてください。ここの光は柔らかく、安全なものだ」やがて由佳の呼吸は安定し、命拾いしたようなかすかな虚脱感が残る中で。長いまつげが微かに震え、そしてまるで羽化した蝶のように、恐る恐る、ゆっくりと、ようやくその瞳が完全に開かれた。瞳孔はまだ少し拡大したままで、深い恐怖の痕跡を宿し、顔色は紙のように蒼白、冷や汗がこめかみと首筋を濡らしていた。最初に映ったのは、ボブ教授の慈愛に満ちた表情、そして心配そうに見つめるアンダーソンとリナの顔。「覚醒、成功だ」ボブ教授はモニターを一瞥し、数値が次第に正常に戻っていくのを確認した。由佳は深く息を吸い込みながらも、心臓の鼓動はまだ速かった。「由佳
これが彼女とベラの初めての出会いだった。「ベラ、元気いっぱいの友達みたいだね」ボブ教授の声は励ますように温かかった。「どんな話をした?その時の気持ちはどうだった?」そよ風が吹き抜け、由佳の透明な身体をすり抜けていた。なんとも不思議な感覚だった。彼女は自由に学のキャンパス内を漂い、知り合いを見つけると嬉しそうに近づいていった。二人の少女が並木道を歩いていた。ベラは大きなアイススムージーを注文し、バスケットボールの練習での面白い出来事を楽しそうに話していた。若い由佳はその話に笑い声を上げていた。学業のこと、嵐月市のグルメ、週末の予定......懐かしい場面だった。陽光が二人を包み込み、空気にはコーヒーの香りと無邪気な青春の匂いが満ちていた。由佳はベラのスポーツタンクトップにほのかに残る洗剤の香りや、彼女の瞳に宿る真剣な輝きさえ思い出せた。脳波モニターにはα波が安定して活発に出ており、β波も適度で、由佳が安心し楽しげな記憶の中に浸っていることを示していた。リサは手帳に素早く書き込みながら言った。「積極的な記憶想起、感情はポジティブ、生理指標も安定」ボブ教授の声はさらに穏やかに、その貴重な記憶の芽を優しく包み込むようだった。「いいね、由佳さん......その友情の温もりを全身で感じて......信頼と喜びを味わって......それが君を支えてくれる......」治療室には静寂と安らぎが広がった。「ベラ、フェイ、君たちここにいるのか?!」その時、背後から澄んだ男性の声が割り込んできた。知り合いの声だろうか。ベラと若い由佳は振り返ろうとしたが、映像は突然歪み、色を失い始めた。温かな並木道の景色は割れた鏡のように砕け散り、蜘蛛の巣のようにひび割れが広がった。変化はほとんど一瞬のことだった。未知の恐怖に由佳は動けず、さらに透明になった。濃く重たい黒い霧が突然襲いかかり、すべての光と色彩を瞬時に飲み込んだ。その霧は冷たく粘り気があり、表現しがたい吐き気をもよおす金属と消毒液が混じった臭いを放っていた。「いや......」由佳の喉から抑えきれない息遣いが漏れ、身体は治療椅子の上で硬直した。アンダーソンはモニターをみて、早口で報告した。「心拍数が一気に162まで上昇、脳波のθ波とδ波が異常な発作を起こ
「由佳さん、昨夜はあまり眠れなかったようだね」ボブ教授は由佳の目の下の淡い青みを見て、すぐに気づいた。「治療を始める前に、最良のコンディションであることが大切だ」由佳はかすかに笑みを浮かべた。「昨夜は少し忙しくて、寝るのが遅くなったの」「これをどうぞ」ボブ教授は一杯のハーブティーを手渡した。「リラックスに効果があるよ。前回の評価結果はとても良好だった。今日は記憶喚起の第一段階に入るが、想像よりもずっと楽なはず」由佳は温かいお茶を少しずつ口に含んだ。ハーブの香りが張り詰めていた神経を少しほぐしてくれた。まもなくリサとアンダーソンも診療室に入り、治療の準備に取りかかった。「教授、準備完了です」アンダーソンが声をかけた。「由佳さん、ご準備はよろしいですか?」「はい」「では、始めましょう」由佳はカップをテーブルに置き、治療椅子に横たわった。アンダーソンがモニタリング機器を装着する。機械がかすかな振動音を立て、脳波モニターの画面がやわらかな光を放ち始めた。ボブ教授が装置をいくつか操作すると、部屋の照明が温かく落ち着いた色調に変わり、壁の色も自然なトーンに染まった。ホワイトノイズがゆるやかに流れ出し、まるで広々とした自然の中にいるかのようだった。そよ風を模した空気が顔に当たり、由佳は驚いたように口を開いた。「すごい」「それを見てください、由佳さん」ボブ教授が懐中時計を手に持ち、潮の音のように低く穏やかな声で語りかける。「雑念を捨てて、もっと単純で明るい時間へ戻っていこう。あなたは今、見慣れた並木道を歩いている。木漏れ日が地面に揺れていて、草と土の匂いがする」やわらかな音楽が背景に流れ、小川のせせらぎや鳥のさえずりが自然な環境をシミュレートした。由佳の視界はだんだんぼやけ、身体はゆっくりと弛緩し、意識はまどろみの中へ。いつの間にか目を閉じていた。「今、時間が流れていく。君の姿が見えるね。少し若い自分。そこはどこ? 大学のキャンパスか?」由佳の意識は柔らかく導かれるように、黒い闇の中に映像が現れ始めた。嵐月市だ。見慣れたゴシック建築、赤レンガの壁、緑に囲まれた小道。「嵐月市、大学のキャンパス」由佳の声には、どこか懐かしさがにじんでいた。「よし。その青春の空気をたっぷり味わってください。君は何をしてい
冷たいタオルの下、闇の中で由佳は一瞬だけ安堵の吐息を漏らした。部屋の中では太一が行ったり来たりと歩き回る音がしていた。カーペットの上を革靴がこすれ、鈍く乾いた音が響いた。「あとどれくらい残ってる?」低く抑えた声で由佳が尋ねた。「あと数百件ってところかな」由佳は顔のタオルを外した。冷たさがまぶたからゆっくりと引いた。体を起こし、残りの資料に目を通していく。ほどなくして、最後の一枚にたどり着いた。写真の中の見知らぬ顔が、機械的な笑みを浮かべている。それがまるで、この無駄な探索をあざ笑っているかのようだった。「......いない」資料をざっとまとめながら、紙がぶつかり合って鈍い音を立てた。「千件以上も調べて、一人も該当者がいなかった」太一はあらかじめ覚悟していたようで、落ち着いていた。「無駄足だったとはいえ、少なくとも分かったことがある。ルーカスはKLグループの内部職員じゃない」由佳は黙っていた。太一は顎に手を当て、興味深そうに尋ねた。「でもさ、ロバートは出世までしてるのに、ルーカスはあんなに秘密裏に手を貸してたんだろ? それなのに、よく彼を手放す気になったよな」由佳はしばし考え込んだ。「KLグループ傘下の病院は待遇もかなり良い。ルーカスがあんな仕事をしていたなら、むしろグループと密接に結びついていたはず。待遇もロバートに劣らなかったはずよ。なのに、なぜ辞めたのか」太一も真剣な顔になった。ふと由佳が何かを思い出したように口を開いた。「もしかして、辞めたんじゃなくて、表に出てこなくなっただけかも」「どういう意味だ?」「私の知っている限り、KLみたいな病院は大学や教授たちと提携して、医学・薬学系の研究室を運営してる。ルーカスほどの人物なら、そういった研究に重きを置いてる可能性がある」「それは一理あるな。まあ、遅くなったし、俺はもう寝るよ。続きは明日な」太一はこめかみを指で押さえた。資料整理だけでも、かなりの労力だ。太一が帰ったあと、由佳は身支度を整え、ベッドにもたれて少し休憩したのち、iPadを手に取った。ボブ教授から教えられたURLを入力した。ボブ教授によれば、催眠で記憶を消すことができて、しかも副作用がない。そんな技術を持つ人物は世界に二十人もいない。その全員が、心理学界でも名の通った大物
太一:「彼が本物の医者だと確信できるなら、KLグループ傘下のすべての病院の医師名簿と写真を入手して、君に確認してもらう方法がある」これほど機密性の高い件に関わった以上、KLグループが彼を外に出すはずがない。礼音は現場にはいなかったが、ずっと電話を繋いでおり、録音も聞いていた。彼は太一の提案にはあまり賛成ではなかった。効率が悪すぎると思ったのだ。だが、太一が二度もその案を口にしたため、こう言った。「当時、この計画に関与できたってことは、ルーカスは相当重用されてたってことだ。今なら、少なくとも医長、あるいは分院の院長か副院長、ロバートみたいな管理者になってる可能性もある」この推測が正しければ、かなり範囲を絞ることができる。「了解」太一が答えた。医師の名簿と写真を集めるのは難しいことではなかった。病院の公式サイトに経歴や専門分野まで載っており、患者が医師を選んで予約しやすいようになっている。礼音:「ロバートの行動予定はもう把握した。来週の火曜日、嵐月市に来る予定。彼が来る時は、必ずブルーベイホテルに泊まる。今回もおそらく同じだろう。準備しておいてくれ」由佳「わかった」太一は部下と一緒に資料を整理していた。アパートのテーブルの上には分厚い資料の束が広げられ、エアコンの冷風の中、インクの匂いが漂っていた。KLグループ傘下の病院は100以上、医療スタッフは数千人。その写真が一枚一枚きちんと並べられている。どれも白衣を着て、職業的な微笑みを浮かべ、どこか共通した疲労感を目に宿していた。「医長以上、神経外科から始めよう」太一は100枚を超える資料を由佳の前に差し出した。「さあ、始めよう」その量を見て、由佳は頭がくらくらした。だが、彼の顔を覚えているのは由佳だけ。他に手段はない。彼女の指先が写真の上をすべった。一巡目の確認が終わり、彼女は首を横に振った。「いない」どうやらルーカスは神経外科の医師ではなさそうだ。太一は今度、KLグループ傘下の全病院の院長、副院長、そして管理者の資料を由佳に手渡した。理屈の上では、この中にルーカスがいるはずだった。だが、由佳は全員の写真を見終えても、またしても首を横に振った。「じゃあ、対象を全院に拡大しよう」太一は残りの資料の束を由佳の前に置いた。「全病院の全科の医長、全
賢太郎は雪乃の肩を軽く叩き、「次は必ず失敗しないよう、チャンスを見つける」と言った。「じゃあ、もう一度だけ信じる」と雪乃は彼をじろりと睨み、「もうここにはいられない、先に行くね」と言って立ち上がった。「待って」と賢太郎が彼女の腰を引き寄せ、身をかがめて唇にキスを落とすと、「行っていいよ、外に人を待たせてある。来た道を戻ればいい」と言った。「うん」部屋を出ると、雪乃はひそかに胸を撫で下ろした。今回の計画は、なんとか無事に収められた。けれど、賢太郎が次の計画を口にしていたのを思い出すと、頭が痛くなる。雪乃は複製されたLINEアカウントを開き、グループ内での夏の海のメッセージを確認してから言った。「賢太郎、まだ次の計画を立てるつもりらしい。早く何か仕事でも与えて、手を離れさせて」千の帆:「了解」波:「この男は厄介だ。いっそ計画を前倒しするか、彼を排除するしかない。遅かれ早かれ、何かに気づくぞ」雪乃:「前倒しでいこう。加奈子が結婚したら、すぐに実行。準備はできてる?」夏の海:「もちろん」その夜、雪乃のもとに、賢太郎が出張に出たという知らせが届いた。嵐月市。「そうだ、前に病院へ行った時、神経内科でメガネをかけた、四角い顔立ちの医者を見たことがある。患者たちはルーカスとか呼んでた気がする。彼、今どこにいるんだ?俺の病気を治せたりしないかな?」若い人の声が問いかけた。「ルーカス......?いやいや、そんな医者は病院にいなかったよ」答えたのは年配の男で、酔っているらしく、声もややろれつが回らなかった。「本当?俺、間違ってないと思うんだけどなあ......」「間違ってるさ!もうこんな時間か、そろそろ帰らなきゃな」「マーカス、もう少し飲もうよ。滅多に飲めないいい酒なんだ、今日は俺のおごり。ほんとにもう帰る?」「じゃ......じゃあ、少しだけ......ちょっとだけな......」しばらく雑音が続いた。ボディーガードは録音を早送りし、大切な部分で再生を止めた。「なあ、6年前にこの病院に、どこからか見知らぬ人たちが数人来たって話、本当?」若者が訊いた。マーカスは酒に酔っていて、ぼそぼそと何かをつぶやいた。たぶん録音設備を近づけたのだろう、マーカスの声がようやく拾えた。「......おかし