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第263話
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山口社長もう勘弁して、奥様はすでに離婚届にサインしたよ 第1479話
柔らかな音楽が流れ、観葉植物が青々と生い茂る空間には、プロフェッショナルで整然とした、そしてどこか思いやりを感じさせる雰囲気が漂っていた。ベージュのスーツをきっちりと着こなし、完璧なメイクを施した若い女性スタッフが、マニュアル通りの笑顔を浮かべながら近づいてきた。「こんにちは。どのようなご用件でしょうか？」由佳は一歩前に出て口を開いた。「すみません、少しお尋ねしたいのですが、エマという名前をご存知ありませんか？8年前に」受付スタッフは整った眉をほんのわずかにしかめ、礼儀正しくもどこか冷たく、交渉の余地を感じさせない口調で由佳の言葉を遮った。「申し訳ありませんが、当協会は主に会員様への健康相談を行っており、取材などの対応は行っておりません」「取材？違うんです」由佳は慌てて否定した。わずかに震える声と、腹部の前でぎこちなく手を組む動作で、不安を抱える母親を見事に演じていた。「子どもがとても珍しい血液型だと診断されて、特別なケアが必要です。友人から、こちらの協会なら何か手助けしてもらえるかもしれないと聞いて。入会する前に、少しだけ詳しい情報が知りたくて......特に、以前に何かあまり良くない報道があったと」その言葉に受付スタッフの表情が一変し、より大きく、より親しみのこもった笑顔を浮かべた。声も先ほどよりさらに柔らかく、甘ささえ感じられた。「そういうことでしたか。ご事情、よくわかります。特別な血液型を持つお子さまをお持ちの親御さんなら、慎重になるのは当然ですよね」彼女は横に身を引き、「こちらへどうぞ」と手で示した。「ラウンジの方で、当協会の理念や現在提供しているサービス内容について、簡単にご説明いたしますね」先ほどの冷たい拒絶の態度はまるでなかったかのような、180度の豹変ぶりだった。彼女が先導するその背中を見ながら、由佳は太一と無言で深刻な視線を交わった。ソファスペースに案内された二人。由佳は腰を下ろし、手をすり合わせながら、助けを求める母親を装い続けた。「その不快な話題を持ち出してしまって、本当にすみません。ただ、知人がニュースのことを言ってきて、子どもを協会に入れようとしていると知って、とても強く反対されて。私たちはその記事を信じていないですが、やはり一度ちゃんと聞いておいた方がいいかなと」受付スタッフは、なるほどといっ
山口社長もう勘弁して、奥様はすでに離婚届にサインしたよ 第1478話
チャーリー老人は、まるですべての力を吸い取られたかのように、曲がった背中が完全に崩れ落ち、ギシギシと音を立てる椅子に力なく腰を沈めた。由佳は、その瞬間に打ちのめされた老人の姿を見て、胸の奥から深い悲しみと怒りがこみ上げてきた。彼女も太一も言葉を発せず、しばらく沈黙が続いた。数分後、老人の表情が少し落ち着いたのを見て、由佳は口を開いた。「チャーリーさん、思い出していただけませんか。あのときジェイミーを連れて行った人たちが、何を言っていたのか。何か書類を残していませんか？ 紙切れ一枚でも、名前でも、団体名のかすかな記憶でもいいんです。どんな些細な情報でも、ジェイミーを見つける手がかりになるかもしれません！」老人は長い間黙ったままだったが、やがてゆっくりと立ち上がり、コートハンガーのそばに向かった。細く枯れた指が震えながら、古びたジャケットのポケットをまさぐる。そしてついに、角がすり切れた、一枚の丁寧に折りたたまれた紙を取り出した。彼はその紙を震える手で机の上に広げた。紙は黄ばみ、脆くなっており、印刷された文字は一部かすれていたが、上部の見出しだけはくっきりと目に焼き付いた。デラウェア州 特別支援児童ケアセンター 受け入れ通知書下には形式的な文言が並び、「ジェイミーを当センターでの専門的な看護・教育の対象として受け入れる」といった内容が書かれており、末尾には不鮮明な印章と、印字された署名が記されていた。「これだ......」チャーリーの声は苦しげで力がなかった。「これを渡されて、証明書だって言われた。これで定期的にジェイミーの成長報告が送られてくるって......でも一度も届かなかった......言われた住所を訪ねても、そんな場所はなかった。電話も、繋がらない番号だった」太一はすぐにスマホを取り出し、手早く検索したが、顔をしかめて言った。「この施設存在しません。団体名も印章も全部偽物です」由佳はその粗末な通知書を見つめ、背筋に冷たいものが走った。これはただの精巧に作られた罠だ。公的福祉機関を名乗り、高齢の老人を巧みに騙して、ジェイミーの不法な監禁を完璧に隠蔽したのだ。彼女はチャーリーに何枚かの紙幣と連絡先を渡し、太一とともにアパートを後にした。薬のにおいと絶望に満ちた狭い階段を抜け、午後の陽光が目に刺さった。由佳は深く息を吸
山口社長もう勘弁して、奥様はすでに離婚届にサインしたよ 第1477話
彼は乾いた、胸が張り裂けそうな笑い声を漏らした。「そのマークって男が、どうしてエマの血液型を知ってたんですか？エマが希少な血液型だって、いつわかったんですか？」「それは、ジェイミーが3歳のときさ。やんちゃしててバイクにぶつかって、輸血が必要になった。そこで初めて、ジェイミーの血液型が特別だってわかって、エマのも同じだって知ったんだ。ああ、ジェイミーはエマの息子だよ」「エマが肝臓がんだと診断される前、何か症状はありましたか？」この質問には、チャーリーはもう何度も答えてきたようで、間髪入れずに言った。「あの頃のエマはちょっと痩せてた。だから肝臓がんって言われたときも疑いもせず、パニックになって、それであのボランティア契約書にサインしちまったんだ」「その後、エマは薬の臨床試験に参加したんですね？研究所の人と会ったことはありますか？」「一人だけ会った。エマが初めて薬の臨床試験に行くとき、俺が付き添ったんだ。研究所の受付ロビーには何人か人がいて、みんな臨床試験に来てるようだったから、特に怪しまなかった。俺たちを案内したのは、若い男だった。白衣を着てマスクをしてて、名札もついてたよ。でもエマが亡くなった後、俺がインタビューを受けてたら、研究所は夜のうちに取り壊されて、何の痕跡も残らなかった。それで俺は、あの男の名前を調べようとした。だけど、名札に書かれてた名前も偽名だったんだよ」由佳は悲しげに、しかし悔しさを滲ませながら首を横に振った。同じ手口、なんと狡猾で防ぎようがない。誰が名札に書かれている名前が嘘だなんて、想像できるだろうか？由佳と太一は目を合わせた。そして由佳が壁にかかった写真を指さしながら尋ねた。「あの子がジェイミーさんですね？エマさんが亡くなった後、彼はどこへ？」年齢から計算すれば、今のジェイミーは12歳になるはずだ。しかしこの狭い部屋には、子どもの生活の痕跡は一切なかった。孫の話題になると、チャーリー老人の体が激しく震え出し、顔を覆って獣のようなうめき声をあげた。しばらくして、ようやく震えが収まり、彼はかすれた声で話し始めた。「エマが逝った時、ジェイミーはまだ4歳だった。あの子は、児童福祉機関に連れていかれたんだ。俺には育てる力がないって言われて。引き取ろうと申請したさ。でも、ダメだった。今じゃ、あの子がどこ
山口社長もう勘弁して、奥様はすでに離婚届にサインしたよ 第1476話
由佳の胸は重く沈んでいた。彼女はボディーガードの一人を車に残し、もう一人を建物の下に配置させ警戒させたうえで、太一とともに古びた階段を上っていった。階段の踊り場は薄暗く、油煙とほこりが混ざった空気が漂っていた。彼らは三階の一番奥の部屋の前で立ち止まった。扉の緑色のペンキはすっかり剥がれ落ち、ドア枠も歪んでいた。由佳は深く息を吸い込み、ノックをした。中からは咳き込みながら近づいてくる、ゆっくりとした足音が聞こえた。「誰だ？」「すみません、チャーリーさんでしょうか？」由佳はできるだけ穏やかな声を心がけた。やがて扉が少しだけ開き、深い皺と疲れの色を刻んだ顔が覗いた。白く濁った目は、警戒心に満ちて外の見知らぬ訪問者を見つめていた。「君たちは誰だ？」老人の声はかすれていて、濃い地方訛りがあった。全身から警戒心が滲んでいた。背を丸め、色あせた古いジャケットを羽織っていた。袖口はすっかり擦り切れていた。「チャーリーさん、フェイと言います」由佳は誠意を込めたまなざしで言った。「私たちは、エマさんのことでお伺いしました」「エマ」の名を聞いた途端、老人の目がさっと細くなり、身体が反射的に強張った。そして咄嗟に扉を閉めようとした。「帰れ。俺は何も知らん」「チャーリーさん、すぐに拒まないでください」由佳の声は柔らかかったが、そこには不思議な圧があった。「私は、エマと同じく、ケラー病院の被害者です」ひと呼吸おいて、老人の血走った目を真っすぐ見つめた。「私たちは、彼女が話していたこと――ケラー病院のこと、KLグループのこと――を信じています。私たちは彼らの本性を暴こうとしています。あなたはずっと、エマのために復讐したいと思ってきたはず。お願いです、力を貸してください」老人は激しく咳き込んだ。背中がさらに丸まって見えた。「この8年間、いろんな奴らが来た。記者だって名乗るやつもいたし、警官だと名乗るやつもいた。みんな助けたいって言ってたが、結局は音沙汰なし。あいつらは全員嘘つきだ。エマのためなんて言って、ただ注目を集めたかっただけだ」その時、太一が静かに口を開いた。低く落ち着いた声だった。「チャーリーさん、俺たちは記者でも警察でもありません。エマさんと同じ被害者です。あなたと同じ側にいます。少し話してもいいですか？数分だけでも構いませ
山口社長もう勘弁して、奥様はすでに離婚届にサインしたよ 第1475話
証拠さえなければ、KLグループは世論の目を簡単にそらし、冗談を交えてごまかすことができる。過去にも同じようなことがあった。証拠がないせいで、結局すべてがうやむやに終わった。由佳は確信していた。もし誰かが研究所に入って証拠を手に入れようとすれば、KLグループは本気でその命を奪いにくるだろう。その遺体を荒野に捨てるくらい、平然とやるはずだ。なぜなら、それは彼らの命そのものに関わるから。「研究所の内部スタッフから攻めるのがいい。人間には誰でも弱点か、つけ込める隙がある」と清次は言った。彼は常にこの信念を持っていて、これまでにもビジネスのライバルから多くの人材を引き抜いてきた。「それに、忘れるな。君自身も被害者なんだ」清次は彼女の腰を抱き寄せながら続けた。「研究所だけじゃない。君自身の過去も引き続き調べる必要がある。君がかつてケラー病院で治療を受けていた証拠を見つけるんだ。そしてKLグループの上層部――Ｋidd陰性の患者が誰なのか、そこまで突き止めないと、決定打にはならない」「でも、こんなに調べることがあるなんて......礼音と太一だけじゃ手が回らないし、危険もある。人手が足りないわ」「心配しないで。今回は部下を連れてきた。研究所もKLの本部も嵐月市にはない。だから、そのあたりは俺の部下に任せていい。礼音には引き続き、嵐月市で君の過去を追ってもらう」「さすが、ちゃんと先のことまで考えてるのね」由佳は彼の胸を見上げながら、指先で円を描いた。清次はその手をとって押さえつけ、体を反転させて彼女を下に押し倒した。セックスが終わると、清次は由佳を抱き上げ、浴室で体を洗い、タオルで拭いた後、ベッドに寝かせた。目を開けるのもやっとな由佳の額にキスを落としながら、清次は言った。「明日、ロゼンハイムに行ってくる。君は気をつけて。外出する時は、必ずボディーガードを連れて行けよ」由佳は一瞬で目が覚めた。「ロゼンハイムに？」「そう」清次はうなずいた。「清月がまだあちらでいくつか資産の整理をしてる。それに、君の妊娠のことを知って、写真まで撮ってるって話だから、何か使える情報を持ってるかもしれない」由佳もうなずいた。「わかった。私も、ウィルミントンに行ってみようと思う。エマのお父さんに会って、もっと詳しい話を聞きたい」「いいだろう。太一
山口社長もう勘弁して、奥様はすでに離婚届にサインしたよ 第1474話
KLグループが行ってきた人体実験という前代未聞の大罪を世間に暴き、やつらを完全に失墜させ、二度と立ち直れないようにする。由佳は一瞬ためらったが、重々しくうなずいた。でも、それがどれほど難しいか、彼女はよく分かっていた。これまでにも被害者遺族が声を上げたことはあった。だが、何の反響も起こらなかった。証拠がなければ、誰にも信じてもらえない。たとえ困難を乗り越えて証拠を掴んでも、その後にはKLグループという巨大な組織が立ちはだかる。その証拠を世に出せるのか、政府が公平に裁いてくれるのか――すべてが不確かだった。そもそもKLグループが公然と人体実験を行い、告発されても何の処罰も受けないのは、必ず後ろ盾があるからだ。そんな由佳の複雑な思いを、清次はすぐに察した。彼はそっと彼女の肩に手を置き、低い声で言った。「でもな、前者の道だって、まったく希望がないわけじゃない」その言葉に、由佳はぱっと顔を上げて清次を見つめた。瞳が光を帯び、まるで希望を見つけた。清次は喉を鳴らし、思わず手を伸ばして彼女の目を覆った。「そんな目で見るなよ」彼女は彼の手を払いのけて言った。「真面目に話して」「俺はいつだって真面目だ」清次はそう言うと、由佳を横抱きにして浴室へと歩き出した。「大事な話は、セックスしてからだ」浴室から連れ出される頃には、由佳の脚はだるく、背中はタイルで少し痛んでいた。ベッドに横たわり、由佳は気持ちよさそうにごろりと転がって、うとうとしかけた。だが、ふと先ほどの会話を思い出し、目が冴えた。彼女は清次の胸筋を指でつつきながら言った。「さっき言ってたのは、どういう意味？」清次：「さっきって？」由佳：「2時間前の話」「利益があるところには、競争がある」清次の低く落ち着いた声が、静かな寝室に響いた。それは、ビジネスのルールを見通した者の鋭さを帯びていた。「KLグループは今、この国の民間医療分野、特に最先端研究と高級医療サービスの分野で、ほぼ独占状態を築いている。その巨大な資本は、無数の中小病院や医療グループを圧迫し、利益の余地を奪い、市場を食い荒らしてきた。その抑圧に、周囲はもううんざりしてる。ただ、彼らは恐ろしくて声を上げられないだけだ」由佳の目が暗闇の中で輝いた。清次の言葉の核心をすぐに理解した。「つまりKLの競争
