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第6話

Auteur: 七月
「和真兄、前のサービスエリアで停まって。トイレ行きたいの」

理子の声が、私を思考の渦から引き戻す。

私はそっと唇を噛み、足を少し動かそうとした。

だけど、景の指がさらに強く私の足を握った。

長い睫毛を伏せ、もう動くことはできなかった。

車が停まると、理子はすぐに和真に甘えながら言った。

「ねえ、一緒にトイレ行こう?」

和真は一瞬迷ったように後部座席の私を見た。

すると景が低い声で口を開いた。

「彼女、寝てる」

和真はほっとしたように息をつき、

「じゃあ、俺、理子をトイレに連れて行くよ。すぐ戻るから」

景は「ああ」と短く返事をした。

車のドアが開き、閉まる音。

遠ざかる二人の談笑。

やがて、静寂だけが残る。

「霜鳥さん」

景が突然、私の膝にかけていたブランケットを剥ぎ取った。

「汗かいてるぞ。暑くないのか?」

私はますます顔を伏せ、彼を見ることができなかった。

慌てて水のボトルを手に取り、それを飲むことで気まずさを誤魔化そうとする。

でもそのボトルは、景の手によって奪われた。

「冷たい水は控えろ」

「この前の診察のとき、そう言ったのを忘れたのか?」

私はどこから湧いたのか分からない勇気で、突然顔を上げた。

「清川先生の腕も、それほどでもないんですね」

「と言うと?」

彼は眉をひそめる。

「先生の指示通りに薬も飲んだし、食事も気をつけました」

「それなのに、まだ痛いんです」

彼の眉間にさらに深い皺が刻まれる。

「まだ痛むのか?」

「ええ、今も少し」

私は唇を舐め、顎を上げて彼を見た。

「もう一度診察してもらうべきでしょうか?清川先生?」

車の窓の向こうでは、理子が和真の腕にしがみつき、ぴったりと身を寄せている。

和真は時々彼女の頬をつまみ、髪を撫でる。

まるで、誰の目にも明らかな恋人同士のように。

私の胸の奥で、長い間くすぶっていた怒りが弾けそうになる。

どこへぶつければいいのかも分からない苛立ちが、身体中を駆け巡る。

そして私は、咄嗟に景の手を掴んだ。

「清川先生」

「今、医者としての責務を果たしましょうか?」
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