LOGINShare
第143話
Latest chapter
彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで 第191話
答えはもう、はっきりしていた。結衣の唇の端に、少し得意げな笑みが浮かぶ。悠真は、わずかに沈黙した。結衣が帰国したばかりの頃、怜司や花音は何度もよりを戻すよう勧めてきたが、悠真は本気にしなかった。けれどその後、結衣が冬川グループのために新しい開発プロジェクトを成功させ、会社が知能ロボット業界に参入できたことで、周囲から「復縁」を望む声が一気に高まった。結衣自身も、隠すことなく気持ちを示してきた。だからこそ、悠真も真剣に考えざるを得なかったのだ。確かに、考えた。だが結論は――「離婚は、してない」悠真が低く言った。「星乃が、俺との離婚に応じるわけがない」結衣の笑顔が、一瞬だけ固まる。けれどすぐに、もっと明るい笑顔に変わった。「いいの、待てるから」……でも、たぶん長くは待たなくて済む。結衣は穏やかな湖面を見つめた。さっき彼女は、わざと星乃の胸を蹴り、水草の茂るあたりへ突き飛ばした。悠真が星乃を引き上げたとき、あのあたりはもう静まり返っていて、今もまだ彼女の姿は見えない。結衣は本気で星乃をどうにかしようと思っていたわけじゃない。ただ、どんな時でも悠真の最初の選択は自分だと、星乃に思い知らせたかった。そうして、自ら身を引かせるつもりだった。そのとき、悠真も異変に気づいた。星乃が、あまりにも長い間出てこない。たとえあのダイヤの指輪を探していたとしても、こんなに長く息を止めていられるはずがない。次の瞬間、ひとつの記憶が脳裏をよぎった。――星乃は泳げない。昔、誰かにプールへ突き落とされたとき、まるで溺れる小鳥みたいに必死でもがいていた。まさか……悠真の瞳孔がきゅっと狭まる。彼は踵を返し、湖へ向かって駆け出そうとした。だがその足が止まった。湖面に、ひとつ。いや、ふたつの影が現れ、ゆっくりとこちらへ泳いでくるのが見えた。湖畔の街灯が辺りを照らしているが、光は湖の中央までは届かない。暗い水面の上、かすかな月明かりだけが影を浮かび上がらせていた。悠真は、星乃の姿を見つけた。細い身体が、淡い月光に包まれながら、少しずつ岸へと近づいてくる。何度も体が傾きそうになり、そのたびに隣の誰かが支えている。その影が遥生だと思い、悠真の足が止まり、全身に冷たい気配が広がっていった。
彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで 第190話
星乃の全身は水の中に沈んでいた。口を開いた瞬間、押し寄せる水が鼻腔へと流れ込む。声を出すこともできない。助けを求めようと手を伸ばしたが、目に入ったのは悠真が結衣を支えながら岸へ向かって泳いでいく姿だった。――見覚えのある光景だった。まるで、ひと月前のあの事故のように。星乃は結果を悟っていた。それでも考える暇もなく、二人から視線を外して、足に絡みつく水草を必死に引き剝がそうとした。そのときになって気づいた。この方向には、異様に水草が多い。――もしかして、結衣はわざと……？そんな考えが頭をかすめたが、すぐに振り払った。引っ張れば引っ張るほど、水草はますますきつく絡みつく。力を込めてもほどけない。息が苦しい。酸素が足りない感覚が一気に押し寄せてくる。胸が焼けつくようで、頭の中が真っ白になった。――だめだ。死ぬわけにはいかない。ようやく見つけた自分の道、ようやく掴んだ新しい人生。長いあいだ自分を縛ってきた結婚を手放したばかりなのに。こんなところで終わるなんて、絶対にいやだ。星乃は必死に冷静さを保ち、水草をちぎれないなら根ごと抜いてしまおうと思いつく。祈るように手を伸ばすと、まるで亡き母が導いたかのように、水草の根は石の下でちぎれていた。力いっぱい引くと、あっけなく抜けた。星乃は息をつく間もなく喜び、岸へ向かおうと身を翻す。けれど、二分以上も酸素を失っていた身体は限界だった。泳ぎ出した瞬間、視界が真っ暗になり、全身の力が抜け落ちる。上へ行こうとしても、もう動けない。水が口から、鼻から、耳の奥まで容赦なく流れ込んでくる。咳き込みたくても咳もできず、肺の奥に血の味が広がった。目の前に、手を伸ばせば届きそうなほど近くに、水面がきらめいている。波紋の向こう、悠真が結衣を抱き起こし、岸に座らせている姿が見えた。悠真は戻ろうとしたようだった。けれど結衣がその服の裾をつかんだ。その先は、もう見えなかった。星乃の視界はゆっくりとぼやけ、焦点が合わなくなっていく。もう、ここで終わるんだ。そう思ったそのとき、耳元で、水を切る音がした。誰かが飛び込んだ。次の瞬間、腰を抱かれる感触。星乃の胸にかすかな希望が灯る。掴まなきゃ、と反射的に手を伸ばしかけたが、すぐに理性が働き、宙で止まる。
彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで 第189話
悠真が一瞬、動きを止めたその隙に、星乃は彼を押しのけて湖へ飛び込んだ。夜の湖水は、驚くほど冷たかった。水に入った瞬間、星乃の体は震え上がる。以前、誰かにプールへ突き落とされて溺れかけたことがあって、それ以来、彼女は泳ぎを習っていた。けれど、泳ぐのはいつもプールだけ。外の湖のように見知らぬ水の中や、足の届かない場所に入るのは初めてで、どうしても恐怖がつきまとう。それでも――思い浮かぶのは、あの指輪。母が残してくれた、最後の形見。それを思えば怖がっている暇なんてなかった。星乃は水の中に頭を沈め、必死に指輪を探した。そのとき、悠真もようやく我に返り、湖を覗き込んだ。もう、湖面には星乃の姿がない。悠真の胸に、怒りと苛立ちが一気に込み上げた。――狂ってる。本気で、狂ってる。たかが、あの男にもらった指輪のために。命まで賭けるなんて。そこまで愛してるっていうのか？頬の痛みがじんじんと広がる。悠真は怒りに任せて背を向けようとしたが、足が動かない。数秒後、彼はジャケットを脱ぎ捨てた。そして飛び込もうとした瞬間、後ろから腰を抱きとめられる。「悠真、何してるの、危ないよ！」背後から、優しくも焦った声が響く。振り向くと、結衣が息を切らせて立っていた。「星乃が湖に落ちた」「この湖、そんなに深くないわ。大丈夫よ。けど、今夜はおばあさまの寿宴でしょ？あなたが風邪でもひいたらどうするの？」結衣は静かに言う。「それに……さっきのやり取り、見てたよ。星乃はあなたに助けてほしくなんてないの。今あなたが飛び込んでも、感謝されるどころか、逆に嫌われるわ」悠真と星乃が二人きりでここに来たとき、結衣はこっそり後をつけていた。二人の口論も、離婚したという話も、全部聞いていた。本当なら喜ぶところだった。けれど、星乃がこんな手を使うなんて思いもしなかった。――彼女は、わざと湖に飛び込んで悠真を試してる。結衣はそう確信していた。そして、それだけは絶対に許せない。悠真は眉をひそめ、湖を見つめた。星乃が一度浮かび上がったが、すぐに息を吸ってまた潜っていく。彼はためらいながら立ちすくむ。結衣の言葉が正しいことは、わかっていた。今の星乃の頭の中には、あの男のことしかない。助けたところで、彼女は何も感じないだろう。
彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで 第188話
星乃は、悠真の声にかすかな弱さがにじんでいるのを聞き取った。けれど、それがかえっておかしく思えた。――彼の妻の座を譲らずにいてくれることに、感謝でもすべきなの？「いいえ、結構だ」星乃は穏やかに笑って言った。「補償って、相手が本当に必要としているものを与えることでしょ。今、彼女が一番必要なのは、あなたとのこの結婚よ」「だから、私はあなたたちのために身を引くわ」そう言って、星乃は彼の手を振りほどこうとした。だが悠真は、まるで怒ったかのようにもう一方の手で彼女をつかんだ。額には青筋が浮かび、こめかみが脈打っている。星乃の言葉に、論理の破綻はない。それでも悠真の胸の奥には、説明のつかない苛立ちが湧き上がっていた。その怒りがどこから来るのか、自分でも分からないまま。ついに彼は、奥歯を噛みしめながら言葉を吐き出した。「……俺は、離婚なんて認めてない」星乃はその言葉に驚かなかった。悠真が離婚の件を知らなかったこと、そしてその知らせに動揺し、形ばかりの引き止めをするだろうことも、すでに分かっていた。けれど、それが何を証明できるというのだろう。五年も飼っていた犬にだって情はわく。彼とは、五年ものあいだ夫婦として暮らしてきたのだ。別れを惜しむのは自然なことだろう。だがそれは、愛じゃない。ただの習慣だ。やがて悠真が結衣とやり直せば、その習慣も忘れていく。「今日は、報告に来ただけ。あなたの意見を聞きに来たわけじゃないの」星乃は淡々と続けた。「今日はおばあちゃんのお誕生日だから、この話は出さないわ。でも、あの方は勘がいいから、もう気づいてると思う。公表のタイミングはあなたに任せる……一度は愛した仲だから、必要があればできる限り協力するわ。言いたいことはそれだけ。問題ないなら、帰るね」そう言って、星乃は静かに離婚届受理証明書を彼の手に置いた。しかし悠真は頭が真っ白になり、手を放さなかった。胸の奥に重石を詰め込まれたように息苦しい。そしてふと、星乃の左手の中指にはめられたダイヤの指輪が目に入り、途端に苛立ちが込み上がる。彼はその証明書を乱暴に脇へ投げ捨て、指輪を見つめながら吐き捨てるように言った。「きれいごとを並べても、結局は遥生と一緒になりたいだけなんだろ」「星乃、お前、本気で水野家
彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで 第187話
その言葉を口にした瞬間、悠真の胸の中にはすでに答えがあった。星乃がこの冬川家の妻という立場を手放すはずがない、と。あの頃、彼女は彼を愛していて、どうにかしてでも彼と結婚しようとしていた。この結婚は、彼女の母親が命と引き換えに手に入れたものでもある。もし彼女がそれを捨てたら、母の死は意味を失ってしまうだろう。それに、水野家の人間は損得にとても敏い。遥生が結婚歴のある女性、しかも冬川家との婚姻歴がある相手を娶ることなど、絶対に許さない。星乃が正気であれば、そんな愚かなことをするはずがない。彼女の答えを待つ数秒のあいだ、悠真はポケットに手を入れ、そこに忍ばせていた小さな指輪の箱を握った。唇をきゅっと結び、言葉を選ぶようにして口を開く。「もしお前がもう二度と遥生と関わらないって約束するなら、俺は……」「もういい」星乃はその目の奥にある確信と慢心を真正面から見据え、淡々と遮った。「……なんだって？」「冬川家の妻の座は、もう降りるわ。私たち、もう離婚したの」そう言って、星乃はバッグから用意していた離婚届受理証明書を取り出し、彼の前に差し出した。それを見た瞬間、悠真は一瞬、息を呑んだ。次の瞬間、何かを思い出したように、嘲るような笑みを浮かべる。「星乃、俺を騙すつもりか？偽物の離婚届受理証明書で遊ぶなんて、面白い冗談だな」「本物よ」星乃は静かに言った。「そんなはずない」もし本当に離婚していたなら、自分が知らないわけがない。それに、結婚してからの年月で、二人の間には多くの利害が絡んでいる。離婚するには、財産の分配を含めた正式な契約が必要だ。確かに星乃から離婚協議書を渡されたことはあった。だが、彼は署名していないはずだ。星乃は彼の考えを見透かしたように言った。「その夜、私があなたにサインさせたのは、篠宮家との契約書じゃなくて、離婚協議書よ。あなたの望みどおり、私は一切の財産を持たずに出ていったわ」悠真の動きが止まった。星乃の目をじっと見つめる。だが、その瞳は静かで、何の感情も揺れていない。あまりに穏やかで、悠真にはそれがどうしても「本当の離婚」には思えなかった。あれほど自分を愛して、どんなに拒まれても離婚しようとしなかった女だ。彼の気を引くために、自殺未遂までしたこともある。
彼女しか救わなかったから、子どもが死んでも泣かないで 第186話
「どういうこと……？」冷たい汗が一瞬で背中を伝った。星乃の脚が急に力を失い、膝が崩れそうになる。悠真がすぐに彼女を支え、体勢を整えさせた。「これは水野家が瑞原市の海辺で見つけたものだ。もしかしたら沙耶がうっかり落としただけかもしれない」「違う……そんなはずない」星乃は首を振った。「このイヤリングは、沙耶が命よりも大事にしてたものよ。もしなくしても、必ず探して取り戻そうとするはず。まさか……」胸の奥に、ぞっとするような考えが浮かび、息が詰まる。沙耶がいなくなってからというもの、星乃は何度もこのことを思い出していた。そのたびに、ひどく後悔した。――あのとき自分が止めていれば。沙耶を逃がさなければ。そうしていれば、篠宮家が報復を受けて、今のような悲惨な結末を迎えることはなかっただろう。沙耶は望んだ結婚を手にできなかったとしても、少なくとも無事に生きていられたはずなのに。けれど、そんなふうに思っても、星乃の脳裏にはあのときの光景が浮かんでしまう。やつれきった顔で、涙を流しながら「お願い」とすがりついた沙耶の姿が。目の奥が熱くなる。悠真は星乃の表情を見て、何を考えているのか察したように、そっと肩を抱いた。「まだはっきりしたことは分からない。でも、いずれ隠しきれなくなる。星乃、あいつがどんな男か知ってるだろ。最近は特に気をつけろ」圭吾の顔が脳裏に浮かんだ。白石家で百人を手にかけ、血にまみれたまま後継の座を奪った男。星乃の身体がわずかに震えた。彼女が沙耶の逃亡を手助けしたと知ってから、圭吾は何度も彼女を問い詰めた。だが星乃は冬川家の妻。圭吾もどんなに怒っても、その立場を意識して手加減はしていた。もし離婚して、冬川家と縁を切ってしまえば……星乃の呼吸が荒くなる。考えがそこまで及んだとき、不意に強い力が腕を掴み、後ろへ引かれた。思わずよろめき、数歩あとずさる。顔を上げると、そこには氷のような目をした悠真がいた。彼は星乃を一瞥したあと、その隣に立つ遥生をにらみつけ、殺気をはらんだ声で言った。「遥生社長。俺の祖母の寿宴で、俺の妻にベタベタするなんて、冬川家の人間を舐めてるのか？」その視線の冷たさに、星乃はやっと、悠真の誤解だと気づいた。彼女は迷わず彼を押しのけようとした。けれど悠真はそ
