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第225話

Author: 藤崎 美咲
悠真はその言葉の裏にある意味を察した。

先ほどまでは深く考えなかったが、今の男の口ぶりからして――

相手はもう自分の正体を知っていて、星乃との離婚のことまで把握している?

最初から狙って来たのか?

……星乃が、自分に対抗するために雇った?

悠真が一瞬気を取られた隙に、星乃は力いっぱい彼の腕を振りほどいた。

長く息が詰まっていたせいで、足をついた瞬間に視界が一瞬真っ暗になる。

体がふらついたその時、悠真は反射的に手を伸ばした。

だが彼女はその手を強く払いのけた。

まるで毒蛇でも避けるような仕草が、悠真の目に鮮明に映る。

彼の表情が凍りつく。

――彼女は本気で、自分を嫌悪している?

星乃は倒れこんだまま、動きを止めた悠真を見上げ、まだ恐怖に震えていた。

まさか、彼がこんなふうに自分に手を出すなんて。

結婚して五年。

彼と夫婦の関係を持ったことはあっても、彼が彼女に触れるのは、ベッドの上だけだった。

外では、彼女に視線を向けることさえほとんどなかった。

もちろん、キスや体の反応を見せるなんて一度もなかった。

背後から誰かが彼女を支えようとする気配に、星乃はビクッと身を震わせた。

振り返ると、そこには見知らぬ男が二人立っていた。

「星乃さん、遥生さんからのご依頼で、瑞原市であなたをお守りするよう命じられています」一人が低い声でそう告げた。

もう一人も続ける。「すみません、来るのが遅くなりました」

遥生の手の者と聞いて、胸の奥に張りついていた恐怖がようやく少し溶けた。

二人に支えられ、彼女はゆっくりと立ち上がる。

悠真の目には、再びあの冷え切った光が戻っていた。

二人の恭しい態度で、彼の中の確信が決定的になる。

悠真は小さく鼻で笑い、胸の奥が凍えるように冷たくなる。

拳を握りしめ、血管が浮かび上がる。

込み上げる怒りを必死で抑えながら、低く言った。

「星乃、最後にもう一度だけ聞く。俺と一緒に帰るのか、それとも……」

「もう、帰って」

彼の言葉を遮るように、星乃が静かに言った。

できるかぎり落ち着いた声だったが、そこには一片の感情もなかった。「これ以上騒げば、あなたの立場が悪くなる。冬川グループの株価にも影響するでしょ。登世おばあちゃんも冬川家の人間よ。私はおばあちゃんを悲しませたくないの」

そのはっきりした拒絶
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