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第8話

Auteur: もも缶
拓野は取調室の外の長椅子に座り、医師らしさはどこへやら、ぐしゃぐしゃになった白衣を横の椅子に放り投げていた。

目を閉じてはいたが、頭の中はせわしなく回っていた。

あの男は一体誰だ?

その疑問が釘のように頭に刺さり、こめかみをズキズキと痛ませた。

あの男に身を寄せていた静葉の姿、名前を呼んでいた声、そして男が静葉の頭にキスしたとき、静葉が身を引くどころか、その胸にさらに深く顔を埋めた光景が蘇る。

あり得ない。静葉が結婚するはずなんてない。

拓野は眉を寄せた。自分の表情が如何に醜くなっているかに気が付いていなかった。

静葉はあんなに自分を愛していたはずなのに。

冬になると静葉は自分の手が冷たいと言い、出かける前には必ず自分の手を温められるように、吐息をかけて何度も擦り合わせた。そしてちゃんと温まるまで離さなかった。

病院の食事がまずいと何気なく呟いた翌日には、静葉は手作りのお弁当を病院まで届けてくれた。あの中に自分の好物の料理を入れてくれるのが、3年間も続く静葉の習慣だった。

ほんの数年で、どうしてこれほどまでに関係が変わってしまうのか?どうして結婚なんてできてしまうの
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    それから、1か月が過ぎた。郊外にある安人の墓、そこには彼の写真をモチーフにした花飾りが置かれていた。穏やかな日差しの中、私は白い雛菊を手向け、しゃがみこんで墓石の埃を優しく拭った。「安人、会いに来たよ。ママは裁判に勝ったよ。悪い人たちもちゃんと罰を受けることになったから。安人は向こうでゆっくりしててね。ママもそのうち会いに行くから、それまでちゃんとママを忘れないでいてね」話しているうちに、込み上げる感情で喉が詰まり、私は目元が熱くなった。すると風に靡いて花びらがゆらゆらと揺れ、まるで安人が返事をくれているようだった。それから、私は安人と何時間も話し続けてのどがカラカラになるほどだった。ふと顔を上げると、そこにはずっと私のために日よけをしてくれた陽翔がいた。安人を亡くしたあの日、私は毎日、ベッドで抜け殻のように横たわり、食べることも話すことも、泣くことさえしなかった。ひどい鬱状態に陥った私は、突然暴れ出したり、叫び声を上げたり、物を投げたり、頭を壁にぶつけたりしていた。夜中に泣きながら目を覚ましても、なぜ自分が泣いているのかさえ分からないこともよくあった。あの時、私の世界はどんよりしていた。生きている意味なんてどこにもない、安人のところへ行けば楽になれると思っていた。陽翔が現れたのは、そんな時だった。彼がどうやって私を見つけたのか、どうして狂ってしまった私を見捨てなかったのか、今でも分からない。陽翔は私をあの暗い部屋から連れ出し、病院やカウンセリングへと導いてくれた。更に、私を救うため、陽翔は躁鬱についての書籍をむさぼるように読んだ。書棚には分厚い専門書が並び、どれもが何度も読み返され、書き込みで真っ黒だった。私が発作で陽翔の顔を爪でひっかいたり、胸を叩いて怒鳴り散らしても、彼は逃げることはなかった。いつもただ、静かにそこにいてくれた。だから、陽翔の腕には私の噛み跡があり、手にはひっかき傷、肩には物をぶつけた時の青あざが絶えなかった。それでも彼は「そんなの大したことない」と言って、いつも私を優しく宥めていた。人脈を使い、専門医を次々と紹介して、私の治療のために奔走してくれた。海外の有名な専門家も、彼が何度も足を運んだから、ようやく診察してくれるようになった。そうやって2年間。陽翔の地道な努

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    こうして、SNSでは、安人が自閉症の子供であったこと、そして拓野が安人の診断後、頻繁に家を空けていたことが暴露された。さらに莉香が市長の娘であり、当時拓野の元で研修医をしていた過去も明らかになった。安人が溺死した日、拓野を連れ出したのが他ならぬ莉香だったことも判明した。すると噂を聞きつけた人々は裁判の事件番号まで特定し、私が安人のために戦っていることに気が付いてくれたのだ。その後、真相が次々と浮かび、莉香が以前起こした医療事故まで掘り返された。ある被害者家族が証拠動画を投稿したのだ。当時の被害者は莉香のミスで死亡したが、最終的に責任を取ったのはある男性医師だった。さらに元同僚を名乗る人物からの長文では病院内での莉香の悪行――カルテの偽造、責任転嫁、研修医という身分を盾にした傍若無人な振る舞い、が詳細に綴られていた。投稿には数万件ものコメントが殺到し、莉香と拓野への怒りと非難が渦巻いた。【自閉症の子供を不倫相手に殺させて、元夫は隠蔽?妊婦を病室から追い出して流産させた?人間としてあり得ない】【市長の娘なら人を殺しても無罪なの?隠蔽工作のプロじゃん、どんだけバックが強烈なんだよ!】【あの神谷って医者、院長だよな?医者失格だろ】【この女性が可哀想すぎる。元夫と愛人にこんな目にあわされて。絶対勝訴してほしい】一つ一つ読むたびに私の目頭が熱くなり、胸が締め付けられ、最後には画面の文字が霞んで見えなくなった。その時、横から伸びてきた手にスマホを奪い取られた。「こういうドラマチックな展開は好き?」顔を上げると、陽翔が口元にいつもの笑みを浮かべていた。「あなたがやったの?」私は尋ねた。「何もしていないよ」陽翔は言った。「ただ、皆に真実を見つけただけさ。俺が殴られただけで、連中の評判を叩き落とせるなら安いもんだろ?」それを聞いて、私は陽翔の襟を掴んで自分の方へ引き寄せ、勢いよく唇を重ねた。彼は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて目を細めて私を見た。切れた唇の端が引きつって痛いはずだが、それでも彼はキスを続けるように求めてきた。「ちょ、ちょ、こっちは運転中なんだけど!少しは遠慮してよ」見かねた夏帆が呆れ果てた声で注意してきた。こうして、案の定二度目の裁判当日、法廷には大勢の記者が詰めかけ、傍聴席はカメラや

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    一方、私が視線を上げた先に拓野がいるのに気が付くと、思わず眉をひそめた。拓野は側面の入口側に立って自分を見つめ、完全に固まっていたのだった。そして、後ろから押されて、ようやく我に返ったように歩き出した。しかもなぜか階段を上がる時に足がもつれ、転びそうになっていた。それを、隣の健二に支えられて、ようやく体勢を立て直した後も再び視線を向けてきたのだった。そう感じて、視線を逸らそうとした時、目の前がふっと暗くなった。側から伸びてきた温かい手が、長い指で私の両目を優しく覆った。その掌からはかすかに木の香りがして、拓野の視線に向けていた私の注意力をすぐに引き戻した。「いつまで見てるつもり?」上から、陽翔の低くて落ち着いた声が聞こえてきた。「静葉、そろそろ証拠資料を確認しておかないと」そう言って、陽翔は手を離そうとせず、そのまま私のこめかみを軽く押した。すると隣から漏れた夏帆のクスクスとした笑い声が聞こえてきた。私は舌を出しておちゃらけてみせると、資料を真剣に見る陽翔に視線を向けた。彼は顔を上げなかったが、その口元が微かに動いたのが見えた。それからいよいよ、裁判が始まった。この裁判を、私はずっと待ちわびていた。安人が自分から外に出たはずがない。莉香が故意に連れ出したと、私は確信していた。だから、離婚後の数年間、海外にいても私は証拠を探すために時々帰国していた。そして、莉香が幼い頃から、親の権力を盾に同級生を虐めてきた証拠を少しずつ集めていた。そのどれもが被害者の生徒が退学させられるという、理不尽な光景ばかりだった。そんな資料を目の当たりにして、胸の中に抱えていた真相への疑惑も次第に明らかになってきた。それから、私は更に必死になって証拠を探し回った。陽翔は、私が何度も国内に戻ることに文句一つ言わず、それどころか航空券を予約し、常に隣で支えてくれた。その内、チケットを取るのさえ面倒に感じ、思い切ってプライベートジェットを買った彼は、私と一緒に現場へ駆けつけ、わずかな可能性を求めて、ありとあらゆる証拠を探しに付き合ってくれた。こうして、私たちはようやく真相にたどり着いたのだった。一般人が撮った動画の中に、粗い画質ながらも莉香と安人が映っていた。その画像の中で莉香は、安人が水に落ちるのを見ていながら

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    多分、初任給が手に入った時からかもしれない。自分の給料は静葉の5倍だった。その後、次第に10倍、やがて20倍と差が広がっていった。それは静葉が昇進しても、縮まらないくらいになり、ついに拓野は、自分こそが一家を支えているのだと思うようになった。住宅ローンも車の維持費も、安人の療育費でさえ全てを自分の稼ぎで賄っている。事務員である静葉の給料など、ベビーシッター代にすらならないだろう。だから、拓野は静葉が自分を気遣うのは当たり前だと考えるようになった。安人が自閉症と診断されてからは、拓野の頭に何度も、あの時莉香の告白を受け入れていたら、今頃どうなっていただろうという思いが浮かんでいた。莉香と結婚していれば、苦労せずに医師として成功し、最年少で教授になり、病院長の座も手にできていたはずだ。きっと世間から羨ましがられる人生を歩めたかもしれない。だがそんな理想と比べて、静葉と結婚して何を得たんだろう?自閉症の息子を抱え、いつも後始末に追われ、残されたのは、とても人に自慢できるとは言い難い家庭だけだ。そう思うと、彼は悔しくてたまらなかった。自分にはもっと明るい未来があるはずなのに。だが、拓野は知らなかった。静葉は安人の療育費を稼ぐため、日中は事務の仕事をこなし、夜はデザインの案件を抱え、深夜まで働いていた。それでも翌朝6時には必ず安人の朝食を作っていたのだ。そして、公共の場で安人が泣き叫んでも周囲に迷惑をかけないよう、彼女はいつもの大きなバッグを持ち歩き、中には水筒や着替え、安人を宥められるおもちゃが詰まっていた。あの重さは拓野ですら片手では持てないのに、静葉は3年間背負い続け、肩には深く痕が刻まれるほどだった。そんな思いを巡らせながら、拓野はさらに酒を煽り、こぼれた滴が顎をつたってシャツへと染み込んでいった。そして、思い出は高校生だった頃まで遡った。あの頃、自分は静葉に夢中だった。2年間アタックし続け、ラブレターを99通も送った。すべて手書きで、異なった内容だった。それを彼女の通学鞄や教科書、自転車のサドルにも忍ばせたりした。極めつけは折り鶴を折って教室の窓から投げ込んだことだ。その鶴の羽を広げると、中には【大好きだよ】という言葉がぎっしりと綴られていた。静葉が交際を承諾してくれた日、拓野はグラウンドを10周も走っ

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    それを聞いて、拓野のカルテを取ろうとする動きが止まった。彼は手を宙に浮かせたまま、数秒後にようやく絞り出すように聞き返した。「彼女が……妊娠を?」すると、看護師は呆れた様子で書類を整理しながら言った。「ええ。経過は順調でしたよ。各数値も正常値で、数日前に転院手続きをする予定だったのですが、事務上の手続きが遅れていましてね。やっと進んだと思ったら、流産してしまいました」拓野は言葉を失った。体が芯から冷えていくような感覚だった。彼のカルテを握っていた手は次第に力が入り、カルテは端がひん曲がるほど歪んでいった。そうか?あの大学の同窓会で静葉の友人が言っていた夫の話は、本当だったのだ。役者なんかじゃなかった。あの日、静葉が病院にいたのは病気でも、たまたま鉢合わせたわけでもない。妊婦検診だ。しかも静葉は、自分の姿を見た後に転院を望んだ。自分は静葉が演技をしていると思い、自分を繋ぎ止めるための嘘だと思っていた。でも静葉は、自分を避けたかっただけなんだ。その事実に気づいた瞬間、拓野は自分を制御できなかった。誰かに心臓を強く握り潰されたかのように締めつけられる痛み。込み上げる熱い感情を必死に喉の奥へ押し戻した。なぜだ?一体、どうしてだ?なんで静葉は、あんなにすぐ次へ進めるんだ?安人が亡くなってまだ数年しか経っていないのに。新しい家庭を持って、妊娠までするなんて。どうしてそんなことができるんだ?そんな冷たくなっていく拓野の表情を見て、看護師は訝しんだが、深く聞くことはできず、ただ彼が去っていくのを見つめる事しかできなかった。それから拓野はあてもなく車を出し、三区間ほど走ってからようやく自分が途方に暮れているのに気が付いた。静葉がいないこの家。拓野にとって、もう何年も前から心休まる家など存在しなかったのだ。昔は仕事から帰ると、すぐには部屋へ上がらず、車内で時間を潰すことが多かった。疲れていたわけじゃない。家に帰れば迎えるのは子供の泣き声、リハビリの報告、そして静葉のいつ見ても泣き腫らした目だったからだ。そんな現実と向き合いたくなくて、ガレージでタバコを一本ずつ吸い続け、10本目を吸ってようやく車を降りていくのだ。だけど、今や、あの逃げ出したかった家すらも、存在しないに等しい。そう思いながら、拓野は近くの

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