氷川静(ひかわ しずか)と時枝修也(ときえだ しゅうや)の結婚式は、半月後に迫っていた。しかし修也は、この土壇場でまたしても結婚の延期を考えている。 なぜなら、彼の義妹・白石由奈(しらいし ゆな)が持病の発作を起こし、「すべてを投げ出してモルディブの海に連れて行って」と泣きながらせがんだからだ。 この結婚式のために、静は二年もの歳月を費やしてきた。彼女はもうこれ以上待つつもりはない。 修也に結婚する気がないのなら、他の男に乗り換えるまでの話だ。
view more修也の友人か、あるいは大学の同級生が一足先に後始末をしてくれたのだろうと思い、それ以上深くは考えなかった。帰り道、静は娘のために粉ミルクを買おうと、スーパーマーケットに立ち寄った。そのとき突然、野球帽をかぶった人物にナイフで人質に取られた。「静、どうしてあんただけが何事もなく生きてるの?どうしてあんただけがそんなに幸せなの?」その声で、静はすぐに相手が誰だか分かった。国弘に家から追い出された由奈だった。静が人質に取られたことに気づき、スーパーの警備員が警棒を手に駆けつけ、彼女と対峙した。周りにいた客の一人が、警察に通報した。「由奈、やめて。もうすぐ警察が来るから、逃げられないわ。自分の人生を棒に振るようなことをしないで」由奈の持つナイフは非常に鋭く、その刃が静の皮膚を切り裂き、真っ赤な血が痛々しく滲んだ。まさか、由奈がここまで自分を恨み、命まで狙うなんて、静は思いもしなかった。修也の遺体を引き取ったのも彼女だとすれば、その愛はよほど深いものだったのだろう。「自分のためじゃなくても、子供のために考え直してくれないか?あの子を、一人ぼっちにさせるつもり?まだ若いからやり直せるわ。お願いだから、馬鹿なことはしないで」由奈は、国弘に家を追い出されたものの、修也との離婚届はまだ提出していない。法律上、彼女はまだ修也の妻であったため、彼の死は、警察から真っ先に彼女へ知らされたのだ。彼女と修也は法的には運命共同体である。修也が死んだことで、その莫大な負債は、すべて彼女の肩にのしかかった。「あんたの、一体どこがいいっていうの?あいつは柏木市までわざわざあんたを追いかけた。あんたのために死んだのよ!あいつは私のものよ。私のものなの!」修也が死んだと知った瞬間、由奈も生きる希望を失った。しかし、死ぬ勇気はない。だから、他人の手で自分を殺してもらおうと考えたのだ。電話を受け、静が人質に取られたと知った秋彦は、まだ授業中であることも忘れ、教室を飛び出した。現場では、すでに警察が由奈を包囲していた。遠くには、狙撃手が配置されている。万策尽きたときは、由奈を撃ち殺すしかない。現場に駆けつけた秋彦は、由奈が静の首にナイフを突きつけているのを見て、自らを人質の代わりに差し出した。「復讐したいなら、僕を狙え、妻を離してくれ。僕の
静が答える前に、後ろから秋彦の声が聞こえた。「なぜだって?そんなこと、分かりきっているだろう。最初に静の想いを裏切ったのは君だ。彼女をあんなに傷つけたのに、どの面を下げて問い詰めてるんだ?」秋彦は、テイクアウトしたワンタンの器を手に、静のそばまで歩み寄ると、その肩を抱いた。「静はもう僕の妻だ。婚姻届も出したし、法律上で認められた夫婦なんだ。そんな僕の妻に、今更愛の告白をするなんて、少し遅すぎるんじゃないか?」「この六年間、お前には二人の関係を修復する機会が、いくらでもあったはずだ。だが、お前が何をしてきたかよく思い出してみろ。静がお前に果たすべき義務や責任はない。罪悪感を煽るようなこともやめろ。愛しているだの、後悔しているだの、そんな言葉を口にするな。お前が最初から最後まで愛していたのはお前自身だけだ。お前が後悔しているのは、最愛の人を失ったと気づいたからじゃない。自分を最も愛してくれた人を失ったと気づいたからだ」秋彦の言葉に、修也は一瞬言葉を失った。秋彦が静の肩を抱いているのを見て、修也の胸に怒りの炎が燃え上がった。彼は歯ぎしりしながら言った。「お前だ、お前が人の弱みに付け込んで、隙を突いたんだ!俺の静を横取りしやがって」修也の無茶苦茶な言い分に、秋彦はただ一言で彼を黙らせた。「たとえ僕がいなくても、静がお前と最後まで添い遂げることはなかっただろう。静は素晴らしい女性だ。お前と一緒にいて時間を無駄にするよりも、もっといい人に巡り会うべきだ!」まさか、別れてこれだけ経って、お互い結婚までしたというのに、修也が乗り込んでくるとは、静も思っていなかった。「修也、お祝いを言いに来てくれたのなら、歓迎するわ。でも、昔の話を蒸し返しに来たのなら、その必要はない。もう遅いから、私と赤ちゃんは休むわ。お引き取りください」静は促した。その冷たい態度が、修也の心に残っていた最後の火を消し去った。そうだ、今の自分に、一体どんな資格があって彼女の前に現れたのだろう。自分の吐く言葉は、すべて彼女を困らせるだけのものだ。修也は、自嘲するように笑い声を上げて、病院を後にした。彼は車椅子で見知らぬ街の路上をあてもなく彷徨った。クリスマスが過ぎたばかりで、街には、まだその飾り付けが残っていた。柏木市の夜は、人々の暮らしの温かみに満ちていた
国弘はまだ産褥期にある由奈を家から追い出し、赤ちゃんも児童養護施設に送った。そもそも、彼が修也と由奈の結婚を許したのは、由奈が修也との子どもを妊娠したと言ったからだ。修也がもはや紛れもない廃人となってしまった今、この子を後継者として育て上げることに、国弘は望みを託していた。だからこそ、あれほど体裁を重んじる彼が、世間の指弾を覚悟の上で、二人の結婚を認めたのだ。しかしその目論見は、見事に外れた。この子は、時枝家の血を引いていなかった。国弘は心を鬼にした。命さえあれば、やり直しはきく。まずは自分自身が生き延び、再起を図らねばならない。修也はもう使い物にならない。ならば、彼の最後の価値を徹底的に搾り尽くす。国弘は密かに資産を海外へ移し、会社の法人名義を修也に変更し、彼に巨額の負債をすべて背負わせた。修也が裁判所からの召喚状を受け取った時、国弘はすでに国外へ高飛びしていた。裁判所は、修也の全財産を差し押さえ、彼のすべての銀行口座を凍結した。何世代かかっても返済しきれないほどの、莫大な負債を目の前に、修也はようやく気づいた。先日父に言われるがままサインした契約書は、自分を身代わりにするためのものだったのだ。修也はすべてを失った。幸いにも、かつて彼が助けた友人たちが、彼が路頭に迷うのを見かねて金を出し合い、住む家を借り、家政婦まで雇ってくれた。修也はまるで抜け殻のように、毎日ベッドに横たわり、ショート動画を眺めながら時間を潰していた。そんなある日、彼は何気なく円のSNSで、彼女と静のツーショット写真を見た。写真の中の静は、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている。【親友の可愛いお姫様のご誕生、おめでとう!本当に素敵な人と結婚すると、こんなに幸せなのね】写真の中の幸せそうな静の笑顔を見て、修也の心は、鋭い刃物でえぐられるように痛んだ。この幸せは、本来なら自分のものだったはずだ。心の奥底で燻っていた無念の炎が再び燃え上がった。修也は、柏木市へ行って、静に会おうと決意をした。結果がどうであれ、この想いを直接彼女に伝えなければならないと彼は考えた。明日死ぬとしても、今日、後悔だけはしたくない。柏木市までの航空券代は、友人に借りた。彼は不安な気持ちを抱えながら、病院の長い廊下を、車椅子を進ませた。静の病室は、
静を心配させまいと、秋彦は救助された後も入院しなかった。激痛に耐えながら、彼は家に帰り、何食わぬ顔で静の看病を続けた。静が安定期に入ってから、母の佳恵は、おそるおそるあの夜の出来事を娘に打ち明けた。「秋彦は、本当に立派な子よ。あの場にいた誰もが崖を降りるのを躊躇っていたのに、秋彦だけが迷わず降りていったの。彼がいなければ、お父さんは今頃……」そんなことがあったとは、静は知らなかった。母の話を聞くと、秋彦に抱きついて泣きじゃくった。涙も鼻水も構わず、彼のシャツに顔をうずめた。「どうして言ってくれなかったの?どうして黙ってたの?これから何があっても絶対に私に言うのよ!もう、隠し事は許さないから!」秋彦は、静の髪を優しく撫でた。「馬鹿だな。赤ちゃんにおじいちゃんがいないなんて、あってはいけないことだろう?静のお父さんは、僕のお父さんでもあるんだ。助けるのは当然だよ。言わなかったのは、君を心配させたくなかったからだ。ほら、二人とも無事じゃないか」静は、涙に濡れた瞳で、目の前の秋彦を見上げた。彼を失うかもしれないと考えただけで、身がすくむ思いだ。静のお腹は日に日に大きくなっていった。母子手帳の交付や検診の手続きは、非常に煩雑だった。妊娠すると物忘れがひどくなると言うが、静もその例に漏れず、うっかりミスが増えていた。秋彦はそんな彼女を、細やかな気配りで支えた。わざわざネットで育児記録用の手帳を買い、静の検診結果をすべてファイリングして保管した。静の検診には一度も欠かさず付き添い、さらには空き時間を利用して産後ケアの講習会にまで参加し、妊婦と新生児の世話の仕方を学んだ。静の食欲がないと見れば、彼は趣向を凝らして料理を作った。たとえ彼女が真夜中にお腹が空いたとぐずっても、彼はさっとベッドから起き上がって、手料理をしてあげた。キッチンでかいがいしく働く秋彦の姿を見て、静は携帯でそっとその写真を撮り、母の佳恵に送った。【お母さん、この人、夫じゃなかったみたい】【夫じゃなかったら、何なの?】静はふっと微笑みながら返信した。【せっせと働くし、甘すぎるし、まるで蜜蜂みたい!】一方、修也と由奈の関係は、一触即発の状態にまで悪化していた。国弘の会社は、資金繰りの悪化から、倒産寸前に追い込まれていた。綾子は、国弘と共同で債務を
静は最近、頻繁に眠気に襲われ、生理も一ヶ月近く遅れていた。秋彦に付き添われて病院で検査を受け、結果を受け取った秋彦は、大喜びした。「静、妊娠しているって!僕、父親になるんだ!」秋彦が差し出す検査報告書を前に、静は、ようやく事態を飲み込んだ。「本当に、赤ちゃんが……?」「ああ、もちろん。正真正銘、僕たちの赤ちゃんだよ」手の中の報告書を見つめる静は、信じられないという気持ちでいっぱいだ。秋彦は、そっと静の頬を包み込むと、その額にキスを落とした。「愛してる。これからは無理せずゆっくり休んで。家事は全部僕に任せて、体を大事にして。妊娠中は大変だろうけど、必ず君を守るから」まだ母親になる覚悟はできていなかった。この子は、正直に言えば予想外の授かりものだ。しかし、秋彦の嬉しそうな顔を見ていると、静の心にあった不安は、すべて消え去っていった。そうだ、彼がいる。彼さえいれば、何も心配することはない。静の妊娠は、両家の両親にとっても喜ばしい出来事だった。秋彦の両親は、わざわざ海外から安産できるよう、食材をたくさん送ってくれた。そして、くれぐれも静を大事にするようにと、秋彦に何度も念を押した。「今の静ちゃんは、一番大事な保護対象なんだからね。くれぐれも、気を配ってあげるのよ。妊娠中の女性は感情のコントロールが難しいから、もし静ちゃんが不機嫌になって、あなたを噛んだり蹴ったりしても、黙って耐えなさい」新しい命の訪れに、誰もが心躍らせていた。しかし、妊娠三ヶ月目、静は出血してしまった。秋彦はパニックになりながらも、静をいくつもの有名な病院へ連れて行った。診断結果は、切迫流産。静の体が弱っているため、この子を産むのは難しいかもしれないというのだ。安静にするため、静は寝たきりの生活を送ることになった。父の和一と母の佳恵は、柏木市で有名な漢方医を何人も家に招き、静を診てもらった。切迫流産に特効のある処方があったが、その中の一つの薬が手に入りにくいそうだ。柏木市の霧染山にその薬草は自生しているのだが、通常は断崖絶壁に生えているという。娘に無事に子供を産ませたい一心で、十数年の登山経験を持つ和一は、自らその生薬を探しに行くと決めた。家族を心配させまいと、和一は霧染山に到着してから、佳恵にメッセージを送った。しかし、佳
静が修也の怪我の深刻さを知ったのは、彼が結婚式の舞台に上がったときだった。愕然として、衝撃を受けたと同時に、彼女は彼のことを気の毒に思った。あれほどプライドが高かったのだ。かつては無数の女子生徒たちの憧れの的だった彼が、今やこんな姿になってしまった。これが修也にとってどれほどの打撃であるか、彼女には想像もつかなかった。彼女は少し後悔した。もしあんな形で彼と別れなければ、もし彼が自分を追って柏木市に来ることがなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。静の気持ちの変化に気づいた秋彦は、そっと彼女の手を握り、慰めた。「辛いだろうけど、自分を責めるな。人の運命なんて、誰にも分からないものだから」新郎であるはずの修也の顔に、笑みはいっさいなかった。ただ生気のない表情が浮かんでいる。彼は、まるで機械人形のように、司会者の指示に従って式を次第にこなしていく。国弘の顔にも笑みはない。綾子は目元が赤く腫れ上がっていた。舞台に上がる前、彼女は感情を抑えきれずに、号泣したのだ。一人娘の由奈に、母としてはただ幸せになってほしいと願っていた。しかし今は障がい者で、しかも自分を愛していない男に娘が嫁いだ。この先の人生にどんな望みがあるというのだろう。式は終始重苦しい空気に包まれていた。客たちも、ただ食事を平らげ、笑い話を見物しに来ただけだ。式が終わるのを待たずして、客の半分以上が席を立った。静もまた、式の途中で立ち上がってその場を後にした。物事は移ろい、人は変わっていく。その現実を目の当たりにすると、人は感傷的になるものだ。静はこの不快な感情にこれ以上浸っていたくなかった。修也は、静が秋彦と手を取り合って去っていく姿を、ただ見つめていた。彼の心もまた、彼女と共にこの場所を去っていった。今夜の由奈は、世界で最も不幸な花嫁だったかもしれない。彼女は、あらゆる策を弄して、修也と結婚することには成功したが、渇望していた愛は手に入れられなかった。披露宴では、静はほとんど何も食べなかった。ホテルに戻っても、重い気持ちを引きずっていた。そんな彼女のために、秋彦は温かいワンタンスープを注文してくれた。「考えすぎるな。彼の姿を見て、君が心を痛めるのは分かる。でもすべての物事は、ある原因によって生じた結果だ。君は元凶じゃないんだから、責任を
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