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来ない春は、もう待たない

来ない春は、もう待たない

Por:  柳雲間Completo
Idioma: Japanese
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前撮り当日、カメラマンにふと言われた。「笑うと、お姉さんによく似てますね」 そのひと言を聞いた近藤拓也(こんどう たくや)は、すぐに私の姉、芳賀可奈(はが かな)にもウェディングドレスを勧めた。 せっかくだから、記念に何枚か撮ってもらおう、と。 写真を選ぶ段になると、家族そろって可奈の写った一枚に見入り、口々に褒めちぎった。 「可奈は生まれつき、ドレスが映えるプロポーションなのよね」と母が言った。 「花嫁のお前より、よほど華があるじゃないか」と父も言った。 拓也は画面から目を離さず、いつまでも眺めていた。指先が止まったのは、可奈が振り返った瞬間を捉えた一枚だった。 「これ、披露宴の受付に飾ろう。よく撮れてる」 私は尋ねた。じゃあ、私の写真はどこに飾るの、と。 そこで初めて、彼は私の存在を思い出したような顔をした。 「お前と可奈は顔立ちが似てるから、招待客だって見分けはつかないさ。それに、可奈は結婚する予定もないんだ。一度くらいドレスを着る機会を作ってやるのも悪くないだろう」 思わず、笑いがこぼれた。 物心ついたときから、いつだってそうだった。可奈は苦労してきたのだから、私が譲る。可奈が欲しがれば、私が差し出す。可奈の持たないものを、私が持ってはいけない。 自分の結婚式さえ、可奈の夢を叶えるための舞台になってしまうのか。 アルバムの中から、拓也とふたりだけで写った、たった1枚の写真を、そっと抜き取った。 写っている私は、彼の隣で、精一杯の笑みを浮かべている。 けれど今こうして見返すと、まるで見知らぬ誰かのように見えた。 春が私のもとへ来なかったわけではない。ただ私はずっと、誰かの影の中に立ち、そこで春を待ち続けていただけだったのだ。 今度こそ、もう待つのはやめよう。

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Capítulo 1

第1話

前撮り当日、カメラマンにふと言われた。「笑うと、お姉さんによく似てますね」

そのひと言を聞いた近藤拓也(こんどう たくや)は、すぐに私の姉、芳賀可奈(はが かな)にもウェディングドレスを勧めた。

せっかくだから、記念に何枚か撮ってもらおう、と。

写真を選ぶ段になると、家族そろって可奈の写った一枚に見入り、口々に褒めちぎった。

「可奈は生まれつき、ドレスが映えるプロポーションなのよね」と母が言った。

「花嫁のお前より、よほど華があるじゃないか」と父も言った。

拓也は画面から目を離さず、いつまでも眺めていた。指先が止まったのは、可奈が振り返った瞬間を捉えた一枚だった。

「これ、披露宴の受付に飾ろう。よく撮れてる」

私は尋ねた。じゃあ、私の写真はどこに飾るの、と。

そこで初めて、彼は私の存在を思い出したような顔をした。

「お前と可奈は顔立ちが似てるから、招待客だって見分けはつかないさ。それに、可奈は結婚する予定もないんだ。一度くらいドレスを着る機会を作ってやるのも悪くないだろう」

思わず、笑いがこぼれた。

物心ついたときから、いつだってそうだった。可奈は苦労してきたのだから、私が譲る。可奈が欲しがれば、私が差し出す。可奈の持たないものを、私が持ってはいけない。

自分の結婚式さえ、可奈の夢を叶えるための舞台になってしまうのか。

アルバムの中から、拓也とふたりだけで写った、たった1枚の写真を、そっと抜き取った。

写っている私は、彼の隣で、精一杯の笑みを浮かべている。

けれど今こうして見返すと、まるで見知らぬ誰かのように見えた。

春が私のもとへ来なかったわけではない。ただ私はずっと、誰かの影の中に立ち、そこで春を待ち続けていただけだったのだ。

今度こそ、もう待つのはやめよう。

……

私、芳賀祐那(はが ゆうな)が拓也とふたりきりで写ったあの写真をスタジオの受付のシュレッダーに押し込んだとき、拓也は俯いて可奈のショールを直していた。

物音に気づいた拓也が顔を上げ、こちらをちらりと見た。声はどこまでも素っ気ない。

「祐那、たかが写真1枚だろう。人前でみっともない真似をするな」

ソファに腰掛けた可奈は、申し訳なさそうな顔をした。「祐那、怒ってるんじゃない?受付の写真は、やっぱり祐那のにしましょうよ。私は気にしないから」

母がすぐさま可奈の手を握り、私を睨みつけた。「可奈は生まれつき心臓が弱いのよ。せっかく喜んでるのに、あなたはわざわざ不機嫌な顔を見せつけなきゃ気が済まないの?」

拓也は会計伝票をプランナーに差し出した。

「受付の写真は可奈のに決めよう。祐那の分はデジタルサイネージ用にあと2枚選んでおけば、これで納得するだろう」

私はシュレッダーの中で細い紙片になっていく写真を見つめたまま、何も言わなかった。

撮影スタジオを出ると、拓也は私たちを式場の試食会へ連れて行った。

個室には深い赤のテーブルクロスが敷かれ、メニューは私の手元にも置かれていたが、拓也は一度もめくらせてくれなかった。

「シーフードと辛い料理は全部下げてくれ。可奈は心臓が弱くて刺激物に耐えられないんだ。滋養のある料理を多めに出してほしい」

プランナーが一瞬戸惑い、私に目を向けた。「では、花嫁様のほうは……?」

ようやく拓也がこちらを見た。その目には、いつもの苛立ちが浮かんでいた。「祐那は好き嫌いなんかない。昔から聞き分けがいいんだ。俺の言った通りにしてくれ」

可奈が小さく咳をした。「拓也、祐那は本当は辛いものが好きなのよ。今日は祐那のための試食会なんだから、私のためにそこまで変えなくてもいいのに」

拓也は彼女にお茶を注ぎながら、声を落とした。「お前が気を遣うことじゃない。あいつはよく食べるから、何を食べたって同じさ。それより、お茶を飲んで」

最初に運ばれてきたのは、すっぽん仕立ての椀物だった。蓋が開いた瞬間、独特の濃い香りがふわりと立ちのぼり、鼻を突いた。

胃がぎゅっと締め付けられ、思わず指でテーブルの縁を掴んだ。

拓也は、私がすっぽんの匂いをどうしても受け付けないことを知っているはずだった。

大学時代、夏バテで寝込んだ私を心配して、彼がすっぽん雑炊を買ってきてくれたことがあった。私は一口食べただけで気分が悪くなり、立っていられないほど吐き続けた。彼は私を抱きかかえて病院へ運びながら、医者にこう言ったのだ。

「彼女がすっぽんを受け付けないってこと、ちゃんと覚えておきます。もう二度と食べさせません」

私は口を押さえて洗面所に駆け込み、便器に縋り付いて涙を流しながら吐いた。喉の奥まで苦味でいっぱいだった。

入り口から足音が近づいてきた。

拓也がドア枠にもたれかかり、疲れたような声で言った。

「祐那、可奈がせっかく食欲が出てきたっていうのに、お前は食卓であんな食欲を失せさせるような真似をしなきゃ気が済まないのか。受付の写真を可奈のに替えたことへの当てつけにしても、そんな下手な芝居をするな。もうすぐ結婚するんだから、分別を持てよ」

私は口元を拭い、掠れた声で言った。

「……拓也、この食事はあなたたちで食べといて。結婚式も可奈に譲る。この結婚、やめにするわ」

拓也は一瞬呆気に取られ、それからふっと笑った。

「結婚を取引材料にするのか?祐那、そんな手が通じると思ってるのか」

廊下の向こうから可奈の声が届いた。「私、来ないほうがよかったのかしら。祐那、本気で怒ってるみたい」

拓也は背を向けて歩き出しながら、それだけ言い残した。「ひとりで頭を冷やしとけ。あとで俺に機嫌を取らせるなよ」

私は個室に戻らず、ひとりでタクシーに乗って店を後にした。

新居に戻ると、部屋のあちこちに結婚祝いのものが残っていた。

窓辺には贈り物の胡蝶蘭が並び、ベッドサイドには、私が自分で軸を削って仕立てた一本の絵筆が置かれていた。拓也が初めて画材店に付き合ってくれた日に、筆の材料を買ってくれたものだった。

その筆を握りしめ、私は先生に電話をかけた。「先生、決めました。一週間後に安川市へ行きます。アトリエの枠、まだ空いていますか」

電話の向こうでほんの少し沈黙が落ちた。「祐那、本当によく考えたのか?」

私は胡蝶蘭を見つめながら、低い声で答えた。「よく考えました」

ドアの鍵が鳴り、拓也が入ってきた。手にはホテルの持ち帰り箱を提げている。

箱をテーブルに置きながら、拓也の視線が私の手の中の絵筆に落ちた。

「可奈が、お前今日何も食べてないって言うから、残りを包んでもらってきた。あまり意固地になるなよ」

私は絵筆を引き出しに戻した。その時、彼のスマホが震えた。

画面が光り、可奈からのメッセージが届いていた。

【拓也、あの受付の写真にひと言添えたいの。「あなたの花嫁」って書いてもいいかしら?】

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松坂 美枝
松坂 美枝
クソのような家族と婚約者に踏みにじられ続けていたが、自分の力で立ち上がる主人公の話 ウェルカムボードとか写真とか招待状とか… いや~あのままだったらモラ殺されてたよ 抜け出せて良かった
2026-07-20 09:30:45
1
0
asmr
asmr
この家族を前にして働いてた式場のスタッフやプランナー画どんな気持ちだったのか知りたいw
2026-07-20 11:52:04
1
0
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第1話
前撮り当日、カメラマンにふと言われた。「笑うと、お姉さんによく似てますね」そのひと言を聞いた近藤拓也(こんどう たくや)は、すぐに私の姉、芳賀可奈(はが かな)にもウェディングドレスを勧めた。せっかくだから、記念に何枚か撮ってもらおう、と。写真を選ぶ段になると、家族そろって可奈の写った一枚に見入り、口々に褒めちぎった。「可奈は生まれつき、ドレスが映えるプロポーションなのよね」と母が言った。「花嫁のお前より、よほど華があるじゃないか」と父も言った。拓也は画面から目を離さず、いつまでも眺めていた。指先が止まったのは、可奈が振り返った瞬間を捉えた一枚だった。「これ、披露宴の受付に飾ろう。よく撮れてる」私は尋ねた。じゃあ、私の写真はどこに飾るの、と。そこで初めて、彼は私の存在を思い出したような顔をした。「お前と可奈は顔立ちが似てるから、招待客だって見分けはつかないさ。それに、可奈は結婚する予定もないんだ。一度くらいドレスを着る機会を作ってやるのも悪くないだろう」思わず、笑いがこぼれた。物心ついたときから、いつだってそうだった。可奈は苦労してきたのだから、私が譲る。可奈が欲しがれば、私が差し出す。可奈の持たないものを、私が持ってはいけない。自分の結婚式さえ、可奈の夢を叶えるための舞台になってしまうのか。アルバムの中から、拓也とふたりだけで写った、たった1枚の写真を、そっと抜き取った。写っている私は、彼の隣で、精一杯の笑みを浮かべている。けれど今こうして見返すと、まるで見知らぬ誰かのように見えた。春が私のもとへ来なかったわけではない。ただ私はずっと、誰かの影の中に立ち、そこで春を待ち続けていただけだったのだ。今度こそ、もう待つのはやめよう。……私、芳賀祐那(はが ゆうな)が拓也とふたりきりで写ったあの写真をスタジオの受付のシュレッダーに押し込んだとき、拓也は俯いて可奈のショールを直していた。物音に気づいた拓也が顔を上げ、こちらをちらりと見た。声はどこまでも素っ気ない。「祐那、たかが写真1枚だろう。人前でみっともない真似をするな」ソファに腰掛けた可奈は、申し訳なさそうな顔をした。「祐那、怒ってるんじゃない?受付の写真は、やっぱり祐那のにしましょうよ。私は気にしないから」母がすぐさま可奈
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第2話
拓也はその画面を消し、まるで何事もなかったかのように、落ち着いた声で言った。「可奈は冗談好きなんだ。あいつのちょっとした悪ふざけをいちいち気にするな」私は「差し入れ」をゴミ箱に全部捨てた。拓也の顔が険しくなった。「お前は食べ物にまで俺に八つ当たりするのか」私は答えなかった。ちょうどそのとき、玄関のチャイムが鳴った。プランナーの若い女性が招待状の箱を2つ抱えて入ってきて、にこやかに言った。「芳賀様、ご自身でお描きになったモクレンの招待状が届きましたよ。うちの人みんな、とても綺麗に仕上がっていると申しておりました」私はしゃがんで箱を開けた。紙面に指先が触れた瞬間、動きが止まった。招待状が半分足りない。どの招待状にも、封の部分に私が描いたモクレンの小枝の絵がある。花びらに透かし模様をあしらった図案で、2ヶ月以上かけて何度も描き直したものだった。私は顔を上げ、拓也を見た。「残りは?」拓也はカフスボタンを緩めながら、当然のように言った。「可奈が気に入ったみたいだったから、半分やったんだ。闘病仲間の名前を書いて配らせてやれば、それも賑やかでいいだろう」「これは私の結婚式の招待状よ」拓也は眉をひそめた。「お前は元々友達が多くないだろう。残りで十分だ。足りなければWeb招待状でも同じことだ」ドアの向こうから可奈が顔を覗かせた。手にはすでに書き込んだ招待状を数枚持っている。「祐那、拓也を責めないで。私が羨ましがりすぎたのよ。私は一生、招待状を配る機会なんてないかもしれないから」拓也は彼女の手から招待状を受け取り、低い声でなだめた。「お前は気にせず書いてればいい。あいつは怒りっぽいだけで、すぐ機嫌を直すから」プランナーはその場で固まり、苦笑いを浮かべたまま反応に困っていた。私は残った招待状を1枚ずつきれいに揃えながら、彼女に尋ねた。「式のリハーサル、今日の午後よね?」彼女は慌てて頷いた。「はい、全て準備済みです。近藤様が、まだ確認していただきたい流れがひとつあると仰っていました」午後、拓也は車で可奈と一緒に両親を迎えに行き、私はひとりでタクシーに乗ってホテルへ向かった。ホテルに着いて、ようやくその「確認事項」が何なのかを知った。チャペルには白いバラが敷き詰められ、司会者が進行表を手に、ためらいがちに私を見た
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第3話
私がシュレッダーの電源を抜いたとき、拓也はすでにスマホを握りしめてゲストルームへ向かっていた。ドアがきちんと閉まっていなかったせいで、彼の声が漏れ聞こえてきた。「可奈、変なこと書くなよ。祐那が見たら余計なことを考えるだろう」翌日は、私たちの交際7周年記念日だった。拓也は朝出かける前、レストランの予約カードをテーブルの上に置いていった。「夜7時、展望レストランだ。昨日までの埋め合わせに、ちゃんとしたデートをしよう。昨日のことは水に流そう」そのカードを見つめながら、私はふと、心が揺らいでしまう自分が滑稽に思えた。夜7時、私は彼のお気に入りの白いワンピースを着て、レストランの窓際の席で彼を待った。7時半、電話が鳴った。拓也の声の背後は騒がしく、医療機器の電子音や足音が混じっていた。「可奈が急に動悸を起こして、俺は今病院にいる。飯は先に食っておけ、待たなくていい」私はフォークを握りしめたまま尋ねた。「……重いの?」拓也は一瞬黙り、それから声を冷たくした。「今それを聞くのは、あいつを心配してるのか、それとも俺がまたお前の記念日をすっぽかしたのが不満なのか、どっちだ」私はそれ以上何も言わず、電話を切った。そして、一口も手をつけていない料理を持ち帰り用に包んでもらい、病院へ向かった。病室のドアは半分開いていた。可奈はすでに目を覚まし、枕にもたれていた。その顔色は、私が思ったよりもずっと血色が良かった。拓也はベッドの傍らに座り、手にビロード張りの小箱を持っていた。中から取り出したのは、留め具の裏側に「KN」とイニシャルが刻まれたルビーのブレスレットだった。それは可奈の名前の頭文字だった。1ヶ月前、拓也は私を連れて特注しに行き、ルビーは私の肌によく映えるから、結婚式の前日にプレゼントすると言っていた。それが今、可奈の手首にはめられている。拓也は低い声で言った。「やっぱりこの色は、お前のほうが似合うな。手首が白いから、誰よりも映える」私はドアの外に立ち尽くしていた。手の中の持ち帰り箱が、ゆっくりと冷めていく。廊下の向こうから母がやって来て、私を見るなり顔を険しくした。「可奈は生死の境をさまよったばかりだっていうのに、そんなに着飾って誰に見せるつもり?頭の中は自分の記念日のことばっかり、本当に冷たい子ね」
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第4話
ウェディングプランナーがためらいがちにタブレットを差し出した。トップページのレイアウト案では、ウェルカムボードのメイン写真が、私たちふたりのものから可奈ひとりのものへと差し替えられていた。例の「あなたの花嫁」という言葉は消え、代わりに小さな一行が添えられている。――【すべての心残りが、優しく受け止められますように】私は尋ねた。「この言葉、誰が決めたの?」ウェディングプランナーはちらりと入り口へ目をやり、言いにくそうに答えた。「近藤様が、先ほどお決めになりました」ちょうどそこへ、拓也がドアを開けて入ってきた。手には温かい飲み物を持っている。彼はまずそれを可奈に渡し、それから私を見た。「祐那、ちょうどよかった。可奈の闘病仲間たちが数卓分増えることになったから、席はもう増やしておいたぞ」私は静かに尋ねた。「じゃあ、私の同僚や友人の席は?」拓也はまるで些細なことのように答えた。「後ろの席に移したよ。可奈の仲間たちは体が弱いから、出入り口に近いほうが都合がいいんだ」私はタブレットの画面で、最後列の隅へ追いやられた名前を見つめた。そこには、大学時代のルームメイトも、私の絵を褒めてくれた恩師も、唯一招待した前職の同僚の名前もあった。拓也は軽く私の手首を握った。「結婚式なんて人に見せるためのもんだ。席順なんかに拘るなよ、な?」車椅子に座った可奈が、また目を赤くして俯いた。「祐那、まだ私のこと、怒ってる?だったら、私、やっぱり来ないほうがいいのかな」母がすぐさま私を睨みつける。「可奈はあなたの結婚式に出るためにこんなに無理してるのよ。まだ何が不満なの?」私は拓也の指から静かに自分の手を引き抜いた。「参加するなとは、一言も言ってないわ」拓也は満足げに頷いた。「それでいい」昼食の席で、可奈が突然胸を押さえ、息を荒くした。隣の市に評判の医師がいて、その診察予約がちょうど結婚式当日の午前中に取れたのだという。母はその場で慌てふためき、私の腕をきつく掴んだ。「祐那、昼のガーデンウェディングは中止にしましょう。夜の宴会場に変更するの。私たちと拓也は可奈の診察に付き添わなきゃいけないから、あんたの結婚式まで面倒見てられないわよ」拓也は迷う素振りすら見せなかった。「夜のほうがちょうどいい。ガーデンは風が強いから、可奈の体に障
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第5話
拓也の顔色がサッと沈んだ。「あいつは意地を張ってるだけだ。入り口に人をやって待たせておけ」司会者はタブレットを差し出しながら、声を震わせた。「ス、スクリーンをご覧ください。芳賀様が、タイマー再生を設定されていたようで――今、会場中のお客様がすでにご覧になっております!」拓也は勢いよく顔を上げ、宴会場のメインスクリーンを見た。大画面には一枚の画像が映し出されていた。拓也自身が承認した、あの「結婚式進行表」だった。そこにははっきりとこう書かれている。――【新郎はまず姉の可奈様を車椅子で押し、ふたりでバージンロードを歩く。その後、新婦が入場する】拓也の指先が宙で凍りついた。可奈の顔が、華やかな照明の下でじわじわと蒼白になっていく。次の瞬間、宴会場の扉が開き、ウェディングプランナーが純白のウェディングドレスを抱えて駆け込んできた。「近藤様、新居がもぬけの殻になっています。ベッドの上には、これだけが残されていました」ウェディングプランナーの震える腕からドレスが滑り落ち、裾が床の埃にまみれた。拓也は身をかがめてドレスを拾い上げた。その指の関節が、少しずつ白く強張っていく。ゲストたちの容赦ないささやき声が、四方から波のように押し寄せてきた。「まあ、あのお姉さん。普段はか弱そうに見えたのに、裏ではあんな真似をしていたなんて」「妹の結婚式で自分の夢を叶えるんですって?そんなの、ただの横取りじゃないの!」「道理で新婦が逃げ出すわけだわ。あんなの、誰が耐えられるっていうの。あのお姉さん、ずいぶん計算高いのね……」スクリーン上の進行表がゆっくりとフェードアウトし、最後に、私が残した黒い太字のメッセージが浮かび上がった。【お姉ちゃんがそんなに花嫁になりたいなら、こそこそ他人の式で夢を叶える必要なんてないわ。新郎ごと、全部あげる。おふたりとも末永くお幸せに。これから一生、ふたりで仲良くやっていけばいいわ。私のことは探さないで】拓也はスクリーンに映る【全部あげる】の文字を見つめたまま立ち尽くした。耳の中は、四方からの嘲笑とざわめきでいっぱいだった。その瞬間、彼は関節が白くなるほど拳を強く握りしめ、胸の奥を鋭く抉り取られたような激しい痛みだけが残った。彼は弾かれたようにスマホを取り出し、私の番号にかけた。しかし、聞こえてきたの
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第6話
その三毛猫を彼から受け取ろうとしたとき、猫の爪が私の袖口に引っかかってしまった。彼は目を伏せ、丁寧に爪を外してくれた。その指先はとても落ち着いていた。「団子っていうんです。人見知りですが、画用紙が好きで」私が見下ろすと、団子はすでに私の画材箱の上に飛び乗り、丸くなってうとうとし始めていた。彼は一枚の名刺を差し出した。【ノスタルジア書店 深澤涼(ふかざわ りょう)】「隣に古書の修復作業台があります。道具が足りなければ、いつでも借りに来てください」私は頷いた。「ありがとうございます」安川市での生活に落ち着いてから、私は1冊の絵本を描き始めた。タイトルは「春を待つ」1ページ目に描いたのは、長い影の中に立つひとりの少女。手にはモクレンの木の絵筆を握っている。彼女は待ち続け、待ち続けて、白い紙の上に埃が積もるほど、ただ待ち続けた。先生は初稿を見終えると、ただ一言だけ言った。「癒しを急いではいけない。まずは痛みを、正確に描きなさい」私は庭で絵を直しながら日々を過ごした。団子はいつも、画架の下で丸くなっていた。涼は猫を迎えに来るたび、ついでに戸口に置かれた絵の具箱を中へ運び入れてくれた。彼は、私がどこから来たのかも、なぜひとりでいるのかも、一度も尋ねることはなかった。時々、食事を忘れて絵に没頭していると、石のテーブルの上に、いつの間にか温かいお茶と菓子が一皿そっと置かれていた。メモがカップの下に挟まれている。【冷めると胃に悪いです】その字は細く、整っていた。1ヶ月後、絵本のサンプルページをネットに公開すると、ちょっとした話題になった。出版社から出版契約の連絡が来て、見本誌の送付先にはこのアトリエの住所を書いた。絵筆一本で、初めて原稿料を受け取った。口座への振込通知が届いたとき、私はその数字の並びをしばらくじっと見つめてしまった。――私は、誰かの影であることしかできない存在では、なかったのだ。……拓也はがらんとした部屋に座り込んでいた。机の上には、ゴミ捨て場から拾い直してきた思い出のアルバムが置かれている。写真は汚水に浸かり、端がひどく反り返っていた。彼はティッシュでそれを少しずつ拭った。指の腹が擦れて赤くなるまで、無心で拭い続けた。秘書がドアの前に立ち、慎重な声で報告し
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第7話
母は振りほどこうともがいたが、涼の手はびくともせず、顔を真っ赤にして叫んだ。「私はこの子の母親よ!親が娘を叱って何が悪いの!」涼は手を離すと、私を半歩後ろへ庇うように立った。「彼女はもう大人です。あなたがたの所有物じゃない」拓也は涼の手元を睨みつけ、声を冷たくした。「これは俺たちの家の問題だ。部外者が口を出す資格はない」涼は静かに彼を見た。「彼女が望んでいないのなら、それはもう『あなたがたの』家の問題ではありませんよ」私は涼の背後から歩み出た。正直、また彼らと顔を合わせたら、震えて、傷ついて、泣きたくなるだろうと思っていた。けれどこの3人の顔を見ても、ただひどく遠い存在に感じるだけだった。私は母に向かって言った。「小学生の頃、私がテストで一番を取ったとき、お姉ちゃんが傷つくからって黙ってろと言ったわよね。中学の誕生日には、私のケーキをお姉ちゃんが食べられる無糖のものに替えられた。美大を受験したいと言ったときは、お姉ちゃんの治療にお金がかかるからもっと学費の安い学校を選べって言ったわね」母の顔色が変わる。「可奈は体が弱いんだから、少し優先するくらい、何が悪いの?」私は淡々と頷いた。「だから今日からは、これからずっと、お姉ちゃんだけを優先すればいいわ」私は財布から銀行のカードを取り出し、庭の石テーブルの上に置いた。「600万よ。今まで育ててもらった分の清算。これから先、私に両親はいないし、姉もいない」父が怒鳴った。「祐那、親に向かってなんて口の利き方だ!」私は彼を見た。「ええ。ようやく自分の足で立てるようになったの」拓也はずっと黙っていた。私が彼の方を向くと、彼はようやく我に返ったように口を開いた。「祐那、辛い思いをさせたのは分かってる。俺と一緒に帰ろう。式はやり直す。受付の写真はお前のに戻すし、招待状も刷り直す。可奈のことは俺が何とかするから」彼は必死に譲歩を並べた。まるでそれが、彼にできる精一杯の譲歩だとでも言うように。「拓也、あなたは今でも、私がただ結婚式のことで怒ってるとでも思ってるの?」彼の喉仏が動いた。「それだけじゃないのは分かってる。だが7年の付き合いだ、簡単に断ち切れるものじゃないだろう。まずは家に帰って話そう。勝手に話を終わらせるな」私は小さく笑った。「その家に
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第8話
拓也のその様子を見て、私はふと、彼のことが見知らぬ他人のように思えた。かつての彼は、いつも確信していたのだ。私が譲るということを。私が待つということを。どれほど冷たくされても、いずれ自分から戻ってくるということを。今、私の庭に立ち尽くす彼は、必死にすがりつく姿さえ滑稽に見えた。「あなたに、私を問い詰める資格なんてあるの?」彼の唇は真っ白だった。「俺はただ、お前がこんなに早く俺を諦められることが受け入れられないだけだ」私は頷いた。「そうでしょうね、受け入れられるはずないわ。私のウェルカムボードをお姉ちゃんのものに差し替えて、私の招待状をお姉ちゃんに使わせて、結婚式では私より先にお姉ちゃんをエスコートする姿を見せつけようとしたんだから」拓也の肩が強張った。私は続けた。「あなたは私を愛してない。お姉ちゃんのことも愛してないわ。ただ、私が後ろに控えて、可奈があなたにすがりつく……その構図の中で、優越感に浸りたかっただけじゃない」涼は食器を片付ける手を一瞬止めたが、何も言わなかった。拓也は口を開きかけた。「そうじゃない」私は彼を見つめた。「じゃあ、どういうことなの?私がすっぽんの匂いに耐えられないと知っていながら、そのメニューを用意した。私が絵を描くのが好きだと知っていながら、7年間あなたの助手をさせ続けた。あのモクレンの絵筆が私にとってどれほど大切か知っていながら、それがなぜ引き出しにしまわれたままなのか、一度も尋ねなかったじゃない」拓也は突然身をかがめ、泥水の中からあの画集を拾い上げ、指の腹で表紙を必死に拭った。「これからは訊く。全部、埋め合わせるから」私は小さく笑った。「もう遅いわ」彼は膝を折り、私の前にひざまずいて、指で私のスカートの裾を掴んだ。「祐那、頼む。もう一度だけチャンスをくれ」拓也がこんなふうに頭を下げたことなど、一度もなかった。もし以前の私だったら、きっと動揺して、心が揺らいで、また自分をあの暗い影の中に押し戻していただろう。けれど私は、ただ静かに一歩後ろへ下がった。スカートの裾が、彼の手のひらからふっと滑り落ちる。涼が私の傍らに歩み寄り、無闇に触れたりせず、ただ隣に立った。拓也は顔を上げて彼を見た。その目には嫉妬しかなかった。「お前に何の資格がある?こいつと知り合って
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第9話
私はその指輪を見下ろし、ふいに涙がこぼれた。涼は目を上げて私を見た。「俺のそばでは、君は誰にも譲らなくていい。君が一番で、唯一だ」私はそっと手を差し出した。指輪が薬指に嵌められたとき、庭の門の外で、何かが軽く地面に落ちる音がした。拓也が影の中に立っていた。あの画集が彼の手から落ち、敷石の上で再び泥にまみれていた。……一年後。私と涼は、書店の外の芝生でささやかなガーデンウェディングを挙げた。周りには私が描いた絵本や絵葉書が、色鮮やかに飾られていた。涼は淡い色のスーツを着て、屈み込んで私のベールを整えてくれた。「緊張してる?」私は首を振った。「少しお腹が空いちゃった」彼は笑って、キャンディを一つ私の手のひらに握らせた。「まずこれで我慢して。式が終わったら、美味しいご飯でも食べにいこう」そのとき、スマホが短く震えた。見知らぬ番号から、1枚の写真が届いていた。写真の中の拓也は車椅子に座り、ズボンの裾は途中から空っぽのまま垂れ下がっていた。全身が見る影もなく痩せこけている。メッセージは短かった。【祐那、安川市から帰ったあの夜、俺は放心状態で事故を起こして、両脚を失った。お前の描いた絵本は毎日見てる。今日は結婚おめでとう。これは俺が受けた報いだ】私はそれを読み終えると、静かに削除し、番号をブロックした。恨みもなく、ざまあみろというような快感もなかった。なぜなら、私の人生はとっくに前へ進んでいたからだ。拓也は療養施設の窓辺に座り、スマホの画面には送信完了の表示が出たままだった。介護士が薬をテーブルに置いた。「近藤様、お薬をどうぞ」彼は動かなかった。膝の上に置かれた絵本は、最後のページが開かれていた。少女がモクレンの絵筆を握りしめ、影の外へと歩み出し、紙いっぱいに明るい春が広がっている。彼はその1ページに手を伸ばし、指先が紙面の上で止まったまま、長い間動かなかった。背後でドアが開いた。可奈が立っていた。ひどく痩せ細り、顔には病的な白さが浮かんでいる。彼女は拓也の車椅子を見て、まず嫌悪の色を浮かべたが、すぐにそれを押し殺して嘘泣きを始めた。「拓也、あなたがお金の援助を打ち切ってから、両親は私の治療のために家まで売ったの。もうどこからもお金を借りられなくて、治療も続け
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