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あなたを待つ日は、もう終わり

あなたを待つ日は、もう終わり

By:  小湯まるCompleted
Language: Japanese
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私、花村千歳(はなむら ちとせ)は神崎悠真(かんざき ゆうま)と、私の故郷に古くから伝わる婚姻のしきたりに従って結ばれてから、6年が経った。 7年目を迎えた今年、彼は亡き兄が遺したすべてを受け継いだ。 ――兄の妻、神崎紗耶(かんざき さや)も含めて。 悠真は紗耶の部屋で夜を過ごすたび、戻ってくると私を抱き寄せ、優しく囁いた。「千歳、もう少しだけ待ってくれ。紗耶に子どもができたら、その時は君とちゃんと式を挙げる」 それが、一族の当主として認められるために、彼に課された唯一の条件だった。 東都に戻って半年、悠真は紗耶の部屋を52回訪れた。 最初は月に一度だけだったのに、今ではほぼ2日に一度。 そして52回目の夜を、私は一睡もできないまま夜明けまで過ごした。 朝になって届いたのは、紗耶の妊娠を告げる知らせだった。 けれど、それと同時に耳に入ってきたのは―― 悠真と紗耶が結婚するという話だった。 「ママ、おうちで誰か結婚するの?」 部屋いっぱいに飾られた祝い飾りを見つめながら、事情も分からず首をかしげる息子を、私は静かに抱き寄せる。「そうよ。パパは、大好きな人と結婚するの。だから、私たちもここを出て行かなくちゃね」 悠真は知らない。 私たちの一族は、もともと婚姻という形に縛られることはないのだから。

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Chapter 1

第1話

私、花村千歳(はなむら ちとせ)は神崎悠真(かんざき ゆうま)と、私の故郷に古くから伝わる婚姻のしきたりに従って結ばれてから、6年が経った。

7年目を迎えた今年、彼は亡き兄が遺したすべてを受け継いだ。

――兄の妻、神崎紗耶(かんざき さや)も含めて。

悠真は紗耶の部屋で夜を過ごすたび、戻ってくると私を抱き寄せ、優しく囁いた。「千歳、もう少しだけ待ってくれ。紗耶に子どもができたら、その時は君とちゃんと式を挙げる」

それが、一族の当主として認められるために、彼に課された唯一の条件だった。

東都に戻って半年、悠真は紗耶の部屋を52回訪れた。

最初は月に一度だけだったのに、今ではほぼ2日に一度。

そして52回目の夜を、私は一睡もできないまま夜明けまで過ごした。

朝になって届いたのは、紗耶の妊娠を告げる知らせだった。

けれど、それと同時に耳に入ってきたのは――

悠真と紗耶が結婚するという話だった。

「ママ、おうちで誰か結婚するの?」

部屋いっぱいに飾られた祝い飾りを見つめながら、事情も分からず首をかしげる息子を、私は静かに抱き寄せる。「そうよ。パパは、大好きな人と結婚するの。だから、私たちもここを出て行かなくちゃね」

悠真は知らない。

私たちの一族は、もともと婚姻という形に縛られることはないのだから。

……

息子を寝かしつけると、私はスマートフォンを手に取り、故郷に戻る航空券を予約した。

けれど年始の休暇が終わったばかりで、帰省客や仕事始めの人々が一斉に移動する時期だった。

最も早い便でも、出発は7日後。

表示された日付を見つめたまま、私はしばらく動けなかった。

1月11日――私と悠真が故郷の婚姻のしきたりに従って結ばれてから、まる7年の記念日でもあった。

まるで運命が決めた巡り合わせのようだ。

私は苦く口元をゆがめた。

……ちょうどいい。

始まりがこの日なら、終わりもこの日にしよう。

そのとき、不意に濃厚なクチナシの香りが背後から私を包み込んだ。「何を見てるんだ?」

頭上から降ってきた悠真の優しい声に、私は反射的に画面を消す。「宝石の記事を見ていただけよ」

たった半年で、紗耶がまとうクチナシの香りは、今では悠真の体にまで染みついてしまっていた。

私は嫌悪感を覚え、そっと彼を押し返す。「お風呂に入ってから話して」

悠真は自分の服の匂いを嗅ぎ、少し気まずそうに苦笑した。「……すぐ入ってくる。最近ずっと君をないがしろにしてしまって、ごめん。この数日は紗耶のところには行かないから」

紗耶――そんなにも自然で親しげな呼び方。

以前は人前だけでも「紗耶さん」と呼び、体裁だけは繕っていたのに。

今では「さん」もつけない。

事情を知らない者が見れば、紗耶こそが彼の妻だと思うだろう。

やがて浴室の扉が開き、湯気をまとった悠真がバスタオル姿で出てきた。

広い肩に引き締まった腰。

すらりと伸びた体には、この年齢の男には珍しい、どこか少年らしい面影が残っている。

その姿を見ていると、7年前の彼が重なった。

夜露をまといながら、私の故郷に伝わる古い風習に従って、夜更けに私のもとを訪ねてきた彼。

誇らしげに胸を張り、世界中に言いふらしたいと言わんばかりに笑っていた。「千歳、今日から君は俺の人だ。これから先もずっと、俺たちは二人で生きていこう」

私がぼんやり彼を見つめていることに気づくと、悠真は嬉しそうに笑い、私を強く抱きしめた。「千歳、今日は君だけと過ごす。どこにも行かない」

柑橘の爽やかな香りに、わずかに残るクチナシの香りが混ざり合う。

そのちぐはぐな匂いは、胸が悪くなるほど不快だった。

私は静かに目を伏せる。

もう、目の前のこの人は、あの頃の彼ではない。

そのとき、ノックの音が静寂を破った。

「悠真様。紗耶様のご気分が優れません。どうかお部屋までお越しください」

その報告を聞いた瞬間、不機嫌そうな表情は一瞬で消え、悠真の顔は緊張に染まった。

慌ただしく服を着替えながら尋ねた。「どうしたんだ?医者は呼んだのか?」

数歩進んだところで、彼はようやく立ち止まる。

申し訳なさそうに振り返り、ドアにもたれていた私を見つめた。

「紗耶の様子を見てくる。兄が亡くなってから、彼女には俺しか頼れる相手がいないんだ。

すぐ戻るから。千歳は、一番物分かりがいいだろ?」

――「物分かりがいい」。

その一言だけで、私は半年もの間、52回もの夜をひとりで過ごしてきた。

私の故郷には、二人が古のしきたりに従って誓いを交わしさえすれば、それは生涯の伴侶として添い遂げるという契りになる。

だが悠真、私はあなたの世界のしきたりに従って、52回も私たちの誓いを手放してしまった。

私は静かに口を開いた。「悠真」

悠真は眉をひそめ、何か慰めの言葉をかけようとした。

だが、その瞬間。

不意に肩に掛けられた重みに、彼は思わず息を呑む。

私はコートをそっと彼の肩に掛けた。「夜は冷えるから。ちゃんと羽織って行って」

彼は肩のコートを握りしめ、複雑な表情で私を見つめる。「千歳、君……」

胸の奥に込み上げたこの苦しさが何なのか。

彼がそれを理解するより早く――

バタンと、ゲストルームの扉が閉まった。

あと7日。

悠真。

もう、あなたを待つことはない。

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第1話
私、花村千歳(はなむら ちとせ)は神崎悠真(かんざき ゆうま)と、私の故郷に古くから伝わる婚姻のしきたりに従って結ばれてから、6年が経った。7年目を迎えた今年、彼は亡き兄が遺したすべてを受け継いだ。――兄の妻、神崎紗耶(かんざき さや)も含めて。悠真は紗耶の部屋で夜を過ごすたび、戻ってくると私を抱き寄せ、優しく囁いた。「千歳、もう少しだけ待ってくれ。紗耶に子どもができたら、その時は君とちゃんと式を挙げる」それが、一族の当主として認められるために、彼に課された唯一の条件だった。東都に戻って半年、悠真は紗耶の部屋を52回訪れた。最初は月に一度だけだったのに、今ではほぼ2日に一度。そして52回目の夜を、私は一睡もできないまま夜明けまで過ごした。朝になって届いたのは、紗耶の妊娠を告げる知らせだった。けれど、それと同時に耳に入ってきたのは――悠真と紗耶が結婚するという話だった。「ママ、おうちで誰か結婚するの?」部屋いっぱいに飾られた祝い飾りを見つめながら、事情も分からず首をかしげる息子を、私は静かに抱き寄せる。「そうよ。パパは、大好きな人と結婚するの。だから、私たちもここを出て行かなくちゃね」悠真は知らない。私たちの一族は、もともと婚姻という形に縛られることはないのだから。……息子を寝かしつけると、私はスマートフォンを手に取り、故郷に戻る航空券を予約した。けれど年始の休暇が終わったばかりで、帰省客や仕事始めの人々が一斉に移動する時期だった。最も早い便でも、出発は7日後。表示された日付を見つめたまま、私はしばらく動けなかった。1月11日――私と悠真が故郷の婚姻のしきたりに従って結ばれてから、まる7年の記念日でもあった。まるで運命が決めた巡り合わせのようだ。私は苦く口元をゆがめた。……ちょうどいい。始まりがこの日なら、終わりもこの日にしよう。そのとき、不意に濃厚なクチナシの香りが背後から私を包み込んだ。「何を見てるんだ?」頭上から降ってきた悠真の優しい声に、私は反射的に画面を消す。「宝石の記事を見ていただけよ」たった半年で、紗耶がまとうクチナシの香りは、今では悠真の体にまで染みついてしまっていた。私は嫌悪感を覚え、そっと彼を押し返す。「お風呂に入ってから話して」悠真
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第2話
案の定、悠真は一晩中戻ってこなかった。そんなことを予想していても、隣の冷え切った寝床に手を伸ばした瞬間、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。ほどなくして、扉が激しく叩かれ始めた。扉を開けると、神崎家の使用人が露骨に見下したような目で言った。「奥様がお呼びです。お子さんを連れて本家へお越しください」神崎家の奥様である神崎美智子(かんざき みちこ)は、昔から私を快く思っていなかった。どれだけ故郷の婚姻のしきたりについて説明しても、彼女にとって私は身持ちの悪い女でしかない。そのせいで、息子にまで冷たい視線が向けられていた。主人がそんな態度なのだから、使用人たちも当然それにならう。本家の大広間に着くと、一族の親族たちが勢ぞろいしていた。一晩姿を見せなかった悠真は、紗耶の肩を支えるように寄り添い、その眼差しは優しさに満ちている。美智子は紗耶のお腹を見つめ、満面の笑みを浮かべた。「紗耶もようやく身ごもってくれたわ。今日は皆さんもお揃いですし、半年前の約束を果たす時ですね」この場で最も発言力のある長老が前に進み出ると、皆の前で悠真を神崎家当主として正式に認めることを宣言した。「これで神崎家にも正式な跡継ぎができた。あとは良き日を選んで結婚式を挙げれば良い」私は顔を上げる。けれど、誰一人として私を見てはいなかった。視線の先にいるのは紗耶。悠真も例外ではない。彼は人目も気にせず紗耶のお腹にそっと手を添え、穏やかに微笑んだ。「俺は父親になるんだ」――「俺はまた父親になる」ではなく、「俺は父親になる」なのだ。その一言が胸に突き刺さる。私は唇を噛み締め、拳を固く握った。その時、小さな声が静まり返った大広間に響く。「ママ……痛い」はっとして手を離すと、息子の小さな手は真っ赤になっていた。「ごめんね。ママが悪かった。ふーってしてあげるから……」その一言で、広間中の視線が一斉に私たちに向く。長老は眉をひそめた。「もし神崎家当主に婚外子がいると知れ渡れば、神崎家の名誉は地に落ちてしまうぞ」「そんなの、素性の知れない女が産んだ子に過ぎないわ」美智子は鼻で笑った。「今後は、神崎家の分家で預かっている子どもだということにしておきなさい」美智子は私を嫌っていた。だから当然、私の息子・花村陽斗(はなむ
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第3話
「悠真……それも、あなたの意思なの?」私は紗耶を見つめた。彼女が少し顎を上げた拍子に、首筋に散らばるキスマークがあらわになる。細い針で心を何度もなぞられるような、鈍く長く続く痛みが胸を締めつけた。そのパライバトルマリンは、私と悠真の想い出の品だった。あの日、白峰県の宝石展示会で、二人ともこの宝石に心を奪われたことがきっかけで出会った。私の故郷の婚姻のしきたりに従って結ばれた夜、悠真は自らペンダントチェーンを選び、このパライバトルマリンのペンダントを私の首に掛けてくれた。そして、一生添い遂げようと誓った。紗耶がそれを欲しがっていたことは知っている。何度も悠真にねだったが、彼は一度も渡そうとしなかった。けれど今回、彼は私から視線を逸らし、その目には迷いと後ろめたさが浮かんでいた。「君が、もし……」「いいわ」私は小さく笑うと、首からそのペンダントを引きちぎるように外し、そのまま紗耶に差し出した。紗耶は嬉しそうに首に掛ける。その姿を見て、私は穏やかに微笑んだ。「とてもお似合いよ」悠真が驚いたように私を見つめる中、私は息子を抱き上げ、そのまま振り返らずに立ち去った。……屋敷に戻っても、陽斗は泣き止まなかった。私は胸の痛みを押し殺し、小さな手をそっと握る。「陽斗。もしママが、ここを離れて、一緒に別の場所に行こうって言ったら……来てくれる?」陽斗はさらに大粒の涙をこぼした。「ママ……ぼくたち、行かないとだめ?」「陽斗。パパもおばあちゃんも、私たちにここにいてほしくないの。それでも、ずっとここに残って、パパのことを『おじさん』と呼びたいの?」私は涙をこらえながら、優しく息子を見つめた。本当は、この子には私だけを見ていてほしかった。どんな時も、何があっても、私を一番に選んでほしかった。でも、それは私の身勝手な願いだ。陽斗は胸に抱えたレゴをぎゅっと抱きしめた。それは去年の誕生日に、悠真が贈ってくれたプレゼントだった。「ママ……ぼく、もう一回だけパパと誕生日を過ごしたい……いい?」それでも彼は、まだ「パパ」と呼ぶことをやめなかった。私は目を閉じ、息子を強く抱きしめる。「……うん」……1月9日。今日は陽斗の誕生日だ。私は2日前から悠真に伝え、ちゃんと予定を空けておいて
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第4話
スマートフォンに表示されたその一通のメッセージを見た瞬間、胸いっぱいに喜びが広がった。私は急いで画面を陽斗に見せる。「陽斗、ほら見て。パパ、ちゃんと覚えててくれたのよ」うつむいていた陽斗は勢いよく顔を上げ、ぱっと満面の笑みを浮かべた。「パパ、きっとぼくにプレゼントをいっぱい用意してくれたんだ!ママ、早く行こう!」悠真から返事が来たことで、陽斗は道中ずっとはしゃぎっぱなしだった。「どんなプレゼントかな?ロボットかな、それとも……」そんなふうに無邪気な声を弾ませている。けれど神崎家の本家に着いた途端、庭一面を埋め尽くす赤いバラが目に入り、私の胸は嫌な予感で締めつけられた。こんな飾りつけは、子どもの誕生日会でするものではない。陽斗は何も気づかず、嬉しそうに私の手を引いて中に駆けていく。私は重苦しい胸のまま、その後を追った。――悠真。どうか、取り返しのつかないことだけはしないで。宴会場に入ると、ケーキの前に立つ悠真を見つけた陽斗の目が輝いた。「パパ!」そう叫びながら、小さな体で悠真の胸に飛び込む。悠真は腕の中の子どもを見た瞬間、目を大きく見開いた。「どうして君たちがここに?」その驚きを隠せない声を聞いた瞬間、さっき胸をよぎった嫌な予感が、現実になろうとしているのを悟った。背後では、財界や名家の招待客たちがざわめき始める。「今日は神崎悠真と神崎紗耶の婚約披露の日じゃなかった?なのに、その子は『パパ』って呼んだぞ」「神崎家の次男は独身だったはずだろ?」「まさか隠し子か?」悠真の顔色が一変する。彼は陽斗を突き放すように離し、低い声で問い返した。「……今、何て呼んだ?」突然押された陽斗は、よろめきながら数歩後ずさりし、そのまま床に尻もちをついた。泣き出すのを必死にこらえながら、震える声で言う。「……お、おじさん」しばらくして、陽斗は会場中央の大きなケーキに目を向けた。そして無理に笑顔を作る。「おじさん……今日は、ぼくのお誕生日をお祝いしてくれるの?一緒にケーキを切ってもいい?」この日を、陽斗はずっと楽しみにしていた。悠真と一緒に誕生日を過ごせるなら、もう「パパ」と呼べなくても、それでいいと、自分に言い聞かせていた。その時、白く細い手が悠真の手に重なる。紗耶だった。彼女はケ
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第5話
会場にいた招待客たちは、誰もが言葉を失っていた。悠真と紗耶の顔は、人混みの中でみるみる青ざめていく。けれど一人だけ――陽斗だけは、まっすぐ私を見上げていた。まるで英雄を見るような、憧れに満ちた眼差しで。「ママ、すごくかっこいい!」私は陽斗を抱き上げ、悠真に向き直る。「神崎さん。申し訳ありませんが、陽斗は私だけの子です。神崎家とは何の関係もありません。これで失礼します」そう言った次の瞬間だった。背後から屈強なボディガードたちに取り押さえられ、私は床に押し倒される。頭上から紗耶の冷え切った声が降ってきた。「神崎家は、来たい時に来て、帰りたい時に帰れる場所じゃないのよ。叩き出してちょうだい」次の瞬間、拳が雨のように降り注いだ。全身の骨が軋み、砕けそうな痛みが走る。「ママ――!」陽斗は泣き叫びながら必死に私の方に這ってくる。私は歯を食いしばり、その小さな体を何度も突き返した。人垣の向こうには、苦しげな表情を浮かべる悠真がいた。彼は一歩踏み出しかける。しかし、その腕は再び紗耶に掴まれ、引き留められた。私は殴られ続けながら、過去を一つずつ手放していく。7年前。夜更けに私のもとを訪れ、「一生君だけを愛する」と誓った悠真。6年前。周囲から「まるで入り婿じゃないか」と笑われても、「千歳のそばにいられるならそれでいい」と笑っていた悠真。5年前。陽斗を胸に抱き、「この子がいるだけで十分幸せだ」と微笑んでいた悠真。その数々の思い出が、一発殴られるたびに灰となって崩れ落ちていった。陽斗の泣き声が会場中に響く。そして彼は、悠真の前に土下座した。幼い額を床に何度も擦りつけながら、必死に謝る。「おじさん、ごめんなさい……ぼくが悪かったです。だから、お願いです。ママを許してください」その一言に、私も悠真も、信じられない思いで顔を上げた。悠真は眉を寄せ、叫ぶ。「もうやめろ!」そして陽斗を見つめ、確かめるように問いかけた。「……今、何て言った?」床に跪くその小さな背中は、一瞬で大人になってしまったようだった。涙で真っ赤になった目で、自分の父親を見つめる。「おじさん。ここは、ぼくとママがいていい場所じゃないんですよね。だから、ぼくたちは帰ります。今日は、ごちそうさまでした」
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第6話
悠真は、受話器の向こうから流れ続ける無機質な呼び出し音を聞きながら、眉間のしわを深くしていった。焦りを隠せないまま、運転手を急き立てる。「もっと飛ばせないのか?違反金くらいどうとでもなるだろ!」運転手は額の汗をぬぐい、困り切った表情で答えた。「悠真様、私だって急ぎたいんです。でも今日は年明けの最初の三連休ですから、人も車も多すぎて……ご覧ください、この渋滞を」「……そうか、今日は1月11日なんだ」悠真はそこでようやく思い出したように、呆然と呟いた。今日は、千歳の故郷に伝わる婚姻のしきたりに従って結ばれてから、ちょうど7年の記念日だった。なのに自分は、この日を忘れていた。本当は結婚式が終わってから千歳を慰めようと思っていた。言い訳も、説明も、いくつも考えていた。けれど、彼女も息子も、待ってくれなかった。車の外では、苛立ったクラクションが絶え間なく鳴り響く。開いた窓から吹き込む冷たい風が頬を刺した。その冷気に触れた瞬間、悠真はふと思い出す。あの頃も、こんな寒い夜だった。夜風に吹かれながら、何度も千歳のもとを訪ねたことを。そして千歳はいつも、ドアを開けるなり俺を家の中へ引っ張り込んでくれた。冷え切った手に温かい湯たんぽを押しつけながら、「こんなに冷えて……」と心配そうに笑ってくれた。けれど、もう。そんな人はどこにもいない。前では運転手が必死にクラクションを鳴らしている。それでも車列は、一ミリたりとも動かなかった。悠真は顔を覆い、やがて何かを決意したように口を開く。「ドアを開けろ。俺が走る」しかしたった二キロなのに、その距離は果てしなく遠かった。空港に着いた頃には、口の中いっぱいに血のような鉄の味が広がっていた。彼は息を切らしたままカウンターに駆け寄る。係員の言葉が耳に入っても、意味を理解できない。「お探しのお客様でしたら、一時間ほど前の便でご出発されました」悠真は人気のない出発ロビーを呆然と見つめた。胸の中がぽっかりと欠け落ちたようだった。ずっと自分のそばにいると信じていた人が、ある日突然、いなくなってしまった。その考えが浮かぶと、彼は不意に笑った。そんなはずがない。千歳が、俺から離れるなんて。彼女がそんなこと、できるはずがない。自分にそう言
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第7話
会社に戻ると、悠真は力なくソファに倒れ込み、千歳とのチャット画面を開いた。ここ半年、やり取りは驚くほど少ない。ほとんどが彼女からだった。【ちゃんとご飯食べた?】【昨日は眠れた?】そんな他愛もない気遣いばかり。そして紗耶の部屋で夜を過ごした翌日だけは、千歳は決まって一日中返信をしなかった。せめてもの抵抗だったのだろう。小さな怒りを、その沈黙に託していた。やがてメッセージはますます減っていき、1週間前を境に、彼女は自分の食事も体調も、何一つ尋ねなくなった。悠真はゆっくりと身を起こし、眉を寄せる。1週間分の履歴が、画面一枚に収まってしまう。たった三通だけ。最初の二通は2日前。千歳は陽斗の誕生日会に来るのかと尋ねていた。そういえば、彼女は事前にも何度か念を押してくれた。だが自分は忘れていた。その時は、陽斗が息子としての立場を守ろうとして騒いでいるだけだと思い込んでいた。悠真は苛立ちを覚えた。ちゃんと謝るつもりだと言ったじゃないか。それまで、もう少し待ってくれてもよかったはずなのに。そして最後の一通。【私と陽斗は帰ります。どうか幸せになってください。もう二度と会うことはありません】――バンッ。悠真は椅子を思い切り蹴り飛ばした。キャスター付きの椅子は壁に激突し、大きな音を立てる。青ざめた顔のまま、指が乱暴に画面を叩いた。【千歳、君、本気で頭がおかしくなったのか?俺を離れて、君にまともな暮らしができると思ってるのか?今なら戻ってきてもいい。俺も考えてやる。安心しろ。俺は紗耶とは結婚していない。俺の妻は君だけだ】送信してから、一晩中待ち続けた。返事は来ない。電話をかけても、聞こえるのは機械的なアナウンスだけだった。「おかけになった電話は現在……」悠真はもう耐えられなかった。夜明け前、自ら車を走らせ、自宅に向かった。夜明け前の街は静まり返っている。明かりが灯っているのは、一軒のおにぎり専門店だけ。店先では、店主が手際よくおにぎりを握り、その隣では妻が湯気の立つ味噌汁をよそっている。立ちのぼる湯気の中、二人は言葉を交わさなくても息がぴったりだった。何気ないその光景は、温かな日常そのものだった。悠真はふと、昔のことを思い出す。
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第8話
車はタイヤを軋ませながら屋敷の前で止まった。悠真は車を降りると、乱れた服を整え、いつもの無表情を作る。心の中では決めていた。今回はちゃんと謝る。でも同時に、千歳にも少しは反省してもらわなければならない。これからは、子どもを連れて勝手に家を出るような真似はしてほしくない。そう考えながら玄関の扉を開ける。いつものように彼女が飛び込んでくるのを待っていた。だが、腕の中に飛び込んできた人が顔を上げると――それは紗耶だった。「悠真……どこに行ってたの?うぅ……もう私を捨てたのかと思った……」悠真は眉をひそめた。初めて、彼女の泣き声がひどく耳障りに感じられる。苛立ったように彼女を押しのけ、そのまま二階に向かった。「千歳――」だが、そこに千歳の姿はなかった。それどころか、家中から、千歳の痕跡がきれいさっぱり消えていた。クローゼットは半分以上空になり、色鮮やかなワンピースも、可愛らしい子ども服も一枚も残っていない。寝室では、結婚写真が飾られていた場所だけが白い壁になっていた。そして千歳が7年間、大切にしまい続けていた百通あまりのラブレターも消えた。そこに残っていたのは、真っ黒に焼け焦げたブリキ箱と、その中の灰だけだった。悠真は、その灰を呆然と見つめる。ようやく思い出した。千歳を振り向かせるまで、自分がどれほど必死だったか。百通以上ものラブレターを書き続け、ようやく夜に彼女のもとを訪ねることを許された。それからも半年近く通い続け、やっと彼女は心を開いてくれた。悠真は顔を覆い、その場に力なく崩れ落ちる。何もかもが、自分の手からこぼれ落ちていった。その時、階段の下から足音が聞こえた。悠真は勢いよく立ち上がり、胸が激しく脈打つ。どうか、そこにいるのが千歳でありますように。だが、誠実さを失った者の願いは届かない。部屋へ入ってきたのは、紗耶だった。「悠真……」悠真の表情が一瞬で冷え切る。先ほどまでの温もりは微塵も残っていない。彼は横目で紗耶を一瞥し、冷たく言い放った。「何か用か?」紗耶は一瞬戸惑ったように目を見開いたが、それでも言葉を続けた。「もう結婚することになっていたんだし、千歳さんも戻ってこないでしょう?だから……あなたも私と一緒に主寝室で暮らさない
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第9話
その頃、白峰県に向かう飛行機の中では、乗客たちがひそひそと噂話を交わしていた。「聞いた?神崎悠真、結婚式を途中で飛び出したらしいよ」悠真が?結婚式を?あれほど望んでいた式だったはずなのに。「元恋人を追いかけて逃げたって聞いたわ」「元恋人って神崎紗耶じゃなかった?昔から初恋の相手だって有名だったし、神崎紗耶に振られたショックで白峰県に行ったって話じゃない?」「それ、もう古いよ。白峰県には別の恋人がいて、子どもまでいるらしいよ」私は心の中で冷たく笑った。隣で陽斗がアイマスクを外し、小さな声で尋ねる。「ママ……みんなが話してるの、おじさんのこと?」私はそっとアイマスクをかけ直した。「聞き間違いよ。安心して眠りなさい。ママがいるから」陽斗はそのまま眠り続け、目を覚ましたのは飛行機が着陸してからだった。見慣れた景色が広がるにつれ、陽斗の表情はみるみる明るくなり、嬉しそうに歩き出そうとする。私は慌ててその手を引いた。「陽斗、まだ乗り継ぎがあるの。今度は朝霞市に行って、おばあちゃんに会いに行こうね」……実家が位置する里の入口に立った瞬間、不思議と胸が締めつけられた。懐かしさと気恥ずかしさが入り混じり、足が止まる。あの頃両親は、私のことを案じて、わざわざ私たち二人の住まいまで悠真に会いに来てくれた。けれど最後まで、彼を認めようとはしなかった。それでも私は、自分の意思で、里に伝わる婚姻のしきたりに従って彼と結ばれた。そして二人で宝石店を始めた。悠真はずっと勘違いしていた。法的な効力はなく、ただ夫婦同然の暮らしがあるだけ――私がこういう婚姻の形を受け入れたのは、彼を愛していたからだと。でも違う。私自身、その文化の中で育った人間で、母系の一族の生まれなのだから。私は大きく息を吸い込み、陽斗の手を握って実家に向かった。道中では幼なじみも、近所の人たちも、昔と変わらない笑顔で声を掛けてくれる。まるで私が一度もこの里を離れなかったかのように。家に着くと、母は涙を浮かべながら私を強く抱き締めた。その夜は家族みんなで食卓を囲み、久しぶりの団らんを楽しんだ。陽斗も、こんな温かな時間は久しぶりだったのだろう。私の手を握りながら、嬉しそうに言う。「ママ、ここ、大好き」神崎家では
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第10話
悠真が来た。その一言で、私と陽斗の笑顔は同時に消えた。神崎家の力なら、私たちの居場所を突き止めるのに時間はかからない。それは最初から分かっていた。私は身にまとった民族衣装を軽く整える。銀飾りが歩くたびに澄んだ音を鳴らす。そのまま里の入口に向かった。まだ着く前から、幼なじみの女性たちの笑い声が聞こえてくる。「この人が千歳の連れてきた男?見た感じ、頼りなさそうね」「そうそう。日に焼けてもいないし、体つきもひょろひょろ。私なら見向きもしないわ」「もし婿に迎えるなら、みんな牛を何頭くらい出す?」「ははっ、牛なんてもったいないよ。この程度なら卵十個でも十分じゃない?」その中から、悠真の苛立った声が響いた。「女が男を品定めするなんて、何を考えてる!君たちと口論する気はない。千歳を呼んで来い」その言葉に、女性たちが一斉に笑い出す。「何言ってるの?男を見定めちゃいけないなんて、誰が決めたの?」「家でのんびり暮らしてる男が、外で働いて家を支える女に説教する気?」私は女性たちの肩を軽く叩く。皆が道を空けてくれ、その間を歩いて前に出た。「何しに来たの?もう二度と会わないって、ちゃんと言ったはずだけど」目の前の悠真は、私の知る彼とは別人のようだった。顔色は悪く、目の下には濃い隈ができている。何日も眠れていないのが一目で分かった。かつて宝石業界の若き実業家として身だしなみを整えていた姿は、どこにもない。悠真は私の前まで歩み寄ると、開口一番こう言った。「こんな連中と毎日一緒にいるのか?だから何日も電話にも出ないで、こんな考えをするようになったんだ。君も陽斗も、こんな場所にいていいはずがない。帰るぞ」そう言って私の腕を掴もうとした瞬間。女性たちが一斉に私の前に立ちはだかる。手にした鉄の棒を地面に突き立てる音が響いた。「千歳に勝手に触るんじゃないよ!」「下がりな!」私は隣の女性の肩にそっと手を添えながら、静かに口を開く。「悠真。私は、この里で生まれて、この里で育ったの。私たちは小さい頃から、自分の人生は自分で切り拓き、自立して生きることを教えられてきた。この里には、古くから母系の文化が受け継がれているの。だから忠告しておくけど、これ以上近づかない方がいいよ。う
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