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第12話

Auteur: 平野 愛子
ついに、退院した。けれど、私は智秀の元へ戻らなかった。

私は絶食を盾に交渉し、彼に自分の家に帰ることを認めさせた。

その代わり、毎日彼の目の前で牛乳を飲むという条件がついた。

今さら、彼が毎日飲ませる牛乳に何も入っていないと思っているなら、それこそバカだろう。

でも、もうどうでもよかった。

彼が飲めと言うなら、飲む。

私は、じっと彼を見つめたまま、一息で牛乳を飲み干し、そのまま、勢いよくドアを閉めた。

彼を、外へ閉め出した。

三つ目の指輪を外し、質屋に持ち込んだ。もちろん、取り戻すつもりなどなかった。

そして、星矢が、突然重い病に倒れた。

おかしい。私は彼と出会って、ほんのわずかしか経っていない。それなのに、彼を救うためなら何だってしたいと思った。

なぜなのか。考えるまでもなかった。私の人生で、ここまで純粋な優しさをくれた人など、いなかったからだ。

この世界で、誰かが誰かを無条件に好きになることなどありえない。人の感情は、常に目的が絡むものだ。でも、彼は違った。彼の笑顔は、私だけのものだった。

私は、彼を助けようとした。どの病院に行っても、治らなかった。

そして、鬱陶しいことに、智秀はずっとついてきた。

影のように、消えることなく。まるで亡霊みたいに。

「俺が最高の治療を用意する。無駄なことはやめろ」

私は、無視した。

しかし、日に日に星矢の病状は悪化していった。

歩くこともできなくなり、血を吐き、時には、突然意識を失った。

最終的に、彼は智秀が用意した病室に運ばれた。

それでも、彼の体は衰弱していくばかりだった。

六月に入り、何度も大雨が降った。

そして、ある日の夕暮れ。

太陽が沈むこともなく、空が紅く染まることもないまま、星矢は、逝った。

その日の朝。彼は、私と約束をしていた。「夕方になったら、聴月公園のハナカイドウの花を見に行こう」だけど、その約束は、永遠に叶わなかった。

彼は、私にとって何だったのだろう。

私は、彼と出会ってから、ほんのわずかな時間しか過ごしていない。

それなのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。

どうして、私はまだ失うものがあったのか。

その日は、涙を流さなかった。ただ、彼の病室にずっと座っていた。

最後に、失えるものをすべて失っただけ。

ただ、それだけのことだった。

「ほ
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