LOGIN私は今、かつて学校で私をいじめていた男と一緒にいる。 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、静かに部屋を照らす。私はほんのわずかに腕を動かした。 すると、腰に回された腕が、それに応じるようにぎゅっと力を込める。 高田智秀は私の首筋に唇を押し当て、寝起きの掠れた低い声が、耳元に落ちた。 「昨夜は……ちゃんと寝てたのか?」 一瞬、身体がこわばった。でも、私は素直に小さくうなずいた。 昔の私なら、少しくらいは抵抗したかもしれない。けれど、彼は三週間という時間をかけて、私にひとつのことを教えた。 ──従えばいい、と。 彼が私の手を取り、指を絡めた。 ゆっくりと、指の間をなぞるように撫でながら、私の髪に顔を埋め、低く笑った。 「今度は……ちゃんとつけてるんだな?俺の指輪」 …… 彼の視線の先は、私の薬指。そこには、煌めくダイヤの指輪がはまっている。 これまでに彼が私に渡した指輪は、二つ。一つは冷蔵庫の奥に隠し、もう一つはマンションの庭にある噴水へ投げ捨てた。 その二つの指輪が招いた結末は、今は思い出したくない。 ただ、三つ目の指輪が導いた未来は、もう決まっている。 ──私は、この世で最も恐れていた人と、 結婚するのだ。
View More「……」「あの日、私は何も言ってないし、何もしてないよ。あなたが勝手に発狂したのよ。兄さんはあなたを止めようとして、逆に何度も刺されたんだから」「……」「それに、あなたと兄さん、もうとっくに結婚してるんだよ。四年前に、とっくに。ま、どうせこんな話をしたところで、あなた、また全部忘れちゃうんだろうけどね」花梨は、ため息をついた。彼女は、私のことを嫌っている。それは、私もよく分かっている。誇り高い彼女にとって、誤解されることほど耐えられないものはないのだから。私は、病室のドアを押し開けた。智秀は、まだ昏睡している。私は、彼のそばに座り、ゆっくりと、その眉目を指でなぞった。鼻筋から、薄い唇まで。夜は、静寂に包まれている。彼の妹は、もう帰った。そして私は、ここ数日ずっと彼の側にいた。気づけば、私は、彼の唇にそっと口づけていた。ただの、気の迷いだった。ほんの、出来心だった。けれど、気づいたら、私は、どんどん深く沈んでいった。いや、待って。これって、もしかして――キス、返されてる?ハッとして目を開けた。暗闇の中、智秀の漆黒の瞳が、深く揺らめいていた。「また、泣いてるの?泣き虫さん」掠れた声が、微かに笑いを含んで響いた。私は、思い出した。高校時代、テストの点が悪くて、泣きじゃくった日。彼は、私の頬をつまみながら、こう言った。「お前、マジで泣き虫だな」思い出した途端、涙が止まらなくなった。何度も、何度も、彼の名前を呼んだ。「聞こえてるよ」彼の声に、笑みが混じる。彼は、私の指を、そっと絡め取った。「智秀、私は、もうずっと地獄にいるの。私なんかのために、ここまでしなくていい」記憶は、確かに戻った。あの過去も、私の身体の傷も、すべて本物だ。私が、闇の中で生きてきたことに変わりはない。でも――彼は、気にも留めない。「お前を傷つけた連中は、報いを受けたんだよ。アイツら、刑務所に入った直後に、敵に目をつけられて――数ヶ月も経たないうちに、死んだ。しかも――すげぇ醜い死に方だったらしい。だから――いいんだよ、結衣。お前は、綺麗なままなんだよ。汚れていたのは、あいつらだ。アイツらは、報いを受けた。お前が地獄にいるって言うなら――いいよ。俺も、一緒に
お前を抱きしめた時、何度か刺されたんだぞ。お前、その時ずっと首を振って、白目をむいてた。状況がやばかったからな。なんとか意識を取り戻させようと、思わずお前を叩いた。……で、まさかそれだけはしっかり覚えてたのかよ。よし、次は俺に叩き返していいよ。それでいいか?6月4日 晴病院で目覚めた。数日間、日記が途切れてしまったな。まぁ仕方ない。俺も、結構な大出血だったからな。結衣、お前、本当に容赦なく刺しやがって……6月5日 晴結衣が俺を無視した。日記を書く気にもなれない。6月8日 雨まぁ、仕方ない。夜中、こっそりお前の寝顔を見に行くしかないな。だって、結衣、お前、俺のことが大嫌いなんだろ?6月9日 雨でも、大丈夫。俺は、嫌われることなんて、怖くもなんともない。6月13日 晴結衣が、逃げた。一人で、家を飛び出した。俺は久しぶりに、本気で怒った。こんなに頭にきたのは、いつ以来だろうな。結局――また、見つけたけどな。お前は、うわ言みたいに、ずっと鈴木星矢の名前を呼んでいた。なるほど。俺のこと、本当に幻想の存在にしやがったか。6月20日 雨もう、結衣に薬を飲ませないわけにはいかない。俺は、どうしたって、お前には怒れない。どれだけお前が俺を拒絶しても、怒ることなんてできないんだよ。だから、こっそりお前のために家を買った。お前をそこで暮らさせて、毎日薬を飲ませる。俺が、ちゃんと――お前を見守る。6月25日 雨鈴木星矢、マジでウザい。俺、存在しない男に嫉妬してるのか?最悪だな、これ。7月1日 雨一ヶ月間、ずっと薬を飲ませ続けた。ついに、結衣の頭の中から、鈴木星矢が消えた。だから、もう機嫌を直せよ。結衣。いい加減、俺を見てくれよ。7月6日 晴結衣は、いい子になった。本当に?違うな。これは、いい方向に進んでいるわけじゃない。俺には、分かる。7月16日 晴俺は――どうすれば、お前に見てもらえる?まぁ、いいさ。俺は、いつでもポジティブだからな。7月29日 雪ニュージランドに着いた。思った以上に、結衣は旅が好きなんだな?お前が笑うだけで、俺は――どれだけでも、幸せになれる。8月
彼女を「私を傷つけた人間」だと思い込めばいい。彼女を遠ざければいい。それだけで――私は、楽になれるはずだった。私は、ただ待っていた。智秀が、私を捨ててくれる日を。だけど――私は、何度も、何度も、忘れては思い出す。私は、あなたを、どれほど「悪い人間」に仕立て上げたんだろう。あなたは、悔しくなかったの? 智秀。なぜ、私を捨ててくれなかったの? 智秀。気がつけば、スマホの画面に涙が落ちていた。滲んで、よく見えない。そのとき。誰かが、私のそばにしゃがみ込んだ。星矢。そうか。彼は、私の幻想だった。今、彼が目の前に現れたのは智秀がいなくなり、私が薬を飲んでいなかったから。思い返せば、すべてに痕跡はあった。薬は、牛乳の中に混ぜられていた。柳子の存在。彼女が現れたのは、私が薬を拒否し始めたタイミングだった。薬をやめると、私は幻覚を作り出す。私が妊娠したと思い込んだあの日、智秀は、私に薬を混ぜないと約束していた。星矢が、私を連れ出したあの夜、私は数日間、こっそり薬を捨てていた。その後、智秀は、再び私に薬を飲ませた。すると、星矢の体調が悪化した。彼の存在が、崩れ始めた。私は幻想を止め始めたのだ。そして今、彼がまた現れたのは、薬を飲んでいなかったから。星矢は、静かに微笑んでいた。彼の笑顔はかつての智秀と、そっくりだった。彼は、何かを伝えたがっているようだった。私は、彼に導かれるままに歩き出す。向かった先は――智秀の荷物。今まで、彼が何を持ち歩いているのか、気にしたこともなかった。だが――そのとき、私は狂ったように荷物を漁った。そして、あるノートを見つけた。皮革の表紙。そこにはこう書かれていた。『結衣の治療日記』5月11日 晴今日は、結衣がまた記憶を失った。今度は、俺を彼女を傷つけた人間だと思い込んでいる。毎回、俺の役どころが最悪なんだが。結衣よ、お前、たまには俺をお前の救世主だと思うことはできないのか?マジで、俺、泣きそうだよ。5月12日 晴煙草の火を手首に押し付けるのは、やっぱり痛いな。けど――これがお前が当時耐えた痛みなら、俺はそれ以上に胸が痛む。結衣。俺は、お前に嘘をついたことはない。もし、痛みを分け合えないのなら――同じ痛みを
「そうそう、救急車も来てたよ。授業中だったけど、窓から見えたんだ」「何があったの? もっと詳しく!」「女の子がさ、全身血まみれで運ばれてたんだよ。マジでヤバかった」「どのクラス? どのクラスの子?」「それは言えないなぁ。でもさ、あの光景はマジで……うわぁ」「もったいぶるなよ! 何があったんだ? 事件?」「言っとくけど、それよりもヤバい話だよ」「じゃあ、教えろって!」「でもさ……これ話したら、誰かに恨まれそう。やっぱやめとくわ」「……」言えばいいのに。別に、隠すことなんてないだろうに。私は、そっと腹部に視線を落とす。よく考えてみれば――あの日、私は自分が妊娠したと思い込んでいた。でも、私、生理不順だし。夏バテで吐くことなんて、よくあることじゃないか。それなのに、妊娠だと決めつけた。おかしいと思わないだろうか?私は、絶対に妊娠していると思い込んでいた。けれど――本当は、もう妊娠なんてできなかったんだ。人間というのは、時に都合のいい幻想を作り出す生き物だ。私もきっと、何度も何度も、自分を騙してきたのだろう。だからこそ、真実を思い出したとき、脳が爆発するような錯覚に襲われる。なぜ、私の記憶は、いつも途切れ途切れなのか?なぜ、あの日、智秀が私に煙草の火を押し付けたことは覚えているのに、その後を思い出せないのか?なぜ、彼は私をじっと見つめ、「必ず牛乳を飲め」と強く言い続けたのか?なぜ、柳子と星矢は、あんなにも不自然に現れたのか?なぜ、彼の友人たちは、私のことを「狂ってる」と言ったのか?……高校二年生の夏。蝉が鳴き続ける、あの暑い夏。私は、生涯忘れることのできない、地獄を味わった。最初は――ただの些細な出来事だった。校内にエアコンの設置工事に来ていた業者が、私に道を尋ねただけ。ただ、それだけ。私は、何もしていない。ただ、彼らに正しい道を教えただけ。それなのに、次の瞬間。誰かが、ニヤリと笑い、私の腕を掴んだ。そして、そのまま男子トイレへと引きずり込まれた。夕陽が最後の紅い光を投げかける時間から、星が街の上に降りてくるまでの、約三時間。私は、人間の尊厳すら踏みにじられるような、地獄の中にいた。智秀が、私に押し付けたという煙草の火。それは、本当に彼がつけた
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