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第7話

Author: 枝火
隔日、カウントダウン残り3日。

朝早く、伸はスープを持って鹿乃を見舞いに来た。

「おばさんに頼んで特別に煮てもらったんだ。君が一番好きな芋入りのスープだよ。味見してみて」

「うん」鹿乃は断らず、少しずつ口に運んだ。

伸が帰った後、さらに30分ほど経ってから、鹿乃は監視映像を開いた。

リビングでは、深雪が出かけて買い物に行きたいと駄々をこねていた。

今日は雨で道が滑りやすい。伸は彼女が転んでお腹の子に影響が出ることを心配し、高級ブランドの出張サービスを手配して、好きなだけ選べるようにしていた。

さらには、ベビー用品ブランドに新生児用の服まで持って来させ、深雪に選ばせていた。

その夜、小川弁護士が病室にやってきた。

「奥様と小笹社長の離婚契約が正式に成立しました」

「ありがとう」鹿乃は離婚契約書を見つめ、横にいる秘書に顔を向けた。

「コピーを取って、『再婚祝い』の箱に入れておいて」

7年の苦しい縁は、ここで終わりだ。

カウントダウン残り2日。

朝早く、伸はひまわりの花束と、数千万円をかけて求めたというお守りを持って病室にやってきた。

元気そうな鹿乃を見て、そのお守りを首にかけてやりながら、優しい笑顔を見せた。

「明日には退院できるよ。昨夜、大師にお願いしてもらった仏様のお守りだ。君の無事を祈ってる」

鹿乃は首元のお守りを見つめ、表情が僅かに硬くなった。

昨夜、深雪は腹痛を訴えた。

伸は彼女を心配して病院へ送り、その帰りに急いで子どものお守りを求めに行った。

このお守りは、そのついでに買ったものだ。

伸が病室を去ると、秘書がやってきた。

「奥様、招待状はもう準備が整いました。飛行機に乗った後で、電子版を送信いたします」

少し間を置いて、秘書は言いにくそうに付け加えた。

「小笹社長は、たった今、高額を支払ってご自宅の裏手にある別荘を買いました」

鹿乃の眉がわずかに寄る。

「あの別荘は、ずっと誰か住んでいたんじゃなかったっけ?」

秘書は密かに首を振り、慎重に答えた。

「はい、奥様。しかし小笹社長は大金を積み、相手に大型契約まで提示して、その家族を引っ越させたんです」

「聞いたところ、その別荘は木暮さん名義で、妊娠祝いとして贈るものだそうです......」

鹿乃は唇を引き結び、その目は冷たさを増していた。

伸は、彼女を囲って子供を生ませるつもりだ。

夕方、鹿乃は監視映像で、深雪が不満そうな顔でメイドに指示を出し、自分の荷物を裏手の別荘へ移動させている姿を見た。

そして今日、鹿乃が去る最後の日。

朝早く、伸が退院の迎えにやって来た。

車内で伸は、丁寧に鹿乃のシートベルトを締めてやり、優しい声で言った。

「鹿乃、今日は君の誕生日だ。パーティーはもう準備万端だよ。夜7時に開始するから、君も親友を招待して」

「うん」

黒い車は別荘地に入っていった。

4日ぶりに、鹿乃はこの家に戻ってきた。

すべては、あの日入院した時のまま、何一つ変わっていなかった。

まるで深雪が一度も訪れていないかのように。

鹿乃は主寝室に入った。

ドレッサーの上には一本の口紅が置かれていた。

彼女は何気なく視線を滑らせた。

ゲランの539、使用済み。

わざと残されたその口紅は、まるで無言の挑発だ。

鹿乃は長くは留まらず、メイドに呼ばれて食卓へ降りた。

食卓では伸がエビを剥き、鹿乃の口元に差し出してくる。

親密で優しいその仕草は、2日前に深雪にご飯を食べさせていた時と何ら変わらない。

鹿乃はゆっくりと咀嚼しながら、伸の優しくて深い瞳を見つめ、不意に口を開いた。

「もし......ただの例えだけど、ある日私が伸のもとを離れていく夢を見たら、伸は悲しくなるの?」

伸の手が一瞬止まり、表情が緊張した。

彼は鹿乃の手をぎゅっと握りしめた。

「......悲しいなんてもんじゃないよ。俺はきっと、狂ってしまう。だからどうか、俺のそばから離れないでくれ」

鹿乃は唇を軽く噛んだ。まだ何か言おうとした時、テーブルに置かれた伸のスマホが振動した。

鹿乃は自然に目を向けた。

深雪からのメッセージだった。

「下腹から出血してる......すごく痛い......赤ちゃん、大丈夫かな......?」

伸の黒い瞳に焦りが走る。

彼は立ち上がり、急いで言った。

「鹿乃、ごめん。誕生日パーティーの会場にトラブルがあって、今すぐ行かないと。あとで迎えに行くから」

彼はそのまま出て行こうとした。

鹿乃はふと手を伸ばして彼の手を掴み、微笑んだ。

「伸、さようなら」

伸は驚いたように振り向き、静かな鹿乃を見つめて体が震えた。

以前はあれほど自分だけを見つめてくれていたのに、今はその瞳に荒涼と冷たさしか残っていない。

「鹿乃......?」

伸が言葉を継ごうとしたその時、スマホが再び震えた。

彼は何も言えず、慌ただしく出て行った。

鹿乃は主寝室に戻り、すべての証明書類をまとめた。

お守りをゴミ箱に捨て、秘書に電話をかけた。

「伸は木暮の元に行ったわ。私は今から空港に向かう。搭乗したら予定通り実行して」

「それと、木暮を自身の結婚式に招待するのを忘れないで」

「かしこまりました、奥様」

1時間後、鹿乃は空港に到着。

手続きを済ませ、両親に「30分後に搭乗する」とメッセージを送った。

そのあと、伸とのチャット画面を開いた。

【今夜、二つのサプライズを用意したの。気に入ってくれるといいけど】

伸からすぐに返信が来た。

【サプライズを楽しみにしてるよ。今、まだ会場の準備で忙しくて現場を離れられないんだ。もう少し待ってて。必ず迎えに行くから、その時は一緒に誕生日を祝おう】

鹿乃は薄く微笑んで返信した。

【迎えに来なくてもいいよ。自分でホテルに行くから】

もちろん、行くつもりなんてない。

二階はパーティー会場。三階は結婚式会場。

伸をマハト・ホテルに行かせて待たせておけば、秘書がその場で結婚式の招待状を送信してくれる。そうすれば、あとは式を進めるだけだ。

30分後、搭乗案内のアナウンスが流れた。

「ノルウェー行きのお客様、搭乗口へお進みください」

鹿乃はSIMカードを取り出し、それをゴミ箱に投げ入れた。

もう二度と会うことはない。

小笹伸、さようなら。

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Comments (4)
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ままちゃん
男ってなんてバカなんだろう 鹿乃ちゃん、ちゃんと復讐してね(笑)
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岸部由美子
この先が楽しみ!鹿乃の復讐が始まるのかしら?
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tala kawaii
それは後悔? 伸sideがないのが残念ね
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  • 心はすでに灰のごとし   第21話

    「これは最近の不適切な行為に対する罰だ。小笹家の家訓では、恋愛と結婚において忠誠と一途さが求められる。家庭が和やかであってこそ、万事が順調に進むのだ」伸は目を伏せ、暗い表情を浮かべた。祖父から、今後5年間は小笹家の事業に一切関与することを禁じられた。祖父には孫が多い。この5年の間に何人もの兄弟たちが彼を追い越し、踏みつけにするだろう。おそらく彼は永遠に後継者の資格を失う。だが、すでに鹿乃を失った今、小笹家の財産など何の意味があるのだろうか?「はい、爺さん」小笹爺は落胆したように首を振り、杖をつきながら去っていった。夕方。深雪は伸が小笹爺から、5年間小笹家の事業に一切関わることを禁じられたことを知った。彼女は一人、リビングに座り込み、頭の中が真っ白になっていた。以前、彼女は伊吹に電話をかけ、「伊吹のためにご飯作る」と言ったことがあった。そのとき伊吹は「すぐに帰国して会いに行く」と言ってくれたのに、その少し後に再び彼から電話があった。梶本爺に呼ばれ、本家に戻らなければならなくなった、と。それ以降、彼女は伊吹と一切連絡が取れなくなった。伸が小笹家の事業から締め出された今、彼女は急いで伊吹との関係を修復しなければならないと感じた。再び伊吹のスマホに電話をかける。しかし、返ってくるのは「電源が切られています」という無機質な案内だけだった。少し迷った後、伊吹の友達に電話をかけ、行方を尋ねた。しばらく沈黙が続き、相手は重い声で言った。「......知らないのか?伊吹は......事故で死んだよ」「死んだ?」深雪の目が大きく見開かれ、信じられない様子だった。彼女は知らなかった。伊吹は、鹿乃の葬儀当日に死んだということを。あの日、鹿乃は事故で仮死状態になり、家に戻った後、自ら梶本爺に連絡を取った。伊吹が何度も自分を害そうとした監視映像を、全て送りつけた。梶本爺は沈黙の後、孫の代わりに謝罪をした。そして鹿乃に「どう決着をつけたい?」と問うた。鹿乃は何の賠償も求めなかった。ただ「公正に裁いて、そして私が生きていることは誰にも秘密にしてほしい」と頼んだだけだった。その夜、伊吹は呼び戻された。翌日、梶本家の本家に到着した彼。その日は鹿乃の葬儀当日だった。

  • 心はすでに灰のごとし   第20話

    「はい、奥様」1週間後、小川弁護士が伸の別荘を訪ねてきた。目の前の男は、以前よりおよそ15キロも痩せていて、小川弁護士は一瞬だけ驚きを隠せなかった。だが、その表情もわずか一秒で元に戻った。「小笹社長、新川奥様からこの別荘を売却するよう依頼されておりまして。本日、新しいオーナーとの契約も完了しましたので、こちらのほう......」言い終わる前に、伸は顔を上げ、ひどく冷たい笑みを浮かべた。「俺に出ていけってことだろ?鹿乃は死んだ。この別荘にもう彼女の気配なんて残ってない。俺がここにいたところで意味なんてない」ふらつきながら外へと歩き出す伸。傍にいた秘書が心配そうについていく。最近の伸は、酒に溺れ、鹿乃を想いすぎて、1日に1〜2時間しか眠れていなかった。想いが募りすぎて、手首を切ろうとしたことさえある。案の定、庭を出る前に彼の足元はもつれ、そのまま意識を失って倒れた。秘書は慌てて伸を病院へ運び、その姿を見てついに我慢できず、あの番号へ電話をかけた。2時間後。病院に重々しい空気をまとった一団が押しかけてきた。その先頭に立っていたのは、小笹家の当主である小笹爺だった。病室に入ると、ベッドに横たわるやつれ果てた伸を見て、彼の顔は怒りで真っ赤に染まった。看護師が伸の手の甲に点滴の針を刺そうとしていた。だが、伸は無言でそれを引き抜く。看護師はため息をつき、もう一度針を刺したが、それもまた引き抜かれた。針が血管を傷つけ、鮮やかな血が一筋流れ落ちた。小笹爺はもう見ていられなかった。杖を振り上げ、伸の背中を勢いよく叩いた。「この逆孫が!ひざまずけ!」伸は、祖父の顔を見た瞬間、藁にもすがるような表情を浮かべた。だが、口から出た言葉はもはや生への執着を感じさせなかった。「爺さん......俺、鹿乃のところへ行きたいんだ。どうか......行かせてくれ」「彼女と一緒に埋葬されたい......彼女のご両親に話をつけてくれ......」小笹爺の顔は鉄のように固まり、その険しい表情は恐ろしいほど冷たかった。彼は伸の胸元を掴むと、洗面所の鏡の前まで引きずっていき、冷水をバシャっと顔にかけた。「よく見ろ!今のお前がどんな姿をしているか!小笹家の孫の中で、お前が一番の不出来だ!」伸は

  • 心はすでに灰のごとし   第19話

    彼女は、ほとんど狂気と絶望に陥った伸を見つめ、その瞳は暗く沈んでいた。男はまるで心が抜き取られたのように、誇り高かった頭を垂れていた。かつて自分が毅然と伸の元を去ったときでさえ、彼はここまで崩れ落ちなかったのに。鹿乃のどこがいいの?深雪は伸の目の前に歩み寄り、彼の手を掴んで、ヒステリックに自分の不満をぶつけた。「ノルウェーに行くって?新川はもう死んだのよ!行ってどうするの?今から行ったら、伸が帰ってきても一文無しになるだけじゃない!」伸は鋭く顔を上げ、力任せに深雪の手を振り払った。立ち上がると、冷たい表情で一歩ずつ深雪に近づいていく。その冷酷な目に、深雪は震え上がり、後退りした。壁にぶつかった瞬間、伸は彼女の首を掴み、強く締め上げた。「お前があの時、俺を止めなければ......俺が鹿乃を探しに行っていれば、もうとっくに仲直りできてたんだ。なのに彼女は事故に遭った」「お前が間接的に鹿乃を殺したんだ!子供を産んだら、俺はお前を地獄に落としてやる!」男の声は凍てつくように冷たく鋭かった。深雪は恐怖でガタガタと震え、一言も返せなかった。伸が手を離すと、深雪はその背中が決然と立ち去っていくのをただ恐怖と絶望の目で見つめるだけだった。力が抜けて床に倒れ込み、その瞳は混乱と憎しみで満ちていた。「終わった......全部、終わった......」どれだけ計算しても、伸が行けば全てを失うと分かっていながら、それでもノルウェーへ行く決意をするなんて......それだけは想定していなかった。だめだ。伸がノルウェーに到着した瞬間、あの契約は発効する。そんな男、もう何の価値もない。伊吹とやり直さないと!伊吹は私生児でも、全てを失う伸よりはマシだ。深雪は即行動に移した。スマホを取り出し、伊吹に電話をかけて、甘えるような声で言った。「いつ帰ってくるの?私、伊吹のためにご飯作るの」翌日の午後、鹿乃の葬儀。空はどんよりと曇り、雨が降っていた。新川父と新川母は遺影を胸に抱き、式場へと歩を進めた。参列者は多かった。伸は慌てて駆けつけた。髭は伸び放題、顔色はやつれ、まるで一晩で十数年老け込んだようだった。葬儀会場に入ると、彼はふらつきながら祭壇の前に進み、膝をついて三度深く頭を下げた。

  • 心はすでに灰のごとし   第18話

    「梶本は俺たちに、次に雨が降る日を待って、新川お嬢様の車が会社の駐車場に入ったら、車に細工をするようにと言っていました」ウィリアムは少し間を置いてから、低い声で続けた。「彼は何度も念を押してきました。一発で終わらせろ、確実に新川お嬢様を始末できるようにしろと」「成功したら、さらに1000万円を上乗せするそうで」隼人は回していたペンの動きを止め、冷ややかな表情を浮かべた。「へえ、随分と気前がいいな」隼人の声に冷たさが滲んでいるのに気づき、ウィリアムは数秒間固まった。いつもは喜怒哀楽を表に出さない永松社長が、今回は明らかに感情を隠しきれていなかった。「こちら側はどう動けば?」ウィリアムが小声で尋ねると、隼人はしばし考え、「軽く細工するだけでいい。あとは俺がやる」と指示を出した。隼人は鹿乃の替え玉を用意していた。その替え玉に運転させて、事故死したように見せかけるつもりだった。「了解しました」5日後、ノルウェーは大雨だった。朝、鹿乃はいつも通り会社の地下駐車場に車を停めた。車を降り、ヒールをコツコツ鳴らしてエレベーターに向かう。少し離れた車の中で、伊吹は鹿乃の背中を見つめながら、ウィリアムに電話をかけた。「通勤ラッシュが終わったら、やれ」「わかった」昼休み、駐車場は人もまばらになった。ウィリアムとウィリアム二世は黒い服、黒いマスク、黒い帽子で全身を覆い、鹿乃の車のボンネットをこじ開け、手際よく細工を済ませてそそくさと立ち去った。駐車場を出た後、ウィリアムは伊吹にメッセージを送った。「約束通りにしたぞ」伊吹はうなずき、「残金はもう振り込んだ。鹿乃を一発で仕留めたら、さらに1000万円を送金する」「ああ」夕方、駐車場の車は次々と出て行った。伊吹は車内に潜んだまま、じっと待った。夜の7時半過ぎ、『鹿乃』がようやくのんびりと歩いて駐車場に現れた。彼女は車に乗り込むと、すぐにエンジンをかけ、そのまま家路についた。伊吹は慌てて車を発進させ、追いかけた。運転席で『鹿乃』はミラー越しに後ろを確認しながら、まっすぐ走った。そして、車のほとんど通らない下り坂に差しかかった時、『鹿乃』はハンドルを素早く切った。車はスリップしてその場で三回転した後、速

  • 心はすでに灰のごとし   第17話

    「うん」鹿乃は頷き、冷静に分析した。「私が死を偽装すれば、伸は弔問に駆けつけてくるはず。そのとき、彼の財産を奪い取ることができる。自業自得よ、あんなに偽りの深情を演じてきたんだから」「私が死ねば、木暮も梶本を使って私にちょっかいを出さなくなるわ。あの女にずっとまとわりつかれるのは本当に厄介だから」「そして何より、伸がノルウェーに弔問に来たら、金目当ての木暮には何も残らないってこと」これぞ一石三鳥の策だ。しかし、偽装死を実行するには協力者が必要だ。何度も思い悩んだ末、鹿乃は隼人の元を訪れた。「つまり......君が求めているのは、一見確実に命を奪うように見えるけど、本当には死なない方法を俺に考えさせろってこと?」隼人は少しだけ驚いた表情を見せた。鹿乃は頷いた。彼女は隼人に何も隠さず、この二か月間にあったことを全て話した。その語り口は淡々としていて、自分のことではなく他人の出来事を語っているかのようだった。「私はもう、この人たちともこの出来事とも完全に縁を切りたいの。でも簡単に逃げるつもりはない。偽装死が私にとって一番有利な方法だと思うの」隼人は目の前のか弱い女性を見つめ、漆黒の瞳にほんのり痛ましさが宿った。鹿乃本人は気づいていないかもしれないが、今の彼女はどこか壊れそうで、見ているだけで守りたくなるような儚さを纏っていた。視線を逸らし、彼は真剣な声で分析を始めた。「本来なら、海に飛び込むのが一番演出しやすいんだけど......この間あんなことがあったばかりで、君がまた海に行くのは不自然だ」「崖から落ちるのはリスクが高すぎる。俺としては......交通事故で死んだことにするのが一番だと思う」「交通事故?」鹿乃は眉をひそめたが、少し考えてみて、隼人の意見に同意した。彼女の最近の行動は自宅と会社の往復のみで、非常に慎重だ。伊吹が手を出せる機会はほとんどない。だとすれば、普段乗っている車に細工するのが一番手っ取り早い。しかし。「どうやって彼を誘導して、私の車に細工させるの?」隼人は唇の端を上げて微笑んだ。「それは俺に任せて」「うん。ありがとう」鹿乃は心から感謝した。翌日の昼。伊吹は依然として鹿乃に手を出せない状況に苛立ち、車を飛ばしてアパートに戻り、近く

  • 心はすでに灰のごとし   第16話

    あの力加減から判断すると、犯人は男のはずだ。隼人は立ち上がり、気遣うように言った。「一緒に店のオーナーのところに行きましょうか」しばらくして、監視室にて。レストランのスタッフがその時間帯の映像を出してくれたが、困ったように言った。「犯人は犯行前にカメラを覆っていました。カメラはお嬢様が突き落とされる瞬間を捉えられていませんでした」鹿乃は眉をひそめた。「店の監視カメラに、あの男の顔は映っていませんか?」4人のスタッフが交代で映像を確認し始めた。30分後、4人とも首を振った。「申し訳ありません。マスクと帽子を着用しており、顔は映っていませんでした」鹿乃の表情は重くなった。「彼が現れた全ての映像データを私に送ってください」帰り道、鹿乃は映像を絵美に送った。「この男について調べてくれる?」「何があったの?」絵美は不穏な気配を感じ、心配そうに聞いた。鹿乃は夜の出来事を話しながら、眉間にシワを寄せた。「もし永松があの時現れなかったら、私はもうこの世にいなかったかもしれない」絵美は深刻な表情になった。「任せて、必ずこの犯人を突き止めるから」その頃、別荘のリビング。深雪は伸に10回以上電話をかけたが、ずっと出てくれなかった。彼女は冷たい表情でスマホをソファに投げた。突然、着信音が鳴った。深雪は急いでスマホを取り上げたが、画面に表示された名前は「梶本伊吹」。落胆の色が顔に浮かぶ。「何ですって?鹿乃は助けられた?相手は誰?」伊吹の報告を聞くと、深雪は指先を肉に食い込ませるほど力を込め、嫉妬に満ちた瞳を細めた。どうして鹿乃ばかりこんなに運が良いの?電話の向こうで、伊吹は車の中に座り、冷酷な目に怒気を宿していた。「今回逃げられたが、これからはきっと手を出すのは難しくなる」深雪は冷ややかな表情で低く言った。「今は無理に動かないで。チャンスが来た時にやるの」「必ずあの女を始末する。君は家で大人しく待っていろ」伊吹が甘い言葉を言い出そうとした時、深雪は不快そうに電話を切った。それから一週間後。鹿乃は徐々に新川家の仕事を引き継ぎ始めた。父母は、彼女が急に負担を抱えすぎないように、仕事量を制限していた。しかし、久しぶりの職場は、やはり緊張感と焦燥

  • 心はすでに灰のごとし   第15話

    鹿乃は一瞬驚き、すぐに悟った。今回絵美が電話をかけてきたのは、自分に気をつけるよう警告するためだった。絵美は本当に良い親友だ。「気をつけるよ」電話を切った後も、鹿乃は伸がこちらに来るかもしれない件について両親には話さなかった。最近、両親は自分のことをとても心配してくれており、すでに外部に向けて新川家の事業を引き継ぐことを発表する準備を進めているところだった。午後、新川母が会社から戻ってきた。彼女は軽く鹿乃の部屋のドアをノックした。「鹿乃、明日の夜、一緒に食事に行かない?お父さんと一緒にあなたに紹介したい人がいるの」鹿乃はパソコンから顔を上げ、素直に「うん」と返事をした。最近になって、両親の行動パターンもよくわかるようになってきた。こうしてプライベートで食事を約束している相手は、いつもこの地で顔の広い有力者ばかりだった。翌日の夕方、鹿乃は両親を乗せて車を走らせた。その後ろに一台の黒い車がぴったりとついてきていることに、彼女は気づいていなかった。食事場所は海辺の断崖に建つレストランで、窓の外には雪山とフィヨルドの景色が広がっていた。鹿乃は席に着くとすぐ、手を洗いに行くため席を立った。廊下を歩いている時、ふと目の前に広がる海の景色に足を止めてしまった。広く果てしない海、ひんやりとした風、その感覚が心地よくて好きだった。その時、不意に背後から黒い影が近づいた。両手が鹿乃の肩に乗せられ、強く突き飛ばされた。鹿乃はバランスを崩し、とっさに手すりを掴もうとしたが、その男は素早くもう一度彼女を突き飛ばした。鹿乃の身体は大きく傾き、冷たい海の中に落ちていった。「きゃっ!」冷たい海水に沈みながら、助けを呼びたくても冷たさで声が出なかった。荒れた波が彼女を覆い、意識が遠のきかけたその時、誰かの手がしっかりと彼女を掴んだ。5分後、鹿乃は岸に引き上げられた。目をうっすらと開くと、自分が男性の腕の中にいることに気づいた。男は全身ずぶ濡れで、グレーのスーツが体にぴったりと張り付いている。濡れた髪から滴る水も、その整った顔立ちの魅力を損なうことはなかった。男は鹿乃を見つめ、立ち上がって彼女を抱き上げた。「寒いので服を着替えに行きましょう、新川さん」5分後、鹿乃は着替えを終え、

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