花は六十度咲いた

許斐日向（このみ ひなた）は生き返った。気がつくと彼女はもう1989年に戻っていた。

この年、彼女は30歳、夫の周藤白真（すとう はくま）は35歳で、国家研究所の最年少の部長となり、国家の重要な人材として無限の未来が待っていた。

二人は10歳の双子を育てており、誰もが彼女の幸運を称賛している。そして彼女も子供を持ち、幸せな生活を送っている。

しかし、彼女がこの時代に戻ってきた最初の行動は、弁護士に相談し、離婚協議書を作成することだった。

彼女は白真のオフィスに電話をかけ、アシスタントが応対した。

「奥様、周藤部長はただいまお忙しくて、お取り次ぎできません」と言われ、日向は研究所に足を運んだが、守衛に止められた。

「すみません、周藤部長は今、お客様と会っているのでお通しできません」

3日後、彼女は離婚協議書を持って、白真の初恋である江川優月（えがわ ゆづき）を探しに行った。協議書を優月に差し出し、冷静な声で言った。

「周藤白真にこれにサインさせたら、周藤白真も、そして二人の子供たちもあなたのものになる」

優月は驚き、日向を見つめた。17年間、白真を愛してきた彼女が、わざわざ譲ろうとしていることが信じられなかった。

「あなた、一体何を企んでるの？」

日向は淡々と微笑み、目に波紋を浮かべずに言った。

「ただ、もうこんな生活を続けたくないだけ。皆さんがあなたのほうが気に入るなら、私はもうここにいたくない。私が退くことで、あなたたちの幸せを成就させるの」

優月はまだ信じられない様子で日向をじっと見つめて言った。

「あなたはできるの？今、どれほど多くの人があなたの部長奥さんという肩書きに嫉妬してるか、分かってる？」

「分かってる」日向は優月の目をじっと見つめながら言った。「でも私はそれを要らない。あなたに譲る」

優月は水杯を握りしめ、顔に厳しさが浮かんだ。「誰があなたに譲らせたの？」

しばらく沈黙が続いた後、優月はふっと笑い、テーブルの上にあった離婚協議書を取った。「あなたが退こうとするなら、私はその手間が省けて楽だけど、警告しておく。私の手に入ったものは二度と返さない」

「安心して」日向は軽く笑って言った。「白真も子供たちも、私はもういらない」

彼女は本当にいらなかった。なぜなら、前世で彼らのそばにいていた結果、孤独な人生を送り、悲惨な死を迎えたからだ。

今回は同じ過ちを繰り返さない。

優月はサングラスをかけ、おしゃれな巻き髪とワンピースで、周囲の視線を集めながら歩いて行った。

日向は彼女のタクシーが走り去るのを見送り、なぜか衝動に駆られて自分もタクシーを拾い、後を追った。

研究所の前で、優月が門衛に迎えられて座っているのを見た日向は、しばらくして、白真が急いで外に出てきて、彼女を中に案内するのを見た。

日向は目を伏せ、冷笑を浮かべた。

なんて馬鹿げた話だろう。日向が一生入れなかった場所に、優月は簡単に入っていく。

日向は実家に帰り、離婚の話を家族に納得させるまでに多くの時間を費やした。

周藤家に帰ると、家の中に明かりが灯り、食事の香りが漂っていた。

外から周藤正太（すとう しょうた）の声が聞こえた。「優月おばさん、ご飯だよ！父さんがたくさん料理を作ったんだ！」

周藤研太（すとう けんた）も同調して言った。「優月おばさん、父さんが料理をするのを初めて見たよ、早く来て！」

日向は足を止め、しばし立ち尽くした。前世では、一度も白真の作った料理を食べたことがなかった。

産後数日、誰も料理を作らない時も、白真は食堂から食べ物を持ち帰ってくれただけだった。

そして優月の柔らかな声が聞こえた。「白真、私、魚が好きなこと覚えてる？」

白真の声は穏やかで、以前の冷たさはなくなっていた。「ずっと覚えてるよ。この部分を食べて、骨は取っておいたから」

日向はその場で立ち尽くし、無意識に爪を手のひらに食い込ませた。彼女は思い出した。白真が魚を嫌っていたことを。

結婚したての頃、日向が好きな蒸し魚を作ると、白真は顔をしかめ、席を立った。

その後の10年間、周藤家の食卓には一度も魚が出ることはなかった。

つまり、優月がいなくなったことで、白真は魚を嫌いになったのだ。

「父さん、優月おばさんが大好き！優月おばさんに母さんになってほしい！」

「うん、父さん、母さんと一緒に住みたくない。優月おばさんと一緒に住みたい」

日向はもうその声を聞きたくなかった。彼女は一歩後退し、家を去った。

空は土砂降りの雨が降り始め、思い出も雨粒になってが激しく降り注いだ。

前世で、白真との60年の結婚生活は、死ぬその瞬間まで幸せではなかった。なぜなら、彼の心にはずっと初恋の優月が居続けたからだ。

彼女と白真はお隣同士で、幼なじみとして育ってきた。物心ついた時から互いを知っていた。

十三歳のとき、彼女は初めて恋心を抱き、学校でで一番優秀でハンサムな白真に夢中になった。

しかしその頃、白真の傍らにはすでに初恋の優月がいた。

二人は長く交際を続け、大学を卒業するころ、優月は突然、海外留学を申し出た。

白真は何年も待ち続けたが、彼女から届いたのは別れの手紙だった。

その年、彼は二十五歳。心が折れ、やけ気味に結婚相手を探すことに同意した。

ずっと周藤家を気にかけていた彼女は、誰よりも早く駆けつけ、思い切って告白し、自らを差し出した。

今も忘れられないのは、白真の静かで冷ややかな眼差しとその言葉。

「俺の心にはもう他の人がいる……よく考えてたのか？」

彼女は狂ったようにうなずき、愛さえあれば必ず心の扉を開けられると信じていた。

だが結婚後、どんなに尽くしても返ってくるのは冷淡と距離感ばかりだった。

優月が戻ってきたとき、日向はようやく悟った――愛されるかどうか、その差はあまりにも残酷で明らかだと。

前世の彼は離婚を切り出すことはなかった。

妻という肩書きは与えられても、愛はすべて優月に注がれていた。

彼に瓜二つの二人の息子たちも、日に日に日向に冷たくなっていった。

彼女はただ待ち続けた。白真が振り向いてくれる日を願いながら、一生を終えた。

晩年は介護療養院で過ごした。体は不自由になり、見舞いに訪れる家族もいなかった。

介護員からは日々虐待を受け、孤独と痛みに耐える毎日だった。

白真や二人の息子に何度も電話をかけたが、彼らはいつも忙しいと断り、会いに来ることはなかった。

やがて、電話さえ取らなくなった。

死の間際、彼女は隣室の人に携帯を借り、最後の望みをかけて白真に電話をした。

彼は「もしもし」と二度答えたものの、切るのを忘れたのか、そのまま放置した。

受話器の向こうからは、白真が息子、孫、曾孫と共に、優月の誕生日を祝う賑やかな声が聞こえてきた。

――なんて楽しそうなんだろう……

濁りきって乾いたはずの彼女の目から、最後にまた涙がこぼれ落ちた。

最後の瞬間、日向が誓った。「もし神様がもう一度チャンスをくれるなら、今度は自分を大切にし、周藤白真のために一生を捧げることはしない」と。

日向は長椅子に座り、しばらく考えた。家に帰るときは、誰もいなかった。

食卓は散らかり、誰かが食事をした後のようだった。彼女はそれをちらりと見て、すぐに通り過ぎた。

化粧台の上には署名された離婚協議書が置かれ、日向は白真のサインを見ながら、心の中で軽く息をついた。

これで60年の鎖を解き放つことができる。

その時、ドアが乱暴に開かれた。「母さんは本当に怠け者！テーブルがこんなに散らかってるのに、どうして片付けないんだ！」

兄の正太は怒りを込めて彼女を睨み、弟の研太も眉をひそめながら言った。

「母さんってほんとに心が狭いよ。僕たちが優月おばさんと一緒にご飯食べてるのを見ただけで背を向けて行っちゃうし、今はわざと片づけもしないなんて！」

白真はいつもの冷淡な目で言った。「たった一回の食事、何が問題だ？自分の責任を忘れるな」